その剣 第三話

作者:揚げ玉




その剣 第三話


 工房の内と外を隔てる扉は二重になっていて、間に小さな部屋を挟んでいる。片方の扉が閉じ終えない限り、一方が開く事はない。出入りする人間は、扉と扉に挟まれた小部屋ほどの空間で、その開閉を待たなければならない。内部の空気が漏れ出るのを防ぐ構造らしいが、どういう仕組みなのか、そもそも何のためにそんな作りになっているのか、今の技術ではわからないのだそうだ。
 長い戦争の中で、失われてしまったものはあまりにも多いと思う。人間がモンスターを作り、操る事ができなくなった以上に、無数の何かが消え去ったに違いない。
 だが必ずしも、それは悪い事だとは、ピトハナには思えなかった。必要がなくなり、または失うべくして失われたものの方が、その中には多いのではないかと思うのだ。
「トゥシャー!」
 隣に並んでいたアニッタが駆け出し、叫んだ。
 背後の扉がようやく閉まり終え、前方の隙間から一欠けらの陽光が差し込むなり、彼女は隙間に指をかけている。そして扉が開くに合わせ、ぐいぐいと身体を押し込んでいく。
 昔から、彼女はそうだった。開閉するのを待たず、扉の間に隙間ができるなり、彼女は身体をもぐりこませて這い出て行ってしまうのだ。開けきらない扉の合間をくぐるのが慣例とはいえ、彼女のそれはあまりに度を越している。
 幾度か、そろそろ子供でもないのだから止めるべきではないかと、ピトハナはそれとなく告げた事がある。その日の内は若干の効果はあるのだが、翌日にはいつもの通り扉の隙間を這い回っているので、今はもう何も言っていない。
 それはそれで、良かったかもしれない。
 扉の稼働音が低く響く、色気のないこんな場所でも、閉じた空間に彼女と二人きりになるのだ。ようやく自分よりも低くなり始めた彼女の首筋を、どうしても覗き込んでしまう。しきりに視線を逸らそうとしても、襟ぐりから覗く彼女の華奢な身体を、意識せざるを得ない。
 まして、漂う彼女の甘い香りには、抗いようもない。
 瞳の奥が痺れ、脳の中央が溶けるような。教練で、これが毒物の香りだと教えられたなら、この上なく納得したとも思う。以前、香りに浮かされ、耐え切れず柄にもない事を言った事もあった。
 工房の薄明りでは誰も気付かないだろう、彼女の金糸のような髪。一度だけ、扉の隙間から差し込む陽光越し、それを美しいと褒めたのだ。
 彼女は微かな憐みすら浮かべ、肩を叩いて答えた。
 そんな事より、一緒に燃石炭でもくべようぜ?
 髪が美しいだとか容姿が優れているとか、恐らくそういった感覚が彼女には丸々抜け落ちているのだろう。工房症と呼ばれる、工房の薄い空気のために意識が曖昧になる症状のせいだと、彼女はそんな風にとらえたらしい。
 以来、彼女の容姿に関する何物も口にしないようにと、彼は固く決意している。
「トゥシャ!!」
 だからアニッタが扉の隙間を這い、早々に出て行ってくれるのは、ピトハナにとって有難くもあった。痛々しい記憶も、彼女も、強く意識しなくて済むのだ。

 風。
 いや、それですら突風だろう。
 トゥシャが相当気づかってくれているのはわかるが、それでもこれは突風でしかない。小柄なアニッタなど、吹き飛ばされかねない風だ。
 といっても、当の彼女は気にした風もなく、突風の中で足を踏ん張り、空に何かを叫んでいる。生え変わる以前、突風で飛来した小石に乳歯をへし折られてもまだ、懲りた様子もない。
 そういえば確か、眠魚をなるべく食べるようにしていると、彼女は言っていた。あの職人どもと同じ工房で寝起きしているのだから、きっと悩み事で眠れないのだろうと、先日、彼女へ同情の言葉をかけたばかりだ。だがあれはもしや、睡眠薬代わりに眠魚を摂取していたのではなく、歯を鍛えるために小魚を食べているという意味だったのかと、突風に舞う小石に打たれながら、ピトハナはふとそんな事を考えた。
 眠魚と言えば、睡眠作用のある装具を作る際に使用される、特殊な魚である。見かけは小魚であるのだが、そこから抽出される成分は、装具に転用すると睡眠効果を得られるのだ。
 むろん、世の小魚が眠魚だけであるはずもないのだが、彼女の中で小魚と言えば、装具の素材になるそれだけなのだろう。骨よりも余程、睡眠への耐性の方が鍛えられるのではないかと、ピトハナは収まり始めた風の中でようやく薄目を開けた。
「もっと静かに飛んでよ!! 昔は良い子だったのに、何でこんな子になったかな!?」
 風が収まるなり、アニッタの声が聞こえる。見上げるまでもない。トゥシャは彼女のその無理難題に、巨体を折り曲げてうなだれているのだろう。
 全長10数メートル、全高にしても5メートルという竜にとって、あれ以上大人しく飛来するのは無理というものだ。幼竜の頃を引き合いに出す事自体が無茶なのだと、ピトハナはうなだれる竜を一瞥した。
 トゥシャの体表を覆う鱗が、まるで冷や汗を垂らしたように見える。トゥシャの鱗は、一枚一枚が水面のように輝き、時折波紋のように輝きが揺らぐ。流体金属を含有した鱗は、あらゆる衝撃と、全ての温度に耐えるという。
 純白、もしくは光によって七色に輝く竜。
 かつてV型オレアス級と呼ばれ、世界を焼き付くした最凶の生態兵器。
 捨て子のアニッタを守るように、傍に控えていた幼竜。
 それが、トゥシャだった。
 もっとも今はもう、彼女と共に成長し、成竜と呼べる年頃に差し掛かっていた。
「ねぇ、トゥシャ! 私の作ったナイフ、凄かったよね!?」 
 巨体を見上げて声を張り上げるアニッタへ、トゥシャは体を丸めて顔を寄せる。彼女が話をしやすいようにとの配慮なのだろうが、その仕草はまるで口づけをするようにも見え、昔からピトハナはこの仕草を好きになれずにいる。勢いピトハナは顔をそむけ、小さく息を吐いた。
「喜んでくれたよね??」
 アニッタへ、トゥシャが鼻先を押し当てる。
 それは十分な肯定であり、彼女の言う通りだと、この竜は言っている。仕草は、肯定を表すだけならむしろ十分以上で、ピトハナとしては面白くない。
 またしても顔をそむけたピトハナは、腕を組んだ。
「そうかな? 喜んでるようには見えないけどな」
 ほんの僅かな掣肘のつもりだった。
 幼い頃から、いや多分アニッタが孤児となる前、生まれた時からトゥシャは彼女と共にいたのだろう。
 二人が孤児であった経緯は、彼女ら自身ですら知らない。
 だがトゥシャは常に傍らで、彼女を見守り続けている。成竜となりつつある今も、そしてこれからも、それは変わらないのだろう。
 トゥシャに対しては嫉妬というにはあまりにも複雑な、言葉にしようもない絡み合った感情が、ピトハナにはあった。 
「喜んでるの!!」
 不意、アニッタがトゥシャの口に親指を突き入れ、口の端を持ち上げてみせる。もう一方の手では、猫に対するのと同じつもりなのか、トゥシャの喉元をしきりに撫で始めた。
 トゥシャの表情が、引きつるというにはあまりにもいびつに歪む。
「そこ、もしかして逆鱗じゃ……」
 ピトハナが言い終わるよりも早く、振動が地面を揺らす。トゥシャが尻尾を繰り、宙で旋回させては、地面を幾度も叩く。翼を広げては閉じを繰り返し、しまわれていたはずの足の爪が、大地を深々えぐっている。
 瞳は吊り上り、口からは鋭利な牙が覗きながら、それでもトゥシャはアニッタから逃れようとはせず、懸命に身体を揺さぶり、何かに耐える素振りを見せる。
 先日、教習で教えられた、モンスターの中でも特に竜が持つという特別な鱗。それは触れられるだけで竜の神経を逆なでし、激怒させるほど不快なものらしい。それは如何なV型オレアス級たるトゥシャとて変わりないようで、つまり、やはりアニッタが執拗にさすっている顎の鱗は、トゥシャの逆鱗なのだろう。
「よ、喜んでる! う、うん、喜んでるから!!」 
 つい、叫んでいた。同じアニッタへ想いを寄せるライバルとして以上に、彼女の理不尽さへ、ピトハナは同情を禁じ得なかった。
「そうだよね? 喜んでるよね!? トゥシャ、ここ好きなんだ? また撫でてあげる!」
 喜んでいるとは、そういう意味でではないだろうと、アニッタを一瞥すると、彼女は弾けるような笑顔を浮かべている。
 より執拗に逆鱗を撫でる彼女へ、トゥシャは空を見つめ、小さく鳴き声を上げた。
 十中八九遠回しな否定の意味合いであろうそれは、やはり十中八九、彼女には肯定の意味として受け取られたのだろう。
 彼女はこくりこくりと、うなずいて見せた。
 
「やっぱり、こんなものかな」 
 アニッタといつも通りの別れを済ませ、ピトハナは家路についた。夕暮れは終わり、辺りは暗くなりつつある。
 また明日。
 別れはいつも、簡素なやり取りだ。だが彼にとって、彼女との別れはいつでも名残惜しいもので、おざなりに挨拶をした事は一度もない。
 明日、週が切り替わるなり、数年に及ぶ前線での任務へ赴く。生きて帰られるか、わからない。次に会えるのは、いつなのかもわからない。別れ際、言いたい事は山のようにあった。
 だがもしも無限に時間があったとしても、やはり別れの言葉は他には考えられなかった気もする。
 また、明日。
「生臭いため息を吐くな、匂いが移る」 
 知らずの内、ピトハナはため息をはいていたらしい。
 軍内では珍しくもない揶揄をはらんだ言いようは、だが今の彼には聞き流しにくいものでもあった。
 声の主を睨み、彼は慌てて直立した。
 背後に立ってたいのは、房長のタワナンナだった。
 彼女が一度、手にした杖で地面の土を突く。杖にぶつかり、地面と砂利が擦れ合う乾いた音が、耳から眼球の裏に入り込んで感じた。思わず、彼は片目をきつく閉じた。
 義足と杖がなくば歩けない自分の気配にも気付かなかったのかと、彼女の態度にはそんな揶揄を感じたからだ。それはその通りではあるのだが、一方で彼女は、前線で名を馳せた将軍でもあった。戦場仕込みの身のこなしに、新兵同様の自分が適うはずもないだろうと、そんな弁解も彼にはないでもない。
 そう思わせるに十分な経歴を、彼女は持っていた。部下と片足を失いながら、騎乗する竜が絶命する瞬間まで、彼女は敵兵を屠り続けたのだそうだ。敵と味方と自らの血にまみれながら、ついには勝利を収めた彼女は、紛れもない英雄だった。だが軍は英雄となり、手負いともなった彼女を失うわけにいかなくなり、また高名な研究家の一門であった事も手伝い、彼女は半ば強制的に退役させられ、今こうして工房の主の座についている。
 元々工房の主人というのは高い地位ではあったが、そこに彼女自身の経歴が加わり、彼女はこの城塞都市カマン=カレゼツの司令官すら凌駕する発言力があると言われていた。
「生臭くはありません、房長」
 といった噂話はピトハナも知らないでもなかったが、いくら狩兵見習いとはいえ、一兵卒に過ぎない彼に、上官はいつでも常に絶対の存在だった。司令官であれ房長であれ、態度を変える手段があるわけでもない。
 半ば、開き直ったつもりで、彼は弁明めいて返事をした。
「ならもう枯れたか? 十を幾つか過ぎたばかりで、あまりに色気のない話だな」
 喉を締めるようにして、タワナンナが笑う。
 だがそんなやり取りながら、反感は湧かなかった。歴戦の兵士としての迫力がそうさせるのか、言葉に感じる不思議な親しみのためなのか、ピトハナには良くはわからない。
「アニッタには赴任を言ったのか?」
「軍務には関係ない事です」
 やはり直立したまま、ピトハナは答えた。
 地べたに押し付けられているのでも、教習用の棍棒で殴打されているのでもない。ただ直立しているだけであるのに、受け答えをするだけで、彼は疲労を覚えた。
「私の部屋に来い、命令だ」 
 言うなり、タワナンナは踵を返して歩き出した。
 杖がなければ、その後ろ姿は並の兵士よりもはるかに、隙がなく見えた。

 重苦しい工房へ戻ると途端、ピトハナに後悔めいたものが滲んだ。狩兵昇進への足掛かりである前線赴任前日の、まして夜になってから、何故房長へあんな物言いをしたのか。
 と同時、答えもわかっていた。アニッタの事だからだった。他のどんな事にも耐えるが、彼女との関係を嘲笑されるのだけは耐えられない。
 夢へ向かい着実に進んでいく彼女と、釣り合うための努力は惜しんだつもりはない。軍人としての才能など、自分には一欠片もなかった。だからこそ、彼女がいつか作るのだろう装具に、引けをとらないだけの力を研いてきたつもりだった。
 他人から見れば、それは不十分であるのかもしれない。だがそれを言われて、諾々としていられないのも確かだった。
「入れ」
 タワナンナを見送った後、僅かに時間を空けてピトハナは彼女の後を追った。足取りは時間に増して重くなり、気付けば、彼女の執務室に到着してしまっていた。
 部屋の扉は隙間が開いていて、中の気配がうかがえる。
 それは向こうからも同じだったようで、近づくなり、室内から声をかけられた。
「入ります」 
 返事をしてから立ち入り、ピトハナは思わず息をのんだ。
 瀟洒な、まるで伝え聞く貴族の部屋のようなものを想像していたのだ。だが部屋は、まるで工房そのものに思えた。至る所に硝子製の実験器具や、壁面には小さな炉まで据えられている。金をかけたというなら、確かに高価な部屋ではあろうが、それはあまりに無骨な方向にだった。
 戸口で唖然とする彼を見透かしてか、タワナンナが椅子の上で嫣然と笑った。
「軍務に関係のない話はナシか?」
 先ほどの事であるらしく、ピトハナとしてはあまり関わりたいものでもない。
 だが一方で、幾らも頭の冷えた今となっては、おいそれと無視すべきでないのも良くわかっていた。
 つい、口が重くなる。
 だがタワナンナは気にした風もなく、途中だったらしい実験へ手を付ける。実験器具らしいものを手繰り、幾度か、硝子同士のこすれ合う音がした後、彼女は器具に入れられていた液体を煽った。
 またもあっけにとられ、彼女を凝視すると、微かに酒精が香る。
 そうと気付いた時には、彼女は口元で笑っていた。
 実験をしていたのではなく、単に酒の用意をしていたらしい。器具は恐らく実験用のものなのだろうが、中身はただの酒だったのだろう。
「結構です」
 笑うタワナンナが、グラスを差し出して来る。
 グラスは普通の、いや多分値は張るのだろうが、食卓に供される一般的なものだ。からかわれているのだろう。だがそれほど嫌な印象はなく、それでも前線赴任前夜に飲み慣れない酒など飲みたくはなかった。
 つい憮然と、ピトハナは顔をそむけた。
「ガキに酒は勧めないよ」
 やはり笑って、タワナンナがなおも勧めてきたグラスを受け取ると、そこからは甘い香りが漂う。葡萄の果汁にハチミツを絞ったものらしく、酒精は感じない。酒ではないのだろう。グラスはどういう仕組みか、凍り付いたように冷たく、中の液体も同様だった。
「この工房の中でも、装具課はのんびりしたものだが、生体練成課はそうはいかん」 
 タワナンナが蹴り出して来た椅子に腰を下ろし、ピトハナはグラスに口を付けた。
「意味がわかりかねます」
 今度は何を言われたのかと勘ぐろうとして、ピトハナは止めた。
 向き合って座ると、彼女の足は確かに義足だった。不器用に投げ出された足は、悲しい程に作り物なのだ。外で、名残のような気迫に仰ぎ見た彼女とは、まるで違って見えた。
「私がそうだったように、アニッタもいずれは生命練成課に移る。工房で出世をするというのは、そういう事だ」
「……出世に問題が?」
 思い起こすまでもなかった。
 孤児だったアニッタを引き取るにあたり、工房に入れるにあたり、仕事を教えるにあたり。
 それこそあらゆる度、彼女は孤児という出自を理由に差別されてきた。それがまた蒸し返されるというのは、想像に難くない。
「いや、あの子の装具はそれなりに好評でね。工房の職人共も、才能を無視できなくなってきた」
「それなら」
「生命練成は、それこそ生き物を作り出す行為だ。今でこそ失われたが、モンスターと呼ばれる生物は全て人が作り出したものだ。それを再現しようといえのだから多少じゃない無茶も必要になる」
 タワナンナがため息を吐いたためか、不意に彼女が小さくなって見える。
 つい、ピトハナは手にしたグラスをあおった。やはり酒精は含まれていない。
 それでも部屋の影が、何故か濃くなって思えた。
「生命錬成は特殊な鉱石を使い、生き物の設計図を破壊する。かつては設計図を思いのままに組み替えられたそうだが、今ではそれを一部なり破壊する方法がわかっているに過ぎない」
 タワナンナが、硝子器具をあおった。すでに中身はないらしく、それを真上にもたげても、彼女の喉が震えた様子はない。
 彼女は瓶を傾け、新たな液体を器具に注いだ。
「生き物の設計図を破壊し、生き延びた生物同士を掛け合わせる。……そうやって、不完全でまがい物の錬成を我々は繰り返しているのさ」
 失われた生命錬成が、再び成功したという話は、一度も聞いた事がない。
 かつて生命の設計を自由に組み替える事ができたというが、今は何とか編み出された方法で、不完全な確率論に賭けているだけなのだろう。
 痺れを感じて手元を見ると、ピトハナの手の中のグラスが、皮膚に張り付いていた。
「それは人間にも有効な鉱石らしくてな。研究を続けているとその内、人も死ぬ」
 淡々と、その意味する重さをまるで感じさせずに、タワナンナが言った。何か面白くない事を言うような、白む気配だけがある。
 そうさせるのは、死の中にいた彼女の戦士としての部分なのか、工房の研究者としてのものなのか。
 持ち続けていられなくなり、ピトハナはグラスを机に置いた。
「……つまり、それじゃ、アニッタも」
「まぁ最近では経験的に、防御手段らしいものも、許容時間やらも、おぼろげにわかってきてな。一応寿命らしいものを全うして死ぬ研究者のが多くなったよ」
 言わんとする所はわかっていると言うように、タワナンナが手を払って見せた。
 どこか皮肉めいた彼女の仕草も気にならない程、ピトハナは身体を強張らせていた。冷えた飲み物のせいか、吐き出した息がやけに冷たい。
「だが……生命を玩具にする報いとしては随分と慈悲深いが、どういうわけか男も女も子供が作れなくなる。それは防げん」
 子供という言葉はピトハナに余りにも遠く、意味を理解するのに時間を要し、自分とアニッタへ置き換えるためには、更に長い時間が必要だった。
 その間、視線はぼやりとタワナンナを見つめていた。
 タワナンナは何も言わず、時折瞳を閉ざした。
 そうすると、瞳の周りのしわが目立って見えると、何故かそんな事を彼は思った。
「お前に、唐突には酷だとは思う。だが前線から戻るまでには決めておけ」
「アニッタとの事なら」
 半ば反射的に、ピトハナは答えた。アニッタとの事を軽くなど考えてはいない。
 長年揶揄され続けたため、口を突いた言葉だった。だから馬鹿にするなと、いつもなら掴みかかって終わりになる話だった。
 タワナンナが彼の言葉を遮り、笑う。揶揄するようで、たしなめるようでも、また憧憬をすら含んだ、複雑な笑い方だった。
「順調に行っても、アニッタが練成課に行くまでは何年かある。それまでに、二人の子供を産むなら産んでおけという話だ。私には縁のなかった話だからな、どうこういえる筋じゃないが」
 うつむいて、また改めて笑ったタワナンナは、今度は笑っているようには見えなかった。
「……アニッタは、それを知っているんでしょうか?」
「知らないだろう。だが知って、考えを変えると思うか」
 たずねて、ピトハナは後悔した。タワナンナは肯定をしてくれるのではないかと、ふと、そんな思いがよぎったのだ。
 アニッタにこの事を告げれば、工房を出ないまでも、装具課に留まってくれるのではないかと。
 そんなはずは、ないのだ。
 アニッタはそれこそ、人生の全てをかけて、工房の技術を身に着けようとしている。
「トゥシャの生態の、欠片でも知れれば、自分の出自に迫れると思っているのかもしれん。……孤児の心情は推し量るに余りあるだろう。私もお前もな」
 自分の考えていた事をそのまま、タワナンナは口に出した。
 運良く生きて帰れれば、そこにはいつものアニッタがいて、そして更に運が良ければ、二人の未来があるはずだった。
 運命は自分の身にだけ降りかかるのだと、疑った事はなかった。
2011年01月10日(月) 19:04:10 Modified by orz26




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