瀟洒な邸宅が居並び華麗さを競う高級住宅街の外れに、ひときわ壮麗な豪邸がある。数年前までは美しくもどこか薄気味の悪い屋敷だったが、最近では漂う雰囲気も春の陽のように暖かい。
 その屋敷の二階奥、かつて戸主の妻が使っていた部屋の扉を、この家の令嬢が敲いた。
「おはようございます、殿下」
 挨拶する声はやや不明瞭であり、そして暗い。しかしその暗さはかつてこの屋敷を包んでいたものとは理由が異なる。
「入れ」
 雨戸や夜用カーテンは既に開けられ、そよ風に揺れるレースカーテンから朝の陽射しが射し込んでいる。さわやかな朝である。
 令嬢はおずおずと部屋に入ったが、ドアのところから中には入ろうとしない。部屋の主に遠慮しているのではない。今のこの部屋にはとても入れないのだ。
「おはようサヤカ。今日もいい天気ね。気持ちのいい朝だわ」
 今この部屋を支配するプリンセスに名前を呼ばれた鳥羽沙夜香は引きつった顔でぺこりと頭を下げた。
「殿下、水を」
「そこに置きなさい」ウェヌスは沙夜香の言葉をあからさまに遮って言った。萎縮しながら水差しとコップの載った盆をテーブルに置く沙夜香の背中に続く言葉が投げかけられる。当然彼女の作業が終わるのを待とうという発想はない。
「食事は七時から食べる。卵料理はニンニクとキノコのオムレツにして」
 細かく刻んだニンニクを加熱して香りを移したバターでキノコを炒めた物を包んだオムレツである。香ばしいニンニクの香りが食欲をそそる一品だ。オリーブオイルでも作るが、ウェヌスの好みはバターである。キノコも鶏卵もバターとの相性がよい。それに、有塩バターを使えばバターの塩味と風味でテーブルでの調味なしに美味しく食べられる。本来ニンニクは香りを出すためのものでバターだけを使うのだが、彼女はバターでニンニクを炒めたフライパンにそのままキノコを入れてニンニクも完成品に入れてしまう方が好きである。ニンニクを食べると元気が出るからだ。
「おまえが作ってくれるかしら」
「……いえ。フィルフィアに伝えておきます」
 ――ヴァンパイアである鳥羽沙夜香にとっては聞くだけで吐き気がする料理である。
「ふん、ああそう」
 ウェヌスはつまらなそうにそれだけ言って手をひらひら振った。
 触手を自在に使いこなす彼女はメイドの手など借りなくても一人で着替えられる。無論、その気になればの話だ。
「失礼いたします」
 沙夜香は恭しく一礼して退室するが、無論主から労いの言葉がかけられる事はない。

 鳥羽家は明治時代から日本に住まい、組織的に結束していないダークロアにあって積極的に同胞との連携を強め、東京に於いて主導的な立場を務めるヴァンパイアの名家であった。
 その嫡子である沙夜香は生まれながらにして将来の栄光を約束されていた。人間とのハーフであり彼女が雑種と蔑む夜羽子・アシュレイに能力の面では敵わなくとも、高貴な血筋を混じりなく継ぐ者として敬われて生きる事が出来たはずなのだ。
 それが狂い始めたのは高等部の時からである。
 沙夜香は当然のように周囲に慕われ、当たり前のように一年七組の学級委員に選出された。そして生徒会に出席したのが運の尽きだった。
 圧倒的支持で生徒会副会長、つまり二年生が達しうる最高の役職に就いた男――雜賀恭一と出会ってしまったのだ。
 マインドブレイカーであり、イレイザー襲来を予見して撃退のための戦力を欲していた恭一にとって、沙夜香は格好の駒だった。
 出会って目が合った瞬間から彼のマインドブレイクが始まり、会議終了後それらしい口実で二人きりになって完全に支配が完了した。
恭一にブレイクされる前の沙夜香は血筋だけご立派で能力は惨憺たるものだったので、赤子の手をひねる用にあっさりと完了したらしい。
 さてそれから恭一の計画は着々と進行し、彼の代の生徒会は全員が彼の支配する能力者で占められる程になっていた。
 ところが、到底いち学校の能力者ではイレイザー撃退などならず、もっと協力者を増やそうとしたのが恭一の転落の始まりだった。
 新入生の中にマインドブレイカー、それも無意識ながらも既に能力者の卵を支配している少年を見つけた恭一は、これぞ天の助けとばかりに――実際にはそれこそが彼の破滅の引き金だったのだが――彼、秋月俊平に協力を要請したが、俊平は他人の心を好き勝手にするなどと願い下げだと断った。
 無論簡単に諦めるような恭一ではない。将を射んと欲すれば先ず馬を射よとばかりに俊平と同居している幼馴染で電撃系能力者の卵、名波柚子を支配した恭一だったが、俊平との交渉の手札にするため構い過ぎたのが沙夜香の嫉妬を買った。
 激情に駆られた沙夜香は杏子を吸血し眷属と化した。これが恭一にブレイクされて恋情に満たされ能力も強化されていた沙夜香の絶頂期だったといえる。恋敵を排除した沙夜香はご満悦だった。
 ところがこの行為は俊平を激怒させる事となる。
 恭一は幼い頃からマインドブレイカーの能力を自覚し鍛錬したため他人の心を操作する事に慣れすぎていた。俊平の事もどこか侮っていたのかも知れない。同じマインドブレイカーには精神支配は効かないと知りつつ、それでも操れると思っていたのか。
沙夜香から杏子を引きずり込んだと報告を受けた時も、大勢に影響なしと高をくくっていたのだろう。
 何よりも、地球を異星人から救うという行為は非の打ち所もなく正しくて、その崇高さが恭一自身を酔わせていた。その美酒は俊平もきっと酔わせられると確信していた。
 沙夜香を支配するにあたり自分への恋心を受け付け、その愛情を一身に受けながらも彼は恋心への理解が足りなかった。それが破綻した時何を生じさせるのか、全く思いが至らなかった。
 果たして俊平はハッピーマンデーとその前後を利用して数日姿を消し、帰ってきた時には謎の触手のようなもの――支配虫を従えた強力無比なマインドブレイカーとなっていたのである。

 沙夜香の手はあの日の感触を今でも覚えている。
 生徒会室に闖入してきた秋月俊平に視線を投げかけられた途端、沙夜香の目は引き寄せられるように彼の瞳を凝視した。
 視線が重なった途端、沙夜香の肉体は彼女のコントロールを受け付けなくなり、首から上が絶叫して制止を懇願するのも聞かず、ヴァンパイアの怪力で恭一の手足を握りつぶし、男性器を引きちぎった。いつか抱かれて挿れられる事を願っていたそれは、あろう事かてのひらの中でただの肉塊に成り果てた。
 沙夜香の絶叫に、誇り高く弱みを見せた事のなかった恭一の苦悶の叫びが重なり合唱を奏でていた。
 彼自身それが恋心だったと自覚にしたのは失ってからだったようだが、愛する幼馴染をバケモノと化した沙夜香に対する俊平の怒りはそれだけでは収まらず、彼女の手は自らの翼を引きちぎり、そして自らの牙を力任せに引き抜いて、奥歯は砕ける勢いでそれを噛み砕いた。
 そして――
 自分と愛する人を自らの手で傷つけさせられて心身の痛みに泣きむせぶ彼女は恭一や従者の家系を越えて親友とも呼べる幼馴染だったワーウルフの忍の目の前で男子生徒達に輪姦された。学園のアイドルとして沙夜香を畏敬の目で見ていた男達は俊平により性欲を増幅されケダモノとして沙夜香を犯し抜いた。しかし記憶を消された彼らはきっと全てを忘れて、急に『留学』した憧れの副会長の事を懐かしく思っているのだろう。
 自ら牙を抜き噛み砕いて吸血能力を封じられた沙夜香だったが、俊平は彼女のヴァンパイアとしての特性は増幅した。かつては日光の下では能力を使えなかった沙夜香は恭一のブレイクによってそれを克服した。しかし今度は逆に日光に極端に弱くなったのだ。すなわち、日焼け止めクリームを塗ってもなお、太陽光を浴びればたちまち重度の火傷を負う。今や彼女に残された唯一のヴァンパイアの能力である。哀れな柚子をそうして葬ったように、日光を浴びれば即死するまでに程度を高める事も出来たのだろうだが、敢えてそれをせず苦しめるようにしたのも俊平の憎悪の深さを表していたといえる。
 本来この家の令嬢である彼女にウェヌスのメイドをさせているのもその一環なのだろう。もっとも、ウェヌスにとってもいい迷惑だったようでその扱いは酷いものだ。あるいはそれも俊平の狙いだったのかも知れないが。

「殿下より、朝食は七時からで、卵は……その、キノコと……」
「ニンニクとキノコのオムレツですね」
 キッチンメイドのフィルフィア・フォルシュは言い淀む沙夜香にその先を言わせないように承けた。いかにエルフの鋭敏な聴覚とはいえ、種々の調理音が響く厨房から二階のそれも本来女主人の寝室の声が聞こえるわけではない。沙夜香の反応やウェヌスの性格から推し量ったのだ。
 沙夜香の沈痛な面持ちがそれを肯定する。かつては高飛車で反感を覚える事もあったが、それでもかつて仕える間にそれなりの愛着は湧いた相手だ。メイドに零落し、かつての使用人と共に働く今の境遇にもともと温厚な性格のフィルフィアは同情を禁じ得ない。
「了解しました」
 早速料理を始めるフィルフィアに小さく頷いて、沙夜香は食堂を後にした。
 これからウェヌスが食事をする食堂では、一年前までは彼女がこの家の令嬢として食事をしていた。恭一の支配を受けてからは居候、いや賓客として滞在する彼も食卓に加わり楽しい時間を過ごした。なお、いくらヴァンパイアといえ毎日生き血を吸っているわけではなく、普段の食事は普通の人間と変わらない。勿論ニンニクは使われないためこの家の厨房にニンニクが入る事は百年来なかったのだが、フィルフィアは今や長らくそこに当然のようにあったものであるかのようにニンニクを扱っている。フィルフィアに罪はないが、言い様のない寂寥感を覚える。
 早く寝たいと思う。ウェヌスが出掛ければレディメイドの彼女は眠る事が出来る、
 ベッドも棺桶も既にない。彼女の寝床は日差しを避けて夜中に行った二十四時間営業のスーパーでもらってきた、しかも染み込んだ汗がにおい、あちこちの破れを布ガムテープで補修して見た目もみっともない段ボールである。使用人室の片隅に置かれたそれが、鳥羽沙夜香に残されたこの屋敷で唯一の安らげる場所なのだった。

 毎朝ラジオで放送されている体操をやるのがこの屋敷に来てからのウェヌスの日課である。なんといっても時間が定められているのが日々の習慣にするには良い。
 高級なステレオセットから流れる放送に合わせて、ウェヌスは鍛え上げられた肢体を躍動させる。武装戦姫(アームド・プリンセス)と名乗る彼女だが、今その身には寸鉄も帯びていない。支配虫の洗礼を受けてから全裸で動くのが楽しいウェヌスであった。
 汗をかいても拭きやすいだけでも全裸の意味はある。深呼吸で体操を締めくくる頃にはウェヌスの体は火照っていた。肌に浮かび上がった玉の汗をタオルで拭い、沙夜香に用意させた水を注いで飲み干す。目覚めてから初めて摂る水分が全身に染み渡っていくようだ。
「ふぅ……」
 深呼吸で吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出すウェヌスに、窓辺から声がかけられる。
(おはよう)
「おはよう淫獣」
 朝の陽射しを浴びてレースカーテンの向こうから影を写すのは須藤りのんの使い魔もといパートナーのあんみつである。
(今日は宜しく頼むよ。しかし……本当にいいのかい?)
「もちろん。りのんや葵には学校の授業があるのだから、ゴミ掃除は手の開いているわたくしがやるべきでしょう」
 ウェヌスは花のようにほほえんだ。
 りのんが正義の魔法少女として行なっていたはぐれモンスターや妖怪を退治する役目を、彼女が学校に行っている間代わりにやってのけようというのである。
 ――もっとも、友情というよりはむしろ最近戦闘していないので何でもいいから暴れたいというのが本当のところだ。
「それに、水晶の巫女を見つけたら今度はわたくしが覚醒させたいですもの」
 乳首の根元が徐々に膨らみ、やがて先端から金色のものが競り出てくる。彼女の黄水晶のピアスである。朝日を浴びて煌く様はまさに明けの明星の名にふさわしい。
(そうだね。がんばろう)
「でも……」
 空になったグラスに水を注いで煽り、ウェヌスは話題を変える。
「モーニングスターを持っていけないというのは残念だわ」
 ウェヌスが見つめる先、ベッドの反対側にはウェヌス愛用のモーニングスターが圧倒的存在感を持って置かれている。毎晩のようにメンテナンスしているので何時でも実戦が可能なのだが、あんみつはそれを断固として禁止している。
(君が体を鍛えるためといって階段を使ってくれる、モーニングスター持ってエスカレーターを駆け上がったりエレベーターでジャンプしたりする子じゃなくて本当に良かったよ)
 ウェヌスにもモーニングスターを剥きだして持ち歩くと余計な目を付けられるというくらいの用心はあったので最近流行りのショッピングカートに偽装していたが、それでも馬鹿でかくて目立ち、実際電車の中では可愛い女の子が家電製品か何かをカートに乗せて運んでいると注目を浴びていた。それに重量がものすごい。ふとした拍子に重さに起因するトラブルを発生させてしまいかねない、というのがあんみつの言い分である。
 ウェヌスも理性では理解出来るし納得もしているが、しかし自分の半身ともいえるモーニングスターの仕様を、それも自分の意志によらず他者に強制されるというのは素直に承服し難い所があり、文句の一つも言いたくなるというものだ。
「わたくしにとっては半身のようなものなのよ。りのんの魔法でなんとかならないのかしら」
(難しいだろうね。自分の衣装を作り出すだけでもかなりの高等魔法なんだよ)
「ふうん、流石りのん」
 りのんが褒められるのは自分の事のようにうれしいウェヌスである。
「そういえば、前から訊こうと思っていたのだけれど」
(僕のスリーサイスは秘密だよ)
「銃はどこで買えるのかしら?」
(銃?)
「ええ。ええと……」
 ウェヌスがテーブルの上から雑誌を取り上げて開いたページには、いかにも無骨そうな拳銃の写真が載っている。
 ベッドの反対側にはモーニングスターをはじめとして武器の数々。テーブルの上には格闘技やら兵器の本。これだけ見れば女の子の部屋にはなかなか見えない。
「これよこれ。銃なんて火薬で弾を飛ばす非力な輩のための武器だと思っていたけれど、腕力がなければ重量や反動に耐えられないというのはなかなか見所があるわね」
(ふーんああそう。対戦車ライフルでも振り回してなよ)
「アンチマテリアルライフル! いいですわね。どこで買えるのかしら」
(極星帝国ではコンビニやスーパーで対戦車ライフルが売っているのかい?)
「コンビニエンスストアやスーパーマーケット自体がありませんわよ。アンチマテリアルライフルなんて……ああ、リリアさんが持ってましたか。ある事はありますわね」
 真顔のウェヌスにあんみつはかぶりを振った。
(日本では銃を買うのは無理だよ。それに持ち歩くのは止めた方がいい。見つかると厄介だよ)
「面倒な国ですわね……それだけ平和という事でしょうけれど。とまれ、わたくしは食事を摂ってきます」
 全裸のままでも構わなかったが、フィルフィアはともかく沙夜香ごときに裸身を晒すのは業腹だった。用意しておいた服を取り上げる。
(僕も行くよ。朝はパンだろう?)
 腹が減ってはなんとやらだ。あんみつは窓枠から飛び降りた。
 着地した先は、ちょうど今から着用しようと手を伸ばしたウェヌスのブラジャーの上だった。

第七話『爽緑の羽ばたく朝』

「おはようございます、お姉さま!」
「あら……」
 元気よく挨拶する工廠(アーセナル)の見習いを、この地を治める領主は胡乱気な眼差しで見やった。
「本当に来たのね」
「はいっ! 本当に来ました!」
「なんという事。冗談だったのに」
「ええーっ!? お姉さまに武芸を教えてもらえるなんて、あたし昨日から眠れなかったんですよぉー。そんな事言わないで教えてくださいよー」
 領主のそっけない言葉を承けて懇願する見習いの声が、早朝の靄混じりの空気を震わせた。
 しかし、領主の言葉は嘘だった。
 『興味があるならおまえにも教えてあげるわ。わたくしの武器を作るのならわたくしの仕方を知っておいた方がいいでしょう。やる気があるならあしたの朝早くに来なさい』
 冗談などではなく、領主自身彼女と一緒に早朝の鍛錬をこなすのを楽しみにしていた。眠れなかったのは、工廠の仕事をこなして疲労困憊だった見習いよりもむしろ領主の方だったかも知れない。
「まあ来てしまったものは仕方ない。構えてみなさい」
「はいっ!」
「全然違う……こうよ」
「こう、ですか」
 領主が持つところからゆっくり構えて見せるが、見習いは首を傾げて相変わらずとんちんかんな持ち方をする。
「そうではなく……」
 業を煮やした領主は自分の剣を放り出し、見習いの背中から抱きつくように手を回して持ち方を教えてみせる。
「こうよ」
「こ、こうですか」
「ええ。そのまま振ってみなさい。……ええ、そうよ」
 指導するうち熱が入ってきたのか領主の体が密着してくる。背中に感じる感触に、見習いは思わずに居れない。
(お姉さま、本当に胸ちっちゃいなー)
 そんな失礼な事を思われているとはつゆ知らず、領主の方は早速この弟子を可愛いと思い始めていた。
 否、もともと可愛い妹分だったのかも知れないが、ともかく未だ自分も未熟ではあるが、しかし持てる技術はせめて全部教え込んでやろう、とそんな事を考えはじめていたのである。

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