空の蒼と海の青 第十一話

作者:天かすと揚げ玉




第十一話


 倫理だとか良心だとかいうものは、社会の中でしか存在し得ない。
 社会とはすなわち、貨幣やその他の制度によって食料を供給する事に他ならない。
 飢餓が恐ろしいのは、それが当然だと思えるからだ。
 隣にいる人間を殺して食べる事が、当然だと思えるからだ。
 飢餓にない人間はそれを異常だと言う。
 だが、飢餓にある人間にとってはそう思う事こそが異常なのだ。
 それこそが死を招く考えなのだから。
 ……生まれながらにして飢餓におかれた人間には、私たちがどう見えたことでしょうね。
 私たちの囁く倫理だとか良心だとかいうものが、いかに安っぽいものに見えたことでしょう。
 さぁ、ネ。
 だけれど、それを知る者は、永遠にそれを刻み付けられるのだろうね。
 それを苦しみとしてか、喜びとしてか、そのどちらとして刻むのが幸せなのだろう。
 ですが、いずれにせよ……。
 苦しみも喜びも……かの心を知るのは我らでは無い、か。

 ラプターの双眼鏡が、ぼやけていた焦点を定めた。
 眼下で戦う二人は、大分動きが緩慢になっている。
 三十時間が経過しようとしていた。
 二人が老山龍と切り結んでから、それだけの時間が経っている。
 途中、岩陰に潜んで簡単な食事を取る光景もあったが、睡眠をとる事は無く、二人はそれだけの時間を不眠で戦い続けている。
 始めに老山龍と遭遇してからは、渓谷内を既に数十キロは進んでいる。
 じきにこの渓谷も途切れる。
 そうすればレドニアは目と鼻の先であった。
「少しは眠れたかい?」
渓谷の淵に伏せるラプターの元へ、身を屈めながらイリアスが走り寄った。
 老山龍の後を丸一日程追走した後、ラプターとイリアスは交替で短い睡眠を取っていた。
 ラプターと交替で睡眠についたイリアスが、遅れた分を走って追いついてきたのである。
「ええ。鍛え方が違いますから」
悪戯っぽくイリアスが微笑んだ。
 老山龍の歩みは飛竜と異なり、かなり遅い。
 とはいえ、それは空を飛ぶ飛竜と比較した場合の話で、人間の歩みよりは遥かに早い。
 ましてその体力は桁違いである。
 老山龍は、数日間を不眠不休で歩き続ける事も少なくない。
 それを狩ろうとなると、人間にもそれと同等以上の体力が求められる。
 あの小さなモンスターと、華奢な少女の体のどこにそんな体力があるのだろう。
「……エストね」
苦笑してイリアスに応じたのはラプターであった。
 ラプターは、イリアスをハンターとして育てた上げた人物を知っている。
 確かにその人物のしごきであれば、並大抵の事では無いだろう。
 それに耐えたイリアスの体力もまた、尋常では無いはずだった。
「それより、二人はどうです?」
ラプターの見詰める眼下では、小山に纏わり付く様にして二人のハンターが戦っている。
 幾分緩慢になったとはいえ、赤い髪の少女は変わらずに巨大な剣を振るっていた。
 突き、薙ぎ、切り上げる。
 まるでそれが自らの爪であるかのように、自在に剣を振るう。
 時折老山龍の歩みが引き起こす巨大な風圧には、両手を広げて羽ばたく様に風の隙間をすり抜ける。
 それはまるで翼を広げた飛竜のようにも見えた。
 赤い長髪の隙間から覗く顔は、相変わらず楽しげである。
「まるでリオレウスだ……」
首を振ってラプターが声を漏らした。
 同じく隣でその様子を見ていたイリアスが、苦笑いを浮かべてうなずいてみせる。
「……どうも私は、か弱い女性を助けるという場面には遭遇できない身の上のようですね」
自らの周りの女性が、例外なくか弱さを持ち合わせていない事に、イリアスは気づいていた。
「……あいつは止めとけ。ミラボレアスより難攻不落だぞ」
不意に何かに気付いたらしいラプターが、イリアスに応じる。
 どうやら彼の想い人の事を思い出したらしい。
「良いんです……初恋は実らないものですから」
「……君も長持ちだネ」
その場から立ち上がると、二人は再び移動を開始した。
 こうして移動しては双眼鏡を覗き、再び移動するといった事を丸一日以上続けているのだ。
 疲労感を感じながらも、ソウはこの時を充実したものだと感じていた。
 この竜はなんという強さだろう。
 ましてこの竜は、自分を敵としてすら認識していない。
 ただただ前へ向かって歩いているだけなのだ。
 自分は、それを妨げる事すらままならないでいる。
 相手にされず、それでも追いすがる自分。
 しかしそれもまた心地良い。
 もしかしたら、次の瞬間、この巨竜の足が頭上に降り注ぐかもしれない。
 道にいる虫けらを踏み潰した時のように、彼にとっては何の感慨もなく自分は死ぬのだろう。
 だが、それも良い。
 死を間近に感じる瞬間にこそ、自分の生を最も強く感じる事ができる。
 目の前で、生き物の死を感じる時にこそ、生を感じるのだ。
 言葉に出来ずとも、ソウはその事を知っていた。
 かつて、自らの手を人間の血で染めていた頃から、ソウはその事に気付いていた。
 暗く冷たい石造りの牢の中で、彼女は育った。
 自分がどこから連れて来られたのかは分からない。
 いや、知っていたのかもしれない。
 だがそれを忘れなければならないほど、牢の中の暮らしは過酷なものであった。
 常に晒される飢え。日が経つにつれ、同じ牢に入れられた子供たちが減ってゆく。
 ある日、それは自分だけになり、またある日、牢に新たな子供達が入れられる。
 どんなに粗末でも、食事を与えられる間は良い。
 だが、時には数週間を食事なしで過ごす日もあった。
 労の中に、ネズミがいれば良いのだ。
 だが、そうでない時、生きるための食料はそれ以外の生き物しかなかった。
 そうしなければ、翌日に死ぬのは自分なのだから。
 食べなければ死ぬ。
 その時、目の前にある者は、自分にとって食料でしかないのだ。
 牢を出され、正式にアサシンとしての職務についた後も、死を求める事は変わらなかった。
 それは自らのものでも、相手ものでも良い。
 死を前にしてしか、生の充実を感じる事は無かったのだった。
 そんなソウが変わったのは、スイに出会ってからである。
 その風変わりな人物は、自らを遥かに凌駕する実力を持っていた。
 暗闇にあってすら像を捉えるという夜目を持ち、ゆえに暗闇においては無類の強さを発揮するという。
 自己流では会得出来ない美しい剣技は、この人物がアサシンと関わるよりも以前の、さらに幼少の頃より磨き上げられたものであるらしい。その域はすでに芸術にさしかかろうとしていた。
 ある日、ソウは同じアサシン同士でありながら、権力闘争の駒としてこの人物の殺害を命じられた。
 この強大な敵の前であれば、自分は死ぬだろう。
 案の定、スイは自らの刃を跳ね飛ばし、喉元に剣を押し当てたのだ。
 だが。
 スイはソウを殺そうとはしなかった。
 それどころかアサシンの拠点から彼女を連れ出し、アサシンを敵に回すことすらした。
 騎士団がアサシンを壊滅に追い込めたのは、この人物の手引きがあったからだとも言われている。
 保護下に置かれるソウをハンターズギルドに紹介し、殺戮の喜びを狩りの喜びへと導いたのもスイである。
 ソウは思う。
 後十数年が経ち、今のスイと同じ年齢になったとして、果たしてスイと同じ事を同じ様に考える事が出来るだろうか。
 スイと同じ様に行動する事が出来るだろうか。
 否。
 まして自らの前にそびえる、この竜ごときに後れを取ったのでは、それは永遠に適わぬものとなるであろう。
「ルー!?」
戦いの中で、思考がそこを離れてしまった。
 ほとんど自動的に動く体に任せて、戦いの最中に戦い以外の事を考えてしまった。
 それがそもそもの過ちであった。
 体力を失い、足元がおぼつかなくなったルーに、気づく事が出来なかったのだ。
「た、弾は全弾撃ち切ったのニャ……」
ソウの背後で弾を放ち続けたルーが、その場に崩れこむ。
 ボウガンを地面に突き立て、それでも立とうとするが、もうそれもままならない。
 ぼやける視界の中で、ルーが迫り来る老山龍を一瞥すると、狙い続けた老山龍の顔の甲殻に無数の傷がついているのが見える。
 それを確認すると、ルーは力の入らない微笑を浮かべた。
 携帯した全ての弾を撃ち出し、ついにソウの役に立つ事が出来たのである。
 例えそれが僅かであっても、ルーには構わなかった。
 それこそが彼自身の願い続けた事なのだ。
「そこにいちゃだめ! 逃げて!!」
老山龍の歩く先には、ルーの小さな体がある。
 ソウが彼の元へ駆けようとするが、巨大な円柱が彼女の行く手を遮る。
 巻き起こる、身体を支えきれなくなるほどの振動。
 凄まじい勢いで吹き付けられる、地面の小岩。
 円柱が地面を叩く事で、それらは断続的に発生する。
 円柱とは、老山龍の巨大な足に他ならない。
 この足が、行く手を阻むのだ。
「ルー!」
胸が締め付けられる。
 喉が熱い。
 気持ち悪い。
 一体この感触は何なのだろうか。
 ルーの言っていたのは、これなのかだろうか。
 地面に伏せるルーを見ると、この不快な感情がわきあがってくる。
 早く。
 早く逃げて。
 だが、それはルーに届く気配が無かった。
 ルーの小さな体は微動する事無く、その場から動く事は無かった。
 巨大な老山龍の体が、間も無く彼の体を押しつぶす事だろう。

「私……怖い……の……?」

↓続く。
空の蒼と海の青 第十二話
2006年12月19日(火) 13:02:32 Modified by orz26




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