Engage

作者:K・H

湿気を程度良く含んだ心地良い風が、草原を梳いて行った。
空に遊ぶ風以外、他に動くものも無い草地の只中で、彼は、徐に立ち止まった。
大きな木が一本、崖の近くに生えている。その幹に寄り掛かり、梢の作る日陰の中で、彼は腰を下ろした。
さわさわと、梢が囁いている。
大樹の枝葉の先に、空はただ青かった。
一つ息をつくと、彼は、背に負っていた袋を脇に下ろす。硬軟織り交ぜた、種々雑多な音が、その内から響いた。
風が、兜から垂れた、彼の前髪を揺らした。
彼は、懐かしそうに辺りを見回した。
森と丘に囲まれたこの狩場を訪れるのは、久しぶりの事だった。
明るい緑に覆われた、見慣れた景色の中、風は優しく迎えるように、彼の頬を撫ぜる。
四肢から力を抜き、彼もまた愛でるように、風を、空気を吸い込んだ。
若草の匂いがした。
そのまま、手近に咲く一輪の花を撫でようとした時、しかし、彼は途中で、黒光りする手甲に覆われた、己の腕に目を留めた。
安らいだその瞳が、刹那にして、硬さを取り戻していた。
硬さ、それは意志の浮上であった。
己の立場を、彼は思い返していた。
我は狩人なり、と。

何故、この道を選んだかは、もう定かではない。
つい昨日の事のような気もするし、今も尚遠ざかる、遥かな過去の事のようにも思える。
一つ判る事は、彼は、何かを追ってここへ来た。
それは、彼にとっては、繰り返された、そしてこれからも繰り返されるであろう、当たり前の日常なのだ。
功名心、物欲、怨恨。狩人達は、それぞれに持つ様々な光の明滅を追い、またそれに追われて、その世界へと足を踏み入れる。
だが、彼らを彩る数多の光も、一歩狩場へと踏み込んだその時には、辺りの景色の中へと雲散霧消して行く。
今、目の前に広がっている全ての中へ。
大きく、深く、優しく、無情で、移ろい、そして変わらず、あるがままの大自然の中では、人もまた一個の記号であり、予め置かれた景色の一つに過ぎない。
知恵や知識、人としての誇りなどというものが、所詮は、人という動物の持つ小さな牙でしかない事を、彼は既に知っていた。その牙で何処まで抗えるのか、何処まで食い付いて行けるのか、知った者は、恐らく無いだろう。
彼もまた、それを知る事無く、日々の果てにいつか来る終わりを迎えるであろう事は、漠然とした感覚として予見していた。
いや、最初の狩りの時に、知ったのだ。
遠い目をする彼の面を、また、風が撫でて行った。

生焼けの肉の一欠けを、彼は口にした。
血の臭いが強い。
だが、てんで無関心に、半ば機械的に、彼は肉を咀嚼して行った。
これを倒した時の、断末魔の絶叫が、風の合間に漂っている気がした。
甲高い声。
小さな地響き。
走り去る仲間達の中で、ただ一つ横たわり、小刻みな痙攣を繰り返す。
その脇に、彼は立っていた。
血糊も新しい、一振りの剣を下ろして。
わざわざ、命を奪う必要があったのだろうか。
彼が手にし、必要としたのは、数切れの肉と、使えそうな骨の欠片だけ。後のものは、風の運ぶに任せた。
川を渡り、必死に逃れようとする仲間の草食竜達。
子をかばい、常に気遣いながら、それでも一心不乱に逃げる一匹が、こちらを見ていた。
彼も、黙って見つめ返した。
何も、逃げる必要など無い。誰も、追い掛けはしない。
逃げ惑う彼らを尻目に、彼は、獲物から充分な糧を得て行った。
尤も、実際に命の危機に直面した彼らにとって、そんな心遣いは何の足しにもなりはしないだろう。持ちつ持たれつ、共存共栄の関係と言ってはみても、彼らには、狩人など無慈悲で貪欲なだけの殺戮者に過ぎないのだから。

狩りに私情を持ち込むのは禁物だし、そんな感傷は何も生み出さないという現実も、彼は知っていた。
世界の掟はただ一つ。即ち、狩るか、狩られるか。
より長く、願わくば常に狩る側であるよう、全ての狩人は己を鍛えて行く。
鍛える。だが、それは、世間で言われる修練とは、少し、事の内面を異にする。
殺戮を美徳とし、ひたすらに血を求める亡者と化すのではない。
堅く己を律し、人らしい心の変動を消して行くのでもない。
ただ、慣れて行くだけだ。
狩人としての日々を重ねて行くだけだ。
彼は過去に一度、村の集会所に戻った熟練の狩人達に会った時の事を思い出していた。
彼らは、場違いな程陽気に、その日の糧を衆目に晒して行った。
弁舌の後には周囲からの笑いと冷やかしが寄せられ、獲物に止めを刺した瞬間を頂点として、その日の出来事が芝居がかった調子で語られる。
やがて、それも終わると、彼らは相次いで酒盃を傾けて行った。
羨望の生じる半面、生ける者の命を絶った後に何と不謹慎なと、その時は感じもした。
しかし、今思い起こしてみれば、粗野な笑い声を轟かせ、節度無く杯を干して行く彼らの背に、ある種の虚脱感と、郷愁に近い何かが滲んでいたようにも思える。
いずれ、自分にも判る時が来るのかも知れない。
いや、判る時とは、既にそうなっていた時だろう。
その時、それ以前に憶えていた事柄を、果たして思い返せるのだろうか。

口中に残る血の味を持て余し、戯れに草を噛んでいた彼は、今日の糧となった獲物の姿を思い出して、木の幹に寄り掛かった。
殆ど原型を留めた死体。血潮は草地を濡らしても、命あった時の面影は、むしろ無残な程に残されていた。
こういう時に、仲間を連れて来れば良かったか。
彼はふと考え、直後、小さく頭を振った。彼は一人で狩る事を選んだのだし、それはこれからも変わる事は無いだろう。
手を差し伸べてくれる者は無い。栄誉の独占の見返りに、纏わり付く死の影は、常に一人で振り払わねばならない。
それでも、彼は一人を選んだ。
一人ならば、仲間に足を引かれる事も、まして、自分が仲間の足を引く事も無い。
臆面も体裁も無い。
窮地に陥った際には、迷わず逃げ出せるという安心感もある。無論、少々後ろ向きな発想ではあるが。
しかし、それを笑う者もいないのだ。
彼は目を閉じ、自嘲的に一笑した。
自分の不始末は、自分で哂うだけ。それもまた糧になるかも知れぬと、あれこれぼんやりと考えたのだった。
もしかしたら、確かめたいのかも知れない。
その時、ふっと、彼は薄く瞼を開いた。

最初にそれと会った時の事は、今でもよく憶えている。
ちょうど、この場所での事だった。
飛竜と呼ばれる、それらの一種。
子供の頃から、数限り無く話を聞いて来たが、現実に、こんな間近で見るのは初めてだった。
飛竜の内では小型と言われながらも、人の背丈を優に超える巨躯。
そして、その姿は。
巨大な嘴、長い尾、強靭な足の爪、大きく怒らせた扇状の耳。
造物主がいるとすれば、こんなものを生み出した際には、祝福しただろうか、それとも忌避しただろうか。
そんな事を考えたのは、勿論後になってからだ。
そいつは、それまで会ったどの獣とも違う咆哮を発して、自分に向かって来た。
敵意を、否、殺意を漲らせ、一直線に駆けて来たのだ。
向かって来るのは、純然たる殺意の塊。
事前の入念な準備、武具の有無がもたらす優位、そんなものは、一遍に吹き飛んだ。
自然の申し子、ある意味、大自然そのものとすら言える強靭な命を前に、人の肉体など、藁人形となんの隔たりがあろうか。荒れ狂う嵐の下、押し寄せる濁流の只中に裸で放り込まれるような戦慄は、今でも強く残り、体の何処かで燻っている。
その直後の事は、対照的にあまり憶えていない。
その日が、暑かったのか涼しかったのかさえ。
風の音も消えていた。
足元も含め、景色もろくろく目に入らなかった。
憶えているのは、背と服との間で粘り付く、冷たい汗の感触と、同じく、歯と舌との間で粘り付く、異様な唾の感触だけだ。鼓膜を打ち破らんばかりに鼓動は高まり、ぼやけそうになる目の焦点を、必死に一点に絞った。
考えなど巡らなかった。ただ、それまでに聞いた話を頑固なまでに脳裏に留め、それに忠実に従うよう心掛けていた。
動きを封じて…近付く時は左から…目印を忘れるな…
空から下がる操り糸に手繰られるように、殆ど無我の状態で剣を振るった。
意識も記憶ももぎ離され、吸い込まれて行きそうな底無しの緊張の渦の中で、それでも不思議と、相手の動きには目が付いて行った。
やがて、耳をすぼめたそれが遥か空の高みへと飛び去った時、この胸に立ち昇って来たものは、紛いも無い高揚感だった。
恐れも緊張も容易く押し退けて、打ち寄せる波のように胸の内に広がって行ったのは、自分自身の確かな高鳴りだった。
追わなければ! あいつを追わなければ!
血塗られ、刃毀れした剣を握る手にはかつて無い力が満ち、打撲と擦り傷に痛む頬には、それを覆い隠す程の熱が集まって来た。
俺は、駆け出していた。

あれから、どれだけの月日が経ったのだろう。過去全体が、水越しに覗く景色のように揺らいでいて、はっきりと掴めない。
彼は、相変わらず木陰に座りながら、ぼんやりと遠くを見ていた。
狩人の時間に対する感覚は、他の人々のそれとは少々異なる。
市井を日々駆け回る大衆と違い、規則正しい生活の循環というものが一切存在しない暮らし方も、その一因となっているのかも知れない。
ただ、他所との一番の隔たりは、やはり、多くの狩人達が抱える共通の概念、ある曖昧模糊とした疑問に根差しているのだろう。
勝ち残り、生き延びて、その先に何があるのか、と。
梢の影絵が、日向の草むらに揺れていた。
静かな空気は今も変わらず、風の音が、ただ草のざわめきを従えるのみ。
この世界に足を踏み入れたばかりの頃は、精神的にも物質的にも、そして金銭的にもまるで余裕が無かった。
故に、そんな疑問とは無縁でもあった。ひたすらに我武者羅だったし、それで良かったのだと思う。
しかし、今は。
かつては憧れもした財も栄誉も称号も、今の彼には大した意味を持たなかった。
闇の奥に息づく異形、湖底に潜む水の主、溶岩すら泳いで渡る灼熱の覇者。
果ては、動く山とも言うべき巨竜や、それを怯えさせた黒竜さえも。
それらの全てを斬り伏せ、その骸を眼下に見下ろして来た今、もたらされた富や名声は、引き換えに、彼の内に確かにあった、狂おしい程の熱情の殆どを奪い取って行った。
残されたものは。
梢の作る陰影の中で、彼は長い息を吐いた。
所詮は、別の世界を生きる者達だった。
人の成し得ない事を容易く成し得、人の行き着けない所を平然と駆け巡る。
二本の足で、いじましく地表を這う自分らと繋がるものなど、あろう筈も無い。
梢の端から、澄み切った空を仰いで、彼は、幼い頃飛ばした凧の事を思い出した。
空高く揚がった凧は、少々糸を引いた位では、戻ってはくれない。
悪戦苦闘を続ける内、次第に、糸を引く行為そのものが無益で、無駄な努力のように思えて来る。
実際、途中で糸が切れて、凧だけが飛び去ってしまった事もあった。
ぐったりと垂れた、千切れた糸を手に、呆然と空を見上げた時の空虚な気持ちを、彼は何故か思い出していた。
願っても叶わぬ事もある。途切れた糸を繋ぐ事は、誰にも出来はしない。
しかも、宙を漂うだけの凧とは異なり、それらは最初から自分の意思で、茫漠たる空の原野を羽ばたいているのだから。
追う悦びを知ったあの時、彼とそれらとの間に、一筋の細い線が、どうにか結び付いたのかも知れなかった。
しかし、それが一方的な思い込みでない保証など、何処にも無い。
言わば、片思いに近いもの。出来る事も、許された事も、待つ事だけなのだ。
風は、静かに流れて行った。

来た。
彼は、顔を上げた。
寄り掛かる大樹の、その影の向こうで、大きな黒い影が、若草の上を走って行ったのだ。
同時に、一陣の、鋭い、切れ込むような疾風が、彼の頬を打った。
弾かれたように、彼は立ち上がった。
日陰の外に走り、すかさず天を仰ぐ。
一個の巨影が、彼のすぐ上にあった。彼の半身は、影に隠れた。
両の翼で空を打ち据えながら、それは地表へと降りて来る。
鋭い咆哮が上がった。
距離を置いていても、その声は幾千もの針のように、聞く者の肌を刺す。
それが地表へ近付くにつれ突風が巻き起こり、彼は咄嗟に手を翳した。
太陽の下に、もう一つの太陽が舞い降りた。
全き銀。燃え盛る太陽に等しい銀の輝きを、その鱗の一枚一枚に宿して。
銀の飛竜が、彼の眼前を降りて来る。後ろの丘を、遠くの山脈を、彼方の太陽を、無限の蒼穹を背にして、それは優々と、そして堂々と大地へ降り立った。
威容であった。大きさ、重さ、豪気、覇気、それらが渾然一体となって表に現れる、正に圧倒的な存在感が、彼の目に映った。
帝王か、暴君か、この相手に相応しい称号は何だろうと、彼は考えた。
彼にも、一応の称号がある。
英雄。いつしか、彼はそう呼ばれていた。
しかし、はにかみつつも、違うな、と、彼は思う。
英雄とは、何かを創り、築き上げる者達の事だ。人々を導く者にこそ相応しい。
自分は違う。何かを生み出す事は無い。結果的に他者の益となる事はしても、始めから誰かの為に何かを成した憶えは無い。
己の意志があるだけ。いや、厳密に言えば、意志とは違うだろう。無意識の選択と言うのでもない。
体が選んだのだ。
この小さな肉の内にあるものが、今、この場に立つ事を選んだのだ。
翼をたたんだ銀の飛竜は、怯えるでも構えるでもなく佇む一個の人影を、幾度か首の角度を変えて、見つめていた。
風が、からかうように彼の頬をくすぐった。
案外、俺はこの風と等しいのかも知れぬ、と、彼は思った。
元来た場所も、行き着く先も定かでない。軽く、透き通っていて、実体すら掴めない。
ただ、他のものと出会い、交差した瞬間にのみ、初めてその存在が示される。
それもいいだろう。
ならばせめて、より雄大で、より峻厳な何かとぶつかって、己の意気を晒したい。
いつか吹き抜けて行くその日まで。
そう思い、向かい立つ飛竜の、険しくも深く澄んだ瞳と目を合わせた時、彼とそれとの間で、一本の糸が結ばれた。
透明に近い白か、それとも濁り切った赤か。確かな事は、この一瞬に、離れていた二つは結ばれたという事だけだった。
銀の飛竜が、激しく吼えた。
風を震わせ、押し返す程の咆哮を受けて、しかし、彼は立ち続けた。
穏やかに。
前振りも見せず、彼は、腰の後ろから剣を引き抜いていた。
半秒と掛けぬ一動作。迷いの無い動きは、一瞬にして場の空気をも塗り替える。
銀の飛竜は、自然石の柱のような太い首を地面すれすれに這わせ、低く濁った声で鼻を鳴らした。
先刻より強くなった風が、草の茎を寝かし付ける。
ざざざざ、と、潮が引くような音が、彼の耳元に届いた。
或いは、彼の耳の内で鳴った音だったかも知れない。
銀の飛竜が、地を蹴った。
付近の空気が揺れ、彼を目指して殺到する。
迎え撃つ彼は、盾を前に腰を低く構えた。
迫り来る大いなる息吹を間近に、澄んだ瞳の奥で、彼は確信していた。

我は狩人なり、と。

Engage 了
2006年08月05日(土) 22:51:04 Modified by funnybunny




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