In the case of 第十三話

作者:揚げ玉




In the case of 第十三話 (Hector 3)


 開くはずのない扉。
 そう思っていた扉が音を立てて開いた時、ベッキーの身体は既に駆け始めていた。
「ヘクト!!」
まるで宙を飛ぶようにして、ベッキーの身体がヘクターの腕の中に収まる。
「ヘクト! ヘクト! ヘクト! ヘクト!!」
「そんなに呼ばなくても、ちゃんといるだろ……」
ヘクターが呆れた様に笑いながら、胸にしがみ付くベッキーの髪に手を当てる。
「バカぁ!!」
再び叩かれた頬が、乾いた音を立てて腫れ上がる。
「死んじゃうと……思ったんだからぁ……もう……帰ってこな……いって」
嗚咽を漏らしながら震えるベッキーの髪を撫で、ヘクターが彼女を抱きしめた。
「悪かったよ。心配かけて」
「バカ……バカぁ!」
「……でもな。これまでも、これからも……」
柔らかな赤い髪に指を通しながら、嗚咽ですっかり上気したベッキーの肌を撫でる。
 手に吸い付くようなそれは、だが、今は鳴き声で色付いていた。
「……俺がミナガルデに帰るのはお前のためだ。お前のためだけに帰ってくる」
「ヘク……ト……」
泣き続けるベッキーを抱きしめながら、ヘクターはその髪を撫で続けていた。
「帰ってくるよ……必ずな」
彼女の嗚咽が収まるまで、いつまでも、いつまでも。

「……」
扉の外、明かりの灯らぬ暗闇の中、一度だけ深くうなずいた男がいた。
 沈痛にも平然とも取れる表情で、瞳を閉ざす。
 だが、彼が 音を立てぬ足取りで階段を降り、陽の光の下に現れる頃。
 その頃にはもう、彼の顔は弛緩した笑みを戻す事だろう。

 酒場に喧騒が戻った。
 いや、酒場には相変わらずと喧騒があったのだ。
 だが、その裏にあったものも、今はもう喧騒の中にある。
 いつもの姿の、いつもの酒場があった。
「おめでとうございます」
不平満々といった様子で、少年がグラスを掲げた。 
 伸びかけの金色の髪が、肩に触れて音を立てる。
 まるで少女のように見えるその外見は、王侯のものと見まがう程だった。
「そう怒るな、イリアス。お前には悪いと思ってるよ」
そのグラスへ自らのグラスをぶつけながら、ヘクターが悪びれた風もなく笑って見せた。
「いいですよ……別に」
元々、ヘクターの元には四名のハンターが付いていた。
 ディグニティ・エスト・クラスター・イリアスである。
 イリアスだけが、この中では狩りの経験が浅く、今回の一件でも多くを知らされていなかったのである。その事に関して、彼が暗に抗議しているのだった。
「ほら、イリアス」
困惑を浮かべながら、その隣に座るエストが机の上の小皿に食べ物を取り分けていた。それをイリアスへ勧め、立ち上がって食事をしやすい様に彼の髪を縛る。
「……」
照れた様な困惑した様な表情を浮かべながら、イリアスがエストのされるままになる。
「でも無事で良かった」
まるで他人事の様に言いながら、グラスをイリアスに進めたのはクラスターである。
 一堂の中では最もイリアスに近い年齢であり、どちらかというと、ヘクターらよりもイリアスにより親しいのがクラスターであった。
「良いよな、ラスは。私ももっと早くハンターになれば良かったよ」
だがやはり不満の収まらない様子で、イリアスが呟く。
 もっとも、隣に座るエストが縛ってくれた髪を、嬉しそうに撫でながらではあったが。
「でも、どうするんです? 次に来たら」
イリアスの問いに、ヘクターが笑ってみせる。
 そしてその意味を知る三人は、寂寥を感じていた。
「適当なハンターにやらせときゃ良いのさ。もう完治しねぇよ、あの龍は」
「手柄、取られちゃいますよ?」
「別に。俺は有名になりたくて、ハンターやってるわけじゃないんだよ」
そう。
 だからこそ、ヘクターは一つの場所に固執しないだろう。
 一つのところに、留まらないだろう。
「さて」
笑いながら、ヘクターが席から立ち上がる。
「もう分かってるよな?」
色々と思い出される。
 ヘクターに拾われた、少女エスト。
 ヘクターに監視される事になった、少年ディグニティ。
 気がつけば同行していた、少年クラスター。
 彼らはいつの間にか成長し、一人前のハンターになっていた。
 その間、様々な事があった。
 様々な事を、全て四人で乗り越えてきた。
 そこにヘクターを追ってきたイリアスが加わり、月日がたった。
 その間が、もしかすれば五人にとって最も幸せな月日であったかもしれない。
 だが、全ての物事には、必ず終わりが訪れる。
 それは、誰にも止められ無い。
「今日限りでパーティを解散する」

湿っぽいのは嫌いだと、笑ってヘクターがグラスを掲げた

 朝霧は濃く、数メートル先も見渡せない。
 鎧の立てる音すら、色濃い霧に飲み込まれ、何の反応も返さない。
 まるで定められた帰結のみに囲まれた、黄泉の森を行くかの様である。
 そしてその帰結すら、目には見えない。
 深い深い迷いの森。
 そんなものの入り口に立っているかの様である。
「さーって。ここでバラけるか」
頭の上で腕を交差させながら、ヘクターが振り向いた。
 そこにはディグニティ・エスト・クラスター・イリアスが立っている。
「これから、お前らは何するんだ?」
 色濃い霧の中で、声すらも吸い込まれそうである。
 だが、ヘクターの声だけははっきりと空気を抜け、一同に響き渡る。
「俺は残ろうと思う」
そう言ったのは最後尾に立つクラスターであった。
 元々その気であった彼は、これといった荷物も持たずに平服で同行している。
「見てたいんだ、この街を。人を。これからを」
「そうか」
「で、エストは?」
ヘクターの瞳に見詰められながら、エストははっきりとした答えを持たなかった。
 だが、それこそがエストの答えなのかもしれない。
「探してみようと思うの。私の……」
そこで一度口をつぐんだエストは、空へ視線を転じて応えた。
「私の、するべき事を」
「そうか」
エストらしいな。
そんな風に笑うと、ヘクターが小さくうなずいた。
「俺は……どうしようかなっ」
頭をかきながら、ディグニティが首を振る。
 思えば、食いつなぐために始めたハンターだった。
 それが奇妙な経緯から、ヘクターと同行することになってしまったのだ。
 そういえば、主義だとか主張だとか大それたものを自分は持ち合わせていない。
これといって、目標というものも無いのだった。
「何だ、来ないのか?」
「え?」
ヘクターの意外そうな声に、ディグニティが不思議そうに答えた。
「俺と来ないか? 世界中回って、モンスター見物だ」
俺と来ないか。
 そうだ。
 ヘクターに誘われたのは、これが初めてだ。
 嫌々押し付けられた監視だと、言っていた。
 でも、自分を誘ってくれたのだ。
 今、ヘクターは自分と来ないのか、と。
「あ、ああ! そうだな! アンタが喰われるのを見なきゃな!」
「お前が一番暇そうだな」
そう言ってヘクターが笑い、ディグニティがふくれてみせる。
 彼らの様子を、イリアスだけが静かに見詰めていた。
「そうだな、イリアス。お前はラスに鍛えてもらえ」
「え?」
突然の事に驚きながら、イリアスが拍子の抜けた声を出した。
「ラスに一人前と認めてもらったら、卒業試験をしてみろ」
「……試験?」
ヘクターが面白そうに笑いながら、エストへ視線を送る。
 エストはきょとんとしながら、ヘクターを見返していた。
「これからどっかに行くだろう、エストを探し出せ」
「!」
「その後にエストと同行しろ。そこで何を学ぶかは、お前次第だ」
可笑しそうにディグニティが笑みを浮かべ、ヘクターが悪戯をした後のように肩をすくめた。
「ヘクターさん!」
イリアスが顔を真っ赤に染め、エストとクラスターは事情が飲めないといった様子で、一同を見詰めていた。
「じゃぁ、な。元気でやれよ」
手を振ったヘクターが、一同に背を向ける。
 その後をディグニティが追い、エストもまた、異なる方向へ歩き出した。
 イリアスが目を細めて、その後を見詰める。
 見たくないものと、見なくてはいけないもの。それらを拒む様に、長い睫が震えている。
「……」
その背を叩き、クラスターがうなずいてみせた。
 三人が、立ち込める霧の中へ消えようとしている。
 後姿は徐々に朧になり、霧の中の黒い影に成り代わろうとしている。
 その姿を瞳に焼き付けようと、イリアスは顔を上げた。
 かみ締めた奥歯が音を立てる。
 熱いものが、苦しいものが零れようとしている。
 だが、自分はそれに屈してはならない。
 あの人に追いつくその日まで、泣く事など許されないのだ。
「ああ、そうだ」
人影が、霧の中で動く黒点に変わろうとする直前、立ち止まった。
 ヘクターである。
「何かあったらいつでも呼べ。助けに行ってやる」


眩いばかりの光線が、地平線を跨ぐ
混沌を晴らす様に、光が世界を裂いて隅々まで駆けて行く
黒くなった影がヘクターという像を結び、その笑顔を見せた。

「何処にいても、必ずだ」

「知ってる」
そう言って笑うと、エストは軽やかに駆け出した。
 自らの向かう先が何であろうと、背後には彼らがいるのだ。
 迷う必要など、無い。
「分かってる」
そう言って、クラスターが手を振った。
 彼らの守った街を、自分は見守ろう。
 人々が歌い、踊り、そして笑い合えるこの街を。
「ふぅん?」
面白そうにヘクターを見詰めると、ディグニティは意地の悪い笑顔を浮かべた。
 何処に行っても、必ず追いかけてやる。
 こいつが死ぬところを見てから、一緒に死ぬのが夢なのだから。
「……」
自分は彼らの中にいる事ができたのだろうか。
 イリアスは答える言葉を持たず、ただただ見送る事しかできなかった。
 だが、いつか、いつの日か、彼らの中にありたい。
 そう、待つ事も追う事も、自分は慣れているのだから。


「またな!!」
2006年01月22日(日) 13:19:30 Modified by orz26




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