古代史

紀元前2000年頃、北洋地域に初めて人類が進出した。これは狩猟対象であるトナカイやセツゲンミマタイヌ(ノルザンケルベロス)などが北へ移動し始めた事が要因とされている。紀元前1000年頃には古代西洋文化を汲むゲルム人がこの地域に進出し農業、青銅器、鉄器をもたらした。ゲル厶人も同様にトナカイなどを追ってやってきたと言われている。この頃に北洋地域でアニミズム的信仰であるムーミニズムが誕生した。
紀元前7世紀後期、現在のエールラント市周辺でエイル=マーガレット=ヴァイネルがエイル一世として即位しエイルシュテイン王国を建国。この頃既に周辺には数百を超える小国家が誕生していた。紀元前5世紀中期には現在のノルデールエイルシュテイン地域を統一。北ヨールン地域にはシベル系民族の国家であるモスコフ大公国、ノルズ人による ノルズ王国、エール人によるエイルシュテイン王国、デーム人によるデンメルク王国ユーラン朝が存在していた。紀元前5世紀頃、エイルシュテイン王国は北上しノルズ王国を侵略。南ヨールン地域(ラティア―ン海沿岸)にあるロマーニャ大帝国との接触を開始した。1世紀ごろ、西方からガーカン古王国やロマーニャ大公国を通じて魔法が伝来した。

中世

370年頃、ノルデール半島を統一したエイルシュテインは東のモスコフ大公国を雪原戦争で侵略した。獲得した土地をフィヨルディア大公に与えた。369年、エイルシュテイン王国第二王子 アールベルク一世がロマーニャ大帝国に潜入し、ロマーニャ皇帝 ポンパレモロヌスの信頼を獲得、381年、ポンパレモロヌスが死去すると帝位についた。同年、本国エイルシュテイン王国で兄のロンブリッジ一世が死去したため、エイルシュテイン王国の王位を継承したことで、エイルシュテイン=ロマーニャの同君連合が成立した。しかし、ロマーニャ帝国内でゲルム人の地位が向上したことで、ゲルム人奴隷に支えられてきたロマーニャ大帝国は崩壊。各地にゲルム人による王国が建国されていった。401年、アールベルク一世が死去すると、エイルシュテイン王国では王位継承戦争が勃発した。アールベルク一世の子孫は最終的にはロンドブリッジ王国、ハッベルゲン王国、エイリッヒアングリア王国、フライエン王国、オータムへスター王国の五つの王国(+ノルズ人のノルズラント大公国)を建国し、エイルシュテイン王国建国の地エールラントの地を巡って争いを繰り広げた。
初期はオータムへスタ―王国が優勢であったが、493年にデンメルク王国とエイリッヒアングリア王国がズィートゲン同盟を締結し侵略してきたことで衰退した。750年頃にはロンドブリッジ王国がノルデール=ブリストル海を超えてブリストル島を侵略。ロンドブリッジ王国はキルト王国を占領しキルトドラゴンやウェルシュドラゴンなどを利用し国力を増強させた。834年、第一シベルズィムリヤ・テルン国が東方征服でノルデール地域を侵略しエイリッヒアングリアを滅亡させ、フライエン王国、オータムへスタ―王国に壊滅的な被害を与えた(シベルズィムリヤ・テルン国は国内情勢の悪化に伴い撤退)が、ロンドブリッジ王国とハッペルゲン王国はほとんど被害を受けなかった。これにより、エイルシュテイン王国はロンドブリッジ王国とハッペルゲン王国の二つの王国がエールラントを二分してにらみ合う状態となった。864年、ハッペルゲン王国はフィヨルディア大公国と、ロンドブリッジ王国はデンメルク王国と同盟を組んだ。870年ホルム川の戦いによって王国統一戦争の火ぶたが切られた。871年2月ウェードフォールの戦いでハッペルゲン軍がロンドブリッジ軍を破ると首都ローゲンホルンに迫った。しかし、デンメルク・ロンドブリッジ連合軍がガーデン島の戦い勝利するとが逆転し、873年3月ロンドブリッジ王国がエールラントを完全に占領した。5月にはハッペルゲン王国の首都ベルライヒ(現在のニーダーエスターライヒ)を占領したことでハッペルゲン王国は降伏。ノルズラント大公国を再び併合し、6月4日、ロンドブリッジ王国国王アールベルク三世(エイル・フォン・ロンドブリッジ・ドレイン・アールベルク)がエールラントで正式なエイルシュテイン王位を継承し、マーガレット・ノルツァーによる戴冠を受けたことで、エイルシュテイン王国は約470年ぶりに統一された。   
903年、ブリストル島やユーラン半島を通じてイーゲルラント王国、デンメルク王国からエイルシュテイン王国に中世ヨールン文化が流れ込んだ。1015年、第57代国王ルーデル2世がプロジデンス教会に改宗。古くからムーミニズムを信仰してきた聖職者はこれに反発し、翌904年にはエールラントで原理宗教運動が発生。その年の年末、ルーデル2世は暗殺された。エイルシュテイン王国の王室はムーミニズムを信仰するノルデール王室とプロジデンス教会を信仰するブリストル王室に分裂。ブリストル王室はブリストル島のフェルトラントに逃れた。こうして、エイルシュテイン王国はノイエイルシュテイン王国とエイルシュテイン王国に二分された。この状態は約120年続いた。1039年、ノルデール王室のツァーケヒム1世とブリストル王室のマーマレード女王によって神の夜の契り(Gadden Lehid Gjlc)が結ばれ、ムーミニズムとプロジデンス教会を合併させ国王を最高権威に位置ずける宗教「北方教会(ノルデール教会)」が誕生した。この1年と半世紀にわたるエイルシュテイン王国の変化を合わせてヴァイヒト文化の夜明けと呼ぶ。

1167年エイルシュテイン王国は、普段は一般的な職に就き、稀に海上で略奪行為を行う集団「ヴァイイヒト」を海軍に組み込み、エイルシュテイン東方遠征軍として大西洋に派遣。イーシュライント、グミーンラントを発見し植民を開始した。1183年、エイルシュテイン王国は西方への侵略 雪夜侵略 を開始した。まず、フィヨルディア大公国を再びエイルシュテイン王国に組み込んだ後にシベルズィムリヤ・テルン国に侵入。首都 エリツァブルグを包囲した。しかし、1184年1月 シベルズィムリヤ・テルン国は反転攻勢でフィヨルディア大公国を占領。エイルシュテイン王国とシベルズィムリヤ・テルン国は講和した。この講和によって、フィヨルディア大公国がシベルズィムリヤ・テルン国に組み込まれ、エイルシュテイン王国はハッペルゲン王国西部を失った。1333年、ノルズラントのゼフィカ村で古代魔法が暴発。1000人を超える死者が出る爆発事故が発生した。ヨールン魔導師聖会はこれを受けてヨールン地域全域で古代魔法から生活魔法まで全ての魔法を封印した。しかしエイル・マーガレット・ノルツァー率いる少数の魔導師によってエイリッヒ魔法同盟(後の古魔術師同盟)が設立されフェードルレイヒに、ヴェルラント地下図書館以外から出入りできない「フェードルレイヒ・ヴ・ベール」という聖域が成立した。1341年、西方ナントカスタン方面からエズレハーン朝が侵略してきた。エズレハーン朝はシベルズィムリヤ・テルン国を滅ぼし、1341年5月 エイルシュテイン王国にも侵略を開始した。魔法を封印したエイルシュテイン王国は苦戦を強いられ、同年12月までにはフライエン地方までを失った。同じく魔法を封印したヨールン諸国も苦戦を強いられ、エズレハーン朝は中央ヨールンにまで到達した。しかし、1342年1月 北ヨールン地域に冬が到来するとエイルシュテイン王国では形成が逆転。雪に強いエイルシュテイン軍は次々に都市を奪還。旧フィヨルディア大公国東部までを奪還、奪取した。3月にはフィレッツィア公国(現在のフラン帝国 シューツィエルン王国 南部)で鉄砲が開発され形成が逆転。エズレハーン朝は西方での連戦連敗や国内情勢の悪化に伴い急速に衰退していった。

近世

1370年、エズレハーン朝が伝えた香辛料に興味を持ったエイルシュテイン王国の人々はオルネシアを目指して東方に目を向けた。これは、地球が球状であるという考え方が浸透し始めたからである。1378年、国王エイレーン1世の承認を得たケムシュライスカ・ケーネは13隻の帆船を率いてフェルトラントを出航した。同年末、エイレーン1世はヒベルラント共和国の王政復古運動を支援。見返りとしてヒベルラント王国をエイルシュテイン王国の一部とすることを要求した。1379年2月、ケーネ率いる船団はイーシュライントを経由、更に1ヶ月の航海の末 1379年3月 ケーネはグミーンラント南部に到達した。明らかにオルネシアでないことを察したケーネは、報告のために3隻を帰還させ、アザラシなどの食料を現地で調達しながら南東へ探索を進めた。1379年6月エイルシュテイン王国ではヒベルラント王国が併合の要求を拒否したことでバレー戦争が開戦。早くもヒベルラント王国は7月には降伏した。1379年11月 ケーネはメープリア大陸を発見した。しかし、同時期にイザベル王国やオルラント共和国もメープリア大陸を発見していた。エイルシュテイン王国はメープリア大陸に更に追加で探索隊を派遣。大陸北部の半島にノイ・ロンドブリッジを建設し、そこから植民地化を本格化させた。1383年、エイルシュテイン王国本国では国王 エイレーン3世がプロジデンス教会に改宗したことで、ムーミニズムを否定し北方教会独自の儀式を廃止した。これに反発した聖職者と賢人会議の議員たちは古儀式派となって王室と対立していった。デンメルク王国はプロジデンス教会の王国だったことからプロジデンス教会の王室を支援。大聖堂戦争が開戦した。しかし、1384年にはデンメルク=エイルシュテイン国境を壁で完全に封鎖。国王を殺害したことで戦争は短期間で終結したが、短期間でも王国各地に甚大な被害をもたらした。国王が殺害されたことで当時の王朝 エイレーン朝が断絶。血縁が最も近いエイル・フォン・ハロッツ家のフォード2世が国王に即位し、ハロッツ朝が成立した。1385年 メープリア大陸では国内の動乱に乗じてケムシュライスカ・ケーネがケーネ・メープリア公国の建国を、弟のケムシュライスカ・ベリカがベリカ・メープリア公国の建国を宣言した。エイルシュテイン王国は国内復興に尽力したかったためケーネ・メープリア公国とベリカ・ケムシュライスカ公国の大陸における自治を承認した。このケーネ・メープリア公国とベリカ・メープリア公国は、後に永領メープリア公国とベリカ連邦共和国となる。

1395年 エイルシュテイン王国はアインシュツァール王国国王 ゲヒルンとエイルシュテイン王国の王女 ナタリアを結婚させアンシュルツヴァイ同盟を締結。翌年、ゲヒルンが死去したことで同君連合が成立した。
1401年5月 イーゲルラント王国がブリストル島の統一を目的にエイルシュテイン王国に宣戦布告。ヒベルラントに上陸、ノルデール=ブリストル海沿岸部を占領した。同年7月 アインシュツァール王国と同盟を結んでいたモーリャ王国(現ヴェンカルツ)が参戦。イーゲルラント王国側ではエスターオーデル王国が参戦した。1402年1月、エイルシュテイン王国指揮官にラヴエルト・マリアが就任しフェルトラントを奪還すると形成は逆転。ヒベルラントを奪還したところで白紙講和となった。
1560年 植民地を巡り南欧諸国との紛争が発生(メープル紛争)17世紀の初頭にはアルデシア地域の植民地化を開始した。しかし1630年にフラン王国と戦闘状態に入り(紅花戦争)それに乗じてベリカ共和国が独立戦争を起こしフラン王国がそれを支援。1632年に講和が成立しベリカ共和国の独立承認、フラン王国のアルテジアでの影響力強化などが決められた。(ライヌ条約)

1755年、エイルシュテイン王国とイーゲルラント王国との間で永英合同条約が締結されエイルシュテイン連邦王国が成立した。永英合同条約によって永国王女 ミアが英国第二王子 ジョージに嫁いだが、永国王位継承者であったヘルン王子が病死したためジョージとミアの間に生まれたケントが永国王位継承者となった。そのため現在の永国王室はイーゲルラント系である。1773年、フラン王国でフラン革命が発生し王政が廃止され(フラン第一共和政)中華では天が滅亡し香が成立していた。フラン革命の余波でエイルシュテイン王国ではヴァレンタイン蜂起をはじめとした立憲革命が発生。1776年、政体を立憲君主制(五月民本体制)に移行し廃位を免れた。
この頃には賢人会議に加えてエールラント国民議会が設置され議会制が確立された。

近現代

1802年2月、隣国フィルドーヤ大公国との間にゼムルプス同盟を締結。同年5月にはオルラント王国アレンデール朝との間に永蘭永久同盟を締結するなど積極的に近隣国との関係強化を図った。1805年、ファウンデン調査団によるヴェルラント地下図書館の探索が開始。探索から半年の1806年2月、最深部第7層で古代魔導師エイル・マーガレット・ノルツァーが発見され魔術の研究が試みられるようになった。(魔術革命)またフェードルレイヒ・ヴ・ベールは聖域として保護された。(フェードルレイヒ聖域保護法)1809年、1799年から続くヴォラギノーン戦争でフラン共和政がイザべル王国、シーチュエルン王国、ノルゼゲルム王国南部を併合し大陸統一宣言を発令。これに危機を感じたエイルシュテイン連邦王国とオルラント王国アレンデール朝、ウォルシュタイン王国、モーリア王国、シベルズィムリヤ連邦帝国エンゲレノフ朝は対フラン同盟を締結。フラン共和国ではヴォラギノーン戦争を指揮している軍人ヴォラギノーンが国民投票で皇帝となりフラン帝国が成立。1812年、フラン帝国はルフト川に軍を配備しデンメルク王国とエーデン同盟を締結、緊張度は増していった。1813年2月14日帝政フランとノルゼゲルム王国がルフト川流域で衝突。最終ヴォラギノーン戦争が開戦した。1813年3月帝政フランがオルラント王国を占領しノルゼゲルム王国軍を包囲。翌月にはデンメルク軍が南下し、1813年6月、ノルゼゲルム王国が降伏。しかし1813年7月帝政フラン イザベル地域で反フランクーデターが発生しイザベル王国が復興。1813年9月帝政フランはブリストル島に上陸を試みる(ドルバー上陸作戦)も失敗。1814年2月帝政フランは最後の望みを掛けシベルズィムリヤ連邦帝国に侵攻。しかしシベルズィムリヤの冬は寒く川を渡るだけで大量の凍死者が発生、視界も悪く兵站も尽き始め、1814年2月下旬がら空きになったフラン帝国にエイルシュテイン連邦王国、イザヴェル王国、ウォルシュタイン王国、復興オルラント、亡命ノルゼゲルムがレミュイアへ進軍を開始。1814年3月にはデンメルク王国がユトランド同盟を破棄し対フラン同盟諸国と共にレミュイアを占領した。1814年5月帝政フランは降伏した。翌月の1814年6月、帝政フラン首都レミュイアで講和会議が開かれた。この講和会議でノルゼゲルム王国、オルラント王国、イザベル王国の解放、帝政の廃止、北米植民地のエイルシュテイン連邦王国への割譲、超大規模軍縮、1904R.(2億円)の賠償金が命じられ、フラン共和国の領土はシーチュエルン半島、ガリア地域のみとなった。またこの時にレミィ体制が築かれ諸国で王政が復古した。(1820年のフラン共和国の住民投票によってヴォラギノーンは再びフラン帝国の皇帝となっている。)

1820年、エイルシュテイン連邦王国はヒベルラント、イーシュライントに圧力をかけ併合。同月、第一回フェルトラント万国博覧会で第一次北欧統一宣言を発令しイーシュライント王国、ヒベルラント王国、ハッペルゲン王国、ノルズラント王国、イーゲルラント王国、エイルシュテイン王国をひとつの連邦王国とすることを宣言した。またイーシュラント、ヒベルラント、ノルズラントに新しく王位と王国議会と連邦議会議席を与えた。

1823年、エイルシュテイン連邦王国は八洲の沼原幕府に使節を派遣(ハルトマン使節団)。開国を要求するも幕府はこれを拒否。ハルトマン使節団は沼原湾に2発の砲撃をし帰国した。

1829年、エイルシュテイン連邦王国はフラン帝国に訪問。振領ラディーニの植民地で反乱が発生した場合エイルシュテイン連邦王国は派兵を行い反乱を鎮圧する一方的な協定、「ライヌ協定」を締結。翌月、振領ラディーニ グルスターの原住民であるペルベル人にフラン帝国への反乱を支援する「シャウヘン秘密協定」を締結。一方、現地のスターナー復権同盟にはペルベル人の反乱の鎮圧に協力すればラディーニ=スターナー人の独立国家「ラディンスターナー独立国」を建国することを約束した「ラディンスターナー建国条約」を締結した。2年後の1831年、エイルシュテイン連邦王国の援助の元でペルベル人によるクーデター「北羅反乱」が発生、エイルシュテイン連邦王国はライヌ協定に沿って反乱を鎮圧、ラディンスターナー建国条約に則りスターナー人が参戦しクーデターは鎮圧された。しかしエイルシュテイン連邦王国はラディンスターナー建国条約を破棄し振領ラディーニ グルスターを一方的に併合した。これに反発したフラン帝国は裏切られたスターナー復権同盟と共にエイルシュテイン連邦王国に宣戦布告。1833年5月5日フラン帝国とエイルシュテイン連邦王国の植民地での衝突「ペルベル=スターナー戦争」が開戦した。1833年8月エイルシュテイン連邦王国はフラン帝国に「チャンネル上陸作戦」を実行し成功。1833年末にはグルスター南部と東部を完全掌握し、1833年12月に講和。1834年月モーリア王国首都レードセンシュクで講和会議が開かれ講和条約「レードセンシュク条約」が締結された。これによりラディーニ及びグルスターはエイルシュテイン連邦王国に併合された。

1839年、エイルシュテイン連邦王国は再びハルトマン使節団を八洲に派遣。開国を再度要求したが幕府はこれを拒否。出島の商館に居たオルラントの外交官を人質に取り殺害した。エイルシュテイン連邦政府と王室はこれに激怒し首相を辞任させオルラント王国首都ヴィルハーダムを訪れ謝罪。ハルトマン使節団は帰国後、最高裁判にかけられ大西洋送りとなった。1841年には「永蘭友好宣言」1842年春には「永蘭永久同盟」を締結した。

1845年、エイルシュテイン連邦王国は紅茶と銀の貿易で香との貿易赤字に悩んでいた。そこで両国は振領ドラヴィディア、永領ペルージアンを通してアヘンを密輸した。これに反発した香は1846年初頭エイルシュテイン連邦王国とに宣戦布告。「紅茶戦争」が開戦した。香軍は帆船、旧式鉄砲を使っているのに対しエイルシュテイン連邦王国は蒸気船、ピストル、近代式軍隊を揃えていた。この技術の差により香は次々に敗走。1847年3月には北城が占領され翌週には南城を包囲。1847年5月8日、香は降伏した。講和条約の「緋天条約」では東港(永香)をエイルシュテイン連邦王国に西港をフラン帝国に、沿岸津州はシベルズィムリヤ連邦帝国に割譲された。

1848年2月、沼原に遂にフラン帝国、ベリカ共和国、エイルシュテイン連邦王国、オルラント王国、イザヴェル王国、ノルゼゲルム帝国、ウォルシュタイン王国が来航。八洲の幕府は紅茶戦争でヨールン諸国の強大さを知り開国。1848年4月には不平等条約「八八合同通商条約」しかし攘夷派の志士達はこれに反発し、攘夷志士達は時の大老 池田正幸を沼原城桜下門で暗殺した。攘夷志士達は開国へと進む幕府に反感を抱き始め、天皇を元首とする尊皇派と合流。全国の攘夷派が三川平に集まり「武田会議」を開催。八洲尊王攘夷同盟が成立した。

1848年6月、八洲尊皇攘夷派がフラン帝国、エイルシュテイン連邦王国に宣戦布告。永久同盟によってオルラント王国、極東に手を伸ばしたいノルゼゲルム帝国も参戦した。しかし、一つの極東の小さな国の同盟が近代列強諸国に勝てる訳もなく潮門を四国連合軍が占領した。これにより攘夷の思想は打ち砕かれ尊皇思想だけが残った。
1849年、甘藷藩、潮州藩はヨールン諸国に宣戦布告し、敗戦しヨールンの恐ろしさを知り攘夷思想を失って行った。
1850年、尊皇派は京に集まり新政府「椛山新政府」を設立、甘藷、潮州藩が中心となり京で蜂起、クーデターを起こした。(霞山御所の変)「東西戦争」の開戦である。エイルシュテイン連邦王国はとオルラント王国は新政府を、フラン帝国は幕府を支援した。1851年3月儀府 古戦平で幕府は敗走。開戦当初から敗走を続ける幕府を見兼ねた各地の大名たちは幕府を見捨て多くの藩が新政府側に加勢。1851年10月新政府軍は遂に沼原に到達。裏で勝 洋船が無血開城を求めるも虚しく、沼原城城下町は火に包まれた。1852年4月、エイルシュテイン連邦王国は八洲の新政府軍に援軍を送り幕府は益々不利になって行った。翌月には幕府はカムイサットまで後退し1852年8月沼原幕府は五稜郭で降伏した。また沼原は焼け野原となったため、首都が移ることは無かったが都市基盤が残っていた為、八洲近代化の足掛かりとなった。こうして八洲では大八洲帝国が成立した。(二年後には大香1860年、エイルシュテイン連邦王国は植民地人の権利拡大「ヴィッシュゲン法案」を承認。植民地では近代化が進み植民地原住民の権利拡大。現地語と永語の教育の両立。職業の強制を廃止することなどを決定した。
1869年ウォルシュタイン王国がラプスィア共和国とペンゲー帝国と合併しザウスゲルム帝国(三重帝国)が成立し急速に成長した。1873年、エイルシュテイン連邦王国はギザ・イスラーム国 ナーラ川東部を傀儡化。1857年にイスラミスタン帝國、フラン帝国、ギザ・イスラーム国によって築かれたビトゥイーン運河の運営権を得た。1883年、エイルシュテイン連邦王国とフラン帝国の間で「永振友好条約」が締結され1902年にはシベルズィムリヤ連邦帝国に対抗するため「永八同盟」が締結された。シベルズィムリヤ連邦帝国はこれに反発するも聞き入れられず、緩衝国(?)として沿海州にオホーツク極東軍政を設置した。
1904年5月大八洲帝国がシベルズィムリヤ連邦帝国に宣戦布告。「八流戦争」が開戦した。エイルシュテイン連邦王国は同盟を結んでいるため、派兵はしないものの永領南洋諸島から資源を多く輸出したりビトゥイーン運河を封鎖しシベルズィムリヤ船を通さず喜望峰を通させる、シベルズィムリヤ連邦帝国への輸出停止など大八洲帝国を支援した。大八洲帝国は八洲海戦で兵站の尽きかけたルージュ無敵艦隊を撃沈しオホーツク極東軍政の珍宝を下しグリル列島にまで上陸1905年2月シベルズィムリヤ連邦帝国は降伏。講和条約「オホーツク条約」でグリル列島、オホーツク極東軍政アイネリアを獲得しシベルズィムリヤ連邦帝国から賠償金を得ることに成功し大八洲帝国は好景気に浮いていた

1907年、産業化学技術の発達によりかつては人間の血液を利用していた魔法を精度、威力は落ちるものの化学合成燃料によって再現可能となり本格的に研究が始まった。(ただし古代魔法などの高火力魔法は実際の血液などか必要)
1912年5月、西ローレライを訪れていたエイルシュテイン連邦王国王兄 エイル=ヤーシュが東ローレライ解放軍によって射殺される「ローレライ事件」が発生。翌日には西ローレライでデンメルク市民が大規模なデモ活動を行いクーデターに発展(ローレライ西門事件)1912年9月、エイルシュテイン連邦王国はデンメルク王国に宣戦布告。「デンメルク侵攻」が始まった。エイルシュテイン連邦王国はフラン帝国北部からノルゼゲルムを経由しローレライ(現実のコペンハーゲン)を経由し北部と南部から挟撃する「バイマンプラン」を実行し1912年10月初頭にローレライは陥落しデンメルクは降伏した。翌月1912年11月講和条約「ローレライ条約」が締結されエイルシュテイン連邦王国への加盟(併合)が決定されたがデンメルク市民の大規模クーデターを恐れ王室の存続は保証された。

1912年、エイルシュテイン連邦王国で大賢者 エイリッシュ・マーガレット・ノルツァーの協力により初の魔法強化兵器「グレートエンヴァージュ・イムレイト級重魔法戦艦」が建造され、1913年にはエイルシュテイン連邦王国では魔道士官学校が設立され1914年3月エイルシュテイン連邦王国で魔道士特別軍が編成され本格的に魔法技術が軍事利用され始めた。

世界大戦について

1920年、第一次世界大戦における高濃度汚染魔法による汚染被害を鑑み高濃度汚染魔法の利用が一部規制される「部分的魔術封印条約」が締結された。1921年3月には初の国際的平和組織「世界平和連盟(UPG)」が設立され、「国際平和憲章」と「国際魔術憲章」が制定されネーデルベルク軍縮会議が開かれ「ネーデルベルク軍縮条約が締結された。しかし軍拡を継続したいシベルズィムリヤ連邦帝国、ベリカ共和国はUPGに不参加となった。
1923年、大永帝国はマスパ系魔法の開発を促進させるため「魔術開発委員会」を設置し魔法のさらなる軍事利用を試みた。

(現在は1924年である)

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