モンスターハンターB.C.E. 2

作者:揚げ玉




モンスターハンターB.C.E. 第2話(最終話)



 ユニブロス級の強襲を受け、その後、新たにロア級に挟撃され、戦場は混乱の中にあった。一度は立ち直りかけた戦列も、今は随所で崩れている。
「二対一に持ち込めっ! 単騎で立ち向かうな!」
 竜とのすれ違い様に剣を振るい、石灰岩の様な色と質感を持つユニブロス級の甲殻を引き千切りながら、ヴァンガードが叫んだ。
 先程までは味方の大まかな位置を把握していたが、今はもう、それも適わない。敵味方の位置は入り乱れ、ややもすれば、味方にすら剣を向けそうになる。
 土煙と、銃器の放つ黒煙が立ち上り、更に視界を狭めた。
「クソ……隊長はどうなってる……? さっきの……」
 そこまで言いかけ、ヴァンガードは口をつぐんだ。
 先程、眩い閃光を放ちながら、ガンボウの滅竜閃が戦場に突き立った。ガンボウの放つ切り札的な熱線であるが、特殊な補助具を消耗するため、大掛かりなメンテナンスを済ませるまで、一度しか放てない。絶大な威力があるが、それ故に、敵味方が入り乱れるような場所では使用できない。味方を巻き添えにしてしまう危険もあるし、撃ち損じるにはあまりに惜しい一撃である。それを、この乱戦で放ったという事は、余程明確に照準が定められる条件が整ったという事では無いのだろうか。
「クラグ級、来ます!」
 それが誰の声であったか、ヴァンガードにはもう確認する事は適わなかった。
 ただ、ユニブロス級、ロア級と続いた敵の猛攻が、超重装甲のクラグ級によって締めくくられ、そしてそれが、戦場の大勢を決定付けるものであろう事は、瞬時に悟っていた。

 鳴動する心臓は、全身に激痛を伝える装置の様だ。
 ガンボウを仕留めた後、現れた敵の本隊に降伏して、まだ一時間も経っていないはずだった。長い間。そう、本当に長い間囚われの身であった様に思える。事実、そうであったのかもしれない。国は違えど、捕虜であった事に、確かに違いは無いのだ。不意、激痛が増して感じられる。腕と胸の、裂けた管から溢れる血は、二度と体内に戻る事はなく、それはそのまま、自分の命が流れ出ているのだ。
 それが分かってなお、スタインウェイは焦燥を感じず、そしてその様な自分自身を、奇異の視線で見詰めていた。
 カロンゾの兵士達は竜を休ませ、自分たちも火を熾し、休息を取り始めている。だが木の根元に寝かせた瀕死の捕虜に、気を止める者はいなかった。放っておけば、殺す手間も省けるだろうという程度の認識である。
「……誰か。誰か、話を聞いて下さい」
 それまで黙っていたスタインウェイが、突然、懇願する様に言った。先程までの達観する様な表情と異なり、そこには切迫したものが浮かんでいる。
「ただ一人降伏したシュレイド兵が、憲兵とはな。仲間に申し訳がないと考えないのか?」
 食事をとっていたらしい兵の一人が、片手に食器を持ったまま、木立の根元に放置されていたスタインウェイを覗き込んだ。
 この瀕死の捕虜が、一体何を言うのか、見てやろう。
 そんな好奇の視線を、眼下の血まみれの捕虜に向けている。
「私は……カロンゾ人です。捕虜となった末裔の果て……。どうか、同胞と哀れむ気があるのなら手当てを……」
 スタインウェイの瞳には、目の前の兵士に取りすがろうとするものが浮かんでいる。
 彼を見下ろす兵士は、それにむしろ興ざめしたのか、溜息を吐いて答えた。
「戦士としての誇りも無いのか。貴様の先祖が何者であろうと、シュレイドの手先として戦ったからには、シュレイド人として死ね」
「……私には……知識があります。隊長をお呼びいただければ、私の知るシュレイドの竜の繁殖上・研究機関の所在をお教えします……どうか、命を……」
「ゲスが……」
 スタインウェイを見下ろす兵士は、一瞬、自らの足を蹴り上げ、瀕死の捕虜を蹴り殺しそうになった。
 何という、見下げ果てた男か。だが、その言う事が事実であれば、戦線に大きな影響を与える事になる。まして、捕虜となったカロンゾの末裔だという。捕虜は人間として扱われぬ昨今、敵国を憎む気持ちに嘘偽りは無かろう。
 兵士は蔑みの視線をスタインウェイへ送りつつも、そこに有用さを感じ、足早に自らの指揮官を呼びに向かった。
「……同胞などと呼ばれるのは虫唾(むしず)が走るが、かつて同じ旗を仰いでいた血に免じて、命は助けてやろう。早々に知っている事を話せ」
 スタインウェイが薄らいだ意識を幾度か取り戻すと、荒々しい足音と供に、目の前に一人の男が立っていた。
 瀟洒な鎧を身に付け、兜を片手に持ち、背に深紅のマントを羽織っている。立ち居振る舞いからしても、この男がカロンゾ王国の指揮官に間違いは無さそうであった。
 感じ始めた寒気を押し込み、スタインウェイは自身の軍服の胸元を探った。
「お待ちを……ここに地図が、ございます……」
 胸元を探るスタインウェイを警戒してか、周囲の兵士がとっさに身構えていた。
 彼はそれを説き伏せるように、たどたどしく口を開く。
「どうか……これと引き換えに……私の、命……を」
 途絶え途絶えのスタインウェイの声を聞き取るため、指揮官らしい男は膝を折り、耳を近づけた。
 細い彼の声に、指揮官が苛立たしげに頷く。
「憲兵が命欲しさに国を売るとはな。だが、約束してやる。命だけは……」
 そこで指揮官は、スタインウェイの言葉を聞いた。
 途絶え途絶えの声は、耳を近づけていた指揮官にしか聞こえなかったろう。
「まさか……!」
 指揮官の呻きと同時、スタインウェイが胸元から取り出したものが、小さく輝いた。
 光が増幅される刹那、彼がそれを額に押し当てるのを、指揮官は見た。
 

私の命を、受け取るがいい


 この世の光景とは思えなかった。
 その夜、方々で炎が燃え、闇の中、虫の様に炎が蠢動(しゅんどう)していた。漆黒の中で、高炉にくべられた鉄鉱石の様に光るそれらは、様々な銃器によって燃やされた森や林、もしくは竜や人である。燃え、揺らめき、この世との最期の関わり合いを、彼らは一晩かけ、そういった形で終える。
 夜の闇に紛れ、一度だけ覗いた外の世界では、至る所から悲鳴が響き、この世のものではない様に見えた。それ以降、カフは工房を閉ざし、部屋の隅で身体を曲げ、ほとんど巣穴に逃げ込んだケルビの様に、震え、凍えながら、夜を過ごした。
 彼が工房から這い出たのは、夜が明けてからである。
「何て事……」
 中々開かなかった工房の扉をこじ開け、ようやく外に出たカフは、一面の焼け野原を見た。
 小さいながらも村として形作られていた世界は、瓦礫と、くすぶる炎と、炭に支配され、そこに生命は無かった。あらゆる家屋が焼かれ、破壊されている。
 彼が無事だったのは、工房が半地下に作られていたからだ。それでも地表部分は倒壊し、地下の工房だけが残っていた。
「私だけ……なのか……?」
 瓦礫から這い出たカフは、そのまま、盲(めし)いた様に手探りで歩き始めた。かつては村であった、荒野の中を。

やがて陽が暮れ、夜が訪れ、次いで朝になった

 カフは荒野を巡り、焼け残った遺体や、その破片を集めていた。村にそれらを集め、まとめて葬ろうというのである。その中にはシュレイドの兵士も、カロンゾの兵士も、全ての遺体がある。固まった血液で色塗られ、肉片になってしまえば、所属していた国など些細なものに見え、無価値にすら思えた。
 カフの手は死者の血に汚れ、それでも、生者の義務として埋葬を続けていた。道徳的な話を抜きにしても、屍骸を放置しておけば、獣が集まり、疫病の発生源ともなる。可能な限り処理しなければならない。
 人間であったものを拾い集める。その凍りつくような作業を、彼はどれ程繰り返したろう。
 まるで数年にも感じられる数時間を過ごした時、彼は頭上に影が落ちるのを感じた。よぎった影は頭上で旋回し、彼が空を見上げた時、影から人が零れ、地に注いだ。
「なっ……!?」
 カフは、声にならない叫びを上げた。
 地面に衝突する轟音と供に、空から降り注いだ人は、何食わぬ顔で彼へ向き直った。
「……ヴァン副隊長……!?」
「おお〜、当たり」
 音を立て、ボロボロになった鎧の一部を引き剥がしながら、ヴァンガードは、自らの身体についた血糊やら泥やらを拭った。たった今、空を飛ぶエイビス級から、突然飛び降りてきた事など、忘却したかの様である。
「覚えてたか〜」
「は、はい……」
 ヴァンガードは、カフが自らの名前を覚えていた事を喜びつつ、遠くに着地した自らの竜、エイビス級に手を振った。
 その場で控えろ、という意味であったらしく、竜は前足を揃え、その場に座り込んでいる。
「すまないなぁ……色々と迷惑かけっぱなしみたいで。俺も手伝うよ」
 ヴァンガードは、カフの赤黒く汚れた両手を一瞥すると、申し訳無さそうに言った。
 村人とシュレイド兵を埋葬している事。村に戦乱を呼び込んでしまった事。カロンゾ兵をも弔っている事。
 それだけでない、色々な事を含め、ヴァンガードはカフに謝していた。
「いえ……その、一体何が起きたのでしょう……村は……?」
 カフが、焦った様に尋ねた。目の前のヴァンガードの様子に、言葉に詰まったのだ。
 彼は目立って大きな外傷は無いものの、全身が、赤黒い血液にまみれている。自前のものか、返り血なのか。顔色は良い点から、自前のものは少ない様に見える。
 彼の鎧はいたる所が焼け、裂け、砕け、ほとんど防具として意味を成していない様に見えた。如何な激戦を繰り広げてきたのだろう。
「ああ……村は申し訳ない事になってしまった。俺たちが戦っている間に現れた、ロア級の群れだろう。奴らが、補給を絶つつもりで村を……壊滅させたようだ」
「……そうだったのですか」
 言いつつ、カフがうなだれた。だが、その様子はどこか割り切ったもので、自らの故郷が失われたにしては、平然として見える。
「あ、いや……私は王都への留学中に両親を亡くしまして。元々移民としてこの村に入った身ですので、村にはもう、知人や思い出は無いのです」
 むしろヴァンガードの方が申し訳無さそうにうなだれるのを見て、カフが得の前で手を振って見せた。
「そうか……まぁ、そう言ってくれると少しは気が楽になるよ」
「それよりも貴方の方は……隊はもしや」
「ああ、しばらく周辺を回ってたんだが、生き残りはいない。俺以外全滅したらしいな」
 ヴァンガードの言ったそれこそ、軽やかなものだった。自らの所属する部隊が全滅した深刻さなど、微塵も無い。
「俺は、少し前まで他所の部隊で隊長をやってたんだよ。前の副長が亡くなったとかで、引き抜かれたばっかりだったんだ」
 ヴァンガードが口の端を歪め、答えた。
 第二大隊第一機動部隊は精鋭揃いであり、その構成員は、他部隊であればかなりの地位に就ける者ばかりだった。そんな部隊での副長であり、彼は、以前は相応の評価を受けていた優秀な隊長であった事が窺える。
「……戦闘の中、部隊が壊滅しかけてたのを見て、俺は敵の指揮官を狙いに行ったんだ」
 面識が浅いとはいえ、同僚の全滅はやはり喜ばしいものでは無く、ヴァンガードはうつむき気味に、先の戦闘を述懐した。戦いを語るのは同僚への追悼であり、行なわれた戦闘を知る事で、少しでも村が壊滅した経緯を知る事ができればという、カフへの配慮でもある。
「戦場は敵も味方も入り乱れてた。土煙に乗じて、俺が逃れるのは、それほど難しくなかったよ。向かった先に先客が居たのは、予想外だったけどな……。覚えているか? 一人だけ軍服を着ていた憲兵、スタインウェイだ」
「はい、覚えています。……どこか印象深い方でしたので」
 確かに、カフはスタインウェイを覚えていた。
 洗練された立ち居振る舞いと、端正な顔立ちで、人目を引いた。だが、鮮明に印象付けられたのは、どこか、その恵まれた容姿に見え隠れする、深い絶望の様な、色濃い影のせいだった。
「俺が茂みに隠れて、遠巻きに敵の隊列を探ってた時だ。降伏したらしいアイツが、敵の指揮官に引き立てられるのを見たよ。取引を、してるんだと思った」
 取引とは、すなわち自らを助命するための材料の提供、という事だろう。ヴァンガードの言葉を、カフは固唾を呑んで聞いている。
「だが、違った。あいつ、自爆して敵の指揮官を巻き込みやがった」
「自爆……!?」
「噂だ。事実は分からんが、噂がある。一部の捕虜に外科手術を施し、国の奴隷として使役していると」
 話を一度断ち切ったヴァンガードは、何か噛み切れない不快なものを、舌で味わわずに咀嚼する様に、言った。
 奴隷とは、公式にその存在は認められておらず、だが事実として、シュレイド王国もカロンゾ王国も、捕虜をそのように扱っている。それは、誰もが知っている事だった。
 だが、外科手術とは、カフは始めて聞くものだった。
「竜と同じさ。頭にクリスタルを埋め込み、国に対して徹底的に服従させる。……飛竜よりも色々な使用ができるっていうんで、クリスタルの火力は数段上にしてあるらしいが……」
「まさか……!」
 カフは言葉を呑んでいた。
 竜とは異なり、人間である。
 もしも実行者の生命を顧みず、敵に見つからずに爆破物を持ち運べるとあれば、その用途は竜の比では無い。難民や捕虜に紛れさせ、自爆させれば、労せずに多大な効果を上げるだろう。
 無論それは、倫理として、人として、許される事では無い。はずだ。
「俺も確認したわけじゃない。戦場の兵士の話題に登っては消える、下らない噂話だと思ったさ。だが、スタインウェイがクリスタルを自分の額に押し当てた時、大爆発が起きた。それは事実だ」
 その光景を自身の目で見たヴァンガードですら、信じられぬものがあるのだろう。その言葉は、ゆっくりと、吟味するように発せられる。
「だからこそ、こちらが壊滅したにも関わらず、カロンゾの連中は撤退していったのさ。俺が見たものが見間違いだとしたら、今頃敵はこの一帯を占領してるはずだ」
 不意、ヴァンガードが地面から拾い上げたのは、何者かの焼け爛れた腕だった。誰のものか分からず、最早血液も垂れず、もげ、爛れ、焦げたものだ。
「死ぬって事は、寂しい事だなぁ……」
 ヴァンガードのそれは、持ち主の判別しない腕に言ったのだろうか。いずれ訪れる自分自身の死へ言ったのだろうか。
 壮絶な最期を遂げた、憲兵に言ったのだろうか。
 

 物言わぬ二人が、周囲の遺体を集めるまで、それから幾ばくかの日数が必要だった。最期の方になると、既に遺体は変化を始めており、地面から肉片を摘み上げると、虫が零れ落ちる事も増えていた。
 既にある程度は収集を終えたと判断し、二人は作業を終える事にした。
「キリがないからなぁ……残った死体には申し訳ないけど、この辺りにしようや」
 溜息をついたヴァンガードが、空を仰ぎながら言った。
 頷いたカフが、作業の手を止めようとした時、眼下に、見慣れぬものがあった。
「これ……女の子ですか……?」
「ああ……。そんなとこにあったんだ……。ちょっとな、色々あってさ。本当にお前の村の子だったのかどうか……って、これじゃぁ分からないか」
 ヴァンガードが、嘆息と供に言った。
 それは戦場では見慣れぬ、小さく華奢な遺体だった。
 既に幾箇所も炭になり、原型を確かめることは難しかったが、戦場だったこの場に少女の死体があるとすれば、該当するものは、先日の一件の少女だろう。
「何か、足に巻きついていますね……?」
「ほんとだ」
 カフの示すとおり、辛うじて元の姿を留めている脚を見ると、そこに、脚に食い込むほどきつく巻かれた鎖が絡んでいる。
「……何でしょう? 光っていますが」
 カフが、鎖の中央に光る石の様なものを見つけた。ヴァンガードは、それを凝視したまま、口をつぐんでいる。
 怪訝そうに、カフが尋ねようとするが、ヴァンガードの横顔が厳しいものであったので、それは適わず、時間が過ぎた。
「新造クリスタル……。新型の照準誘導装置か。何てこったよ。スタインウェイが正しかった事になるのか」
 首を傾げるカフへ、ヴァンガードが少女に関する一連の経緯を説明をしたのは、長い沈黙の後である。
 少女の存在に疑念を抱き、疑念だけで、一先ず殺害するという強攻策に走ったスタインウェイ。
 スタインウェイの凶行にいきり立ち、確証の無い疑念と勘だけで、剣を向けたステンズ。
 ガンボウの照準を誘導する新型のクリスタルを足に巻きつけ、その位置をガンボウに教え、榴矢と滅竜閃の照準となる役目を帯びていた少女。
 それらをヴァンガードの口から告げられた時、カフは、その誰もが背負った業の深さに、血色を失った。
「この子だって、好き好んでこんな役目を負うはずは無い。人質がいたなり、騙されたなり……この子はこの子なりに、仕方なくてこんな事になったんだろうな」
 スタインウェイは。
 ステンズは。
 少女は。
 ヴァンガードは言わずとも、それぞれ思うところ、信ずるところがあって、結果、皆が命を落としたのだと、カフは分かった。
 更に少女の遺体の傍に、榴矢と滅竜閃で粉々になったブルーナーの鎧の破片を見つけ、その推測が正しいのであろう事を、ヴァンガードは確信した。少女は、カロンゾ王国にも名将として名高かったブルーナーを殺すために送り込まれた、生きる照準だったのだ。ブルーナーはまんまと遠距離射撃の的になり、真っ先に死んでいたのである。
「理由つけようが、正義を振りかざそうが、結局、傍から見れば、こんなの茶番だなぁ……」
 茶番というヴァンガードの言葉に、カフが眉をしかめた。それは戦いを、死者を、命を賭ける理由を、全て哂おうとする言葉では無いのか。
 普段と変わらぬ表情で、そんな事を軽く言った彼を、咎めようとしたところで、カフはそれを恥じた。
 国の為にあらゆるものを捧げ、想像を絶する過酷な環境で、命すらも投げ打って来たのは、誰でもなく、ヴァンガード自身なのだ。
 その彼をして、そんな事を言うのが、どれ程滑稽に自分自身を貶め、どれ程辛い事であるのか、カフは気付いたのだった。
「さて、帰るわ」
 唐突に、ヴァンガードが言った。
 一見、そう言った彼の表情からは、感情が読み取りにくい。鉄面皮というのではなく、飄々として、表情豊かに見え、しかし感情自体は読み取れないのだ。
 だから長い間、彼が一連の話をする間も、ずっと同じ表情であった事は、彼が感情を変動させなかったという事では無いはずである。そこには、葛藤や慟哭があったはずだった。
「帰る……というと?」
「俺の故郷さ。この様子なら、黙ってれば俺は国から戦死扱いだろうし、元々村で農夫だったのを、無理矢理戦争に狩り出されたんだ。これからは隠れて畑でも耕すよ」
 ヴァンガードが口笛を吹くと、遠方で控えていたのであろう、エイビス級が翼を鳴らして飛来した。
「帰る……」
 そう言ったカフの中の寂寥を感じたのか、始めからそのつもりであったのか、ヴァンガードはエイビス級にまたがりながら、笑って言った。
「来いよ。もう、ここには何も無いんだろう? 男同士で逃避行するには、色気ないけどな。俺たちとコイツ、二人と一頭が隠れて暮らすせる程度の畑は、まだ残ってるだろうから」
 返答に窮し、それでも、カフはヴァンガードの差し出した手を握っていた。
 旅立ちを躊躇するには、この地は血にまみれ過ぎていたし、何より、この男のもたらす未来に興味を持ったのだ。
 風の香りが、する。
 飛翔を始めたエイビス級の背で、何故かこの香りが、空がもたらすものでは無い様に、カフには思えた。
 風の香りのする男。きっと、彼はこのままで終わる人生では無いはずなのだ。
 竜の背を強く掴み、カフが振り返った。
 舞い上がったエイビス級からは、大地は、もう小さくなって見えた。
2007年06月16日(土) 05:51:27 Modified by orz26




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