斬風のウルリック 第一章:まどろむ修羅

作者:K・H



曇天からしとしとと降る雨が、潅木の葉の先に雫を作った。
雑多な植物が繁茂する茂みの中に半身を沈めて、鎧兜に身を固めた二人の狩人が、目前に伸びる獣道を、じっと見据えていた。
兜の縁から零れた雨水が、額に垂れた赤い前髪を濡らす。背に大型の槍を背負った赤毛の女は、鬱陶しそうに、目元を伝う雨水を拭った。それから、彼女は、瞳だけを横に向ける。
「何か見えるかい?」
隣に屈む仲間に、ニッキは訊ねた。
今一人の狩人は、静かに首を横に振る。
「いや。雨霞で視界は悪いが、動きがあれば判る。今は、何もいない」
無愛想な返答が遣される。同じく野外活動に適した軽装の鎧に身を包み、こちらは腰の後ろに剣を佩いたもう一人の狩人は、降り続く雨も意に介さず、ただ、身をひそめる藪の前に伸びる砂利道を、その端が消える先まで、じっと目を凝らして見つめていた。
舌打ちの音が鳴った。
「待たせるねえ…あの二人、あたしを冷え性にして困らせようって腹かね」
「そんな事をして、何かの得になるとは思えないが」
やはり愛想の無い声で、相手が言葉を返した。
ニッキは、今度は鼻息をつく。
「…あんたってのも、つくづく面白みの無い人間だね、ウルリック」
名を呼ばれて、相手は、一度、ニッキの方へ目を向ける。
黒い瞳が、赤毛の女を見据えた。
まだ年若い面立ち。少年の面影すら残す目鼻立ちの黒髪の青年は、それでも何も応えず、再び顔を前に戻す。
ややあってから、ニッキも、同じ方向を向いた。
雨中、些か気まずい沈黙が訪れた。
雨は、淡々と降り続く。
やがて、どれ程かの時間が経った頃、獣道の向こうから、小刻みな震動が伝わって来た。
初めの内、道の脇の草花に纏い付く雨粒を揺らす程度だった震動は、徐々に大きさを増し、何かを叩き付けるような強い揺れとなって、ニッキとウルリックの元に迫って来た。
「御出でなすった。追い込みは上手く行ったようだね」
幾分、声を硬くしてそう言うと、ニッキは肩に掛けた槍と盾とを下ろし、それぞれを、しっかりと両の手に握り締める。
「手筈は憶えてんだろう。まず、あたしが先頭に立つ。あんたは、的がヘバった所を見計らって前に出な。旦那とヴラードの方でも、追い付き次第援護はしてくれるだろうから、機会をよく窺うんだ」
「ああ」
ウルリックは、静かに頷いた。
直後、雨のもやを掻き分けて、一個の巨影が、獣道の奥から姿を現す。
扇状の耳の付いた頭を左右に振り回しながら、太い二本の足で地を蹴って驀進する、それは巨大な怪鳥の姿だった。
薄く朱に染まった鱗が、遠目からでもはっきり視認出来る。耳の内を掻き毟るようなけたたましい叫び声を上げて、怪鳥は、森の中の道を大股に走って来た。
兜を直しながら、ニッキが苛立たしげに舌打ちをした。
「話に聞いたのより、随分大きいじゃないか。面倒臭いなぁ」
言いながらも、彼女は槍と盾を構えると、迫り来る怪鳥の前方に歩を進めた。腰を低く落とし、盾を前に、防御の型を取る。
その後ろで、ウルリックが、ゆっくりと剣を抜いた。切っ先に向けて刃の反り返った片手剣を、ウルリックは、黙して見つめる。
そんな二人の目前に、怪鳥は接近して来た。黄色い瞳が、道に立つ二つの影を認める。
咆哮が上がった。
怒りの叫びか、悲嘆の唸りか、人と異なり、獣の感情は声以外に表へ出る事は無い。だが、眼光を始め、その全身から立ち昇る形無き殺気は、周囲の生き物達に危険を悟らせ、退散させるに充分なものであった。
自ら、その危険の渦中に飛び込まんとする者以外には。
疾走して来た勢いそのまま、怪鳥は、自らの巨体を津波のように押し寄せて、しかと立ち塞がる狩人達を押し潰そうとする。
身の丈を超える巨大な獣の一撃を、しかし、ニッキは退かず、受け止めた。
怪鳥の体躯を、かざされた盾が防ぐ。構えの姿勢は一切崩さずに、彼女の体は、真後ろへと押し流されて行った。
一方で、怪鳥も、徐々にその動きを鈍らせて行く。突進の力を受け流され、姿勢の伸び切ったまま、怪鳥は、じきに動きを止めた。
「今だ!」
後方のウルリックに促しながら、ニッキもまた、右手にある槍で怪鳥の喉元を突き刺す。
首を振り上げて、怪鳥が悲鳴を上げた。
一瞬生じたその間隙に、ウルリックは身を躍らせた。
仰け反った怪鳥の胸元を、白刃の煌きが走った。横様に振られた剣は、怪鳥の胸の辺りを深く切り裂く。少なからぬ量の、鮮血が飛び散った。
だが、
「浅いか…!」
当のウルリックが呻く先で、体を仰け反らせた怪鳥は、首を持ち上げた姿勢で眼下の敵を睨み付けると、怒りの混じった雄叫びを放った。
「ウル、突っ立ってんじゃない! 下がれ!」
ニッキが叫んだ。
怪鳥が、岩をも削りそうな巨大な嘴を振り下ろす。
「ええい!」
大きな盾を持て余しながらも、ニッキが前に出ようとする。未だ動かぬウルリックをかばうべく、彼女は急いだ。
しかし、その眼前で、襲い来る怪鳥の嘴を頭上にして、ウルリックは、新たに歩を踏み出していた。
前方へと。
口を開いたニッキが、何事かを言い出さぬ内、風が雨露を吹き飛ばした。
振り下ろされた怪鳥の嘴が、走り込むウルリックの後ろ頭すれすれを掠める。と同時に、ウルリックは、今も血潮の流れる怪鳥の胸へ、白刃を突き立てていた。
獲物を捉え損なった怪鳥の嘴を、悲鳴が割いて出た。
自身の体ごと一弾となって突進したウルリックは、しかし、剣の鍔までを怪鳥の胴に叩き込んだ所で動きを止めてしまう。
そして。
石像のように動かなくなったウルリックの頭上で、弱々しく、それでも意志的な動作で、怪鳥が首の向きを立て直した。
先刻までの激しさは無い。しかし、代わりに、死を前にした者が浮かべる、濃い染みのような殺意を瞳の奥ににじませて、怪鳥は眼下の剣士を見下ろす。その嘴の端から、血とは異なる緋色の液体が見え隠れしていた。
「まずい!」
ニッキが、慌てて駆け寄る。
今や、怪鳥の口から立ち昇っているのは、紛いようも無い炎であった。空気と反応する事で発火する可燃性の液体が、口中に満たされていた。
眼下にあり、己の命を奪い去らんとする、小さくも忌々しい天敵へ吐き付ける為に。
ウルリックが、顔を上げた。
一杯に開かれた怪鳥の嘴が、その視線の向かう先にある。
燃え立つ炎の赤が、漆黒の双眸に映り込んだ。
直後、耳をすぼめた怪鳥の背で、小さな爆発が起こった。
たまらず、火炎液を周囲に撒き散らし、怪鳥が悲鳴を上げる。
怪鳥の背後、細身の男が、慌しく弩に次の弾を込めている。
それを追い越し、もう一つの人影が、のたうつ怪鳥へと突進した。
「どいてろ、ウル!」
ウルリックは投げ掛けられた太い声に弾かれるように、怪鳥の胸に突き刺さった剣から手を離すと、そのまま真後ろへと飛び退いた。
すかさず走った銀光が、未だ直立する怪鳥の胴を、後ろから一文字に切り裂いた。
長大な太刀による一撃は、獲物の身を覆う鱗をものともせず、その太い胴体を半ばまで断ち切る。
びくんと硬直した怪鳥の首筋に、今一度撃ち出された炸裂弾が止めを刺した。
地響きが、雨の合間に鳴り響いた。

雨の囁きが、静かになった森林を覆う。
依然、しとしとと降り続く雨にその身を任せながら、ウルリックは、眼下に伏した怪鳥の骸を凝視していた。
力の萎えた巨体は、今はただ、降り頻る雨に淡々と濡れるのみ。生気の失われ行く他者の肉体を見下ろして、ウルリックは静かに佇んでいた。
そこへ、
「馬鹿野郎! 足並みを乱すんじゃないって散々言ったろう!」
襟元を掴み掛からん勢いで、ニッキが近付いて来る。槍と盾とを再び肩に掛けた赤毛の女は、怒気を漲らせた双眸を、穏やかな面持ちで立つ若輩の狩人へ向けていた。
「あたしが防御であんたが攻撃! 確かにそういう割り振りだったけどね、それは別に、好き勝手に無茶をしていいって事じゃないんだ! 死にたいのか!」
厳しい口調で捲くし立てる相手へ、ウルリックは、乾いた声で応える。
「あの場合、下がれば付け入る隙を与えると思った。最善の手を打っただけだ」
「知った風な口利いてんじゃないよ!」
顔の色まで髪に近付いて来たニッキへ、その時、脇から別の意見が寄せられた。
「まあまあ、落ち着けって。二人とも」
背に太刀を収めた偉丈夫が、睨み合う両者の間に立つ。
「何も、雨ン中で反省会を開く事もなかろうぜ。詳しい議論は帰ってからだ。それまでの間に、お互いによく、自分のやった事を思い返しておきな。生きていられるからこそ、後悔のしようもある」
穏やかな物言いではあったが、厚みのある声は、相対する二人にそれ以上の口論を許さなかった。
不服そうな表情を横に逸らして、ニッキはウルリックに背を向けると、獲物の方へと、足音荒く近付いて行った。
ニッキの背を、ウルリックは黙って見つめている。と、その彼の肩を、太い手が叩いた。
「さ、お前も物色を済ましちまえ。死体の傍にあまり長居するのはよくねえ」
アガレスに促され、ウルリックも、伏した獲物に目を移す。
雨は、静かに舞い落ちていた。

溢れ返る体臭を、酒精の匂いが上塗りして行く。
宵の内に入った酒場は、益々人の数を増し、喧騒の響きを膨らませて行った。
乱雑に配置された円卓の一つに、壮年の偉丈夫が腰を下ろす。彼が椅子を引くのを待って、向かいに座る赤毛の女が口を開いた。
「どうしたって?」
「別に。武具の修繕をしとくとさ」
偉丈夫、アガレスがそう答えると、彼の右隣に座ったヴラードが、細い目を宙に上げた。
「けっ、付き合いの悪い野郎だ」
「嫌いなんだろ、こういう雰囲気が。まあ冷静に考えて、酒を飲むには、まだ少し早い年頃だしな」
言いながら、アガレスは、自身の左の空席を見遣る。
「それにしたって、空気に慣れて行く事は必要だと思うけどね、色々と」
やや難しい顔をして、ニッキは、向かいのアガレスを見つめた。
「もう二年にもなるんだっけ? あの坊やを砂漠で拾ってから」
「それ位になるか。早いもんだな」
アガレスは、卓上に置かれていた酒盃に口を付けた。
そんな相手を、ニッキは、少し上目遣いに見つめると、穏やかに切り出す。
「…あの坊や、この稼業には向かないよ…」
杯を傾けていたアガレスの手が、ぴたりと止まった。
「同感だな、そいつは」
その脇で、ヴラードも尤もらしく頷いて見せる。
「今一、人の言う事をちゃんと聞いてんのかも判んねえし、狩りの度に仕出かす無謀な突撃なんざ、数え上げてったら切りがねえ」
言ってから、ヴラードは同じくテーブルにあった酒盃を一度傾けると、アガレスの目を見て話し掛ける。
「…いずれ訊こうとは思ってたけどよ、そもそも、旦那は何の考えがあって、あの坊主を仲間に加えたんだ?」
「おいおい、人情家で通してる俺に、宿無しのガキを見捨てとけって…」
「真面目に訊いてんだぜ、旦那」
酒盃を下ろしたアガレスを、四つの瞳が見据えていた。
「あんたの決定に難癖付けるつもりも無いけどね、客観的に見てどうかって事さ。行き倒れを助けました…そこまではいい。でも、いくら他生の縁たって、何で、こんなクソったれな仕事に引き入れようなんて思ったのよ? それも、見てると、随分と手塩にかけて育ててるようじゃないか」
頬杖を付いて、それでも相手の目を真っ直ぐに捉えてニッキは問うと、徐に、卓上へ目線を下げる。
「そりゃ、あたしだって、別に新入りをいびり出したい訳じゃない。そんなんじゃなくて、あの子は勿論、あたしらだって、この先持たないかも知れないって言ってるんだ」
隣席の笑い声を他所に、ニッキは、静かな口調で言葉を紡ぐ。
「あの坊や、感覚の一部が麻痺してる。過去に何かあったのか、元々そうなのかは知らないけど、恐怖や緊張ってものが欠けてるんだよ。そんな手合いは長生きしない。長生きした奴を見た事がないよ。あたしだって、十六の頃からこの世界にいるんだからさ」
「いいじゃねえか。縮み上がって死ぬよりマシだろ?」
「旦那」
とぼけた答えを返すアガレスを、幾分語気を強めて、ニッキは嗜めた。
アガレスは、椅子の背もたれに寄り掛かると、少しの間、天井を眺めていた。
周囲の歓声は、黙り込んだ三人を置いて、滞り無く湧き上がって行く。
「…ったく…やだねぇ、こういう雰囲気は…」
やがて、アガレスは酒盃を脇にどけると、一つ息をついて両手を組んだ。
「あいつを最初に見かけた時の事、憶えてるか?」
酒精の匂いの中で、穏やかに、彼は語り出した。

街の灯りからも人の声からも遠い、天井に一つランプを吊るしただけの薄暗い一室で、ウルリックは一人、手にした剣を見遣っていた。
片刃の片手剣は、ぼんやりとした照明に、頼り無げな光沢を返すのみ。
刃の湾曲を指でなぞった後、ウルリックは、傍らの壁に立て掛けてある、一振りの太刀に目を移した。
彼自身の身長に等しい長さの太刀は、薄暗い室内でも、その存在感を些かも衰えさせていない。むしろ、陰を纏う事で、更なる深みを周囲に滲み出させているかのようであった。
そちらの方へと手を伸ばし掛けた時、唐突に、ウルリックの後ろにある扉が開かれた。
外の明かりと共に、長い影法師が、部屋の中へ伸びて来る。
「また暗い中でごちゃごちゃやってるなあ、おい」
言いながら、アガレスは、鉄槍と弩を含めた四つの武器が置かれた小さな一室に足を踏み入れた。そのまま、彼はウルリックの隣まで歩くと、座り込んで剣を磨いている先客を見下ろす。
「酒の匂いより、鉄の匂いに身を浸してた方が、心が落ち着くか?」
「必要な事だ」
剣を布で磨きながら、ウルリックは、背中越しに短く答えた。
やがて、ウルリックは、手にした剣を天井の灯りにかざすと、徐に振り返る。
「得物が悪い」
「…ほう?」
左の眉を上げて、アガレスが声を上げた。
ウルリックは、剣の切っ先を指で触れる。
「刃渡りが短過ぎる。これでは昼間のように、例え急所を捉えても一撃では倒せない」
「けどなあ、そこを手数で補うってのが、片手剣の売りであり技術なんだが…」
「隙は逃すな、無駄な動きは減らせ、そう教えてくれたのはあんただ」
言われて、アガレスは口を尖らせる。
ウルリックの視線は既に、手元の剣から、壁に立て掛けられた太刀へ移っていた。
「…何だぁ、詰まる所、お前はあれを諦め切れてないって事か?」
相手の視線を追って、アガレスが問うた。
ウルリックは、何も応えなかった。
「剣に惚れたか。そういうのは、あまりいい傾向じゃないんだがな…」
アガレスが、鼻息をつく。
「まあ、焦んなよ。今のお前の体格で、太刀や大剣を自在に扱うってのは難しいだろうし、そんな物を渡した所で、益々無茶な真似をされちゃ堪んねえや」
ぼんやりとした灯りの下、大小二つの影が、木張りの床に刻まれる。
「何、たかが剣一本、時期が来たら譲るなり見繕うなりしてやるさ。今は、基礎を身に付ける事が先決だ。むず痒いのは判るが、暫くは我慢しろって。誰もが通る道なんだからよ」
言って、アガレスは、軽く相手の肩を叩いた。
ウルリックは、黙って自分の剣を鞘に収める。
部屋を去り際、アガレスは、未だ床に座るウルリックを顧みる。
「…訊いて回ってるそうだな、黒髪の狩人の事…」
背中で、ウルリックは、その言葉を受けた。
アガレスは、広い肩越しに相手を見遣る。
「黒い髪って条件なら、同業者の中に該当する人間はごまんといるだろうぜ。だが、その中に、お前の探してる相手が含まれているかどうかは、極めて怪しいと思うがな。まして、二十年近く前の事だろ?」
若干、背を丸めたウルリックを、アガレスは見つめていた。
「…或いは、お前が進んで捨て鉢な真似をするのも、そこら辺に一因があるのか? そんなに不満か? 自分が、親と同じ道を…」
「アガレス」
短く、鋭い声が、アガレスの面皮に跳ね返った。いつしか険しい光を宿した黒い双眸が、彼を捉えていた。
「俺は、あんたに保護者になってくれと頼んだ憶えは無い」
珍しく苛立ちを含ませた声を浴びて、アガレスも口を閉ざす。
ゆっくりと、ウルリックは立ち上がった。
アガレスは、肩を竦めて見せる。
「あいよ。悪かったな、しゃしゃり出た真似をして。何にしても、お前の気の済むようにすりゃいいさ」
そう言い残すと、アガレスは部屋を後にした。
武具の置かれた小部屋には、ウルリックだけが残された。
頭髪と同じ色の瞳が、開け放たれた扉に向けられている。
天井のランプの中で、小さな炎が、ゆらゆらと揺れていた。

青空の下、深緑の葉もその鮮やかさを増す。
水辺に程近い藪の中で、四人の狩人達は、じっと息を潜めていた。
「にしても忙しねえなあ…前の仕事から、十日も空けずにこれかよ」
その中の一人、大きな弩を背に負った細身の男が、小声で愚痴を零した。
「ぼやいてるとツキが落ちるぞ。大体、この稼業、稼げる時に稼いどくってのが鉄則なんだからよ」
長大な太刀を背負ったアガレスが、右隣のヴラードを宥めに掛かる。
「それに、今日の相手は、三つの隊商を壊滅させたって凶状持ちだ。同じ仕事でも、人様の役に立てるのなら、より一層の励みになるんじゃないかと…」
「泣き付く事と礼言う事だけが取り得の奴等の都合で、方々の街を行ったり来たりする俺達こそ被害者だっつーの」
「あら、いいじゃない。今更何言った所で、あたしら、どうせ根無し草なんだしさ」
尚も愚痴を漏らすヴラードへ、反対側から、ニッキが口を挟んだ。
「旦那の台詞じゃないけど、人の役に立つってのも、満更悪くはないもんよ。特に、父親を亡くした家の残された家族に、揃って涙ながらに頭下げられて御覧。向こう半年は、優しい気持ちでいられるから」
「涙で腹は膨れな…」
アガレスを挟んで、ヴラードがニッキへ反論しかけた時、空の高みから、一個の影が舞い降りて来た。押し寄せる風と羽音と共に、徐々に大きさを増して行く異形の影は、垂直に、水場へと降下して来る。
「御出でなすった。取り掛かるぞ」
声に堅さを戻して、アガレスが促す。
「逃がすと厄介だ。一息に畳み掛ける。手順はさっき言った通りだが、予想外の事態には各個で対処する事。いいな?」
指揮者の朗々たる言葉に、残りの三人が頷く。
ニッキは、左隣で剣を握るウルリックへ目を移した。
「あんたは、あいつを相手にすんのは初めてだったね。一つ注意しとくと、奴の背と尻尾に生えてる棘には毒がある。充分に警戒するんだよ」
「判った」
空から降りて来るものを見つめたまま、ウルリックは短く答えた。
ゆっくりと、それは地面に降り立った。
苔生したかのように薄く緑掛かった、岩肌のような体表。顔も含め、堅い甲殻に覆われた全身は、その大きさとも相まって、常に周囲へ威圧感を放っている。
そして、ニッキの言葉通り、長く伸びた尾と盛り上がった背中には、猛毒を分泌する、針のような鋭い棘が無数生えていた。
翼を畳んだ雌の火竜は、泉の岸辺へと近付くと、鎌首を下ろして水を啜り出す。
「行くぞ!」
アガレスが言うと同時に、四人は、潜伏していた茂みの中から一斉に飛び出した。
背中の太刀に手を掛けたアガレスを先頭に、ニッキ、ヴラードが続き、しんがりをウルリックが務める。鉄器に身を固めた四人が一直線に走り行く様は、さながら、巨大な鉄の矢が地表を滑空するかのようであった。
斜め後ろの死角から突進してくる人間達の足音を、水辺の飛竜が察知した時には、四人は、既に各々の武器に、必殺の練気を込めていた。
「かっ!」
鋭く短い叫びを上げ、アガレスが太刀を振り下ろす。
雌火竜の背に振り下ろされた白刃は、鈍い音を立て、獲物の背に斜めに食い込んだ。
不意の一撃に、雌火竜が怒号を上げる。
すかさず打ち込まれた鉄槍の一撃が、飛竜の脇腹を刺し貫いた。
共に一撃を与えた所で、アガレスもニッキも、標的の横手へと身をどかす。
怒りに双眸を輝かせた雌火竜が背後へと向き直った時、距離を空けて立ったヴラードが弩の引き金を引いた。撃ち出された火薬の混合物は、重力を振り払って一直線に飛ぶと、雌火竜の左の翼に当たって爆裂する。
爆音の残響に、飛竜の悲鳴が重なった。
翼膜の半分以上を吹き飛ばした爆発は、雌火竜の脇腹にも若干の傷を与え、相手の体力を更に削ぎ落とす。
そして。
最後に、片手剣を閃かせて、ウルリックが暴れのたうつ雌火竜へと接近した。
走る速度を微塵も落とさず、彼は、飛竜の足元へ駆け込んで行く。研ぎ澄まされた刃が飛竜の足の筋を断ち切れば、相手は一切の移動力を失う。
筈であった。
しかし、走り寄る四人目の襲撃者に、雌火竜は鋭い眼光を射ると、顎を大きく開いて体を前傾させた。
その、洞穴のような喉の奥から発射された火球が、ウルリックの足元で炸裂したのは、それから半秒も経たぬ内の事だった。
足元からの爆風と衝撃に、ウルリックの体は、一溜まりも無く宙に投げ出された。
「このっ! 大人しくしてろ!」
怒声を放つなり、アガレスが再び太刀を振り下ろした。風を巻き付けて走った斬撃は、雌火竜の尻尾を半ばから切断する。
だが、動きに狂乱の度合いを強めた手負いの飛竜は、猛攻をより激しいものへと変えて行った。
何とか相手の足を止めようと、その大腿部に槍先を当てようとした所で、ニッキは、横様に繰り出された頭突きを浴びて薙ぎ倒された。
数秒程空中を舞って、水辺近くのぬかるみに落ちたウルリックが、漸く首を持ち上げた時には、相対する雌火竜は、彼の方へと巨体を向け直していた。
爛々と輝く黄色の瞳が、卑小な生き物を傲然と見下ろす。
「手ン前ェ! 来るなら来てみろよ、畜生ォ!」
彼の横で、過分に取り乱しながら、ヴラードが、近付く雌火竜へと弩の照準を合わせる。
遅れて、二発目の炸裂弾が撃ち出された。
途端、まるで示し合わせたかのように雌火竜が吐き出した火球が、飛来する凶器を、今度は正面から撃ち落とす。
火球と火薬、二つの爆発が水辺の木々を揺らした。
既に伏していたウルリックは、咄嗟に頭を庇うだけで爆風の大半を流せたものの、飛竜の側面にいたアガレスはがっくりと片膝を付き、ヴラードに至っては、ウルリックの後方で仰向けに倒れている。
無論、当の雌火竜とて無事に済む道理も無い。
爆発の方を向いていた頭部には幾つもの裂傷が刻まれ、右の眼は完全に潰れている。
然るに、それでも、野生の戦意には、僅かの陰りも表れては来なかった。
口元から黒煙を噴き出させながら、雌火竜は低く濁った唸り声を漏らすと、足音荒く、目前の獲物へと近付いて来る。
「…駒運びが一つ狂えば、こんなものか…」
呻きながら、ウルリックは、どうにか身を起こした。
「…いや、そこまでの相手だって事か…!」
火炎による火傷だろう。両の足は、熱く波打つような痛みの他に感覚が失せ、確かに地を踏んでいるのかさえ判別が付かぬ。しかし、それ以上に、満身創痍の飛竜が放つ底知れぬ殺気に圧迫され、ウルリックは二三歩をよろめくと、ただ、掌中にある剣を握り締めた。
孤立した狩人の眼前へと、隻眼の雌火竜は歩を進めて行く。
その様子を、先刻、飛竜の頭突きによって跳ね飛ばされ、やっと上体を起こしたニッキが見つめていた。
「何てこった…ザマぁ無いねぇ…」
独白してから、彼女は唇を噛むと、震える膝を起こそうと腰に力を篭める。
「まずいな…早く援護に回らなきゃ、ウルが耕されちまう…」
しかし、ニッキの願いも空しく、太刀に寄り掛かったまま動かぬアガレスの向こうで、飛竜が、とどめとばかりに地を蹴った。
今や全身の半ば以上を朱に染めた雌火竜は、力無く剣を掲げるウルリックへ向かって、猛然と突進する。自身をさえ吹き飛ばしそうな荒れ狂った咆哮を放ち、視線までも凶器と変えて、手負いの飛竜は、ふら付く狩人へ襲い掛かった。
足元も定まらない小さな標的に、隻眼の雌火竜は、極微の容赦も無く喰らい付く。
「ウル!」
瞬間、顔を歪め、ニッキが叫んだ。
そんな彼女の声と重なるように、ウルリックの体は、暴風の如き飛竜の突進に巻き込まれていた。

「…あいつを最初に見かけた時の事、憶えてるか?」
酒精の匂いの中で、穏やかに、彼は語り出した。
「砂漠の真ん中で、砂竜を追い回してた時の事か? まあなぁ…」
些か自身無さそうに、ヴラードが相槌を打つ。
アガレスは組んだ両手に目を落とし、咀嚼するように、ゆっくりと口元を動かして行く。
「あいつはあの時、俺の剣を迷いも見せずに掴むと、やはり迷わず、砂竜の親玉へと突っ込んで行った。考えられるか? 気力も体力もろくに残ってない中、自分を追い詰めた、まず勝ち目が無いだろう相手に対してよ」
眼裏の光景を追ってか、アガレスは卓上の一点に視線を据えたままでいた。
ヴラードとニッキが見つめる中で、彼は言葉を続ける。
「恐怖や緊張が無いんじゃねえ。注意を払わねえだけだ。本当に命の掛かった場面で、そんなものを押し退けて行動出来るか、最良の選択を自然と行えるかって事よ。時には自分の命さえも意識の範疇から外して、生き延びる事に全てを集中させる。差し詰め、目の前の景色を全て無視して、地平線の彼方を見透かすようにな」
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、って奴か?」
戸惑いがちに、ヴラードが訊ねた。
「捨てるってのとは違うな。むしろ、その対極に当たる事だろうぜ」
「全然判んねえよ」
甲高い声を上げて喚くヴラードへ、アガレスは一笑を漏らした。
「だろうな。こういう事ァ、慣れや経験で身に付くものじゃねえ。一種の病気と言えるかも知れんしな」
「…あんたはあの坊やに、その才能の片鱗を見たのかい?」
静かな声で、ニッキが質問を遣した。
「大袈裟に言や、そうだ。そういう資質を持った奴が、当たり前の経験を積んで行ったらどうなるか、面白そうじゃねえか」
「けっ、あんたの好奇心に付き合わされるこっちがいい迷惑だぜ。大体、どんな資質を持ってようが、そいつを開花させる前に死んじまうって奴の方が、この世界じゃ多いだろうがよ」
「だから、俺達で世話してやろうってんじゃねえか」
ふて腐れるヴラードへ陽気に言葉を返すと、アガレスはまた酒盃を手に取り、一息に飲み干して行く。
「…けど、あんたの言う通りだとすれば、あたし達は、ひょっとして、あの子に取り返しの付かない真似をさせてんじゃないのかねぇ…」
目線を下げ、赤毛の女は、いつに無く冷めた声を漏らしていた。
「何だ? 何かに言いながら、お前もあいつを気に掛けてやってんじゃねえか」
アガレスの冷やかしに、ニッキは片方の眉を跳ね上げる。
「誰だって、自分の身近で死人なんか見たくないって事さ。まして…」
「お待たせしました」
彼女がそこまで言った時、三人の傍らで、給仕の若い女が立ち止まる。間を空けず、テーブルに、香草のまぶされた肉料理が置かれた。
「おおっと、来た来たぁ」
一転してはしゃいだ声を上げると、アガレスが両手を擦り合せた。
そんな相手の様子に、ヴラードが鼻息をつく中、ニッキは、尚もアガレスの横顔をじっと睨んでいた。
アガレスが、小皿へと肉を切り分けて行く。
喧騒が、また、三人を呑み込んだ。

ウルリックと雌火竜の影が、重なった。
避ける暇もあればこそ。
果たして、放たれたのは、凄絶なる断末魔か、穏やかなる末期の吐息であったろうか。
否、いずれでも無かった。
驚愕の面持ちを作るニッキの先で、ウルリックは雌火竜の首筋に抱き付いていた。飛竜がいよいよ牙を突き立てようとした瞬間、彼は、押し寄せる巌の如き巨体の懐へと自ら身を躍らせ、雌火竜の長い首筋に組み付いたのであった。
雌火竜が、苛立たしげな叫びを放った。
それでも、ウルリックは、両足をも引っ掛けて雌火竜の首にしがみ付くと、手にした剣を飛竜の首筋に突き刺した。
雌火竜の叫びに、怒りの色が混じる。
飛竜の側からすれば、これほどいやらしい手口も無かったであろう。ウルリックも知ってか知らずか、強大な戦力を持つ雌火竜の、殆ど唯一の死角が、そこであった。頭を支える長い首筋こそが、火も牙も、尾の一撃すら及ばない完全なる安全圏であった。そこへ蚤のように張り付かれては、当の雌火竜には、俄かに対処のしようが無かったのである。
地面から持ち上げられ、およそ天地の間のあらゆる方向に振り回されながらも、ウルリックは、石柱のような長大な頚部に、何度も白刃を突き立てて行く。
雌火竜は、暫くの間、酩酊したように辺りをうろついた末、遂に、手近の岩に、己の首筋ごとウルリックを叩き付けた。
流石にこれには息を詰まらせ、ウルリックは、草むらへとずり落ちる。
倒れた彼に、すかさず、雌火竜が牙を向ける。ウルリックも、身を捻って顎の一撃をかわすと、雌火竜と十歩程の距離を隔てて立ち上がった。
首筋から流れる血潮が傷だらけの体躯に朱を塗り重ね、隻眼の雌火竜は興奮した鼻息を断続的に漏らす。
対するウルリックも相手の返り血を所々に浴び、また、鋭利な鱗に切り裂かれたのであろう、頬や手足には幾つかの切り傷が刻まれている。一人きりで佇んでいれば、落武者とも捉えられかねない風体であった。
その中で、しかし、彼は今尚、両眼を煌々と輝かせていた。
眼前の飛竜とは対照的な、実に穏やかな面持ちの中で。
怒りや焦り、執着と言ったものは、そこに浮かんではいない。ウルリックが双眸に湛えた光は、言わば、放つ光ではなく、吸い込む光であった。相対する敵を徹底的に細分化し、それによって、如何なる微細な変動をも見極めようとする。彼の眼、或いは脳裏では、目前の雌火竜も、雌火竜の形を作る切り絵の集まりのように映し出されていたのかも知れなかった。
「…ふん、いい構図じゃねえか…」
太刀に身を預け、片膝を付いたまま、アガレスが、人と人ならざるものの視殺戦を評した。
それまでウルリックの方へと意識を向けていたニッキも、不意に上がった独白に顔を戻す。
「旦那、動けるのかい?」
「ああ。左の耳が、多少遠くなってるがな」
「良かった…だったら早い所、ウルに加勢してやらないと…」
「まあ待て。いい機会だ。こっから先は、あいつに任せてみようや」
「…何だって?」
ニッキは、我が耳を疑った。
如何に傷を負っているとは言え、相手は野生の飛竜。むしろ、流れ出た血を補うかのように、敵意と殺意を膨らませ続ける手負いの獣を、未だ狩人となって日の浅い若輩一人に任せるなど、ニッキには無謀としか思えなかった。
だが、現に彼女の前で、アガレスは動こうともせず、前方の睨み合いに見入っている。
「…いつかは、あいつもこういう局面に出くわすんだ。だったら、信頼出来る人間が周りにいる内に、場数を踏んでおいた方がいい」
そう語る壮年の偉丈夫の表情には、大らかさと共に厳しさがあった。
興味や冷やかしの混ざる余地の無い眼差しを認めて、ニッキも、渋々ながら顔を前に戻す。
その時、雌火竜が咆哮を放った。
猛々しい叫びの下、迸る声の勢いそのままに顎を開げると、怒れる飛竜は、眼前の敵へ至近距離から火球を吐き付ける。
かわされる事など起こり得ぬ、迅速な攻撃であった。
しかし、実戦の場において、狩人が相手の挙動を見逃す事も、また起こり得ぬ事であった。
横へ飛んだウルリックの頬を、火球が熱する。
自身の後方へと突き抜ける熱風の筋の脇を縫って、ウルリックは雌火竜に走り寄ると、相手の喉元へ横薙ぎに斬り付けた。
仰け反った雌火竜が、数歩を退いた。
間を置かず、二の太刀を入れようとしたウルリックを、翻った雌火竜の尻尾が打ち据える。半ば以上を失ったと言えど、太い尾の一撃は、不用意に近付いたウルリックを地面へ叩き付けた。
「…やっぱり、まだまだ読みが浅ぇな。磨く余地は多そうだ」
アガレスが、冷静そのものの声で評した。その後、彼は、少し先で剣を振るう若き狩人の姿を、遠い目で見つめる。
「…だが、ウルよ、今の感覚を忘れるな。お前は、そのまま慣れて行きゃあいい。そのまま強くなって行きゃあいい。お前自身が何を望んでいるかは知らねえが、生き抜く力を、お前は持ってる…」
一方で、ニッキは、ウルリックと飛竜の死闘を、険しい面持ちで眺めていた。
「…生き抜く力だって? これが…?」
踊るように動き回る飛竜と狩人。
大きさも意気も対照的な両者が、唯一共通するものと言えば、己自身の命に対する意識の希薄さであったろう。
自身が負った手傷も忘れ、ひたすら獲物を殺す事に没入している獣と、生を掴む為、己の命に対する執着すら捨てている人。
この世にありながら、両者の視線は、既に彼岸へと向けられているかのようであった。
小さく、ニッキは身震いをした。
果て無きように思われた死闘にも、やがて終幕が訪れた。
いや、既に訪れていたと言うべきであったろうか。
所詮、身体の各所に重傷を負っていた雌火竜には、ウルリックを相手に戦い切る力が、最早残されていなかったのである。
何度目かの斬撃を与えた後、ウルリックが見たものは、物悲しいまでに高く、細い咆哮を天に放つ飛竜の姿だった。
むしろ意外そうに見上げるウルリックの前で、雌火竜は、消え行く己が声を追うようにして、ゆっくりと大地へと倒れ込んで行く。
「…な…」
何故、と切り出しかけ、しかし、その後に繋げるべき言葉を、ウルリックは見出せなかった。視界を塞いでいた巨大なるものが去り行こうとする今、心の内では、諸々の形持つものは皆溶け消え、ただ冷ややかな満ち足りなさのみが広がるばかり。
そんな勝者の嘆息を振り払うかのように、雌火竜は、酷く億劫に見える動きで、別離の道を進んだ。
巨体が、地響きを立てて沈んだ。
深緑に囲まれた中、水辺の傍らで、雌火竜は息絶えていた。

今や、あらゆる活動を止めた標的を、ウルリックは、黙って見下ろしていた。
全身返り血にまみれ、顔面すらも緋色に染まった状態で、ウルリックは血糊を拭おうともせず、何度も肩を上下させていた。
飛竜の骸から流れ出した血が、森の泉に広がって行く。
漸くにして頬を拭ったウルリックの後ろへ、その時、アガレスが歩み寄った。
「お疲れ。どうだ、初めて自分の手で飛竜を仕留めた気分は?」
しかし、ウルリックは、遣された言葉に沈黙を以って応えるばかり。
ただ、眼下に横たわる、雌火竜の遺骸を見つめながら。
「実感が湧かねえか? まあ、最初の時ってな、概ねそんなもんだ」
言って、アガレスは、ウルリックの腰を軽く叩いた。
それから、彼は、背後で、今一人の仲間を覗き込む赤毛の女へ目を移す。
「そっちはどうだ? ヴラードの野郎は?」
「大した傷は無いよ。爆風でのびてるだけさ。爆発の瞬間、弩で顔をかばったみたいだね。得物の方は酷い有様だけど、当人の怪我は軽いもんだ」
「そいつァ何よりだ」
仰向けに倒れたヴラードを覗き込むニッキへ、アガレスはしんみりとした言葉を遣した。
膝を払って、ニッキが腰を伸ばす。次いで、彼女は、未だ、飛竜の骸の傍らに佇むウルリックへと目を移した。
血刀を引っ下げた、血だらけの若き狩人。先刻、躍動していた彼の影に何を見透かしたのか、ニッキの目元は、次第に歪んで行った。
本来、死の寸前でしか表れない研ぎ澄まされた感覚、理性を負う過程で人が脱ぎ捨てて行った毛皮の如き本能とも言えるだろう。それを再び、また常から纏いたいと願うのは、力を頼る者なら誰しもが辿り着く、当然の帰結である。
されど、その後は?
ひと度、死線に酔い、戦慄を空気として呼吸するようになった者が、修羅の道程の果てに臨む境地とは、如何なるものであろうか?
近い距離に佇むウルリックを見遣る内、ニッキは、言い知れぬ不安を覚えていた。
アガレスが、そのウルリックへ声を掛けている。
ニッキの瞼が、ぴくりと引き攣った。
「…あんたはいいだろうよ、自分の後に続く者を育てられれば…」
口中で呟き、ニッキは蒼穹を仰ぐ。
「だけど…」
雲が、空を走っていた。
胸中、様々な想いを宿す人間達の頭上で、風は泰然と流れ行く。
頭上で、梢がざわめいた。

〈斬風のウルリック 第一章 了〉
2006年10月20日(金) 19:45:28 Modified by funnybunny




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