The Unbalanced Hunters 第二章:第7幕 3
作者:ランドール
第7幕 〜敗者ばかりの黄昏時〜 3
やがて、通り雨も一段落した頃。
「そっちの治療の具合はどうだ?」
「ん……軟膏塗りこんで、これからガーゼ当てるところです。もう少しかかりますね」
「そうか。なら……その間、少し昔話でも聞いてくれないか」
「なんですか、やぶからぼうに?」
くすくすと笑む少女に誘われたのだろう。
気持ち、力の抜けた表情で、白髪の剣士は告げた。
「古来より、東国には護り刀の一族があり――」
それは小さな世界の小さな幸せのお話。
そして。
始まりは、突然で。
終局は、呆気なく。
儚く、消えた世界で。
けれど、確かに生きた。
大切な人たちの、お話。
「――その名を『神楽』と言った」
彼は。
彼女に。
その一番深い傷の痕を、包み隠さず、さらけ出したのだった。
◇
白髪に剣士の始まりである昔話は。
その六年間の歩み全てを決定付けた悪夢は。
しかし、語りきるまでには、たったの30分もかからなかった。
「――これで、全部だ。
ガーベラとの因縁も、神楽の村で起こったことも、そこで失ったモノも、全部」
「……そう、ですか」
少女は、ひどく難しい表情をしていた。
こちらも難しい――というより情けない顔をしている自覚はあったが、今さら無様な姿を繕ったところで始まらない。続く少女の言葉を、静かに待った。
すでに二人共に治療を終えていて、少女はベッドから上体を起こした格好で、自分はその目の前で切り株椅子に腰掛け、向かい合う格好になっている。
小さな上体のほとんどが白い包帯で包まれている姿は、ひどく痛々しい。実際感じている痛みも相当なはずなのだが、そんなことは決して窺わせない声色で、少女は告げてきた。
「……確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
ああ、と頷いて先を促す。しかし、打てば響くいつもの反応ではなく、何やら言葉を慎重に選んでいる様子だった。まあ、控えめに言っても決して楽しくはない話を聞かされた後だから、あるいはこれが自然な反応なのだろうか――と、常識的な思索に耽っていた矢先。
「年齢は仕方無いとして……幸い私も黒髪なわけですが、伸ばした方が嬉しいですか?」
ベッドに突っ伏したくなるほど非常識な発言が返ってきた。
「……今の話を聞いて、問うべき事が、それなのか?」
「はい。これ以上に重要なことが、何かありましたか?」
即答だった。
……いや、別に同情や慰めを欲したわけではないが、それにしてもあんまりな感想だ。
「その痛みも悲しみも、何もかもが――あなたです」
「ん……?」
「『それ』を乗り越えようとするなら、どこまでも、あなたの戦いなのですよ」
だから自分は手を貸さないと。
あなたが自分で決着をつけろと。
小さくも厳しい戦士は、言下に断じている。
「――戦えますか?」
無駄なものが一切無い、刃の切っ先のような問いだった。
対する自分はまるでナマクラだが、引け目を感じるような格好付けは、それこそ無駄というものだろう。
「……迷い無く頷いてみせたいが、正直、わからない。
真っ向からぶつかり、そして遅れを取ったという事実は、決して軽く無い」
感情の種類はどうあれ、先の戦いにおける戦意は高揚しきっていた。
にもかかわらず、結果は完全な力負けだ。同じように突っ込めば、同じ結果が返ってくるだけなのは、まず間違いない。
そして、良くも悪くも心の中心にあった復讐という動機は、すでに失われている。
ならば同程度の戦意を発揮できるかどうかすら、わかったものではない。
確かに、迷い無く頷けるような状況ではないのだった。
「あるいは、オレも――親父様を見習うべきなのか」
懐から取り出したのは、一見、何の変哲も無い皮袋に収められた、どこにでもありそうな丸薬だった。綺麗に透き通った赤色をしているので、のど飴か何かだと言われればまず疑われないだろう。しかし、神楽の村の話を聞いた少女にとって、それは内臓が転覆しても受け入れがたい代物と言えた。
「まさか、ユウ……」
散華の法。
命を沸騰させ、爆発的な力を得ると同時に、やがて本当に爆発して散るという――ヒトでは無い死に方を運命付けられる外法。つまるところこれを口にするのは、体中に爆弾を巻きつけて飛び込むのと、同じ意味。
「古来より仇討ちなどというものは、死なば諸共の覚悟で挑むものだ。
結末はどうあれ、遂げること自体に何かしらの意味がある。
ただ……今この状況で、この選択が正しいのかは、わからない」
「…………」
「わからない……だがっ」
ぎゅ、と丸薬を握る手に力が込められ。
ぱきゃ、と呆気ない音がして、丸薬は粉々に崩れ去った。
「おまえに話すうちに……思い出したよ。
親父様は……後に続くオレを信じて、託してくれた。命の意味を履き違えたりはしていなかった。だから、今オレがこれを使うのは……ただの逃げだ。
……ならば、親父様を見習えばこそ、この命を無駄にすることだけは、出来ん」
「ユウ……」
とはいえ、有効な手段が他に無いのもまた事実。
事態は一切、好転していない。
「まあ、本当はハントに出る前に、入念に準備をするものなのですけれどね」
「ぐっ……」
正論だった。
実際、ソナタは今まで用いなかった爆弾をふんだんに使ってガーベラを退けたのだから、ますます反論のしようが無い。
「お話を聞く限り、斬破刀で切り伏せることしか考えていなかったのでしょう?
私を十日間も放っておいて、それでトラップの一つも作っておかないなんて、まったく」
「むう……」
嫌味だった。
許す、とは言っても、こういう部分ではまた別らしい。
「でも、まあ……あなたが真っ向勝負に拘ったのも、間違ってはいないのですけれどね」
「……馬鹿にされているようにしか聞こえないが」
「ガーベラはきっと、あなたが望む形で、しかも一対一で倒さないと、ダメなんです」
「…………」
「もし私がびっくりするくらい強くて、ガーベラなんか片手でポイだったとしても、あなたの命を救う以上の手出しをしてはいけないのだという……そんな感触がありました。
さっきの……神楽の村のお話を聞いて、それは、確信になっています」
そう、つまらない意地かもしれないが。
もしあのとき、自分の傷が塞がるまで、少女が無事ガーベラを抑え込んでいたら。
自分はきっと少女を下がらせ――自分の手での決着に、拘ったのだろうと思う。
敗れた今もなお、ガーベラそのものへの執着だけは、決して薄れていないのだから。
……もちろん、それを敗者の遠吠えと言うのだと、理解した上で。
「そうでない限り、どんな結末であれ、納得出来る形にはならないって……思います。
もし違う形で終わってしまったら……そのときはきっと、心が、ダメになってしまうのだと」
「わかっているつもりだ……そして、そのとおりなのだろう。
……が、同時にそれは、オレ自身の身勝手でもある。
もはや、ガーベラとの戦いは私怨以外のナニモノでも無くなったのだから……」
復讐なら、仇を他の誰にも譲れないのも、自分の手で決着をというのも、当然のことだ。
しかしそれが叶わなくなり、少女を巻き込み、その上でなお、ガーベラと対峙する理由があるとしたら……残るのは意地と恨み、まるで胸を張れない後ろ向きの感情でしかない。
はたしてそれは。
この少女に不要な傷を負わせてしまってなおも、貫くべきものなのか――
「正しくなければ、戦えませんか?」
「え……」
予想だにしない、もの凄まじい無茶を言われた。
「仇を取るため、無念を晴らすため、そうやって自分以外の誰かのために戦うと、決まってあなたは言う。でも、どうしてあなたがあなたのために戦ってはいけないのですか?」
「それは……」
自分の、ため?
そんなことは、まるで考えたことが無かった。
……ああ、そうか。
結局、オレは。
あの日誰も守れなかったオレ自身が、大嫌いだったのだ。
「――もし、ガーベラがあなたにとって超えなければならない壁で、倒すということ以外で、これを乗り越えられないというのなら。
そうしないと、一歩も先に進めないというのなら。
あなたの心が殺されるか、ガーベラを殺すかしか道が無いというのなら。
戦い、そして生きるべきです。あなたがあなたである、ただそれだけのために。
神楽だの何だの難しいことは関係ありません。
生きるために、これから先へ進むために、戦うべきです」
「……先へ、進む?」
そんなものが、あるというのか。
ガーベラの先にあるモノ。
わからない……わからない。
自分にとっての終着点は、ずっとガーベラだったのだから。
その先を生きる意味も意義も、何が自分を突き動かすのかも、まるで不明瞭で――
「生きることでは、誇れませんか?」
「……っ!」
何かが、心の真ん中に、触れた。
言葉にならない、熱でしかない感情の束が、そこから沸きあがってくるのがわかる。
――生きることを、誇る。
焦げつく。ざわざわと気が落ち着かない。
不快ではないけれど、何かひどく据わりが悪くて――爆発しそうだ。
この感情の意味はまるでわからない。
でも、生きる、ということ。
その言葉から連想されるたった一つの事実だけが。
胸の全てを埋めている。
この生命は、いったい、誰が守ってくれたものだったか――
「――ソナタ」
「はい」
「恐怖とか、弱気とか、そんなのではなくて、だ。ただ、わからないことがある。
ヒトは――過去に、勝てるのか?
もう起こってしまったこと。もう取り戻せないこと。もうどうしようもないこと。
そんなモノを前に、忘れてしまう以外のことなど、出来るのだろうか?
ガーベラは……オレの過去、そのものだ。
はたして、あいつを殺せたとして……それで、どうなる?
何も戻らず、誰も生き返らず……いったい、流血の後には何が残る?」
それは、復讐だけを心に抱いていた頃から、ずっと付きまとってきた影。
ひょっとしたら――ガーベラがいなくなったら、自分には本当に、何も無くなってしまうのではないかという、漠然とした恐怖。
一度敗北した今になって、思う。
自分はきっと、ガーベラを殺し、そこで死にたかったのではないか――
「あなたが残ります」
それは、心の影を照らし打ち消す、灯火のような言葉だった。
「起こってしまったことは変えられなくても。
これからを変えられる、あなたが残ります。
悲しいことを打ち破り。
嬉しいことを増やしていける。
私の大好きなあなたが、残ります」
「……これから。そんなものが、あるというのか……?
ただ、ガーベラだけを追い続けてきた、このオレに……?」
目を落とした両の拳は、いつの間にか血が滲むほど、固く握り締められ震えていた。
そして、その上に。
小さくて温かな手が、当たり前のように、添えられたのだった。
「独りでは真っ暗な道でも、二人でなら迷わず歩いていけるでしょう。
あなたに残るのは過去(ガーベラ)ではありません。未来(私)です」
「だがオレは、すでに一度、ガーベラに……心まで、折られてしまっている」
「神楽の護り刀も、一度折られ――そして、より強く打ち直されたのでしょう?」
「あ……」
「ガーベラは強い。そして恐ろしいほど頭が切れます。
けれどあれは、あくまで弱肉強食の強さ、打ち倒す力です。
より強いモノを前にすれば、たちまち崩落ちるだけの悲しい力です。
――私たちは、違うでしょう。
牙も翼も無いこの身は、本来、打ち倒されて当たり前の代物です。
でもね。
ヒトには、そこからもう一度、顔を上げて立ってみせる力があるんですよ」
「もう一度……?」
「はい。打ち倒すモノは、確かに強いのかもしれません。
でも、打ち倒されてなお立ち上がるモノは、きっと、もっと強くなれる。
それがヒトの持つ――心の力なのだと思います」
「それがたとえ……もう二度と届かない、過去であっても、か?」
「――勝てます」
添えられていた小さな手が、一度ぎゅ、と握られ、そして放された。
軽い驚きに見張られた目を、少女は真正面から見据え。
「さあさ、お立ち会い」
ぽん、と1つ大きく手を打って、まるで路肩の叩き売りみたいな口上で、語りだしたのだった。
「これから始まるのは小さな恋の物語。どこにでもあるけれどここにしかない、昔だけれど今語るべき、知り合いじゃなくても知ってなきゃいけない、そんな男女のお話なのさ」
と言われても、突然のことでどうにも反応のしようが無い。
ただ、それでも要らぬ半畳を入れずに沈黙を守れたのは、きっと。
おどけた口上とは対称的に、その目が、狂おしいほどに真剣みを帯びていたせいなのだろう。
「男の名はセラニウム。農村の出身だけれど家を継ぐことはせず、考古学で身を立てたっていうからたいしたもんじゃあないか。
女の名はエラティオール。地方貴族の娘で、本来は政略的な結婚をするはずだったけれど、どこをどう間違えたんだろうねぇ」
少なくとも、二人とも聞いたことの無い名だった。
例え話として、遠回しに何かを匂わせる算段でもあるのだろうか。
「出会いはよくあるお話だった。
男が発掘に当たっていた遺跡現場に、たまたま物見遊山で訪れた女が、勝手に立ち入ってしまったんだな。別に劇的でもない、ただの偶然の出会いってやつさ。
でもそのときに女は、それはもう、こっぴどく叱られたっていうじゃあないか。
びっくりしただろうねえ。何不自由無く暮らしてきた女にとって、初対面の男に、それも貴族でも何でも無い一般人に怒鳴られるっていうのは、空が落ちるくらいには衝撃的だったんだろう。
はじめはすごく嫌って、でも何故か気になって、いつの間にか離れたくなくなっていて。
そうなればもう身分の差なんて無いも同然だ。恋する2人の前じゃあそんなもの、雨上がりの水溜りみたいにひょいっと一足飛びされてしまった。
ああ、結局駆け落ちに踏み切ったのは女の方らしいがね。気の強いこった。
そして――地図によっては記載されないくらい小さな村で、2人は、暮らし始めて。
やがて、1人の女の子が生まれたんだ」
「…………!」
ある予感が、頭から足までを稲妻のように走った。
(まさか記憶が戻ったというのか、ソナ――)
叫びたい衝動が胃袋から喉にせり上がる。
が、口までは上らずに立ち消える。
当たり前だ。
もしその予感が当たっていたら……これは例え話どころではない。
まるっきり、自分の昔話と同じということになる。
それは、つまり。
この少女を何と呼ぶべきかさえ、自分にはわからないという意味なのだ。
何故なら。
ソナタとは、己の名前を忘れた少女が自ら付けた名前なのだから。
「女の子は小さな箱庭のような世界を、まっすぐに幸せに生きて。
そしてある日――夢が醒めるように突然に、何もかもを失ってしまったんだ。
……それが、あんまりにも悲しすぎたんだろうねぇ。
大好きな両親から貰った大好きな名前さえ、女の子は忘れてしまったのさ」
視線の交錯。
一瞬の沈黙。
その意味は、お互い、確認でしかなかった。
これは少女の、傷痕の話なのだと。
「でも――ある日、女の子は思ったんだ。強くなりたいって。
だから、全部、思い出して受け止めようと思った。
大好きな人の分も受け止められる強さが、女の子は欲しかったんだからね。
まずは自分から、出来るってことを見せなきゃって、そう思ったのさ――」
ぽん、と手を打ち、少女は話を打ち切った。
実際、その先はもう、必要無かった。
炎の、世界。
そこで生きていたのは、火竜リオレウスと。
目の前にいる、炎の子供だけだったのだから。
「私は、乗り越え、強くなりましたよ――ユウ」
その瞳は、やはり少し揺れていたけれど。
それでも少女は、笑った。
自分には決して出来なかったことを。
自分とまるで同じ傷を背負いながら。
やって見せているのだ。
とても、信じられるものではなかった。
――ひょっとしたら、という疑念が沸く。
記憶を取り戻したこの少女は、昨日まで自分が知っていたソナタとは、まるで別のナニカに変貌してしまっているのではないか、と。
後から考えるとそれは、見せ付けられた少女の心の強さに圧倒された、混乱の産物以外のナニモノでもなかったのだろう。けれど、
「おまえは……おまえはいったい、誰なんだ?」
真っ白になった心は、心無い言葉として吐き出されてしまっていた。
それでも、やっぱり少女は。
笑った。
「私はソナタ、炎の子供。あなたに頼り頼られる――相棒です」
鎧袖一触。
打てば響くその答え。
『炎の子供』である証明として、これ以上のモノはきっと、無かった。
「相棒、か。ならば……今度はオレの番、というわけだな」
「――戦えますか?」
先と同じ問いを、少女は発し。
「無論だ」
先とは違う答えを、自分は返した。返すことが、出来た。
その言葉をかみ締めるように、軽く目を閉じながら少女はやんわりと笑んでいる。
「ふふふ――ユウらしくなってきたじゃあありませんか」
そんなことを呟きながら、少女は、治療に使用していた薬類と一緒に置いてあった、携帯用のポーチのようなモノを手に取り、差し出してきた。
「これは?」
「使うかどうかは任せます。ただ、あんな物騒な丸薬よりはマシでしょう」
訝しく思いながらポーチの中身をあらためる。
するとそこには、音爆弾と閃光玉が、みっちりと詰まっていた。
それらは紛れも無く、対一角竜に照準を絞った、ハント用アイテムである。
「……おまえ、こんなにも備えがあるのなら、どうして――」
「もっと使わなかったのか、そうしたらそんな傷を負わずにうんぬん、ですか?
ええ……情け無いお話ですが、全然、使っている余裕が無かったのですよね」
それは明らかな嘘だった。
爆弾を幾度も投じていた少女に、閃光玉を織り交ぜる余裕が無かったはずはない。
けれど少女は、そうしなかった。
なまじ傷の塞がる時間を稼げば、男が再び無謀な戦いを挑んだであろうことを、理解していたのだろう。その結果、今度こそ、致命に至っていたであろうことも。
そして予見していたのだろう。もしあの場で使い切ってしまっていたら、今こうして、男に最後の力添えをすることが、叶わなくなってしまうことまでも。
その意味するところは、二つ。
少女は、何もかもを覚悟の上で、傷を負うことを選び。
そして、男が再び立ちあがることを、誰よりも信じたのだ――
「――そうか」
その想いごと、受け取る。
礼は言わない。嘘の裏にある少女の誇りを、傷つけたくは無かったから。
けれど、考えずにはいられない。
たった一日で、自分はいったい、この少女からどれほどのモノを貰ったのだろうか、と。
きっと、一生をかけても返しきれないほどだろう。いやこの調子なら、これからも、どんどんかさんでいくのかもわからない。
――これからも、か。
なら、一つだ。
この身この腕この心で、今為すべきことは、ただ一つだ。
「……勝ちたい。ガーベラに……オレ自身に、負けたく、無い」
怯える心も、逃げ出したい感情も、まだ残っている。
でも、負けたくないと叫ぶ想いもまた、自分自身のモノだ。
ならば多分、それで、いい。
完全無欠の超人やヒーローじゃなくても。
弱さを呑んで強さに換えられるただの人間で。
充分だ。
「ソナタ……オレは、勝てるな?」
「何を寝ぼけているのですか、あなたは」
少女はやれやれと肩を竦めながら、兎は一羽と数えるのですよ、と確認する程度の何気なさで、こう言った。
「私の相棒を倒したいのならその三倍は連れてきなさい」
一瞬冗談かと思い。
二瞬でそうではないと気づき。
それからしばし、口が開きっぱなしになった。
「……本気か? 相手は、あの――」
「ちょっと強くて赤くて角付きな、お肉の竜でしょう?」
「……んな!?」
「それだけのことです」
呆気に取られる以外、どうしようもない中。
少女は、両の掌で、ぴしゃりと打つようにこちらの頬を包み込んだ。
驚く暇も無く、どこにそんな力が……と思うほど、有無を言わさずぐいっと引き寄せ。
息のかかるくらいの距離で、真っ向から瞳を覗き込み。
うって変わって、ひどく真剣みを帯びた口調で、告げてきた。
「ここがあなたの胸突き八丁です。わかっていますね?」
「…………ああ」
避けて通れない、戦い。
「悔しいのでしょう?」
「…………ああ」
理屈で割り切れない、感情。
「諦めたくなんか、無いのでしょう?」
「…………ああ」
終われない、意地。
「無様だと、思いますか? 格好悪いと思いますか?
二度までも負けて、もがいて、足掻いて、みっともなくって」
「…………ああ」
少女さえ傷つけた、過ち。
「でも、それでも顔を上げて、もう一度戦おうとすることの、どこがいけませんか?」
「ああ……ああ!」
それでも譲れない――想い。
「なら、勝ちましょう。
――大丈夫。
怯える心なら、私が全部燃やしてあげる。
悲しい想いなら、私が全部温めてあげる。
仄暗い未来なら、私が全部照らしてあげる。
だから迷わないで。私はちゃんと、ここにいるから」
「ソナタ……」
「そう、私はソナタ。優しいあなたとお揃いの、優しい名前。
だからあなたは――『優しい』ユウです。
私は、誰よりも知っています。
あの日あの時、炎の世界に降り立った、強いあなたを知っています。
ゆえに、胸を張って誇りましょう。世界へ向けて謳いましょう。
優しいユウが、最強です。
そしてその背中を守る、私だって。
だから、この戦士二人。
ガーベラ程度に遅れを取る道理は、一切、ありません」
微笑んで、少女はまっすぐにこちらを見た。
両の掌でこちらの頬を包んだまま。
ほんの少し目を細めて。
気持ち小首を傾げるような格好で。
見つめている。
その瞳に映る自分の姿が。
少しずつ大きくなっていき。
やがて。
あふれ。
消えた。
「――――っ」
重い意味の軽い音。
消毒液の匂い。
柔らかな熱。
血の味。
やがて、それらがゆっくりと遠ざかっていくのに合わせて、目を開ける。
自分が反射的に目を閉じていたことに気づいたのは、それからだった。
「――なんて顔をしているんですか?」
そう言われても、自分がどんな顔をしているのか、まるで理解が追いつかない。
だから。
「勝利の女神が、一生で一度の魔法まで使ったのですよ」
わかったのは、次いで紡がれた言葉、その意味だけだった。
「これで勝たなきゃ、嘘でしょう?」
「……っ!」
……この、嘘つきめ。
はじめから、勝利を疑いもしていないくせに。
世界のどこに、それを超える全身全霊の信頼があるというのだ。
――ぶるぶると、胸が心が魂が、何もかもが震え出す。
怯えではない。
悲しみではない。
過去の疼きでもない。
ただ、遅い。
火が付いたように燃え立つ自分に、湧き上がる熱に、全てがついてきていない。
だから震える。爆発寸前の火山のように、唸りを上げながら。
このアンバランスに奮い立つ様を、東国では、こう呼ぶ。
――武者震い、と。
「ねえ、ユウ。帰ってきたら……私のもう一つの名前も、聞いてくださいね。
あなたが神楽の優でもあると、話してくれたように。
私の自慢の両親がくれた名を、あなたにだけは、知っていて欲しいから――」
「――ああ、約束だ」
うん、と微笑んで、少女は最後の気合を入れるように、ぴしゃっと頬を張ってきながら、言った。
「いってらっしゃい」
「…………応っ!」
――風が、吹いた。
少女はその強さに驚き、一瞬だけ目を閉じ、そして開く。
すると、目の前にはもう、誰も居ない。
ただ、締め切られていたはずの出入り口が開け放たれていて。
壁に立てかけられていたはずの、斬破刀が――無くなっている。
「ふ……ふふふふふふ、あーっはははははは!」
もし誰かが聞いていたら、傷に障るのではと心配せずにはいられないほど、声高く少女は笑った。心から愉快そうに、涙さえ浮かべながら。
やがて笑いの発作が収まると、ほぅ……と、うっとりと夢を見ているような吐息を漏らし、にんまりと、悪戯が成功した子供そのものの顔で、こう呟いた。
「優しいユウが、帰ってきた――ざまあ、みろ……ガー……ベ、ラ…………」
そして、満面の笑顔のままで。
ネジの切れたゼンマイ人形みたいに、あっさりと。
少女は、とさ、とベッドに倒れこんだ。
そして動かない。
きっと、少し頑張り過ぎて、疲れてしまったのだろう。
寝息も聞こえないほど静かに。
とてもとても安らかに、眠りについたようだった。
――開け放たれた出入り口から流れ込む風が、さらさらとその頬を撫でていく。
そうしてひどく静かになったキャンプ内で、やはりしゅんしゅんと湯の沸く音だけが、いつまでもいつまでも、変わらずに響いていた――
2007年01月05日(金) 20:43:40 Modified by funnybunny