斬風のウルリック 序章:熱砂のいざない

作者:K・H


陽炎に歪む砂漠の景色を、灼熱の風が更にかき乱す。
憎らしいまでに澄み切った空には、燦然と輝く日輪が中天に掛かり、果てし無く広がる不毛の大地を見下ろしている。
細かな砂の粒の一つとて焼き尽くさんと睥睨する天上の暴君を、その時、一個の人影が見上げた。
のっそりとした、倦怠感溢れる動作であった。
それをするのは、一人の少年。砂漠の只中に、拾い忘れられたように佇んでいる。
少しして、その少年は顔を戻すと、中断していた歩みを再開した。
砂の大地に濃く刻まれた自身の影を前に置き、少年は重い一歩を砂に沈ませて行く。
時折、半ば枯れかけたやしの木が見えるばかりの砂漠に他に人影は無く、少年もまた、黙々と歩いて行く。
古び擦り切れた革鎧に身を包み、一振りの剣を腰に吊るした少年は、小さな水袋を一つ肩に掛けただけの装備で、地平まで続く砂の荒野を歩いていた。
風が、足元の砂を巻き上げた。
咄嗟に、少年は片手で顔を覆う。
飛び散った細かな砂は、そのまま極微の凶器となって、歩む者の肌を容赦無く突き刺す。
翳した手をすり抜け、口の中に入ったのだろう、少年は、風が止むとすぐにむせ返った。
腰を折り、膝を曲げ、項を日差しに晒して、少年は、暫くの間、砂地に向かって断続的に咳を漏らす。
顎の先から零れた、汗の小さな一滴が、ゆっくりと砂地に吸い込まれた。
それだけだった。
最早、唾も湧いて来ない口元を気持ち悪そうに歪めて、少年は、また歩き出した。
無人の荒野を風が行き交う。
果て無い砂漠を、少年は淡々と歩いて行く。

何故、どうして、こんな事になったのか。
重い足を進ませながら、朦朧とする意識を、少年は、どうにか一点に絞ろうとしていた。
即ち、怒りへと。
だが、湿度の無い砂漠の風は、少年の体から、水分と共に、感情の起伏をも奪い取って行った。疾風の過ぎ行く度、少年の胸中では、怒りがその大きさを縮めて行く。
代わりに浮かんで来るのは、罪の意識。
事実、彼は窃盗を犯したのだし、その罪は問われるべきものだったろう。
しかし、それが自らの命までをも差し出さねば贖えぬ事かどうかは、少年には理解出来なかった。その疑念にぶつかる度、少年の胸の内でやり場の無い憤怒が立ち昇り、そして、熱波がそれを奪い去って行く。
そんな事を幾度も繰り返す内、少年の心も徐々に張りを失い、ゆっくりと、自責の念へと沈んで行った。
彼の生まれ育った街は、交易によって富の多くを得ていた。
外界より流れ来る富は均等に流れる事を良しとせず、幾つかの偏りを生み出す。
彼が、奉公していた商家も、そんな富の結節点の一つだった。
街の外の様子は知らないが、自分のような小間使いを幾人も抱えていた事から考えて、豪商の部類に入るだろう。
そんな主人から、彼は盗みを犯したのだ。
主人から就寝前に預けられた宝石の幾つかを、そのまま持ち去った。月夜の下を、一心に走り抜けた。
深い考えなど無かった。
金が必要だったのだ。
病床に喘ぐ母、その薬を手に入れるには、日々の給付だけではとても追い付かない。
しかし、そんな目論見は儚く立ち消えた。
人の目に触れず、金銭を扱う事は不可能である。
換金を頼んだ行商か、はたまた、薬を買った店の主だろうか。いずれにせよ彼は密告され、二日後には、街を束ねる豪商達の間へと引きずり出されたのだった。
たるんだ顎を振るわせて、かつての主人は大喝した。
貴様ほど性根の腐った奴を見た事が無い、と。
いや、心根と言っていたか。何にせよ、顔を赤く染め、唾を撒き散らして罵っていた。
そして、一通りの悪口雑言を並べた後、その豪商は、居並ぶ商人達に採決を提案した。
殆ど、その商人一人の裁量で取り決められた刑罰、それは、単身砂漠を探索し、そこに生息する砂竜の肝を持ち帰ると言う内容だった。
砂竜の肝と言う単語は知っていた。母に必要な薬がそれだと言われたからだ。高価な物である。
呆然と顔を上げた彼を商人は見下ろすと、それでも貴様に持ち去られた宝石の半分にも追っ付かんわ、と、額に皺を寄せて、更に悪態を吐いた。

水が切れた。
空になった皮袋を、少年は無造作に投げ捨てた。
砂漠へと追い遣られる前に渡されたのは、半日分にも満たないような水だけだった。
逃走は、即ち死を意味する。
元より、砂竜の生息する砂漠など、旅団や行商が通り掛かる筈も無い。
彼に許された事は、目的を果たし、然る後、帰還を果たす事だけだった。
無論、自身の命が尽きる前に。
遥か前方で揺らめく陽炎を見ながら、少年は、ぼんやりと、自身の運命を決めた取り決めの事を考えていた。
あまりに過酷過ぎるのではないか。
判決の場で、そう言ってくれた商人もいた。
そもそも、この少年が生還出来ねば、砂竜の肝も手に入らぬではないか、と。
すると、少年に実刑を言い渡したかつての主人は、口の端に牙を覗かせて嘯いた。
その時は、わしの腹が幾分治まるわ、と。
少年は、兜の隙間から、額を拭った。
汗を拭いたのでは、勿論ない。皮膚に張り付いた砂を掻き落としたのである。
熱気の篭った吐息を、少年は吐き出した。
もう、どれ程歩いたのか、少年には判らなくなっていた。
帰り道すら、判別が利かなくなって久しい。
ただ、目の前に広がる陽炎を掻き分けて、少年は、茫洋とした砂の世界を歩いて行った。
追い立てられるように、縋り付くように、砂の上に小さな足跡を穿ちながら、たった一つの人影は、砂漠の懐へ吸い込まれて行った。

一本の木が、砂中に佇んでいた。
はぐれ雲の一つとて無い快晴の空で、容赦も遠慮もせず、太陽は黙然と地表を焼く。
真昼時の砂漠は、地表から、物影の一切を取り除いてしまっていた。
付近にただ一本、拾い忘れられたように生えたその木も、淀んだ水溜りのような影を、辛うじて、地面ににじませていた。
乾いた風が、幹の上部に生える、数枚の萎びた葉を揺らした。ゆらゆらと、手招きするように、喬木の葉は熱風にそよいでいる。
突如、波濤が砕けるように、砂が飛び散った。飛散した細かな砂の向こう、平坦な砂の荒野に、異形の影が溢れている。
魚のような背びれを砂上に突き出し、砂中を泳ぐそれらは、優に二十匹を数えるだろう。
炎天をものともせず、熱せられた砂を掻いて、無数の砂竜は、砂漠の中を回遊していた。
そして、その最中、泳ぎ回る異形の生物の真っ只中で、少年は剣を振るっていた。
目まぐるしく移動する多数のひれ、自身の背丈に等しいそれらに振り回され、時に跳ね飛ばされながらも、少年は、一振りの剣を以って、それらに立ち向かっていた。
日輪の下で、ただ一人、剣を振るう小兵の影。
だが、その足取りは既に危うく、繰り出される斬撃もまた力を失っており、ただ周囲の熱気を掻き分けるばかり。
そんな相手を、砂竜達はなぶりものにするように、各々に距離を取り、それでいて周囲を隙間無く取り囲みながら、徐々に獲物へと近付いて行った。
少年を中心として、砂竜のひれは円を描いて周回し、段々と、その直径を狭めて行く。
砂の表に刻まれるそんな光景は、さながら、獲物の縮み行く命数を示す時計のようでもあった。
砂が、再び爆ぜた。
砂竜の一匹に足元から突き上げられ、少年は成す術無く中空を舞い、乾いた音を立てて地面に落ちる。
それでも、少年は立ち上がろうともがく。
倒れた時とは死ぬ時、いや、この場合は、喰われる時と言った方が正しいだろう。
生への執着よりもむしろ、醜い死に対する嫌悪が先立って、少年は力を振り絞っていた。
その時、少年は、辺りを見回した。
彼を取り囲む砂竜のひれ、その動きに、妙なばらつきが生じ始めていたのだ。
…何だ?
そう思った少年の疑問は、程無く解けた。
群を掻き分け、数多の背びれの中を通って来たのは、一際大きな、褐色の背びれであった。
それだけで、平均的な大人の背丈程もあるだろう。本当に大きい。
砂竜の群を押し分けて寄って来たそれは、蹲る少年の横手で動きを止めると、徐に砂中に沈み、間を置かず、実体を現した。
少年の視界が、傾いだ。
目の前に、砂丘が一つ、新たに出現したようであった。
砂漠の陽光に照り輝きもせず晒される褐色の体表、同じ天地にあるものと思えぬ巨体、濁り切った眼。
少年が初めて目にする、それは砂に潜むもの達の主の姿だった。

砂の中から上半身を覗かせた褐色の砂竜は、碇のような形状の頭を、半ば呆然と自身を仰ぐ少年へと向けた。
煮えた魚のような、白濁した瞳が少年を見据える。
いや、実際には見てはいないのだろう。その証拠に、今正に起き上がろうとする少年の変化に対して、褐色の砂竜の瞳は、何の反応も見せていないのだから。
無頓着そうに見える相手の傍らで、少年は、どうにか、震える膝を伸ばした。
漸くにして身を起こした少年は、その時、相対する砂竜の濁った瞳と目を合わせる。
白く濁った眼球の下で、そいつは、鋭い牙の並ぶ口を、うっすらと開けていた。
瞬間、弾かれたように、少年は、剣を振り上げて、褐色の砂竜へと躍り掛かっていた。
岩でも叩いたかのような硬質の音が、小さく鳴った。
繰り出された斬撃は、褐色の砂竜の鱗一枚傷付ける事叶わず、飛び掛った少年も地に降りる。
しびれの残る剣の持ち手を一瞥した後、少年は顔を上げた。
変わらず、眼前にそびえる長大な砂竜。
褐色の砂竜は、やはり、薄く口を開いていた。
嘲笑うかのように。哀れむかのように。
少年のすぐ後ろを、左右を、他の砂竜達のひれが囲っていた。
砂を掻き分ける不穏な音が、少年の耳の内で反響する。
少年は、歯を食い縛った。
形にならない叫びを、彼は放った。
境遇への怒り、この場に無い者達への怒り、他ならぬ自分自身への怒り、綯い交ぜになったそれらは一時に噴出し、激しい渇望へと変わった。過去を呪い、現在を憎み、既に決まっているであろう未来を怨んでしまえば、体に先んじて冷え固まり行く心の中から湧き上がるものは、全てを突き抜ける渇望しか無かったのである。
砂を蹴って、少年は再度躍り掛かった。
右手に握られた剣が、切っ先から銀色の孤を描いて、褐色の砂竜へ吸い込まれる。
果たして。
何の音も無かった。
相手が動く気配も無かった。
それなのに、少年の体重諸共、褐色の砂竜の背に打ち込まれた剣は、呆気無い程容易く折れ、その刃先は回転しながら宙を舞って、足元の砂地へと突き刺さった。
半ばから折れた剣を認めて、少年が面皮を硬化させる。
直後であった。
褐色の砂竜が、突然、尻尾を振るった。
前置きらしい前置きも無い。それでも、巨木に等しい太さの尾に弾き飛ばされ、少年は地面に叩き付けられると、砂の上を滑って行った。
頬を砂に擦り付けながら、小さな体躯は砂上を一直線に滑り、やがて止まった。
起き上がろうとして、少年は咳き込んだ。
口を押さえた指の隙間から、血が滴り落ちて来た。
驚きと怯えに瞳をすぼめた彼の背後で、重々しい足音が響いた。
肩越しに振り向いた少年の向こう、褐色の砂竜が近付いて来る。
巨体を支えるには些か心細い小さな足が、しかしそれでも、重い歩みを刻んで行く。
地面にへたり込んだまま、少年は後ずさった。
だが、砂を震わせる無情な足音は、尚も近付く。
今、少年の目前に迫っているのは、形を持った力であった。
濁り切った眼球は、意志が介在しているのかも判らぬ。しかし、目の前にしかと存在し、自分の命を吹き消そうとする、それは、正に力そのものであった。
近付いて来る。
この世にある不文律の理、即ち、力の掟を知らしめる為に。
ならば、否応も無くその理に組み込まれ、それを行使されようとする己は何者なのだ。
蝿蚊のように、次々と際限無く湧いては、際限無く踏み潰されていく数多の弱者の一つとして、自分は死に絶えようとしている。そしてそれは、これまでも、これからも延々と積み重ねられる無数の屍の山の上に、新たな塵芥の一つとなって降り積もり、埋もれて行く事を意味していた。
何故だ!?
恐怖に支配されながらも、少年の頭の中では、様々な考えが目まぐるしく交錯していた。
相も変わらず澄み切った空。
太った商人の顔が、そこに浮かんだ。やつれた母の顔が、そこに浮かんだ。
迫り来る死は、何も教えてはくれなかった。

太陽は、南中に掛かっていた。
いつから、そしてどれだけの間、そうしていたのかは判らない。
およそ、恐怖と疲労に固まっていた少年には、眼前の相手の微妙な変化すら気付くゆとりが無かった。まして周囲の様子など、完全に意識の外であったろう。
しかし、変化は起きていた。
目前まで迫った褐色の砂竜は、いつしか動きを止めていたのだ。
少年の周囲、遠巻きにする他の砂竜の背びれにも、その動きに若干の乱れが生じていた。
憔悴しきった中で、それでも漠然とした疑念が漸く湧いて来た頃、少年の耳に、意識に、その声は届いた。
「使え」
ただの一言であった。
次いで、僅かに首を動かした少年の視界に、突き立てられた、一振りの大剣が入り込んだ。
少年の見開かれた瞳に、刃に照り返った陽光が映り込む。
「どうした? 使えよ。生き延びたくないのか?」
再び、少年の背後から、太い声が促した。
そして。
声の主を確かめるより先に、少年は、横手に突き立てられた剣へ、震える手を伸ばしていた。震える指先は、それでも吸い寄せられるように、大剣の柄へ伸びて行く。
「それでいい」
太い声が、満足そうな響きを込めて讃えた。
自分が今何をしているのか、これが臨死の境界で見る幻覚なのか、はたまた進行中の現実なのか、砂漠の熱にうだった少年には判らなかった。だが、それでもどうにか腰を上げ、大剣の柄を掴む。白刃に体重を預け、少年は、今再び立ち上がった。
砂の中から大剣を引き抜くと、少年の腕には、痛みにさえ近い重みが、どっしりと圧し掛かって来た。現実だ、と、彼は思った。
少年は、長大な白刃に視線を這わせる。
刃が弓なりに反った片刃の大剣。遥か東方の異国で用いられる太刀を、少年は今握り締めていた。
鋭い切っ先の向こうに、褐色の砂竜の姿がある。
「この間合い…奴は体をぶつけて来る。そいつを見切れば、充分に勝機はある」
背後の声は、厳しさを込めて、少年の小さな背を押す。
「奴の首を狙え。あの長く伸びた首筋に、そいつを思うさま叩き込んでやれ」
少年は、返事を遣さなかった。
ただ、駆け出した。
完全に持ち上げ切れない大剣の切っ先は砂に線を引き、だが、少年は真っ直ぐに走った。
ざくざくという、砂を踏む震動が、背筋を介して少年の頭に響いて行く。
力強く両足を動かす少年の脳裏からは、不思議と、死の瀬戸際にあった先刻までの緊張は失せていた。皮膚の下を隈なく満たしていた火照り、それすらも、今は何かを生み出す熱として、疲れた体を駆け回っている。
さながら、涼風に包まれ、またそれに流されて行くように。
乾き切り、擦り切れそうになった心に注がれたものが何であるか、この時の少年には判る筈も無かった。
ただ、彼の手には、確かなものがある。或いは、それだけが、彼の両足を支えるに足るものだったかも知れない。
褐色の砂竜も、少し遅れて、近付く少年の方へ首を向け直した。
と、その太い首が、胴の方へと縮められた。少年の瞳が、微かに動く。
瞬間、少年は体を横に逸らすと、足先から砂に飛び込み、褐色の砂竜の傍らへと滑り込んだ。
そしてそれは、砂竜がその巨体を浴びせて来たのと、殆ど同時であった。
息つく間隙も無かったであろう。正に間髪入れず、少年と砂竜とは、それぞれの体を交錯させていた。
感触の無さに気付き、砂竜が首を巡らせる。
刹那、少年は叫んだ。
息を詰まらせながらも、雄叫びを上げた。
その残響を追うように、地面と平行に滑った太刀は、重量に遠心力を加えられ、褐色の砂竜の脇腹を浅く薙いでいた。
予期せぬ反撃に、褐色の砂竜が甲高い鳴声を上げる。
巨体が傾いだ。
一瞬、動きが止まった。
一瞬、ただそれだけで良かった。
一瞬、少年は祈っていた。
他でもない、自分自身に対して。
大剣が、蒼穹を突き上げた。
中天の太陽が、垂直に持ち上がった白刃を照らす。
柄から刃先に向けて優美な曲線を描いた片刃の大剣は、ぶ厚い刃に苛烈な陽光の輝きを宿したまま、一直線に振り下ろされた。
鉄の塊が中空を走った。稲妻か、流星か、銀光を引いて宙を滑った白刃は、あやまたず、砂竜の褐色の鱗を砕き、肉を切り裂き、その首筋に深く深く食い込んだ。
どす黒い血が迸った。
吹き出る血流の音に隠れつつも、砂竜の絶叫が上がった。
そして、耳の奥でこだました獲物の叫びを聞きながら、同時に、少年の意識もまた、感覚の内側へと吸い込まれて行った。

次に少年が意識を取り戻した時、彼は、揺れる物の中にいた。
恐らくは馬車だろう。ほろに覆われた天蓋が、彼の視界の大半を占める。
仰向けに寝かされているのだと気付いた少年は、首だけを横に回した。
傍らに、一つの人影があった。
少年の右手に腰を下ろす、赤い髪の女が、彼の視線に気付いた。
「坊やが起きたよ」
よく通る声で、女は明るく言った。
「おう」
太い声が上がると、上を向いた少年の顔を、男が覗きこんで来る。
屈強そうな男だった。
少年には、男の顔の辺りしか見えなかったが、太い首筋と頑強そうな顎の作りが、男の魁偉な様相をよく現していた。
「具合はどうだ、坊主?」
問われて、少年は、ゆっくりと唇を動かす。
「…体中が、痛い…」
「だろうな。まさか、本当に剣を取るとは思わなかったよ。いやいや、大したもんだ」
壮年の偉丈夫は、呵々大笑した。
そこへ、第三の声が割り込んで来る。
「何言ってんだよ。大体、旦那が無茶させるからだぜ? こんなガキが、あんた御自慢の得物を振り回すなんざ、土台無理に決まってんだろ?」
軽い調子の声が、少年の視界の外から寄せられた。
少年の頭上で、男は背後に首を向ける。
「だがよ、この坊主は、実際それをやってのけたんだ。その上で、砂竜の親玉に一太刀浴びせてやったんだからよ。お前も見てたろ?」
「生憎、こちとら、そんな余裕はねえよ。俺とニッキは、残りの砂竜共を追い掛けるのに忙しかったからな」
皮肉めいた調子でそう答えたのは、馬車の前の方へ座る細身の男。自分の背丈と等しい弩を傍らに置いて、切れ長の目を偉丈夫へと向けている。
「全く、アガレスの旦那の気紛れにも困ったもんだぜ」
「そう言うなよ。過程はどうあれ、この坊主が砂竜の大将を誘き出してくれたお陰で、俺達ゃ労せずして首魁を討つ事が出来たんだ。お前がやった事と言ったら、慌てふためいた砂竜共をいいように追い回すだけ…楽な仕事割だったろ?」
アガレスと呼ばれた偉丈夫はそう言うと、馬車の隅に置かれた大きな袋を蹴り付けた。
「肝にしたって、これだけの数が手に入ったんだからよ。よしとしようじゃねえか」
「けっ…ああそうですネだ」
拗ねた口調で言うと、細身の男はそっぽを向いた。
男二人の遣り取りを面白そうに眺めていた赤毛の女は、ややあって、少年の顔を覗き込む。
「ああ、気にしなくていいよ。あの細っこいの、ヴラードってんだけど、いつも口が先に出る奴だからね」
言って、赤毛の女は、にっと笑った。
「あたしはニッキ…って、さっき言ってたか。念の為教えとくと、この暑苦しいおっさんがアガレス。うちらの大将。あんたを助けたのもこの人」
「暑苦しいってのは余計だな。大体、おっさん呼ばわりされる程、老けた憶えもねえ」
馬車の床に寝かされた少年の頭上で、アガレスが口を尖らせた。
その後、アガレスは、改めて少年を見遣る。
「ところで、お前さんこそ、どうしたい。誰も踏み込まない砂漠の真ん中で、たった一人で砂竜の群を相手にしてたのを見た時は、幽霊にでも出くわしたのかと思ったが…」
「…あんたら、狩人か…?」
唇だけを動かして、少年は問うた。
「ん?…ああ、確かにそれが仕事だな」
一度、目線を宙に上げて、アガレスは答えた。
だが、その返答を聞くなり、少年は眉間を歪める。
相手の様子の変化を、アガレスもまた認めた。
「訳ありみたいだな。住んでる所は何処だ? どの街から来たんだ?」
「…そんなものは無い…」
無愛想に、そして短く、少年は答えると、首を横に逸らした。
「…そうか」
それ以上は言わず、アガレスは、馬車の進む方向へと視線を巡らせた。
「もうじき街に着く。話は、それからにしようや」
言って、彼は、馬車の外枠に寄り掛かった。
ごとごとと、車輪の揺れる音が、車中に響き回る。

仰向けに寝たまま、少年は、項を刺す髪を払い除けた。
暫く刈っていなかったから、随分と伸びている。
耳の脇から零れた髪を握って、束の間、少年は遠い目をした。
艶のある黒い髪、父親が、これと同じ色の髪をしていたと言う。
折に付け、母はよくその話をした。
父は狩人であったらしい。
しかし、それが具体的にどんな人となりの人物だったのか、若い頃の母とどの様な付き合いがあったのか、彼が物心付いた頃には、既に、父は昔語りの住人になっていた。
あなたのお父さんは、立派な人だったのよ。
母は、口癖のように言っていた。そう語る母の様子は、とても楽しそうだった。
尤も、子供の彼には、そんな立派な父親が、自分と母を置いて何処へ行ってしまったのか、常々その疑問が付いて回った。
父親の消息について、母は遂に教えてくれなかった。
例えどの様な時であれ、この質問を発すれば、返って来るのは、重苦しい沈黙と、母の歪んだ表情だけだった。
一度だけ、短い返答を、彼は聞いた事があった。
あんたの所為よ…
そう呟いた母の顔はとても恐ろしく、彼は逃げ出すようにその場を離れたのだった。
病に伏し、日に日に衰えつつも、母は、父を立派な人だと語っていた。痩せこけ、体が利かなくなってからは、その想いはより強く、また病的な偏執へと変わって行ったようだった。
もしかしたら、明日にでも家の軒先に立ってくれるかも知れないと、一途に信じていたのかも知れない。
だが、そんなささやかな願いも、最早消え果てた。
砂漠に送り出される前、牢獄に監禁されていた時、看守から、母の病死を伝え聞いたのだ。彼が捕縛されてから、三日と明けずの事だったらしい。
発作に襲われ、何やらうわ言を吐いて死んだと、看守は淡白に告げた。
母が最期に何を言い残したのか、少年は、何故か訊ねる気になれなかった。
自分を捕らえていたのは母だったし、母を捕らえていたのは自分だった。
少年は、ただ、天井のほろを見上げた。
自分は、解き放たれたのだろうか。
自分は、何故ここにいるのだろうか。
ぼんやりと考え、ふと視線を移した先、床に置かれた、一振りの太刀が目に入った。
先刻、自分が振るった得物を、少年は、寝たままの姿勢で凝視していた。
「…どうした? あれが気になるか?」
やがて、少年の目線を追って、アガレスが声を掛ける。
「中々の業物だろう。東方の国で使われてる剣らしい。癖はあるが、そいつさえ呑み込んじまえば頼りになる」
言いながら、アガレスは、自分の得物を手繰り寄せた。
少年が問う。
「…何て名前の、剣だ?」
「さあてなあ、一応、俺はスノウローゼスって呼んでるが」
「…雪の薔薇…?」
怪訝な顔をした少年に、アガレスは、剣の柄頭を指し示した。
果たして、剣の柄頭にある金具には、白い輪郭で、二輪の薔薇の花が彫り込まれていた。
「雪花刃…スノウローゼスだ。ま、いずれはお前も、こういう物を振り回す事になるのかもな」
そう言って、アガレスは、手元の太刀を、また馬車の床に置いた。
それでも暫く、少年は、その剣を見つめていた。
あの時、にじり寄る死の感触すら忘れて、少年は一途にそれを握っていた。
何故、あんなにも簡単に、心に平静を取り戻せたのだろうか。
得物を手にした事による、一時の安心感か。
それだけではないと察しつつも、当の少年にも、その理由は判らなかった。
柄頭に刻まれた、雪の薔薇の細工を、彼は静かに見つめていた。
やがて、荷台の前の方から、別の声が上がった。
「街が見えて来ましたぜ、旦那方」
馬車の先端、一人、太い手綱を握った老年の御者が、荷台を振り返って言った。
「おう、そうかい。昼過ぎに戻れるとは、ツイてたなあ」
喜色満面でそう答えると、アガレスが腰を上げ、そのまま、御者の後ろに回る。ほろの端から覗く蒼天を見上げ、アガレスは、僅かに目を細めた。
「それにしても、いい日和だ」
「へへ、お陰で、こいつも具合が良さそうでさ」
言って、御者は、手にした手綱を振るう。その先には、台車を引く巨獣の姿があった。
亀のような甲羅で背を覆った一頭の草原竜が、のっそりと足を進め、後ろに繋がれた台車を引いていた。
「全く、変に涼しいと、こいつらも怠け癖を出すもんでねぇ」
「そりゃ、人間と同じだな。ま、安全運転でやってくれ」
御者にそう応えると、アガレスは肩越しに振り返った。そして、欠伸を漏らすニッキの横で、依然寝転ぶ少年に目を向ける。
「これからどうするかは、お前が決めりゃいい。必要だったら、少しは手助けしてやるよ」
少年は、ただ、相手を見つめ返していた。
ふと、目線を持ち上げて、アガレスが再度口を開く。
「そう言や、まだ名前も訊いてなかったな。それ位は聞かせて貰おうか」
言われて、少年は、億劫そうに唇を動かす。
「…ウルリック」
「ウルリックか…まあ、頑張るこった」
少し微笑んで、アガレスはまた前を向いた。
砂漠の荒涼とした景色の向こうに、街の姿が見えていた。
遠く、林立する建物の狭間で、緑の木々が、風に揺れていた。

〈斬風のウルリック 序章 了〉
2006年09月26日(火) 23:37:14 Modified by funnybunny




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