The Unbalanced Hunters 第二章:第10幕 1

第10幕 「――我は仁雷の風なり!」


作者:ランドール



 両者の激突を、結論から申しましょう。
 ガーベラは、その力を余すところ無く注ぎ込んだ突進を見舞い。
 白髪の剣士もまた、全身全霊を込めた一撃で以て、これを迎え撃ちました。
 そして。
 ガーベラはその速度を微塵も落とすことなく、白髪の剣士の居た空間を走破し。
 やがて――徐々にゆっくりと、自然にその速度を落とし、停止したのでした。





 ああ――これだ。
 これこそが、待ち望んだ真紅だ。
 この紅いこと。
 この熱いこと。
 ああ、痛みが引いていく。
 ああ、渇きが潤されていく。
 この全身を舐めゆく真紅の奔流の、何と甘美なことか。
 言葉にならぬ。思考にならぬ。
 ただ全てを……紅く、紅く……染め抜いた、ような……これが、待ち望んだ真紅、か。
 ふ、はははは…………はっはははははははははははははははははは!
 ああ………………満足、だ。もう……………………獣の疼きも…………収まった。
 この……………………神楽の真紅は……………………美味くて、敵わぬ…………





 勝敗を決したのは、僅かに、一寸。
 真紅の刀角へ、真正面から打ち込まれた、たった一寸の傷。
 それが、全てでした。
 切断の成否を握るのは、最初の一瞬に、『刃が立つ』か否かです。
 即ち、僅かにでも対象を『切断』することが出来れば、破壊はそこを口火に如何様にも広がり、逆にまるっきり弾かれてしまえば、文字通り『刃が立たない』こととなってしまいます。
 零か一かの二者択一。
 ゆえに。
 この一寸の傷が刻まれた瞬間に、真紅の刀角の――即ちガーベラの命運は、決したのです。

「おまえの顔は、もう、見飽きた」

 斬破刀と真紅の刀角との接触点から、雷光が火の粉のように弾けながら。
 傷は一寸が二寸へ。二寸が三寸へ。
 刀角はその切っ先から、徐々に切り裂かれていくのでした。
 それでも、ガーベラの突進の速度は全く落ちません。
 けれど、白髪の剣士も、斬撃を見舞った位置から微動だにしていないのです。
 それが何を示しているのかは、すぐに、知れました。

 バクン、と。

 まるで最初から、それがクチバシか何かであったような自然さで。
 真紅の刀角が、先端から、真っ二つに、両断されたのでした。
 それは白髪の剣士を避けるように左右に割れ、そして、なおも広がってゆくのです。
 ガーベラの突進に等しい速度で。
 そう。
 そこには一切の抵抗が無く、ただ触れる先から破壊を及ぼすという。
 そんな圧倒的な切断の一撃が、頑として存在していたのでした。

「大輪の菊(ガーベラ)よ――散れ(おわれ)」

 刀角から頭部、頭部から首、胴体、そして尾。
 ガーベラの全身が白髪の剣士の居た場所を通過するまで――即ち、その身が完全に両断されるまで、1秒の半分もかかりませんでした。
 ゆえに。
 ガーベラ自身、己の身に何が起こったのか、まるで気づきはしなかったことでしょう。
 その突進は、すぐには止まりませんでした。
 徐々にゆっくりと、自然にその速度を落とし。
 思い出したかのように、斬られた断面から、盛大に真紅の噴水を上げ。
 その勢いで、体は左右半分ずつに、ぱっくりと割れながら別れ。
 一度ぐらり、と大きく揺れてから、ずん、と倒れ。
 ガーベラは、その生命ごと、停止したのです。
 己の真紅に溺れ沈む様は、不思議と、どこか幸せなふうにも見えました。

「なるほどな……これが、復讐の味というものか。
 ……確かに、すっきりした。空を覆う暗く重い雲を、一薙ぎに払ったような心地だ。
 はちきれんばかりの仄暗い満足感に、どこか眩暈さえ感じる。
 圧し掛かっていた見えない錘が、刺さっていた見えない棘が、もうどこにもない。
 頭蓋の底にこびりついた、偏頭痛にも似た悪夢の痕跡が、過去へと色褪せていく。

 そして――ただ、それだけだ。

 胸がすぅすぅするくらい空っぽになって、何も残らない。心に空いた穴も塞がらない。
 先に進むための……これからための力は、何一つとして、湧きあがってこない。
 もしも我が、ただ復讐のみを目指したままここに立っていたならば……この場で終わる以上の結末は無かったと、そういうことなのだろうな。
 復讐のためだけに生きて、復讐を終えて、そこで初めて、もう何も無い自分に気づく。
 結果、やはり誰も何も帰ってこないと知って……終わったのだろう。
 ……今となっては、馬鹿馬鹿しいくらいの『もしも』だが、な」
 
 ひうん、と刀を払い、鞘に収めながら、白髪の剣士は呟きました。

「悪いが……おまえの真紅は口に合わんようだ。
 その所業、生涯忘れはせん……。だが、もう、思い出すこともすまいよ」

 そうして、一度だけ、ガーベラの亡骸を振り返りました。
 ちり、と胸の真ん中で、言い知れぬ感情が僅かに疼きましたけれど。
 ただ、それだけのことでした。

「我は進む。おまえはそこで、悪夢(かこ)と共に朽ちてゆけ」

 そうして、二度と振り返ること無しに、白髪の剣士はその場を後にしました。
 通常、飛竜を討伐した際に行われる剥ぎ取り作業などは全く行われず、もう、そこで為すべきことは何もかも終わった、といった風情で、ゆるりと歩を進めます。
 それは、帰るべき場所をしっかと見据えている、そんな足取りでした。
 やがて。
 ガーベラの亡骸が砂塵の向こうに消えうせる頃、くはぁ、と大きく息を吐いて、白髪の剣士は空を仰ぎました。

「……とは言え、第一歩から壮絶な難題だな。はたして、何の借りから返したものやら……」

 やんわりと頬を持ち上げ、何とも嬉しそうに――けれどなかなか許してはくれなさそうに――悪戯っぽい表情を浮かべる少女の姿が、目に浮かぶようです。
 そして、その目の前で長い体を二つに折って、必死に頭を下げている自分の姿も。

「なんて……幸せな、日常だろう」

 微笑とも苦笑ともつかない表情は、ともあれ、一刻も早く少女の下へ帰らんとする心境を、雄弁に物語っているのでした。
 けれど、その足はもう、前へと歩みを進めてはおりませんでした。
 それはそうでしょう。両の膝ががっくりと大地へ落ちた体勢で、歩行が成立するはずもありません。にもかかわらず、白髪の剣士は、自身のそんな状態にまるで気づいていないようでした。
 もしこの場に第三者がいたならば、怖気すら交えて指摘してくれたことでしょう。限界を超えた一撃を見舞ったことで、完全に傷口の開いた左足から、取り返しのつかないほどの真紅が溢れ出しているという現実を。恐らくは、『この世には神も仏も無いのか!』という呪いの言葉を添えて。

「それから、二人で、何から……始めようか。
 やりたいことが、山ほど……ある。嬉しいこと、だ…………なあ、ソナ――」

 ずざ、と無慈悲な音がして、白髪の剣士は完全に崩れ落ちました。
 再び立ち上がらんとする僅かな抵抗の兆しさえなく、まるで眠りにつくような安らかさで、そのまま、動こうとしません。
 びゅウ――と強い風が吹きました。
 それは太陽を見送る風だったのでしょうか、紫紺の空は濃紺へと姿をかえ、その表情を一変させたのです。
 体温を奪い、生命を凍えさせる、厳しい砂漠の夜の到来でした。





 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。


 鉄の刀を携えた少年は、草に足を取られて半回転し、その衝撃でけほんとむせた。
 自然、空を見上げる格好になる。
 そこは広くて明るくて、ただそれだけで何も無い原っぱだった。
 そして彼女は当然のような顔をしてそこに立っていて、愉快げに顔を覗き込んでくる。
「や」
 彼女は短くそう言って、軽く手を上げた。
「ん」
 起き上がりながら短く応えて、頷いてみせる。
 多分、世界で一番短い、再会の挨拶だった。
「……オレを迎えに?」
「期待していたのかい?」
「いや」
 苦笑しながら、告げる。
「もしそうなら、すぐにごめんって言わなきゃならないから、嫌だなって」
「――いいね。どこにも力が入らずにそういうことを言えるのって。すっごく、キミらしくてさ」
 そう言って、本当に屈託無く、彼女は笑ったものだ。
「じゃあ、会いに来てくれた?」
「半分正解の半分外れ」
「……どこから半分?」
「ボクは最初から居たんだ。ずっと、キミの傍に居たんだよ」
 彼女は苦笑しながら続ける。
「ただキミが、気づいてくれなかっただけ」
「そっか。悪いことしたな」
「でも、気づいてくれたから」
「そっか」
 彼女は、満足そうに微笑んでくれた。
 それだけのことが、妙に、嬉しかった。
「本当は、ボクはもう、こっちに留まっていてはいけなかったんだけど、ね」
「そうなのか……」
「うん。心は空に、体は大地に、それぞれ還るものだから」
「なのに、まだ居てくれている?」
「そうだよ。どうしてもキミに一言いってやりたいことがあってさ。これだけは、譲れなかった。
 そうだね、それこそ『死んでも死に切れない』ってやつかな」
「怖いな」
 率直に言うと、
「もちろんさ」
 と返ってきた。
 めちゃめちゃ怖かった。
 それを知ってか知らずか、彼女の目に真摯な色が広がっていく。
「キミが随分荒んでいたときには、いっそ、忘れてくれって残そうかとも思ったんだけれどね。でも、今のキミには、生きることを始めたキミには、やっぱりこれが一番相応しいと思うから」
 彼女は、少し丁寧に息を吸い込んでから、言った。

「――ありがとう、優」

 それはかつて、白い花を受け取ってくれたときと、同じ言葉。
 束の間の――けれど忘れえぬ、幸せな日々の始まりだった言葉。

「ボクを愛してくれて、ありがとう。
 ボクに愛されてくれて、ありがとう。
 添い遂げることは叶わなかったけれど、ボクはもう、キミから充分に貰っていたんだ。
 本当に――夢見るように、幸せな日々だった」

 彼女は、瞳に微かに涙を溜めて、けれど決して流すこと無しに、凛として言った。

「だからキミはもう、迷わなくていい。
 他の誰かを愛していいんだよ。
 他の誰かに愛されていいんだよ。
 大丈夫。
 ちゃんとヤキモチ焼きながら、ずっとずうっと、見守っていてあげるんだからね」

 眩しいくらいの笑顔だった。
 自然、ちぇ、と舌がなる。
「全然一言じゃないぞ」
「そうだね」
「そして恥ずかしい」
「そうだね」
 照れ隠しにもならないようなことを言っていると、あんなに明るかった原っぱが、急に、薄暗くなってきた。どうやら、もう、時間切れということらしい。
「そろそろ、行くよ」
「もう?」
「思い残したこと、全部、吐き出したからね」
 そう言う彼女の体は、足元からだんだんと、霧のように薄くなっていく。
 話したいことなら山ほどあるはずなのに、どうしてだろう、出てこない。
 そう。
 たったの、一つだけしか。
「オレからも、あるんだ。聞いて欲しいこと」
「うん?」
 もう胸の辺りまで消えかけているのに、器用に小首を傾げる彼女を、真正面から見据えて、言う。

「オレも、幸せだった。夢見るように幸せだった。
 でもこれから、もっと、幸せになる。
 もう、幸せになることを、躊躇ったりしない。
 だから、胸を張って堂々と、ヤキモチを焼いてくると嬉しい」

 彼女は少し押し黙っていたが、やがて耐えかねたように、吹き出した。
 大爆笑だった。

「うん、楽しみにしているよ――大好きな、優」
「ああ、楽しみにしていろよ――大好きだった、鏡花」

 そう残して、彼女は立ち消えた。
 笑顔が、最後の表情だった。
 ――いや、いつだって、彼女はそうだったのだと思い出す。
 木漏れ陽に目を細めた春も。
 風が誇らしげに薫った夏も。
 山の色に心弾ませた秋も。
 胸温かな冬も。
 いつだって、陽だまりのような笑顔で、照らしてくれていた。
 それは、あまりにも当たり前過ぎて忘れかけていた、柔らかな記憶の残照。

「これから鏡花を思い出すときは、いつだってその笑顔だけだ。
 悲しい真紅の記憶が這い入る隙間なんて、もう、どこにもない」

 だからきっと、大丈夫。
 不器用にでも――笑っていけると、そう思えるから。 


 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。


 薄暗さはどんどん加速し、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
 ここにいても仕方ないので何とか歩を進めてみるものの、右へ進んでいるのか左へ進んでいるのか、前を向いているのか後ろを向いているのか、空を飛んでいるのか地面を潜っているのか、皆目見当がつかない。
 目印代わりにしようと近くの木に寄り添ってみても、寄る先から木は塵となり、塵は黒い蝶となり、たちまち飛んでいって消えてしまう。
 やれやれとため息を暇も無く、自分の手さえ確認出来ないほどの真闇が広がっていく。
 すぐに身動きが取れなくなった。
「……まいったな」
 確か自分は、どこかへ行かなければならないのだ。
 神楽の村のような気もするし、鏡花の家かもしれない。判然とはしないが、とにかく『帰るべきその場所』へ、一刻も早く辿り着かなければという焦燥だけが、胸にある。
「……もう、立ち止まるのは、たくさんだ」
 いっそ、暗闇でも構うものかと、意を決して進もうとしたそのときだった。
 目を細めてやっと見えるほど遠くに、小さな――けれど温かな光が見えた。
 それがいったい何なのかは知れないが、ともあれ、文字通りの光明には違いない。
 勇んでそこまで歩き出そうとして――自然に、足が止まった。
 それはそうだろう。
 こちらは動いてもいないのに、光の方から段々と、近づいてきているのだから。
「光が来る……? 違う、静かに確かに揺らめくあれは……炎、なのか?」
 それに答えるでもなく、炎はゆっくりと、けれどまっすぐに、こちらへやってくる。当初、ほんの灯火程度に見えていたそれは、どうやら子供くらいの大きさがあるようだった。
 不思議なものだと首を傾げていると、炎はさらに大きくなっていった。闇のせいで遠近感が狂っているのだろうか、それともあの炎が燃え広がっているのかだろうか。
 ――もし仮に、後者だとしたなら。
「すぐにでも逃げ出さないと、焼かれてしまうな……」
 けれど、炎が本来備えているはずの凶暴さが、眼に映るそれからは微塵も感じられない。
 むしろ、安息と平和を彩る、街々の生活の灯を見ているかのように、ほっとする。
 つまりどうにも、逃げようとか怖いとか、そういう感情を抱きにくいのだ。
 ――否。
 あの炎が来るのを、不思議と、心待ちにしている気さえする。
「……来た」
 眼前に迫った炎は、もう、大人ほどもある塊となっていた。
 熱よりもその眩しさに、思わず目を覆う。
 瞼を閉じてなお、視界を真っ白に染めていく光は――しかし、突然に、その力を弱めた。
 ありがたいというよりも、不審がまず先に立つ。
 おそるおそる目を覆っていた腕を避けていく。すると、そこにはもう、炎など無かった。
「……え?」
 そこには、ヒトがいた。
 炎よりなお凛然と在る、一人の女性が立っていた。
 見覚えは、まるで無い。
 少なくとも神楽の村の者ではないはずだが、
「あなたは……どこかで、お会いしたことがありましたか?」
 そんな言葉が口を突いて出ていた。
 けれどその問いに女性は答えず、黒目勝ちな瞳を優しくたわめ、頭一つ高い位置から、少年を見据えている。
 反応が無いこと自体は、何故か気にならなかった。そればかりか、なんだか無条件に、このヒトには絶対に頭が上がらないような、そんな予感さえ覚え始めていた。
 失礼に当たるかもしれないと思いつつ、あらためて女性を見直す。

 背中まで届く艶やかな黒髪と、どこまでもまっすぐな目がとても印象的な人だ。綺麗、という言葉が元来備えている儚さとは縁遠い、しなやかな美人ぶりだと、朴念仁なりに思う。この感想はきっと、彼女のいでたちにも、原因があるのだろう。
 左手には、禍々しい鉤爪じみたシルエットの凶悪な小手を。右手には、花の蕾で包まれたようなずんぐりとした小手を、それぞれ纏っている。服も機動性を重視した、けれど必要分の頑丈さを備えていることは疑いようも無い――どこをどう切り取っても、戦うことを前提とした代物と言えた。唯一装飾品らしいモノと言えば、この闇よりなお澄んだ黒の髪を束ねる、バレッタくらいだろうか。生物の毛で出来ているらしいそれは、まるで意思を持っているように、時折青白い光を放っているようだった。
 やはり、どう考えても、見覚えなど無い。というより一度見たら忘れられない類の人間である。
 なのに、どうしたことだろう。
 見ず知らずの人への挨拶さえすっ飛ばして、この口は、想いを吐き出していた。

「オレ……すごく、会いたい人が居るんです。それが誰かは、思い出せなくて……でも、きっと居るんです、その人は。そこからなんです。全部、何もかも。
 だから――行かなきゃいけないんです。こんなにも真っ暗な道であっても、もう、回り道なんてしたくないから。もう、走り出してもいいはずだから」

 言ってから、それはこの女性に何の関係も無い上、そもそも何をどうして欲しいのか自分でもよくわかっていないことに気づく。
 自業自得だからこそ、たちまち、身の置き場も無いほどに恥ずかしくなってきた。
 そのため女性から目を逸らし俯いていたところ――かしゃん、と金属の擦れる音が聞こえた。反射的に見やると、女性の左手を覆っていた凶悪な小手が外され、その下から、思いのほかほっそりとした綺麗な手が覗いているところだった。
 そして、女性はそれをまじまじと見つめる視線に気づくと、これなら怖くないかな、と悪戯っぽく微笑んで、その手を差し出してきた。
 独りでは真っ暗な道でも、二人でなら迷わず歩いていけるでしょう――そう嘯きながら。

「あ……」

 胸がざわわと音を立てる。
 二人でなら、という彼女の声を聞いたとき。
 不思議と、その手を取ることに、何の抵抗も覚えなかった。
 そしてその温かさに触れたとき。
 世界が、表情を変えた。
 あれほど深く広がっていた闇が、冗談のように一薙ぎに消えたのだ。どこぞから太陽でも顔を出したのかと思ったけれど、そうではなかった。
 光を放っているのは、彼女であり――自分自身だったのだ。
 そして今。
 目の前には道が続いている。
 どこかへ続く、どこまででも続いていそうな、一本の道が。
 けれど、何故だろう。
 早くどこかへ行かなければという焦燥は、いつの間にか消えている。
 それはきっと。
 ここから、何もかもが始まるからなのだろう――

「――あなただったんですね」

 どうしても会わなければならない人。
 帰るべき場所。
 しかし、彼女はくすくすと笑いながら、いいえと首を横に振り。
 そして付け足した。
 『あなた』はあなたでしょう、と謎かけみたいな言葉を。
 ほんの一瞬首を傾げてから。
 雪解けの水で花が開くような心地がして。
 ようやく『それ』を思い出す。

 自分と揃いの――優しい名前を。

「ああ――!」


 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。





「――ソナタ!」


 叫んだ先にはあまり星が見当たらない夜空。
 戸惑う暇も無く、痺れるような左足の痛みが現実となって襲い掛かってくる。次いで、傷口の痛みに混じっている別の感覚に気づく。
 寒い。
 刺すような寒さとはこのことだろうか。何にせよ失血で気を失っていたとなれば、雪山で眠っていたのと状況は同じだ。体温は相当下がっているだろう。早く行動を起こさなければ死に繋がる。
 どうにか上体に気合を込め、起き上がろうと力を尽くし――  

「まだ起き上がってはダメですよ」

 少女の顔が逆さまに飛び込んできた。
 ……少女である。
 髪も長くなければ大人でも無い、いつもどおりの揃いの名前の少女。
 そして、ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。

「……え?」

 自分がどんな状況にあるのか、一瞬理解が追いつかなかった。
 とりあえず、緊急の事態では無いようなので起き上がるのを断念し、再び寝転がる。
 そんな自分の迂闊さに眩暈がした。
 自分の頭が転がっているのは、少女の膝の上だったのだ。
 そして、途切れることなく、ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。

 ……どうやら、自分たちは何かの荷台らしきモノの上に乗っていて、その荷台が結構な速度で走っているらしいと気づく。

 荷台は頑丈なのか粗雑なのかわからない造りの長方形をしていて、四隅に一つずつ、釣竿みたいな棒が立っている。その先でゆらゆらと提灯のようにランプが揺れているところからして、夜間仕様、ということらしい。
 しかし注目すべきは、その荷台を引いている主である。
 二足歩行のネコ。
 数匹がかりとはいえ、馬車にも匹敵するこの速度。慣れないモノが見たらやんやの喝采を挙げるところだろうが、あいにく、ハンターにとってはひどく馴染みのある乗り物と言えた。

「……ネコタクか?」
「ええ。眠れるお姫様は王子様を心待ちにしていたのですが、なかなかこないどころか普通にぶっ倒れていましたので、迅速に依頼終了を示す照明弾を上げて、迎えを呼んだ次第です」
「……すまん」
「まあ、その……目覚めて第一声が私の名前でしたから、はい。許します」
「では……ありがとう、だな」
「――はい!」

 その笑顔が、ひどく近かったせいではないが。
 さすがに、少女の膝の上に転がっているのも、色々とよろしくない。
 それに、言うべきことも、ある。

「だから、まだ起き上がっちゃダメですってば」
「そうかもしれんが……一応、決着がついたのでな。
 自分の口で、その報告をしたいと思う」

 少女は、仕方ないという顔をしながらも、左側から器用に体を支えてくれた。ありがたい反面、少女とて浅くない傷を負っていることを思い出す。出来るだけ自力で体を起こし、視線を正面から合わせた。

「で、仇敵とやらは倒せましたか?」
「ああ、真っ二つだ」
「満足しました?」
「さあ、別にどうということは無かったぞ。
 ――少し強いだけの、赤くて角付きな肉の竜だったのだからな」
「それもそうですね」
「ああ、そうだ」

 ごく自然に少女は笑い。
 ほんの少しぎこちなく笑み返す。
 二人ともぼろぼろだったけれど。
 それでも、素直に、嬉しいと思えた。

 ――当たり前の二人に、ようやく、戻れたということが。

「……それにしても、我はいったいどのくらい眠っていたのだ?」
「あ」

 少女の表情がぴょこんと跳ねる。何かが嬉しかったようだ。

「どうかしたのか、ソナタ?」
「あ、いえ。そうですね……実は私もあの後結構良く寝ていたようで、完全に日が暮れてから目が覚めたのですよ。正確なところは、よくわかりません」
「む? 以前、星の位置から時間を割り出す方法は教えたであろう?」
「……何を言っているのですか、あなたは」
「?」

 少女の指差す先を見ると、荷台の四隅に立っていた提灯みたいなランプが何故か消えていた。全部一気に消えている辺り、油切れというわけでもないらしい。

「もっと、先ですよ」
「ふむ」

 さらに少女の指差す先。
 すでに砂漠の姿は無く、暗闇でもわかるまばらな草原と――どこかへ続く、どこまででも続いていそうな、一本の道が伸びている。
 そのもっと先。
 双子の山に渓谷、間を流れる滝のような川のような水の音。
 そこをまっすぐに貫いて。
 太陽が、まさにその顔を覗かせる瞬間だった。

「――夜明けか」

 突き刺さるような眩しさに目を細めながら。
 確かにこれでは星の位置どころではないなと納得しながら。
 けれど、そんなことがどうでもいいほどに。

「――長い夜が、明けましたね」

 隣で呟く少女の先で。
 世界は輝き満ちていた。

 遠く近くの山々からは、気の早い鳥たちが群れを成して飛びたち始めている。ぎぃぎぃと声を上げているのは、渓谷の森をねぐらとする猿か何かだろうか?
 思いを馳せている間に、昇陽に連れて吹く大きな風が、草原を凪ぎ、樹海という名そのままに、木々をざざざと鳴らしていく。どこかで木霊のように狼の吠える声。羽虫が驚いて飛んでいく。連れて栗鼠が顔を出したがすぐに隠れ去っていった。その後を追いかけていったのは何故か兎のようで、その愉快な取り合わせに思わず笑みが漏れる。

 ああ――まるで朝日に芽吹くように――生命が踊っている。

 はっとして、忘れかけていたように息を吸い込む。濃い緑の匂いに混じって水の匂い。そういえば、来るときにも水筒の水を補給するため川べりに寄ったりしたかもしれない。
 だがそうした光景はまるで心に残っていない。いや、そればかりではなく――

「世界は……こんなに、明るかったのか?」
「ええ。今までは暗かったのですか?」
「あ……いや、何というのだろうな。ぼろぼろなのに、感覚だけはひどく鮮明ですっきりしていて、まるで体中の血が、新しくなったかのような心地がするのだ」
「新しく、なったのではないですか?」
「まさか」
「あなたがですよ」
「……そう、なのか?」
「ええ、きっと。だって――」
「うん?」
「――今のあなたの笑顔は、下手くそですけど、素敵です」

 そうして隣で微笑む少女の。
 朝日を浴びてなお輝くような瞳に。

 目と――恐らく心を――奪われていた。

 ほんの一瞬。けれど確かに一瞬。
 息も、出来ないほどに。

「何です? 見とれていましたか?」

 そんないつもの軽口に。
 いつも通りの苦笑かだんまりを選択せず。
 
「――いや、そういえば、ソナタとの約束があったと思ってな」

 妙に言い訳がましいことを言ってしまったことに、気づかれたろうか。

「そうでしたね。私のもう一つの名前を、聞いてもらうことになっていました」

 そんな、こちらを見透かすような無頓着なような調子で言って、秘め事のように悪戯っぽく、唇を耳に寄せてくる。
 ――唇。
 むず痒いような感触が蘇ったのは、きっと気の迷いなのだろう。
 しかし、

「――――です」
「!?」

 その名前を聞いた瞬間、気の迷いなど完全に吹き飛んだ。
 まるで始めからそんな壁なんて無かったみたいに。
 全部自分で勝手に決め付けていただけのことのように。
 笑うことが大の苦手だったはずの男は。

「あーっはははははははは! く……くはあっははははははははは!」


 大爆笑していた。
 こんなことが。
 こんなことが本当にあっていいのかと。
 神様というのが居たらとんでもない酔狂ものだと。
 目の端に涙さえ浮かべて、笑い狂った。

「え……ちょっと何ですかそれ! いい名前でしょう!?
 何がどうおかしいんですか……って、まだ笑いますか!?」
「ははははははは、く……苦しい……ふ、あはははは!」
「知りませんよもう!」

 ぷいっとそっぽを向く少女には悪いけれど、笑いの発作は収まりそうに無い。

 ――だって、こんなのは出来すぎだろう。

 あの日。
 大切な人を守ると誓った白い花。
 そして。
 今再び守り抜くと心に誓った少女。
 それが
 全く同じ名だというのだから!

 ああ、もうやれやれだ。
 こんなにも楽しくて仕方ないから、きっと、魔でも差したのだろう。
 あるいは、あの夢のせいだ。
 ……もう、靄がかかっているように、詳細な内容までは思い出せないけれど。
 でも、懐かしい人に逢った気がする。
 これから出会う人に触れた気がする。
 過去と未来が繋がり。
 今の自分に、ほんの少しだけ、勇気をくれる。
 さあて。
 明日を始めてみようか(幸せになってみようか)。

「ふと、思ったんだがな」
「何ですか! まだ笑いますか!」

 いいや、笑わない。
 信じてみようと思うだけだ。
 誰よりも何よりも。
 自分の心を力ずくでこじ開けた。
 目の前の、少女を。
 そして。
 少女の選んだ、自分という奴を。
 
「髪――伸ばしてみてはどうだ、ソナタ?」 
「あ……!」

 頬を撫でるように、すっと髪に手を差し込んでみる。くすぐったかったのか驚いたのか、少女は一瞬びくっと身を固くし、けれど跳ね除けるでもなく身を逸らすでもなく、少しだけ中途半端なままに、こちらを見つめている。

「きっと、似合うと思う」
「え……ぁぅ……」

 む。ひょっとして短い髪の方が気に入っているのだろうか。そういえば長いと手入れが面倒だと聞いた覚えがある。好みの押しつけとも取れたかもしれない。やれやれ、この朴念仁加減はなかなかに直らないということなのだろうか。

「あ……あのっ!」
「ん?」

 急に大きな声。
 やはり嫌だったのだろうか。迂闊な真似をしてしまったのかもしれない。
 しかし自信満々の顔で嗜めるか、やれやれと軽くあしらうかと思われた少女は。
 意外なことに。
 というより、想像を三週半は超えて。


「きゅ……急に、そんなこと……ユウのくせに……困り、ます…………」


 語尾が掠れるような頼りなさで。
 うつむき加減で躊躇いがちに視線を向けながら。
 耳どころかうなじの辺りまで桜色に染まる勢いで。
 緊張に全身を固くしながら、こちらの言葉を待っている。
 ようするに。
 少女は、ひどくわかりやすく、照れていた。
 が。

「…………」

 驚いたのはこちらもである。あるいは少女以上に衝撃はあったのかもしれない。
 いかなるスイッチを押したのか爆薬を踏んだのかは知れないが、少女がこんな顔をするのだ、ということ自体がまず理解の枠組みの外にあった。
 何故ならいつも、この少女は――

 …………いや。待て。

 当たり前すぎるほど当たり前だが――少女は、少女なのだ。
 詭弁でもトートロジーでもなく、まだその年齢が二桁にも届いていない、文字通りの小さな子供。それはつまり、そのままの意味で。

(……純粋に、免疫が無いのか!?)

 しかし、キャンプではその……あっちから、されたわけだが。
 ……待てよ、そういえば。
 自分は少女のような卓越した記憶力は無いが、それでも。
 少女に抱きつかれることはあっても、自分から手を伸ばしたのは初めてな気がする。
 …………だから、だとしたらひょっとして。いや、今さらかもしれないが。
 これはとてつもなく、窮地という奴なのでは無いのだろうか……?

「…………」
「…………」

 傷のせいではなくちょっと気が遠くなりそうな沈黙。
 落ち着け。落ち着くのだ。
 迷ったときは基本に立ち返れ。
 基本即ち極意だ。
 ……こういうときの、基本って、何だっただろうか?
 心当たりは一つだけだが……適用出来るのか?
 ええい、迷っていても埒が明かぬ。
 ままよ!

「……あのな、ソナタ」
「は、ぃ……」

 お互い、ひっくり返るどころか転覆しそうな声である。

「これが正しいのかはわからんが、基本即ち極意というのがあってだな。
 刀術の言葉なのだが……いや、それはいいとして、だ。
 つまり、そのな。何事も基本というのは大切で、何故ならばあらゆる場面でそれなりに通用するモノを基本と言うのだから、なのだと思う。ゆえに、だ」
「――あ」

 不器用に、というほか無い挙動で。
 それでも出来るだけ柔らかく、少女の肩を抱く。
 豆鉄砲で打たれる鳩をはじめて目の当たりにした猫みたいな顔をしているが、少女のことだ、自分の発言くらいすぐに思い出すことだろう。

 0点ですね。ここは『そうだな、砂漠の夜は冷えるから――』くらいのことを言って、さり気無く肩を抱いたりする場面ですよ。基本中の基本です。

 悪戯っぽくそう話した、とりわけどうということもない、幸せな日常の一コマを。

「確かこれは、砂漠の夜の基本だったと聞いていたが……間違いでは、無いだろうか?」

 腕の中の、びっくりするほど小さくて華奢な体に呼びかける。

「――はい。充分及第点ですよ、ユウ」

 いつもの調子をいくらか取り戻しながら、少女は笑む。
 つられて笑み返すと、何だか愉快で仕方なくなって。
 二人で、声を上げて笑った。

 空に吸い込まれるような、ただ楽しくて楽しくて笑う。
 それはいつからか忘れていたはずの、純粋な笑顔。

 大丈夫。
 もう二度と忘れない。
 絶対に――





あの日の誓いの白い花。
東国の百合(ユィリ)の花。
花言葉は――『あなたのは偽れない』。
2007年04月05日(木) 22:05:46 Modified by funnybunny




スマートフォン版で見る