斬風のウルリック 第三章:当たり前の風景 後編

作者:K・H


あらゆる音が消えた。
風の音も。
激しく脈打つ心臓の鼓動以外、何も聞こえなくなった景色の中で、ウルリックは、真っ直ぐに水竜を睨み付けていた。
さながら、闇に煌く二つの光点のように、ウルリックと水竜とは、互いに周囲の景観から隔絶されて向かい合っていた。
この時、二つの点と点は、一本の線で結ばれていた。
その線の名を、殺意と言う。
先に動きを見せたのは、果たしてどちらであったろうか。
地面に転がった剣を拾って、ウルリックは駆け出した。
全身の皮膚を揺らす血潮に踊らされるように、ウルリックは、水竜へと駆けて行く。
その水竜は、近付く敵を魚眼の端に捉えると、ゆっくりと体の向きを変えた。
水竜が、完全に自分の方へ向き直るより早く、ウルリックは相手の懐に飛び込むと、横へ張り出した胸びれの後ろへ剣を叩き付けた。
乾いた音が鳴った。
怒りの斬撃は、しかし、水竜の身を覆う鱗に防がれ、刃を減り込ませる事も叶わない。
それでも、ウルリックは歯を食い縛ると、両手で握った剣を、幾度も相手の胴へ振り下ろして行く。
水竜が、小煩げに身をくねらせた。
不穏な動きを見せ始める尾を避けて、止む無く、ウルリックも一旦身を引く。
だが、水竜も敵の引き足を見逃さず、その巨顎をまたも広げると、体内に溜め込んだ水を高圧で吐き付けた。
かわすには、既に遅きに失していた。
ウルリックは、剣の柄と刃先の両端を手で押さえ、襲い来る水流に翳して身を護ろうとする。
しかし、
「ぬうっ!」
翳された片手剣は、吐き付けられた水の勢いに負けて脆くも折れ、水の線は、そのままウルリックの胸元へ吸い込まれる。それでも、剣で防いだ際の反動によって体勢を崩していた事が幸いし、すんでの所で身を反らしたウルリックは、嵐の如き水の一撃の軸線上から紙一重で逃れ、後方へと仰向けに倒れ込んだ。
軽い揺れが脳を揺さぶり、視界一杯に青空が広がる。
地上の様子など、まるで無頓着に俯瞰する快晴の空を、ウルリックはきつく睨み付けた。
そこへ、仕留め損ねた獲物を追って、水竜が新たに歩を踏み出す。
近付いて来る足音に首を起こしたウルリックは、そこで、自身の傍らにあるものに、思わず目を留めていた。
一振りの太刀が、彼の横手の地面に突き刺さっていた。
主の背から離れ、ほぼ垂直に大地に刺さったそれは、柄頭に刻まれた白い薔薇の紋章を、ウルリックの方へ向けて直立している。
黒い瞳が、大円に見開かれた。
…使え。
「…何…だと…?」
ウルリックが、よろよろと身を起こしながら呻いた。
過去からの呼び声は、尚もウルリックの脳裏に響き渡る。
…どうした? 使えよ。生き延びたくないのか?
「…そんな…これじゃ、まるであの時と…」
そう呟いたウルリックは、束の間、唇を噛み締め、泣き顔に近い表情を、己の足元へと向けていた。
だが、次の瞬間、顔を跳ね上げた彼は、決然、大地に刺さった太刀へ飛び付いた。
十本の指が、汗に汚れた柄に巻き付いて行く。
土を散らして、分厚い刃が持ち上がる。
蒼天へと突き上げられた白刃が、銀色の輝きを燦然と撒き散らした。
大刀、その銘を雪の薔薇。
弓なりに反った刃へ、ウルリックは視線を走らせた。
幾年の歳月を経て、再び手にした剛刀は、かつて巡り会った時と変わりもしない。
いや、変わった言うのなら、むしろ己の方であろう。
それは、或いは、待っていてくれたという事なのかも知れない。
古き、そして新たなる剣を手に、ウルリックは、近付く水竜に鋭い眼差しを送り付けた。
「はあっ!」
短く太い呼気を放って、ウルリックは走り出した。
体当たりの為に身を縮めた水竜が、その身をぶつけて来るより僅かに早く、ウルリックの放った斬撃は、水竜の唇を深く切り裂いていた。
高い声を上げて、水竜が仰け反った。
逃げ腰になった相手を追って、ウルリックは更に踏み込む。
だが、数歩を退いた地点で水竜は踏み止まると、両足へ篭めた力はそのまま、長大な尾を旋回させた。大木に例えてすら、決して大袈裟でない太さの尻尾は、横合いから接近するウルリックを充分に攻撃圏内に捉え、容赦の無い一撃を与えた。
ウルリックも、即座に太刀を翳して防ぐ。完全に受け止めて尚、伝播した衝撃は彼の全身の力を打ち消し、数瞬の間、その動きを縫い止めた。
そこに生じた間隙を縫って、水竜は姿勢を戻すや、立ち止まったウルリックへ向け、両の顎を開け放った。
異界にでも通じているかのような、飛竜の暗き口中を一瞥し、ウルリックは眉間を歪める。
今すぐ、掌中の太刀を放棄すれば、回避にはまだ間に合うかも知れない。
しかし、そんな選択は、この時の彼にはまるで論外のものであった。
得物を手放す事は、自ら勝機を投げ打つ事を意味する。かてて加えて、猛々しい光を覗かせる彼の両眼では、闘志も、怒りも、未だその勢いを微塵も弱めていなかった。
一方で、それらを、敵対する者の命そのものを吹き消すかのように、水竜は、かつてなく猛烈な勢いで水を吐き付ける。
果たして。
身じろぎすらせず剣を構えるウルリックへ、水竜渾身の一撃は、真正面から襲い掛かった。

声にならない呻きを漏らして、アガレスは、弱々しく瞼を開けた。
種々雑多な草花が繁茂する、焦げ茶色の地面が、まず、彼の視界に入って来る。
…寝てたのか、俺は?
覚束無い意識の中で、直前の記憶をどうにか掘り出そうとしたアガレスは、程無く、自分の行動を思い起こす。
逃げ遅れたウルリックを庇い、水竜の前へと身を躍らせた。
と、そこまで回想した所で、アガレスは、脇腹に居座る感覚に気が付いた。
それは、もう、痛みの形を取ってはいなかった。
脇腹に空いた傷からは、重みのある疼きのような鈍い感覚が、彼の脳裏に辛うじて伝わって来るだけであった。
…ドジったな。それも、あまり良くないドジり方のようだ。
自分でも、弱くなって行くのが判る呼吸の中で、アガレスは溜息をついた。
…そうだ、あいつはどうなったろう?
アガレスは、ふと湧いた疑問に促され、うつ伏せのまま、眼球の角度を変えた。
倒れた彼の少し前に、それは在った。
自分の愛刀を手にし、強大な水竜と相対する、若き弟子の姿が。
…ほう、案外と様になってるじゃねえか。
口の端が、微かに吊り上がった。
その時、向かい立つ飛竜の口から発せられた一条の水流が、剣を構えるウルリックへと襲い掛かった。
迫り来る真白き水の牙を、しかし、ウルリックは避けようともしない。
彼は、ただ、己の両腕を振り上げたのみである。
大きく持ち上がった太刀が、前方へと振り下ろされる。
凶暴な唸りを上げて死を運ぶ、怒涛の水の流れへと。
数百枚もの絹を、一斉に引き裂いたような音が上がった。
必殺の勢いを持った一筋の水流は、標的を捉える寸前、竹を縦に裂いたように二つに別れ、ウルリックの体を避けて、その後方へと流れて行った。
銀光が、押し寄せる水を斬り裂いていた。
己の正面に剣を構えたウルリック、その手元にある刃を境とし、水竜の口腔より打ち出された水の線は左右に分断され、彼の両肩のすぐ横を通って、後方へと虚しく飛び散って行ったのである。
圧倒的な水勢を受け流し、顔の正面で太刀を固定して、ウルリックは微動だにせず立ち続けた。
得物を支える両の腕、大地を踏み締める足、ひたすら前へと迸る視線、それらが一体となって作り上げる威容は、動の気配は一切覗かせぬものの、内面を流れる凄まじいばかりの力の奔流の存在を、周囲に絶えず示している。それはさながら、太古の巨匠の手によって彫られた彫像が、刻み込まれた筋の一つ一つから作者の熱意と覇気とを悟らせるように、荘厳ですらある威圧感を見る者に与えていた。
…教えてもねえ事を、よくも器用にこなしやがる…
遠く、その背を見上げていたアガレスは、ぼんやりと考えた。
…この先、あいつと剣を並べたら、きっと楽しいだろうな…
日輪に燦然と輝く、二本の刀。
揃って飛竜へと向かい行く、二つの影法師。
それは、訪れたかも知れない、だが、最早決して訪れぬ、一つの日常の風景だった。
現世の景色を映し出すアガレスの視界は、少しずつ閉ざされて行った。青く澄んだ空にも、緑広がる大地にも、ウルリックの背にも、徐々に陰りが滲み出す。
…何だ、もうお終いかよ…もう少し、見続けていたかったのに…
臨終の際にあって、アガレスは、己の命の限界に不満を感じながらも、半面では、不思議と、安堵にも似た感情を抱いていた。
…ま、仕方ねえか…あんまり長い事、あいつを待たせとくのも良くねえ…
いつの間にか、それは現れていた。
金色に輝く髪をなびかせ、剣を手に振り返った一人の女。
彩りを失って行く景色の中で、在る筈も無いその人影だけが、実にはっきりと、アガレスの眼前に浮かび上がっていた。
…よう…どうだ?…これで、あの時の借りは、返せた事になったかな?…
やがて、すっかり闇に閉ざされた視界の中で、アガレスの思考も、同じものの中へゆっくりと沈んで行く。
…どっちにしても、俺は、ここまでみてえだ…
地に伏し、瞼を下ろしたアガレスの肉体は、ややあって、最後となる吐息を漏らした。
「…達…者で…な…」
同様に最後となる、か細い呟きと共に。

空を裂いていた水の流れが、途切れた。
水竜の口より発せられた水の線は、遂に、標的を撃ち滅ぼす事は出来なかった。
当の飛竜に比べ、あまりに矮小な一人の人間、そして、それが手にしていた、たった一振りの剣の為に。
水の完全に途絶えるのを待って、ウルリックは猛然と顔を上げた。
水竜の面に表情と呼べるものは無かったが、もし浮かべていたとすれば、それは驚愕か、さもなくば恐怖の面持ちであったろう。
殺す!!
瞳の奥に燻っていた禍々しい光彩を解き放ち、ウルリックは最後の突撃を敢行した。
風が、逆立った黒髪を掻き乱した。
最早、体内に溜め込んだ水を使い切っていた水竜は、迫り来るウルリックへ向けて、尾を打ち付けようと身をくねらせる。
だが、水竜のその動作と全く時を同じくして、鈍い銀光が空を薙いでいた。
獲物の挙動を目尻から睨み上げたウルリックが、大股の一歩を踏み出すなり、水竜の足元を目掛けて太刀を振るったのである。
それは、水竜にとって、正しく最悪の瞬間に起こった。
先に尾の一撃を当ててさえいれば、例え敵に防がれたとしても、そこに生まれる隙に乗じて、再び水中へと逃れる事も出来たかも知れない。
しかし、相手の狙いを見越したウルリックの咄嗟の判断と、噴き上がる憤怒とが、異なる結末を水竜に突き返した。
陸にあって水竜の巨体を支える脚部の、細くくびれた足首へ走った長大なる白刃は、無情の剣風を纏わせ、見事、その片足を斬り飛ばしてのけたのである。
人と飛竜、二つの影が交錯する。
既に、尻尾ごと体を回転させていた水竜は、軸足の支えを突然に失い、遠心力による勢いも加わって、地面へ飛び付くように横転した。
暴れ、のたうつ水竜に、すかさず、揺らめく人影が差した。
それを捉えた魚眼が、一瞬、硬直する。
斃す!!
傲然と獲物を見下ろしたウルリックが、間髪入れず、太刀を振り下ろした。
跳ね上がった血の雫は、川面にまで達した。
鋼の刃が持ち上がり、打ち下ろされる都度、紅の華が宙に咲いた。
生への渇望か、理不尽な暴虐に対しての憎悪か、文字通り死に物狂いの力で大地を打ち据えていた水竜の尾は、程無くして動きを鈍らせて行き、じきに、土の上で痙攣を繰り返すまでに成り果てる。
だが、それすらも気に障ったのか、ウルリックは、朱に染まった剛刀を、未練がましく蠢く水竜の尾に叩き付けた。
飛竜は、完全に動かなくなった。
牙を覗かせた口元から荒々しく息を吐き、ウルリックは、激しく肩を上下させていた。
今や、肉塊としか表現のしようの無いものを眼下に見下ろし、漸く、彼は身に帯びた怒気を収縮させて行く。
もうもうと汗の蒸気を発散させていたウルリックの肩に、その時、手が載せられた。
罠に掛かった獣のように、過剰な反応を示して振り返ったウルリックの後ろに、赤毛の女が立っていた。
「…気が済んだか?」
何処か冷ややかに問うニッキも、満身に傷を作り、左腕を力無くぶら下げている。
「…あ…あ…う…」
全身を緋色に染めたウルリックは、怯えた顔付きで、片言を吐き出した。
途端、ニッキが、眉間を歪めて怒鳴り付けた。
「しっかりしろ! 何だ、そのザマは!」
虚脱していたウルリックは、それでも、締まり無く開いていた口を閉ざした。
その彼の前で、ニッキは右の拳を堅く握り締めると、荒い語気を放ちながらも、徐々に顔を歪めて行く。
「命の遣り取りは、自分を見失った奴から脱落してくんだ! 一度、狩りの場に立ったのなら、最後の最後まで意識をしっかり持つんだよ! 例え…例え、どんな事があっても…!」
やがて、充血した目を隠すべく俯いた彼女は、数秒に渡る沈黙の末、噛み締めた奥歯の間から、震える声を絞り出した。
「…旦那が…死んじまった…」
ウルリックの手から、太刀の柄が滑り落ちる。
刀の転がる、鐘の音にも似た重い残響が、川のせせらぎの間に木霊した。

これもまた、彼らにとっての日常の風景なのかも知れない。
一つきりの窓から、白い陽光が差し込んで来る。
他に照明も無く、薄暗い作りの部屋の中で、ニッキ、ヴラード、ウルリックの三人は、室内の中央に設えられた、石造りの寝台を囲っていた。
質素な装飾の施された石の寝台の上には、大半を白い布で覆われて、アガレスの遺体が寝かされている。既に死に化粧も施された遺骸は、埋葬までの一時、この安置所に置かれていた。
左腕を首から吊るしたニッキが、一輪の白い花を手に、アガレスの遺体へと歩み寄った。
「…殺しても死ななさそうな人に見えたけど、やっぱり、こういう時が来るもんなんだね…色々と世話になったよ…」
赤毛の女は、しんみりと言葉を吐き出すと、安置された遺骸の胸の辺りに、そっと花を置いた。
続いて、ヴラードが、糸に操られるように、ふらふらと近付いて行く。
「へへ…旦那よォ…口説き方を教えてくれんじゃなかったのかよ?…そのあんたが口無しになっちまって、どうすんだって…」
狭い肩を落として、痩身の男は、物憂げに呟いた。
少しして、ヴラードがまた元の位置へ戻ると、ニッキは、参列者の最後の一人へ首を巡らせた。
「あんたは? じきに埋葬も始まるよ?」
しかし、促されても、ウルリックは静かに首を横に振るばかり。
「…掛ける言葉が、何も思い付かない」
「そう…」
それから少しの間、沈黙が、静寂を塗り潰した。
明かり窓の外を、鳥の影が飛び去って行く。
「よォ…」
ヴラードが、徐に声を上げた。
「これからどうすんだよ、俺達?」
甚だ自信を欠いた口調で、ヴラードは、仲間二人の顔色を覗き見た。
「…そうだね」
俯き加減で視線を下ろしていたニッキは、何かを咀嚼するように口元を動かした後、ゆっくりと言葉を発した。
「…二人には、突然で悪いんだけどさ…あたし、この仕事を辞める事にする」
「え…?」
ヴラードが、驚きも露に声を漏らして、ニッキを見上げる。
ウルリックも、声こそ発しなかったが、揺らいだ視線を、同じ相手に向けていた。
二つの眼差しの交わる先で、ニッキは、少しはにかんだ様子で説明する。
「…いや、旦那には、結構前から話してあったんだ…来年の春先までには、この稼業から足を洗う予定だって…それがまあ、こんな事になって…いい機会、って言うと語弊があるけどさ、思う所があるんだよね…身近で、人の死なんか見せられると…」
「…けど、足を洗うって、それで、そっから先はどうすんだ…?」
「…うん」
ヴラードの問いに、ニッキは、一度顔を落とすと、ややあって、姿勢を正した。
「あたし、家族を作るよ」
張りのある声が、薄暗い安置所に広がる。
やはり、少し照れた面持ちで、ニッキが言葉を続けた。
「行き付けの鍛冶屋の主人が…ま、未来の亭主になるんだけど…そいつがさ、あたしが仕事に戻ろうとする度、嫌な顔をすんだよね。こんな血生臭い真似を続けてると、いつか必ず、むごたらしい最期を遂げるって。勿論、こっちからすりゃ、ただのお節介もいいとこなんだけど…でも、やっぱりその、何て言うか…」
目を伏せ、口篭る赤毛の女の横で、ヴラードが、しんみりと息を吐いた。
「…そういう事情なら、一向構わねえけどよ…まあ、その、おめでとう…ってのもまだ早いのか…」
「ふふ、ありがと。で、あんたはどうするの?」
「俺? 俺は…さて、どうしようかなぁ…」
言われて、ヴラードは、腕組みをして考え込む。
「…うーん…前から薄々感じちゃいたんだけど、やっぱ俺、この仕事には向いてねえ気がすんだわ。野垂れ死んでから気が付いたってんじゃ遅過ぎるし、先々の事を考えるにも、暫くの間、職を変えてみようかな…」
「へえ、何する積もりなの?」
「んー?…俺もほら、旦那に連れられて、あちこちを巡っただろ? そん時に、何処の土地ではどういう物が採れて、あそこの土地ではこういう物が必要とされてるってのが、何となくだけど判って来たんだよ。だから、その経験を生かして、取り合えず、行商でもやってみようかと…」
「そりゃいい。歌って踊れて、身も護れる行商人か」
ニッキが、明るい口調で評した。
若干ではあるが、場の雰囲気が和んで来た頃に、ニッキは、先刻から黙って佇むウルリックへ目を移した。
「…あんたはどうする? この先?」
「俺は…」
ウルリックは、回って来た質問に、言葉を濁した。
この時、ウルリックの瞳の奥では、これまでの様々な景色、及び目にして来た場面が、淀み無く流れて行った。
「俺は…」
砂漠での出会い、初めて飛竜を目にした日、木剣同士の打ち合い、雌火竜を屠った瞬間。そうした無数の光景が、川面に浮かぶ燈篭のように、揺らめき、時にうねりに翻弄されながら、淡々と流れ去って行った。
項垂れて緘黙するウルリックを、ニッキとヴラードの両者は、些か心配そうに見遣っていた。
「…少し、出ていようか?」
「ああ。結論を急がせるもんじゃねえ」
互いに顔を見合わせた二人は、俯くウルリックを置いて、安置所を後にした。
扉が、重々しく閉ざされた。

ひっそりと静まり返った安置所の中で、ウルリックは、石の寝台に眠るアガレスと相対していた。
後は埋葬を待つばかりの遺体の後ろには、生前、死者が所有していた遺品の数々が、祭壇の上に並べられている。財布やギルド発行の身分証と言った細かな物から、野外生活の道具一式、甲冑などの大型の品物に至るまで。その数は、二十程にもなるだろうか。
使う者を亡くし、寄り添うように並ぶ物言わぬ遺品達は、過ぎた日の輝きを浴びて、おぼろに浮かび上がる影のようでもあった。
狩人の持ち物は、儀礼的な意味合いから、特別な意向でも無い限り、主と共に土に埋められるのが常である。ウルリックは、副葬品となるそれらをじっと見つめ、程無く、ある一品に目の焦点を据える。
アガレスが振るっていた愛用の太刀も、祭壇から両端をはみ出させて、そこに飾られていた。
薄明かりにぼんやりと浮かぶ白刃を、こちらもぼんやりとした眼光で捉え、ウルリックは、在りし日の面影を回想する。
…何、たかが剣一本、時期が来たら譲るなり見繕うなりしてやるさ。
かつて掛けられた約束の言葉は、果たされぬまま消えてしまった。
常に己の先を歩いていた影法師は、結局、影のまま走り去ってしまった。
遂に素顔を見せる事無く、並ぶ事も追い抜く事も叶わぬまま、遠く宵闇の漂う地平の彼方へ吸い込まれてしまった。
後には、斜陽の残照を背に、夜風の吹き荒ぶ荒野を、己一人が立ち尽くすばかりである。
星の無い夜空の下を彷徨うに等しく、ウルリックは、一切の道標を失ってしまった。
客観的に見れば、まるでつまらない、些細な焦りとこだわりの為に。
当人も意識せぬ内に、ウルリックは唇を噛んでいた。
かの人は、果たして何者であったのか。
師か友か、兄か父か。
いずれでもない、いや、いずれかとなる前に、自ら可能性の芽を踏み付けてしまった。
ある一つの未来は、儚くも消え果てた。
今はただ、身を包む空気と等しく、何処までも茫漠と広がる実在感の中に、自分一人の微小な息遣いが、ぽつねんと漂うのみ。
ややあって、ウルリックは顔を上げた。
虚空における今一つの確かなもの、それは、目前に飾られた一振りの太刀であった。
黒い瞳が、僅かに広がった。
涼しげな光を放つその源へ、ウルリックの手が、じわじわと伸びて行く。
やめろ!
耳の奥で、何かが絶叫を放っていた。
お前にそんな資格は無い!
だが、意識を掻き鳴らす、内面の悲痛な叫びに逆らって、ウルリックの手は、剣の柄を握ってしまっていた。
途端、妙な角度で力が掛かった為、横向きに置かれていた太刀は、祭壇の上からずり落ちる。
その前に並べられた、他の遺品の数々と共に。
がらがらと、盛大な音が鳴った。
床に様々な道具が転がった中、石の寝台の横で、ウルリックは両膝を付いて蹲っていた。
その手に、尚も太刀を握り締めて。
背を丸め、項垂れたまま、暫くの間、ウルリックはぴくりとも動かなかった。
「…うっ…」
両手で太刀を握り締めるウルリック、陰になった顔の、その口元から、微かな呻きが漏れ出ていた。
差し込む日差しが、孤独な背中を照らしていた。

祝詞を唱える僧侶の声が、青い空に朗々と響いて行く。
無数の墓の並ぶ小高い丘の上には、棺を埋めた跡も真新しい、小奇麗な墓石が新たに置かれていた。
その周りを、葬儀を取り仕切る僧侶を含め、四つの人影が取り囲む。
名前と没年の刻まれた墓石を見つめていたニッキが、その時、向かいに立つウルリックを、ちらと垣間見た。
ウルリックは、何処か虚ろな表情で墓標を見下ろしながら、その両腕に、白い布に包まれた太刀を抱えている。
面持ちとは対照的に頑なな様子で、彼は、自身の身長に匹敵する布の包みを、固く握り締めていた。
やがて一通りの葬儀は終わり、一礼を残して、僧侶が立ち去って行く。
丘の上の墓地の、更にその上を、城のような雲が流れて行った。
「…これで、本当にお別れだな」
鈍色の墓石を見下ろして、ヴラードが、ぽつりと呟いた。
「あたし達もね…」
強風に赤毛を掻き乱されながら、ニッキが付け加える。
それから、彼女は、未だ墓石を凝視し続けるウルリックへと、視線を移した。
「あんたは、まだ続けて行くんだろう?」
「…ああ」
その両腕に、形見となる太刀をしっかりと抱き締めて、ウルリックは、墓標に目を向けたまま頷いた。
「…俺は、他に、何も無いんだ…」
独白のような返答を受けて、ニッキは、一度、空を仰いだ。
秋の空は、そのまま飛び込んで行けそうな程の青さを湛え、生ける者の頭上に、何処までも広がっている。
「あたしさ…」
ニッキは、顔を下ろして口を開いた。
「…短い間だったけど、あんたと組めて良かったよ」
言われて、ウルリックも目元を持ち上げる。
「あんたは、まだこれからの人間なんだ。その刀もさ、土ン中で錆びさすよりは、新たに何かを見つけるのに使った方が、きっと旦那も喜ぶと思う」
「お似合いの餞別だよな。大事にしろよ」
二人の先達が、岐路に佇む者を暖かに見つめていた。
その一人、ヴラードが、後ろ頭を掻いて目を逸らす。
「…まあ、何だ、ほんと言うと、俺は初めの頃、お前の事が今一好きになれなかったんだけどな…でもまあ、その後、危ねえ所を何度か助けて貰ったし…」
「何度か、じゃなくて、何度も、の間違いだろ?」
「うっせえなあ。最後まで絡むなよ、おめえも」
お節介な槍使いに横から口を挟まれ、拗ねた性格の射手は口先を尖らせた。
その後、ヴラードは、ウルリックを上目遣いに覗き見て、照れ臭そうに告げる。
「…話が逸れちまった…だからその、何てえか…元気でやれよ!」
言われた当のウルリックは、きょとんとした顔を浮かべていた。
「あんたも素直じゃないねえ」
ニッキが、軽く肘でヴラードを小突きながら、微笑を交えてそう付け加えた。
その後、ニッキはふと真顔に戻ると、改めてウルリックを見遣る。
「最後になるけど、一ついいかい、ウル?」
その時、彼女の声には、いつに無く穏やかで、いつに無く真摯なものが含まれていた。
視界を満たす大海原に臨んだように、毅然と相手を見据えて、ニッキは告げる。
「死線の先に明日があるんじゃない。明日ってのは、あくせくしても、じっとしてても、泣いても笑っても、必ずやって来るもんなんだ」
ニッキの瞳に、剣を抱くウルリックが映り込む。
「…だから、心を曇らせるんじゃないよ…」
風が、一同の髪を揺らした。
「判った…」
布に包まれた太刀を手に、俯いていたウルリックは、その姿勢のまま口を開いた。
「…ありがとう…」
その一言は、野に咲く花の花弁の如く、風に舞い上がって吹き流された。
後に、淡く仄かな香りを残して。
彼方に見える山並へ向け、雲は緩やかに遠ざかって行く。
秋の風は、万物に分け隔て無く、優しき息吹を与える。
丘の緑が、去り行く時を送るかのように、軽やかに揺れていた。

〈斬風のウルリック 第三章 了〉
2006年12月23日(土) 11:25:39 Modified by funnybunny




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