空の蒼と海の青 第十話

作者:天かすと揚げ玉




第十話


 名の無い渓谷には、この日、霧が立ち込めている。
 両脇の深く切り立った谷は、まるで霧を溜め込んだ様に抱きかかえ、それを晴らす気配は無い。
 かつてミナガルデ近隣へ彼が侵攻した時も、この渓谷に良く似た場所を通ったものだ。
 自らの体と似た景色を、自らの体を隠せる地形を、彼は好むのかもしれない。
 何にせよ、人の寿命に比べれば悠久を思わす時を生きる彼の嗜好を知るのは、それこそ一朝一夕にはいかない。
 この時、彼がどの様な考えを持ってレドニアを訪問したのか、それは定かでなかった。

 渓谷をふさぐ巨大な岩盤の前で、二人は足止めを受けていた。
 渓谷の底を歩き続けてきたが、この岩がある限りこれ以上前には進めない。
 少なくとも、そう、少なくとも人間の歩幅でこの岩盤を踏破するのは不可能である。
 だが、彼ならば優にまたぐ事が出来よう。
 小山に例えられる彼なのだから。
「……ソウは怖くないのニャ? いつも狩りには一人ニャ」
緊張というものを気化させたなら、この霧がまさにそうなのかもしれない。
 深い霧の中で、狭い視界しか確保できない。
 獲物の来訪を視界に入れながら、心の準備をする事も出来ない。
 緊張で乾く口内には、絶えず霧の水分が供給され、しかしその生々しい感触が、ここは現実の中にあるのだという事を思い知らせる。
 緊張から逃れようにも、肺にまで潜り込んだ霧は、体を掴んで放してくれない。
「怖い? ……分からない。怖いって感じ分からない。怖いって何?」
ソウは岩盤を見詰めている。
 岩盤の彼方の、近づきつつある獲物を見詰めている。
 緊張しきった面持ちのルーとは異なり、ソウの表情からはあまり感情を読み取る事が出来ない。
 あえて読むとするのなら、それは期待であろうか。
「いやな感じニャ……不安で不安で、胸が締め付けられる事ニャ」
ルーの問いに、ソウが静かにうなずいた。
 そのうなずきは、恐らく正確には彼の問いに応えていない。
 狩りに限らず、そもそもソウには恐怖という感情が備わっていなかった。
 あったとしても、それはソウに恐怖だと知覚させるほど、はっきりと形を結んだものではなかったのだった。
「ソウは本当に強いのニャ……」
そう言ってルーがうつむいた時である。
 地面から振動が足元に伝わって来た。微弱だが、しかし確たるものである。
 大地が揺れた。
 それは無論、地震などでは無い。
 一定の間隔を空けて、規則的に微弱な振動が伝わってくる。
「凄いニャ……! 地面がビリビリ言ってるニャ」
地面に耳を押し付けていたルーが、大声で感想を漏らした。
 前方の岩盤の、あちら側を睨んだままのソウも、うなずきながらそれに応じる。
「……空気が震えてる」
しばらくの後になれば、知覚の鋭い者は彼らに遅れて察知する事が出来たろう。

震える大地、揺れる草木、零れる砂粒

 大地から振動と鳴動が伝わって来る。
 まばらに生えた草木が震えている。
 渓谷の両脇を挟む絶壁から、砂や小石が落下してくる。
 遠方から大きな揺れが来訪していた。
 微弱であった震えは、間も無く弱い振動となり、断続的な衝撃となって足元を揺さぶる。
 揺れの主は間も無く姿を現す事だろう。

老山龍

 彼は既に目と鼻の先にいるはずである。
「ルーは私の後方から狙って。絶対に私の前に出ないで」
声を発して答える代わりに、ルーのボウガンがガチャリと音を立てた。
 自らの作り主を前に、ルーのファストニードルが声をあげる。
「来たニャ!」
シュインッ。
 砲口から煙が上がった。
 吐き出された弾は、山を描きながら岩盤の遥か向こうへ姿を消す。
 まるで、霧の中を一羽の鳥が飛び去った様だ。
 もっとも、鳥も動物もモンスターも、皆老山龍の接近を感じ、ここから既に逃げ去っているのだが。

グゥォォォォオアアアァン

 応えた。
 ルーは次の弾をボウガンへ詰め込みながら、自らの放った弾が獲物へ命中した事を知った。
「やったニャ!」
次弾を放つべく狙いを定めながら、ルーが歓喜の声をあげる。
 だが。
「ただの合図……。これから始めるって言ってる」
ソウが鳴き声から感じ取ったものは、恐らく正しかった。
 岸壁を押しのけて現れた顔。
 足。
 肩。
 そして体。
 巨体。
 全長にして七十メートル。
 全高にして十二メートル。
 それが、老山龍の一般的な成竜の大きさである。
 彼が立ち上がった時、体は世界を埋め尽くし、頂が空を覆うという。
 それは誇張でもなんでも無い。
 彼を前にした時、その事を嫌という程思い知らされる。
 巨体はまさに山と呼ぶに相応しかった。
「いくらなんでも大き過ぎじゃないニャ!?」
瞳を丸くしたまま、ルーが首を可能な限り上方へ向けて折り曲げている。
 岩壁の彼方から姿を現した老山龍は、それであっても体を視界に捕らえるのが難しかった。
 なんという大きさであろう。
 巨竜。
 確かにそう呼ぶ以外、この竜の呼称が見当たらない。
「大きい……」
背中から大剣、封龍剣超滅一門を引き抜くと、ソウが老山龍の瞳を真っ向から受けて立った。
 深い霧の中で、湖畔の様な老山龍の瞳がこちらを見詰めている。
 敵意でも、怒りでも無い。
 静かな感情を満たした瞳が、まるで人間などという卑小な生き物など見えていないかの様に、ソウの立つ、その更に後方を見詰めている。
「ルーは顔を! 私は足を狙う!」
ソウの剣が唸りを上げる。
 飛竜の甲殻と逆鱗、そして老山龍の蒼角で加工された究極の竜殺しの剣。
 彼女が本来所属するグランシェハンターズギルドのマスターより、今回の老山龍狩りのために預かってきた剣である。
 スイやソウであっても、恐らく自作する事は不可能であろう。
 それほどの幸運と、時間、忍耐が作成には必要となる剣だった。
「分かったニャ!」
ルーが三発目の弾をボウガンへ込める。
 ガチャッ。
 LV3 貫通弾。
 ルーがボウガンへ込めたそれは、高速で回転する弾が獲物を引き裂きながら、その体内を突き抜けてゆく弾であった。
「行くニャ!!!」
ルーの声を背に、ソウが引き抜いた大剣を老山龍の足へ叩きつける。

パシュン

 竜殺しの武器が奏でる、特有の音と閃光が老山龍の足から発せられた。
 漆黒の閃光は、刀身が竜の甲殻と反応し、その体組織を破壊させた証である。
「凄い!」
驚きと言うよりは、歓喜の声をソウが上げる。
 無さ過ぎる手応え。
 老山龍の幾層にも重なった甲殻は、超滅一門が体に傷をつけるのを拒否した。
 振り下ろした剣は、老山龍の表面の甲殻の、ほんの一枚を破壊したに過ぎない。
 巨大な竜は、幾つもの甲殻を重ね合わせた、多重構造の鎧をまとっているらしい。
「ニャぁ!!」
老山龍へ貫通弾を放ったルーもまた、その手応えに驚いていた。
 弾が表面を滑っているのだ。
 表面の薄皮を削りながら、貫通弾が竜の体を撫でるように飛んでいく。
 体はおろか、甲殻にすらろくに傷は付いていない。
 二人の闘志は老山龍の体の上を滑っていた。

「……測距開始……。距離三百ってとこかナ」
ルーとソウの遥か後方、渓谷の崖の上で地面に寝そべっている男がいる。
 体を茂みの中に覆い隠しながら、両方の瞳に双眼鏡を当てている。
 その円形の視界の中には、巨竜老山龍がいた。
「照準良し。射程に捕らえました」
その男の隣で、やはり体を横たえて茂みに隠れている男がいる。
 隣の男とは異なり、体の前にボウガンを置き、それに据えられたスコープに片方の瞳だけを当てている。
「抜けるかい? アレを」
双眼鏡で老山龍との距離を測っていたラプターが、隣のイリアスへと尋ねる。
 彼の覗く丸い世界の隅では、先ほどからしきりに二人のハンターが動き回っていた。
 ソウとルーである。
「無理ですね。なるべく重いのを持って来ましたが……。この距離では無理でしょう」
ボウガンの引き金に指をかけながら、イリアスが首を振る。
 当然ではあるが、距離が離れれば離れるほど、ボウガンの弾の威力は衰える。
 弾の届く射程に捕らえたとしても、弾とボウガンが最も性能を発揮する距離を手に入れなければ、本領を発揮する事が出来ない。
 現在イリアスは重い、つまり威力のあるボウガンを選んで携行している。
 ミナガルデの工房において開発された、超イャンクック砲と呼ばれる対飛竜決戦兵器であった。
 この砲口を経て射出された弾は、要塞砲に迫る威力を持つとされる。
「アレ、自作のボウガンですか? 彼女達、何でも出来ちゃうんですね」
ボウガンに据えられたスコープを調節しながら、イリアスがルーの持つボウガンを見詰める。
 素早く場所を移動しながら、次々とリロードを繰り返すアイルー。
 彼の持つ、美しい白色のボウガン。
 それはイリアスがこれまで見た、どのボウガンとも異なっていた。
「あのお嬢さん、ソウって名前らしい。参ったね、あの『ソウ』だったよ」
双眼鏡は、巨大な剣を軽々と振り回す少女を捕らえていた。
 老山龍の動きをかわしながら、極力竜との間に距離を置きつつ、大剣の切っ先で甲殻を一枚ずつ削り飛ばすようにして戦っている。
 なかなか出来る芸当ではなかった。
「武具職人、ソウ……」
再びスコープを調節したイリアスが捕らえたのは、真っ赤な長髪を左右に揺らすソウである。
「グランシェハンターズギルドに引き取られたアサシン。お嬢さんはその一人だったよ」
双眼鏡の焦点を調節したラプターが、今度は鎧の隙間から覗くソウの陶磁器の様な胸元へ焦点を合わせる。
 先程からの激しい動きで、ほのかに色付いたそれは、妖艶な赤みを帯びていた。
 無精髭を蓄えた顎を一撫ですると、ラプターが鼻から声を漏らす。
 コホン。
 そのラプターの様子に気付いたのか、隣のイリアスが咳払いを漏らし、双眼鏡を遮った。
「……騎士団が絶滅させたが、幾人かの子供らは保護されたと聞きました。確かその行き先がグランシェでしたね」
アサシン。
 その名を聞いて良い顔をする者はいない。
 かつて権力者達が血みどろの闘争を繰り広げた際、再三にわたって暗躍した人々。
 それをアサシンと呼んだ。
 彼らアサシンは、誘拐や購入といった方法で大陸各地から子供を集め、自分らの技術を学ばせていた。
 グランシェには彼らアサシンの拠点があったらしい。
 だが、時代が変わり、長い年月と膨大な数の騎士、王族の犠牲と引き換えに、彼らアサシンは滅亡に追いやられた。
 その際、アサシンに育てられていた子供らが保護されたという。
「その辺りに関してはイリアス君の方が詳しいかもしれないケド」
元々は、シュレイド王国騎士団に籍のあったイリアスである。
 それを知るラプターが、彼へ一瞥を送った。
「……確かに保護された中には幼い少女も含まれていたと聞きます。特異ともいえるほど能力の高かった彼女は、物心付く前から人を殺め続けていたそうです」
イリアスの覗くスコープの中で、赤い髪をした少女が微笑んでいる。
 瞳には、狂喜とも狂気ともつかぬ光が踊っていた。
「様々な自作の武具を携えて、それこそ数え切れぬほど殺したとか……」
武具を玩具の様に扱い、殺戮を楽しむ様なその子供を、誰もが恐れたのである。
 しかしグランシェが騎士団によって制圧された際に、彼女もまた保護された。
 処刑が囁かれる中、彼女が助命されたのはその武具製作能力の高さゆえであったという。
 王族の中にすら、彼女の作り出す武具を愛用する者がおり、その才を惜しまれたというのだ。
「ですが、ハンターズギルドに預けられてからは足取りも途絶えていました」
彼女がハンターズギルドに預けられたのには、理由があった。
 生まれながらにして、人間を殺め続けて来た身である。
 彼女は生命を断つ事に抵抗が無いどころか、その事に対して楽しみを見出していたというのだ。
 騎士団の管理下におかれ、常に監視されていながらも、彼女の殺戮への衝動は傍目にも危険に見えたのだろう。
 その衝動を、せめて人間以外へ向けるというのは、騎士団の苦渋の選択であったかもしれない。
 ハンターズギルドは極めて強い自治権を持つため、彼女をそこへ預けてしまえば騎士団の監視も届かなくなるのだ。
 その危険を冒してでも、彼女を手元に置くのは危険に感じられたのだろう。
「その娘も、もうあんな歳か」
年頃、と呼ぶにはいささか早い気もするが、ラプターにとっては守備範囲外では決して無い年齢である。
 間も無く美しい女へと育つであろう彼女を双眼鏡で捉えながら、ラプターが小さくうなずいた。
「ヴェクス? あんまり変な事考えるとベッキーさんに報告しますよ」
大体の察しが着いたのか、イリアスの細長くなった嫌疑の瞳がラプターへと注ぎ込まれた。

↓続く。
空の蒼と海の青 第十一話
2007年01月28日(日) 16:51:02 Modified by orz26




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