The Unbalanced Hunters 第二章:第7幕 3

作者:ランドール



第7幕 〜敗者ばかりの黄昏時〜 3


 やがて、通り雨も一段落した頃。
「そっちの治療の具合はどうだ?」
「ん……軟膏塗りこんで、これからガーゼ当てるところです。もう少しかかりますね」
「そうか。なら……その間、少し昔話でも聞いてくれないか」
「なんですか、やぶからぼうに?」
 くすくすと笑む少女に誘われたのだろう。
 気持ち、力の抜けた表情で、白髪の剣士は告げた。

「古来より、東国には護り刀の一族があり――」

 それは小さな世界の小さな幸せのお話。
 そして。
 始まりは、突然で。
 終局は、呆気なく。
 儚く、消えた世界で。
 けれど、確かに生きた。
 大切な人たちの、お話。

「――その名を『神楽』と言った」

 彼は。
 彼女に。
 その一番深い傷の痕を、包み隠さず、さらけ出したのだった。





 白髪に剣士の始まりである昔話は。
 その六年間の歩み全てを決定付けた悪夢は。
 しかし、語りきるまでには、たったの30分もかからなかった。
「――これで、全部だ。
 ガーベラとの因縁も、神楽の村で起こったことも、そこで失ったモノも、全部」
「……そう、ですか」
 少女は、ひどく難しい表情をしていた。
 こちらも難しい――というより情けない顔をしている自覚はあったが、今さら無様な姿を繕ったところで始まらない。続く少女の言葉を、静かに待った。
 すでに二人共に治療を終えていて、少女はベッドから上体を起こした格好で、自分はその目の前で切り株椅子に腰掛け、向かい合う格好になっている。
 小さな上体のほとんどが白い包帯で包まれている姿は、ひどく痛々しい。実際感じている痛みも相当なはずなのだが、そんなことは決して窺わせない声色で、少女は告げてきた。
「……確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
 ああ、と頷いて先を促す。しかし、打てば響くいつもの反応ではなく、何やら言葉を慎重に選んでいる様子だった。まあ、控えめに言っても決して楽しくはない話を聞かされた後だから、あるいはこれが自然な反応なのだろうか――と、常識的な思索に耽っていた矢先。

「年齢は仕方無いとして……幸い私も黒髪なわけですが、伸ばした方が嬉しいですか?」

 ベッドに突っ伏したくなるほど非常識な発言が返ってきた。

「……今の話を聞いて、問うべき事が、それなのか?」
「はい。これ以上に重要なことが、何かありましたか?」

 即答だった。
 ……いや、別に同情や慰めを欲したわけではないが、それにしてもあんまりな感想だ。

「その痛みも悲しみも、何もかもが――あなたです」
「ん……?」
「『それ』を乗り越えようとするなら、どこまでも、あなたの戦いなのですよ」

 だから自分は手を貸さないと。
 あなたが自分で決着をつけろと。
 小さくも厳しい戦士は、言下に断じている。

「――戦えますか?」

 無駄なものが一切無い、刃の切っ先のような問いだった。
 対する自分はまるでナマクラだが、引け目を感じるような格好付けは、それこそ無駄というものだろう。

「……迷い無く頷いてみせたいが、正直、わからない。
 真っ向からぶつかり、そして遅れを取ったという事実は、決して軽く無い」

 感情の種類はどうあれ、先の戦いにおける戦意は高揚しきっていた。
 にもかかわらず、結果は完全な力負けだ。同じように突っ込めば、同じ結果が返ってくるだけなのは、まず間違いない。

 そして、良くも悪くも心の中心にあった復讐という動機は、すでに失われている。

 ならば同程度の戦意を発揮できるかどうかすら、わかったものではない。
 確かに、迷い無く頷けるような状況ではないのだった。

「あるいは、オレも――親父様を見習うべきなのか」

 懐から取り出したのは、一見、何の変哲も無い皮袋に収められた、どこにでもありそうな丸薬だった。綺麗に透き通った赤色をしているので、のど飴か何かだと言われればまず疑われないだろう。しかし、神楽の村の話を聞いた少女にとって、それは内臓が転覆しても受け入れがたい代物と言えた。

「まさか、ユウ……」

 散華の法。
 命を沸騰させ、爆発的な力を得ると同時に、やがて本当に爆発して散るという――ヒトでは無い死に方を運命付けられる外法。つまるところこれを口にするのは、体中に爆弾を巻きつけて飛び込むのと、同じ意味。

「古来より仇討ちなどというものは、死なば諸共の覚悟で挑むものだ。
 結末はどうあれ、遂げること自体に何かしらの意味がある。
 ただ……今この状況で、この選択が正しいのかは、わからない」
「…………」
「わからない……だがっ」

 ぎゅ、と丸薬を握る手に力が込められ。
 ぱきゃ、と呆気ない音がして、丸薬は粉々に崩れ去った。

「おまえに話すうちに……思い出したよ。
 親父様は……後に続くオレを信じて、託してくれた。命の意味を履き違えたりはしていなかった。だから、今オレがこれを使うのは……ただの逃げだ。
 ……ならば、親父様を見習えばこそ、この命を無駄にすることだけは、出来ん」
「ユウ……」

 とはいえ、有効な手段が他に無いのもまた事実。
 事態は一切、好転していない。

「まあ、本当はハントに出る前に、入念に準備をするものなのですけれどね」
「ぐっ……」

 正論だった。
 実際、ソナタは今まで用いなかった爆弾をふんだんに使ってガーベラを退けたのだから、ますます反論のしようが無い。

「お話を聞く限り、斬破刀で切り伏せることしか考えていなかったのでしょう?
 私を十日間も放っておいて、それでトラップの一つも作っておかないなんて、まったく」
「むう……」

 嫌味だった。
 許す、とは言っても、こういう部分ではまた別らしい。

「でも、まあ……あなたが真っ向勝負に拘ったのも、間違ってはいないのですけれどね」
「……馬鹿にされているようにしか聞こえないが」
「ガーベラはきっと、あなたが望む形で、しかも一対一で倒さないと、ダメなんです」
「…………」
「もし私がびっくりするくらい強くて、ガーベラなんか片手でポイだったとしても、あなたの命を救う以上の手出しをしてはいけないのだという……そんな感触がありました。
 さっきの……神楽の村のお話を聞いて、それは、確信になっています」

 そう、つまらない意地かもしれないが。
 もしあのとき、自分の傷が塞がるまで、少女が無事ガーベラを抑え込んでいたら。
 自分はきっと少女を下がらせ――自分の手での決着に、拘ったのだろうと思う。
 敗れた今もなお、ガーベラそのものへの執着だけは、決して薄れていないのだから。
 ……もちろん、それを敗者の遠吠えと言うのだと、理解した上で。

「そうでない限り、どんな結末であれ、納得出来る形にはならないって……思います。
 もし違う形で終わってしまったら……そのときはきっと、心が、ダメになってしまうのだと」
「わかっているつもりだ……そして、そのとおりなのだろう。
 ……が、同時にそれは、オレ自身の身勝手でもある。
 もはや、ガーベラとの戦いは私怨以外のナニモノでも無くなったのだから……」

 復讐なら、仇を他の誰にも譲れないのも、自分の手で決着をというのも、当然のことだ。
 しかしそれが叶わなくなり、少女を巻き込み、その上でなお、ガーベラと対峙する理由があるとしたら……残るのは意地と恨み、まるで胸を張れない後ろ向きの感情でしかない。
 はたしてそれは。
 この少女に不要な傷を負わせてしまってなおも、貫くべきものなのか――


「正しくなければ、戦えませんか?」
「え……」

 
 予想だにしない、もの凄まじい無茶を言われた。

「仇を取るため、無念を晴らすため、そうやって自分以外の誰かのために戦うと、決まってあなたは言う。でも、どうしてあなたがあなたのために戦ってはいけないのですか?」
「それは……」

 自分の、ため?
 そんなことは、まるで考えたことが無かった。
 ……ああ、そうか。
 結局、オレは。
 あの日誰も守れなかったオレ自身が、大嫌いだったのだ。

「――もし、ガーベラがあなたにとって超えなければならない壁で、倒すということ以外で、これを乗り越えられないというのなら。
 そうしないと、一歩も先に進めないというのなら。
 あなたの心が殺されるか、ガーベラを殺すかしか道が無いというのなら。

 戦い、そして生きるべきです。あなたがあなたである、ただそれだけのために。

 神楽だの何だの難しいことは関係ありません。
 生きるために、これから先へ進むために、戦うべきです」
「……先へ、進む?」

 そんなものが、あるというのか。
 ガーベラの先にあるモノ。
 わからない……わからない。
 自分にとっての終着点は、ずっとガーベラだったのだから。
 その先を生きる意味も意義も、何が自分を突き動かすのかも、まるで不明瞭で――

「生きることでは、誇れませんか?」
「……っ!」

 何かが、心の真ん中に、触れた。
 言葉にならない、熱でしかない感情の束が、そこから沸きあがってくるのがわかる。

 ――生きることを、誇る。

 焦げつく。ざわざわと気が落ち着かない。
 不快ではないけれど、何かひどく据わりが悪くて――爆発しそうだ。
 この感情の意味はまるでわからない。
 でも、生きる、ということ。
 その言葉から連想されるたった一つの事実だけが。
 胸の全てを埋めている。

 この生命は、いったい、誰が守ってくれたものだったか――

「――ソナタ」
「はい」
「恐怖とか、弱気とか、そんなのではなくて、だ。ただ、わからないことがある。

 ヒトは――過去に、勝てるのか?

 もう起こってしまったこと。もう取り戻せないこと。もうどうしようもないこと。
 そんなモノを前に、忘れてしまう以外のことなど、出来るのだろうか?
 ガーベラは……オレの過去、そのものだ。
 はたして、あいつを殺せたとして……それで、どうなる?
 何も戻らず、誰も生き返らず……いったい、流血の後には何が残る?」

 それは、復讐だけを心に抱いていた頃から、ずっと付きまとってきた影。
 ひょっとしたら――ガーベラがいなくなったら、自分には本当に、何も無くなってしまうのではないかという、漠然とした恐怖。
 一度敗北した今になって、思う。
 自分はきっと、ガーベラを殺し、そこで死にたかったのではないか――

「あなたが残ります」

 それは、心の影を照らし打ち消す、灯火のような言葉だった。

「起こってしまったことは変えられなくても。
 これからを変えられる、あなたが残ります。
 悲しいことを打ち破り。
 嬉しいことを増やしていける。
 私の大好きなあなたが、残ります」
「……これから。そんなものが、あるというのか……?
 ただ、ガーベラだけを追い続けてきた、このオレに……?」

 目を落とした両の拳は、いつの間にか血が滲むほど、固く握り締められ震えていた。
 そして、その上に。
 小さくて温かな手が、当たり前のように、添えられたのだった。

「独りでは真っ暗な道でも、二人でなら迷わず歩いていけるでしょう。
 あなたに残るのは過去(ガーベラ)ではありません。未来(私)です」
「だがオレは、すでに一度、ガーベラに……心まで、折られてしまっている」
「神楽の護り刀も、一度折られ――そして、より強く打ち直されたのでしょう?」
「あ……」
「ガーベラは強い。そして恐ろしいほど頭が切れます。
 けれどあれは、あくまで弱肉強食の強さ、打ち倒す力です。
 より強いモノを前にすれば、たちまち崩落ちるだけの悲しい力です。
 ――私たちは、違うでしょう。
 牙も翼も無いこの身は、本来、打ち倒されて当たり前の代物です。
 でもね。
 ヒトには、そこからもう一度、顔を上げて立ってみせる力があるんですよ」
「もう一度……?」
「はい。打ち倒すモノは、確かに強いのかもしれません。
 でも、打ち倒されてなお立ち上がるモノは、きっと、もっと強くなれる。
 それがヒトの持つ――心の力なのだと思います」
「それがたとえ……もう二度と届かない、過去であっても、か?」
「――勝てます」

 添えられていた小さな手が、一度ぎゅ、と握られ、そして放された。
 軽い驚きに見張られた目を、少女は真正面から見据え。

「さあさ、お立ち会い」

 ぽん、と1つ大きく手を打って、まるで路肩の叩き売りみたいな口上で、語りだしたのだった。

「これから始まるのは小さな恋の物語。どこにでもあるけれどここにしかない、昔だけれど今語るべき、知り合いじゃなくても知ってなきゃいけない、そんな男女のお話なのさ」

 と言われても、突然のことでどうにも反応のしようが無い。
 ただ、それでも要らぬ半畳を入れずに沈黙を守れたのは、きっと。
 おどけた口上とは対称的に、その目が、狂おしいほどに真剣みを帯びていたせいなのだろう。

「男の名はセラニウム。農村の出身だけれど家を継ぐことはせず、考古学で身を立てたっていうからたいしたもんじゃあないか。
 女の名はエラティオール。地方貴族の娘で、本来は政略的な結婚をするはずだったけれど、どこをどう間違えたんだろうねぇ」

 少なくとも、二人とも聞いたことの無い名だった。
 例え話として、遠回しに何かを匂わせる算段でもあるのだろうか。

「出会いはよくあるお話だった。
 男が発掘に当たっていた遺跡現場に、たまたま物見遊山で訪れた女が、勝手に立ち入ってしまったんだな。別に劇的でもない、ただの偶然の出会いってやつさ。
 でもそのときに女は、それはもう、こっぴどく叱られたっていうじゃあないか。
 びっくりしただろうねえ。何不自由無く暮らしてきた女にとって、初対面の男に、それも貴族でも何でも無い一般人に怒鳴られるっていうのは、空が落ちるくらいには衝撃的だったんだろう。
 はじめはすごく嫌って、でも何故か気になって、いつの間にか離れたくなくなっていて。
 そうなればもう身分の差なんて無いも同然だ。恋する2人の前じゃあそんなもの、雨上がりの水溜りみたいにひょいっと一足飛びされてしまった。
 ああ、結局駆け落ちに踏み切ったのは女の方らしいがね。気の強いこった。
 そして――地図によっては記載されないくらい小さな村で、2人は、暮らし始めて。
 やがて、1人の女の子が生まれたんだ」
「…………!」

 ある予感が、頭から足までを稲妻のように走った。

(まさか記憶が戻ったというのか、ソナ――)

 叫びたい衝動が胃袋から喉にせり上がる。
 が、口までは上らずに立ち消える。
 当たり前だ。
 もしその予感が当たっていたら……これは例え話どころではない。
 まるっきり、自分の昔話と同じということになる。
 それは、つまり。
 この少女を何と呼ぶべきかさえ、自分にはわからないという意味なのだ。
 何故なら。
 ソナタとは、己の名前を忘れた少女が自ら付けた名前なのだから。

「女の子は小さな箱庭のような世界を、まっすぐに幸せに生きて。
 そしてある日――夢が醒めるように突然に、何もかもを失ってしまったんだ。
 ……それが、あんまりにも悲しすぎたんだろうねぇ。
 大好きな両親から貰った大好きな名前さえ、女の子は忘れてしまったのさ」

 視線の交錯。
 一瞬の沈黙。
 その意味は、お互い、確認でしかなかった。
 これは少女の、傷痕の話なのだと。

「でも――ある日、女の子は思ったんだ。強くなりたいって。
 だから、全部、思い出して受け止めようと思った。
 大好きな人の分も受け止められる強さが、女の子は欲しかったんだからね。
 まずは自分から、出来るってことを見せなきゃって、そう思ったのさ――」

 ぽん、と手を打ち、少女は話を打ち切った。
 実際、その先はもう、必要無かった。
 炎の、世界。
 そこで生きていたのは、火竜リオレウスと。
 目の前にいる、炎の子供だけだったのだから。


「私は、乗り越え、強くなりましたよ――ユウ」

 
 その瞳は、やはり少し揺れていたけれど。
 それでも少女は、笑った。
 自分には決して出来なかったことを。
 自分とまるで同じ傷を背負いながら。
 やって見せているのだ。
 とても、信じられるものではなかった。
 ――ひょっとしたら、という疑念が沸く。
 記憶を取り戻したこの少女は、昨日まで自分が知っていたソナタとは、まるで別のナニカに変貌してしまっているのではないか、と。
 後から考えるとそれは、見せ付けられた少女の心の強さに圧倒された、混乱の産物以外のナニモノでもなかったのだろう。けれど、

「おまえは……おまえはいったい、誰なんだ?」

 真っ白になった心は、心無い言葉として吐き出されてしまっていた。
 それでも、やっぱり少女は。
 笑った。

「私はソナタ、炎の子供。あなたに頼り頼られる――相棒です」

 鎧袖一触。
 打てば響くその答え。
 『炎の子供』である証明として、これ以上のモノはきっと、無かった。

「相棒、か。ならば……今度はオレの番、というわけだな」
「――戦えますか?」

 先と同じ問いを、少女は発し。

「無論だ」 

 先とは違う答えを、自分は返した。返すことが、出来た。
 その言葉をかみ締めるように、軽く目を閉じながら少女はやんわりと笑んでいる。

「ふふふ――ユウらしくなってきたじゃあありませんか」

 そんなことを呟きながら、少女は、治療に使用していた薬類と一緒に置いてあった、携帯用のポーチのようなモノを手に取り、差し出してきた。

「これは?」
「使うかどうかは任せます。ただ、あんな物騒な丸薬よりはマシでしょう」

 訝しく思いながらポーチの中身をあらためる。
 するとそこには、音爆弾と閃光玉が、みっちりと詰まっていた。
 それらは紛れも無く、対一角竜に照準を絞った、ハント用アイテムである。

「……おまえ、こんなにも備えがあるのなら、どうして――」
「もっと使わなかったのか、そうしたらそんな傷を負わずにうんぬん、ですか?
 ええ……情け無いお話ですが、全然、使っている余裕が無かったのですよね」

 それは明らかな嘘だった。
 爆弾を幾度も投じていた少女に、閃光玉を織り交ぜる余裕が無かったはずはない。
 けれど少女は、そうしなかった。
 なまじ傷の塞がる時間を稼げば、男が再び無謀な戦いを挑んだであろうことを、理解していたのだろう。その結果、今度こそ、致命に至っていたであろうことも。
 そして予見していたのだろう。もしあの場で使い切ってしまっていたら、今こうして、男に最後の力添えをすることが、叶わなくなってしまうことまでも。

 その意味するところは、二つ。

 少女は、何もかもを覚悟の上で、傷を負うことを選び。
 そして、男が再び立ちあがることを、誰よりも信じたのだ――

「――そうか」

 その想いごと、受け取る。
 礼は言わない。嘘の裏にある少女の誇りを、傷つけたくは無かったから。
 けれど、考えずにはいられない。
 たった一日で、自分はいったい、この少女からどれほどのモノを貰ったのだろうか、と。
 きっと、一生をかけても返しきれないほどだろう。いやこの調子なら、これからも、どんどんかさんでいくのかもわからない。

 ――これからも、か。

 なら、一つだ。
 この身この腕この心で、今為すべきことは、ただ一つだ。

「……勝ちたい。ガーベラに……オレ自身に、負けたく、無い」 

 怯える心も、逃げ出したい感情も、まだ残っている。
 でも、負けたくないと叫ぶ想いもまた、自分自身のモノだ。
 ならば多分、それで、いい。
 完全無欠の超人やヒーローじゃなくても。
 弱さを呑んで強さに換えられるただの人間で。
 充分だ。

「ソナタ……オレは、勝てるな?」
「何を寝ぼけているのですか、あなたは」

 少女はやれやれと肩を竦めながら、兎は一羽と数えるのですよ、と確認する程度の何気なさで、こう言った。

「私の相棒を倒したいのならその三倍は連れてきなさい」
 
 一瞬冗談かと思い。
 二瞬でそうではないと気づき。
 それからしばし、口が開きっぱなしになった。

「……本気か? 相手は、あの――」
「ちょっと強くて赤くて角付きな、お肉の竜でしょう?」
「……んな!?」
「それだけのことです」

 呆気に取られる以外、どうしようもない中。
 少女は、両の掌で、ぴしゃりと打つようにこちらの頬を包み込んだ。
 驚く暇も無く、どこにそんな力が……と思うほど、有無を言わさずぐいっと引き寄せ。
 息のかかるくらいの距離で、真っ向から瞳を覗き込み。
 うって変わって、ひどく真剣みを帯びた口調で、告げてきた。

「ここがあなたの胸突き八丁です。わかっていますね?」
「…………ああ」

 避けて通れない、戦い。

「悔しいのでしょう?」
「…………ああ」

 理屈で割り切れない、感情。

「諦めたくなんか、無いのでしょう?」
「…………ああ」

 終われない、意地。

「無様だと、思いますか? 格好悪いと思いますか?
 二度までも負けて、もがいて、足掻いて、みっともなくって」
「…………ああ」

 少女さえ傷つけた、過ち。

「でも、それでも顔を上げて、もう一度戦おうとすることの、どこがいけませんか?」
「ああ……ああ!」

 それでも譲れない――想い。

「なら、勝ちましょう。
 ――大丈夫。
 怯える心なら、私が全部燃やしてあげる。
 悲しい想いなら、私が全部温めてあげる。
 仄暗い未来なら、私が全部照らしてあげる。
 だから迷わないで。私はちゃんと、ここにいるから」
「ソナタ……」
「そう、私はソナタ。優しいあなたとお揃いの、優しい名前。

 だからあなたは――『優しい』ユウです。

 私は、誰よりも知っています。
 あの日あの時、炎の世界に降り立った、強いあなたを知っています。
 ゆえに、胸を張って誇りましょう。世界へ向けて謳いましょう。

 優しいユウが、最強です。
 そしてその背中を守る、私だって。
 だから、この戦士二人。
 ガーベラ程度に遅れを取る道理は、一切、ありません」

 微笑んで、少女はまっすぐにこちらを見た。
 両の掌でこちらの頬を包んだまま。
 ほんの少し目を細めて。
 気持ち小首を傾げるような格好で。
 見つめている。
 その瞳に映る自分の姿が。
 少しずつ大きくなっていき。
 やがて。
 あふれ。
 消えた。

「――――っ」

 重い意味の軽い音。
 消毒液の匂い。
 柔らかな熱。
 血の味。

 やがて、それらがゆっくりと遠ざかっていくのに合わせて、目を開ける。
 自分が反射的に目を閉じていたことに気づいたのは、それからだった。

「――なんて顔をしているんですか?」

 そう言われても、自分がどんな顔をしているのか、まるで理解が追いつかない。
 だから。

「勝利の女神が、一生で一度の魔法まで使ったのですよ」

 わかったのは、次いで紡がれた言葉、その意味だけだった。

「これで勝たなきゃ、嘘でしょう?」
「……っ!」

 ……この、嘘つきめ。
 はじめから、勝利を疑いもしていないくせに。
 世界のどこに、それを超える全身全霊の信頼があるというのだ。

 ――ぶるぶると、胸が心が魂が、何もかもが震え出す。

 怯えではない。
 悲しみではない。
 過去の疼きでもない。
 ただ、遅い。
 火が付いたように燃え立つ自分に、湧き上がる熱に、全てがついてきていない。
 だから震える。爆発寸前の火山のように、唸りを上げながら。
 このアンバランスに奮い立つ様を、東国では、こう呼ぶ。
 ――武者震い、と。

「ねえ、ユウ。帰ってきたら……私のもう一つの名前も、聞いてくださいね。
 あなたが神楽の優でもあると、話してくれたように。
 私の自慢の両親がくれた名を、あなたにだけは、知っていて欲しいから――」
「――ああ、約束だ」

 うん、と微笑んで、少女は最後の気合を入れるように、ぴしゃっと頬を張ってきながら、言った。

「いってらっしゃい」
「…………応っ!」

 ――風が、吹いた。
 少女はその強さに驚き、一瞬だけ目を閉じ、そして開く。
 すると、目の前にはもう、誰も居ない。
 ただ、締め切られていたはずの出入り口が開け放たれていて。
 壁に立てかけられていたはずの、斬破刀が――無くなっている。

「ふ……ふふふふふふ、あーっはははははは!」

 もし誰かが聞いていたら、傷に障るのではと心配せずにはいられないほど、声高く少女は笑った。心から愉快そうに、涙さえ浮かべながら。
 やがて笑いの発作が収まると、ほぅ……と、うっとりと夢を見ているような吐息を漏らし、にんまりと、悪戯が成功した子供そのものの顔で、こう呟いた。

「優しいユウが、帰ってきた――ざまあ、みろ……ガー……ベ、ラ…………」

 そして、満面の笑顔のままで。
 ネジの切れたゼンマイ人形みたいに、あっさりと。
 少女は、とさ、とベッドに倒れこんだ。
 そして動かない。
 きっと、少し頑張り過ぎて、疲れてしまったのだろう。
 寝息も聞こえないほど静かに。
 とてもとても安らかに、眠りについたようだった。

 ――開け放たれた出入り口から流れ込む風が、さらさらとその頬を撫でていく。

 そうしてひどく静かになったキャンプ内で、やはりしゅんしゅんと湯の沸く音だけが、いつまでもいつまでも、変わらずに響いていた――
2007年01月05日(金) 20:43:40 Modified by funnybunny




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