斬風のウルリック 第三章:当たり前の風景 前編

作者:K・H


孟秋の風に乗り、天高く、雲は澄み切った空を走って行った。
黄色くなり始めた木の葉の舞い散る中、肩の広い人影が一つ、木々の間を伸びる石畳を歩いて行く。
他に行き交う人も無い細長い道を、大柄の孤影は、黙々と進んだ
暫くして、木立の間の道は終わり、石畳が広がる。
その道は、墓地へと繋がっていた。
無数に並ぶ墓石を臨んで、アガレスは、何とは無しに空を仰いだ。
昼前の墓地に、他の人影はやはり無く、周囲を囲う木々の上に、抜けるように青い空が広がるばかり。
赤や黄色の葉が散った小道を、アガレスは歩き出した。
その背に愛用の太刀は無く、また鎧も外している彼は、片手に酒瓶をぶら下げて、墓石の間を通り抜けて行った。
程無く、彼は、ある墓石の前で立ち止まった。
周りの墓と同じく、薄く苔生した墓石には、某かの名が刻まれている。
アガレスは、その墓の前に立ち止まると、少しの間、墓標の名を見つめていた。
優しく撫ぜるような、穏やかな視線が、墓の表面へと注がれる。
やがて、
「よう」
彼は、眼前の墓に、親しみを込めて声を掛けた。
他に誰もいない墓地には、涼やかな風が通り過ぎるのみ。
その中で、壮年の偉丈夫は、まるで子供のような柔らかな眼光を湛えて、物言わぬ墓石を俯瞰している。
「悪かったな、暫く来れないで。忙しい…って訳でもなかったんだが、近くに寄る機会が、中々無かったもんでな」
言って、アガレスは腰を曲げると、墓の周りに散った落ち葉を手で払う。
その後、彼は酒瓶の栓を引き抜くと、墓石の真上で、それを傾けた。
「その代わりっつったら何だが、上物だ」
酒精の匂いが、俄かに辺りに立ち込める。
「…お前も、昔っから、きつい酒が好きだったよなあ…まだガキの時分を出てなかった頃の俺に、無理強いして飲ませた挙句、二日酔いになった俺を散々笑い飛ばしてたっけ…あん時ゃ、本当難儀したぜ」
懐かしそうにそう語るアガレスの表情は、いつに無く暖かみを帯び、同時に、拭い切れぬ寂しさを漂わせていた。
瓶の口から、酒の最後の一滴が、墓石の上に滴り落ちた。
空瓶を下げたアガレスの頬を、一陣の風が撫ぜる。
涼しく、潤いのある風であった。
「…いい風が吹くようになったなぁ…」
蒼穹を見上げ、アガレスは呟く。
「実りの季節の到来だ…」
彼の頭上を、雲が、早足で横切って行った。

ウルリックは、起き抜けの冴えない顔を晒して、宿の階段を下りて行った。
頭の後ろ奥に、鉛を詰められたような感触が残っている。原因を考えた彼は、昨日の夜中過ぎまで、仲間の深酒に付き合わされた事を思い出し、更にむくれた顔をした。
階段を下りた先は、小さいながらも食堂になっていた。
朝と昼のちょうど中間の時刻、食堂には人の姿も少なく、玄関先に近い席に、一組の男女が腰を下ろしているのみ。
その、居合わせた二人の姿を認めて、ウルリックは、またしても不愉快そうな表情を浮かべた。
「おンや、ウル公が起きて来たぜ」
「ホントだ。あーあ、あの面は、完璧に二日酔いって相だね。旦那もあんたも、無理して飲ますから」
何やら歓談しあうヴラードとニッキの前で、ウルリックは気だるげに立ち止まった。
「お早う」
ニッキの挨拶にも、ウルリックは、浮かない顔で沈黙を守るばかり。
「口を開く元気も無いって? 肝の方は、まだまだ鍛錬が足りてないみたいだねぇ」
そう言って、赤毛の女は、からからと笑った。
その傍らで、やはり笑みを浮かべたヴラードが、からかい混じりの目線を、ウルリックへと送って遣す。
「しかし、あれだな、おめえも酒の味を覚えたんなら、次は女の方だな。今度、俺と旦那と三人で、夜の街に繰り出すか」
「…止めてくれ」
額を押さえ、心底憂鬱そうに、ウルリックは声を絞り出した。
それから、彼は最寄の椅子を引くと、全身を投げ出すように腰を落ち着けた。
「大分参ってるみたいね」
「当たり前だ…あんな飲まされ方をすれば、飛竜だって酔い潰れる…」
ニッキの言葉に、ウルリックは、いつにも増して低い声を出す。
「…どうして、お前らは、そう涼しい顔をしていられるんだ?」
「人生楽しんでるから」
あっけらかんと、ニッキが即答した。
「あんたもさ、休みの時位は、どっかで羽を伸ばしてくれば? さっきのヴラードの台詞じゃないけど、街中で女の子を引っ掛けてみるとか…」
「そうそう、篭りがちだもんなぁ、お前」
「…悪かったな」
言われて、ウルリックはいつものように、ふて腐れた表情を浮かべた。
ニッキが、一つ息をつく。
「ま、あたしらも、お互いに首を縄で繋ぎ合ってる訳じゃないからね、仕事以外の時間に何をしてようが、基本的に不干渉だけど」
「俺は、そんなに器用じゃない」
「所詮、斬り合いしか能が無いってか? さもしい事言ってないで、旦那を見習えよ」
ヴラードが脇から冷やかした一瞬、ウルリックの双眸に陰が過ぎった。
胸の奥、心の水底から不意に浮上した、深く濃い陰りであった。
ニッキもヴラードも、その一瞬の変化に気付く事は無かったが、黙り込んだ相手を見て、両者共、顔を見合わせる。
少しの間、天井を仰いでいたウルリックは、じきに顔を戻すと、徐に周りを見回す。
「…アガレスは?」
「ああ、旦那なら、今さっき出掛けてったよ。今日は帰らないかも知れない、みたいな事言ってたけど」
「そうか…珍しいな」
呟いたウルリックの横で、ニッキが、窓の外へ視線を投げ掛ける。
「旦那だっていい歳だからね、行き付けの相手がいたって、さして不思議じゃないだろうさ」
「そうだな…」
ぽつりと上がったウルリックの呟きが、静かな食堂に漂った。
窓の外で、一枚の木の葉が、風に吹かれて飛ばされて行った。

秋空の下、アガレスは、墓石の前に佇んでいた。
「…って事で、俺の身の周りの出来事っつったら、概ねそんなもんか…独り者の根無し草に、今更何が起こるでもなし…」
応えず、動かずの墓標に向け、それでも、彼は親しげに言葉を掛けている。他に人の無い墓地に、彼の声は、ただ周囲の隙間に吸い込まれて行くのみ。
「そうそう、仲間の顔触れも随分と変わっちまったがな、今、面白い奴がいるんだ。三年位前に拾った、まだケツの青い小僧なんだが…」
その時のアガレスの声には、少し誇らしげな響きが含まれていた。
「これがまた、中々どうして、人の目を惹き付けやがるのよ。いい方に転ぶにしろ、悪い方に転ぶにしろ、ありゃあ恐らく、平凡とは縁遠い人生を送る事ンなんだろう。勿論、当人にも周りにも、より良い結果になるように仕上げたいが」
そこで、アガレスは、出し抜けにくすりと笑った。
「しかし、今にしてみれば、あの頃、お前がどんな風に俺を見てたのか、何となく判る気がするよ。歳でもお前を追い抜いちまったし、こうしてお前を見下ろすなんてな、考えてみりゃ、本当おかしな話だ」
アガレスは、遠くの木立を眺めた。
流れ行く雲の下、木々は枝葉で風を梳く。
空と大地の匂いの混じった、息吹の如き気流は、じっと佇むアガレスの全身にも、遠慮無く吹き付け、そして吹き抜けて行った。
「…通り過ぎてみなけりゃ、気付けない事もあるもんだな。尤も、そんな風にして気付いた時ってのは、もう、後戻りが利かなくなってる場合が殆どだが…」
独白してから、彼は、墓石を軽く叩いた。
「悪い。湿って来ちまったな。お互い、そんな柄じゃねえのによ」
言って、アガレスは口元を綻ばせた。
彼と、彼が相対するものの周囲では、乾いた風が駆け回り、生い茂る草木をざわめかせている。その清涼な響きは、何者かが笑い合う声のようにも、戯れ合う足音のようにも聞こえていた。
澄んだ空を白い雲が流れ、日はますます高く天を上る。
「…それじゃ、俺、そろそろ行くわ」
やがて、アガレスは酒の空き瓶を肩に担ぐと、墓前へと微笑みを寄せる。
「今度は、成る丈近い内に、春頃にでも立ち寄るようにしようかな…まあ、期待しないで待っててくれや」
最後に軽く手を掲げると、アガレスは墓碑に背を向け、石畳の道を歩き出した。
後には、酒に濡れた墓石だけが残される。
薄く苔生し、黒ずんだ墓標は名も霞み、他の墓と同じく、広々とした景色の一部と化していた。
ただ、その墓碑の中央には、降り積もる歳月に半ば輪郭を呑まれながらも、一個の紋章が刻まれている。
緑青色の苔の中に辛うじて浮かぶ紋、それは二輪の薔薇を表していた。

食器が奏でる陽気な騒音を、ウルリックは、陰気な面持ちで聞き流していた。
正午前の食堂には少しずつ人の姿が増え始め、昼食を取る来客の作る喧騒が、潮が満ちて行くように、テーブルの隙間を埋めて行く。
仏頂面で椅子に腰掛けるウルリックの前でも、二人の仲間が、卓上の料理を次々と減らして行った。
「あんたは食べないの?」
魚介類の入ったスープを啜りながら、ニッキが、ウルリックを一瞥した。
「見ているだけで胸焼けがする。夜までは、何も要らない」
「ははあ、重症だねえ」
丸っきり他人事の口調で言うと、ニッキはまた顎を上下させた。
「ほっとけ、ほっとけ。参ってる奴の顔を見てると、こっちの飯が不味くなる」
薄情な事を言ったヴラードは、挽肉の炒め物を頬張った。溢れた肉汁が、その口元に僅かに覗いていた。
ウルリックは、眉根を寄せ、そうした光景から目を逸らすと、天井の方へと目線を動かした。
暫し、所在無さそうに視線を移ろわせていたウルリックは、徐に目を戻すと、眼前で食事を続ける仲間二人を見遣った。
「一つ訊きたいんだが…」
少し遠慮がちに、ウルリックは口を開く。
「二人は、どうして狩人になったんだ?」
「ああん?」
食指を忙しなく動かしていたヴラードが、不意の質問に手を止める。
同じく、ニッキも、ウルリックを見つめ返していた。
「どうして、って…そうだねぇ」
食事の手を休めて、ニッキは、視線を宙に向けた。
「まあ、複雑な理由は無いかな。あたしの生家は貧乏農家でさ、水呑百姓とまでは言わないけど、暮らしが元々苦しくって、かつ、貧乏人の例に漏れず子沢山でね。そのままじゃあ生活が立ち行かないから、手っ取り早く稼げそうな職種に就いたって訳。あたしが家を出れば、その分、口減らしにもなるだろうって思ったのもあったし」
至ってあっさりと、ニッキは自身の生い立ちを説明した。
ウルリックが、横目でちらりと彼女を見る。
「…家族を、養ってるのか?」
「んー…四年位前までは仕送りもしてたけど、今は、下の弟達もそれぞれに独立したから、まあまあ気楽にやってるねぇ」
「そうか…」
ウルリックは、何となく納得した。
日頃の彼女の厳しい態度、常に生き残る事を最優先に考える彼女の判断は、その辺りの事情に根付いたものであったのだろう。
得心するウルリックの横で、ニッキが、向かいのヴラードへ目を向ける。
「そう言や、あんたは何か理由があったんだっけ?」
「心外な言い方すんなあ。まるで、俺が何も考えてないみたいじゃねえか」
ぞんざいな言い草に頬を膨らませ、ヴラードは反駁する。
「俺は…何つうの?…憧れ、みたいなものがあったんだよ。ほれ、一般人からすりゃあよ、この仕事、月に一二度稼ぎに出れば、後は遊んで暮らせる、みたいな固定観念があんじゃねえか。だから、俺もガキの時分から憧れててよ。楽して儲けられていいなぁ、なんつって」
「それで、そういう妄想を、実際に狩人になるまで疑いもせず、この仕事に就いたっての? あんた、それ、実質何も考えてないのと変わんないよ?」
「うっせえなあ、いいだろ、別に」
呆れ顔でニッキが評すると、ヴラードの方も、むきになって言い返す。
何やら言い争いを始める両者の前で、ウルリックは、やおら卓上に目を落とした。
「…アガレスは、どうして狩人になったんだろう…?」
湖面に泡が浮かぶように、静かに上がったその言葉に、ニッキもヴラードも、発言者の方へと顔を向ける。
「…さあ? あんまり昔の事は話さないからねぇ、あの旦那も…」
息をついて、ニッキが応えた。
顔を起こしたウルリックの瞳に、赤毛の女が映り込んだ。
「古い付き合いじゃないのか?」
「古いったって、あたしも、仲間になった五年前以前の事は知らないよ」
「一年遅れで入った俺が知ってる道理もねえしな」
腕組みをして、ヴラードも一言を加えた。
先輩二人の言葉に、ウルリックは唇を結んだ。
「まあ、気になるんだったら、今度当人に訊いてみりゃいいさ」
ニッキが、透明な果実酒に口を付けて、そう言った。
やがて、広くもない食堂に喧騒が充分に満ち足りた頃、一同の座った席には、すっかり空になった皿ばかりが並んでいた。
「さて、混んで来た事だし、部屋に戻るとするかね」
椅子から腰を浮かせた所で、ニッキは、ふと仲間二人を見遣る。
「ああ、そうそう、今日の午後から六日ばかり、あたし出掛けて来るから。旦那の方には、もう言ってあるんだけど」
「出掛けるって…ああ、また例の鍛冶屋ンとこへ行くんだな?」
ヴラードが、にやけた顔をして冷やかした。
「まめだよなぁ。ったく、生娘みたいにそわそわして、男の所へ通うたァよ」
「何処へ行こうがあたしの勝手だろ。大体、生娘みたいにって言い方からして気に喰わないね。あたしは、まだ二十八だ」
「威張る歳なのか、それ?」
一転して穏やかならぬ視線を走らせた赤毛の女を、ウルリックは、少し困惑した様子で見上げていた。
程無く、ニッキは立ち上がると、ぷいと顔を横に逸らす。
「全く、これ以上付き合ってられないね。そろそろ支度もしなきゃなんないし」
次いで、彼女は、ウルリックへと視線を移した。
「ウル、あんたも早い内に、彼女の一人位見付けておいた方がいいよ。でないと、こいつみたいに、万事ひがみっぽくなって、ますます女にもてない駄目男になるからね」
「…うるせえな」
図星を差されてか、俄然むくれたヴラードを完全に無視し、ニッキは目配せして見せる。
「先輩からの忠告って事で。人生は生きてこそなんだからさ、楽しみ給えよ」
言い残し、彼女は席を立った。
顰め面をして舌を出し、小声で悪態をつくヴラードの横で、ウルリックは、やはり困ったように、遠ざかるその背を見送っていた。

鮮やかな赤い羽を持つ鳥が、木々の上を飛び去って行った。
鬱蒼と生い茂る細長い木々は、その隙間につる草を垂らし、元々悪い視界を更に利かなくする。梢の間から覗く空は良く晴れていたが、密林の下に届く陽光は微量で、薄暗い地面の上を、四つの人影は進んでいた。
「この辺りは、まだ夏の気配が残ってるみたいだな…」
一行の先頭、黒いまでの深緑に覆われた頭上を仰いでいたアガレスは、ややあって、肩越しに後ろを見遣る。
「そう言や、例の彼氏の方はどうだった? 少しは甘えて来れたか?」
軽い調子で呼び掛けられたニッキは、前を歩くアガレスへ、疲れた面持ちを向ける。
「いやあ、甘えさせて欲しい位だったねぇ…何せ、溜まった洗濯物の始末から、食い物始め、色んな物の買出し、掃除に炊事と、そんな事ばっかりだったもの」
「はは、男ってのは、女が出来ると、途端にずぼらになったりするからなぁ。まあ、そういうしょっぱい経験も、その内、いい思い出になんだろうよ。喧嘩の時にゃ、有効な持ち札にもなるだろうし」
アガレスは、広い肩を揺らして笑った。
その様子を、一行の最後尾から、ウルリックがじっと眺めていた。
それは、当たり前の風景だった。
彼らにとっての、ごく平凡な日常だった。
緑の天蓋の作る陰は至る所に溜まり、木立の隙間からは、時折、赤い体色を持った動くものの姿がちらほらと垣間見える。
アガレスが、また豪快に笑った。
遠巻きに周囲を囲み、油断など欠片も見せずに人間達を凝視する無数の視線、それらをてんで意に介さず、四人の来訪者は、街角を歩くのと大した差も無い歩調で、密林を平然と闊歩して行く。
ウルリックの右手の木陰を、また、影が走った。
小さい、とは、彼ら狩人の感覚としてであろう。
時折、木々の後ろに覗く影は、どれも標準的な人間の体格に近く、中には、遠目からでも、明らかに人の背丈を超えるものまで確認出来る。
市中の人間が目にすれば、それだけで、神経と体力とを磨り減らすに違いない。
まして、林の木陰から覗く黄色い瞳など、例え偶然でも視界に入れようものなら、少なくとも半月の間は夢にうなされるだろう。
しかし、そうした見えざる警戒と緊張の渦の中を、四人の狩人は、至極平然と歩みを進めて行く。環視する側の獣達も、一定以上の距離には決して踏み込もうとせず、咆哮すら上げる様子もない。
人より優れた嗅覚を持つ彼らには判るのかも知れない。
四人の狩人達が放つ臭い、獣以上に獣らしい異質な臭いを。
人の姿形は取っていても、それは、決して近付いてはならぬ、異界からの来訪者だった。
「だから、お前は失敗すんだ。よし、今度、俺が口説き方を一から教えてやる」
「要らねえよ、そんなん。女の一人や二人、この先幾らでも…」
「馬鹿、そういう考え方が、既に後ろ向きだってんだよ。三十路過ぎても、同じ台詞吐いてるお前の姿が目に浮かぶぜ」
陽気な喧騒が、薄暗い密林の奥へ吸い込まれて行く。
ヴラードの首筋に腕を絡ませ、その頭を小突いているアガレスの姿を、ウルリックは見つめていた。
まるで緩み切った態度ではあるが、一度、襲い来る獲物の姿を目の端にでも捉えれば、その眼差し、動作は、瞬時にして別のものへと一変するだろう。
直後に巻き起こるのは、真紅の旋風。
よくよく注意して窺えば、アガレスの一挙手一投足、吐き出す言葉の端々には、無言の内の威圧が僅かに含まれている。それが不可視の針となり、周囲の獣達を縫い止めていた。
危険な獣の徘徊する密林の中で、ごく平然と談笑するなど、常人の感覚を以ってすれば非日常の景色、人によっては狂気の世界である。
しかし、それが彼の、彼らにとっての、当たり前の風景だった。
程無くして、木立が途切れた。
密林の切れた先には、雑多な種類の草花が繁茂する草地が広がり、その脇には、幅広い川が、轟々と水音を立てて流れている。近くの滝、及び川縁から吹き上がる細かな水の飛沫が辺りに漂い、付近は、薄く霞掛かったように曇っていた。
「さて、肝心の獲物は何処かな、と…」
アガレスが、周りを見回して独白した。
その双眸から溢れる眼光は、既に先刻までの彼のものではない。切れ込むような視線を周囲に放っていたアガレスは、やがて、川面の一点で目を留める。
流れる水の最中、水流を割いて現れた巨大な背びれが、岸辺からでも確認出来た。
差し詰め、巨人の落として行った扇のような背びれは、流れる水の只中でも動じず、日輪に照らし出されている。
「でけえな…」
些か声を硬くして、ヴラードが呟いた。
傍らで、アガレスが鼻息をつく。
「そのでかさが、そもそもの問題なんだ。あんなもんが河川を塞いでやがるから、流域の村じゃ、ろくに魚も取れやしない。家畜はいつの間か姿を消すし、ましてや、舟でうっかり鉢合わせしようもんなら、嵐に遭ったみたいに粉微塵と来らァ」
そこまで言うと、壮年の狩人は、声の調子を若干変えた。
「…思うに、大きいって事も、ある種の宿業みたいなもんなのかもな。あれが、せめてもう少し小さけりゃ、泣きを見る人間の数も、ずっと減って来るだろうに。大体、連中にしても、決して人間を困らせたくて、日々を生きてる訳じゃねえだろう。互いに悪意が無くとも起こっちまうのが、衝突ってもんの本質なのかも知れねえが…」
いつに無く感傷的な意見を口に出すと、アガレスは頭を掻き毟った。
「何言ってんだかな、俺も…理屈はどうあれ、俺達ゃ俺達の仕事をするだけだ」
それから、彼は、自身の背後で佇むウルリックへ目を向ける。
「どうした? いいようなら始めるぞ」
「…ああ」
少し遅れて、ウルリックは頷いた。
人の数だけ日常があるなら、自分の日常とはどのような世界であろうか。
今、眼前に立つ者と、それは、どの程度まで重なっているのだろうか。
鉄器の奏でる音が、蒼天の下に鳴り響く。
ともあれ、今日も、彼らの一日が始まろうとしていた。

川の流れる音だけが、暫し、轟いていた。
片手に小さな筒のような物を持って、アガレスは、後方の仲間達へ向け、頷いて見せる。
それぞれに距離を取り、武器を構えた他の三人も、各々が首を縦に振って応えた。
アガレスは、懐から取り出した火種から火を移すと、白煙を上げ出した筒を川面へと放り投げる。
アガレスが急ぎ足で岸から離れる途中、川の中央付近から、盛大に水柱が立ち昇った。
間を置かず、甲高い絶叫が水音を裂いて木霊する。
そして、その残響の消えぬ内、居並ぶ四人の狩人の頭上から、巨大な魚影が降って来た。
火薬の爆音によって水から追われた水竜は、地面へ落下すると、紺色の鱗に覆われた全身を大地に打ち付けて身悶えする。
足の生えた魚のような様相。
しかし、背びれや胸びれを含めたその巨体は、既に魚などという分類には収まり切らず、一個の独立した生物としての印象を際立たせる。
飛ぶ事を止め、水の内にあっても、それは正しく飛竜であった。
その大いなる生命へ向け、今、四つの影が殺到する。
未だ、爆音の影響から回復せぬ水竜に、狩人達は、己が武器を叩き付けた。
銀光が宙を滑る度、のたうつ水竜の顎からは、悲鳴と怒号が迸る。
やがて、その身を一度大きくくねらせると、水竜は、腹の脇に生える二本の足で地を踏み付け、しかと直立した。
「離れろ!」
指揮者の指示に、他の三人は即座に反応した。
薄く開いた口元から荒い息を吐く水竜の周りを、四人の狩人達は等間隔になって取り囲む。
「流石にこれだけの図体だと、有効打を与えるのも一苦労だぜ…」
アガレスの右側で、ヴラードが呟いた。
水竜の斜め後ろで、ニッキが槍を構え直す。
川縁を後ろにして、ウルリックが、剣の切っ先を獲物に向けた。
そして、水竜の正面では、大刀を掲げて、アガレスが厳しい面持ちを作っていた。
むず痒いまでの、静かなる睨み合いの果てに、アガレスは叫んだ。
「腹へ回れ!」
言って、彼は水竜の注意を向けるべく、正面から敵へ突進する。
体躯とは不釣合いな程の小さな魚眼に、接近する獲物を捉えた時、既に水竜は動きを起こしていた。一瞬、首を胴の方へと縮め、圧縮された力を、そのまま前方へと解放したのである。
「ぐっ!」
アガレスが呻いた。
巨体より繰り出された体当たりを太刀で完全に防いで尚、アガレスの体躯は、元来た方向へと押し戻される。翳した剛刀が、刹那の間たわむ程の衝撃を受け、さしもの偉丈夫も体勢を崩した。
間を置かず、水竜は、片膝を付いた相手へ喰らい付こうと顎を広げる。
しかし、顔を上げたアガレスへ、不吉な影が差した直後、巨体の懐へ飛び込んだウルリックが、頭上へ向け力強く剣を振り上げた。
水竜の、鱗に覆われていない白い腹部に、鋭利な剣先が吸い込まれる。
遅れて駆け付けたニッキが、同様に、真上へと槍を突き上げた。
苦しげに二三度首を振り回して、水竜がよろめいた。
その首筋に、今度は、ヴラードが打ち出した、麻痺毒入りの弾丸が突き刺さる。
「よーし、いいぞ。そのまま、引っ繰り返しちまえ」
再び太刀を構えたアガレスの前で、その時、水竜が、体を半回転させて尻尾を振るった。
まともに浴びれば昏倒は免れぬであろう一撃を、しかし、咄嗟にアガレスの前に割って入ったニッキが、体の正面に翳した盾で防ぐ。
「旦那、ボサっとしてんじゃないよ。休みボケでも出てるのかい?」
「悪い悪い」
ニッキが肩越しに非難すると、アガレスは軽く笑って詫びた。
直後、アガレスは、下から上へと太刀を振り上げる。
縦に走った銀光は、動きを止めている水竜の、尾の付け根を斜めに切り裂いた。
度重なる近距離からの攻撃に、巨体を誇る水竜も僅かにたじろいだ。
すると、水竜は、大股で数歩を後退すると、体の向きを百八十度回転させ、川辺へと走り出した。
「奴を水へ遣るな!」
指示しながらも、アガレスも太刀を一旦背に戻し、駆け足で獲物を追う。
二本の足で逃げる水竜を、四人の狩人達が猛然と追跡する。
一同の先頭を切って疾駆したのは、ウルリックであった。
軽装ゆえの利点、かさ張る武器を持たない彼は、同じ条件下なら仲間内の誰よりも早く行動を起こす事が出来たし、彼自身、それを己の役割とも思っていた。
だが、そうした自負以外にも、最近のウルリックには、訳も無く急く傾向があったのも事実である。
「あまり深追いするな! 水に潜られたら、また燻し出しゃいいんだ!」
一人だけ突出して行くその背へ向け、不安げに、ニッキが呼び掛けた。
ウルリックは頷きもせず、ますます両脚の回転を速めて行く。
焦燥という感情は、時に、熱病のように人の心に取り付く事がある。
原因など、当の本人にすら判るものではない。
まるで、見知らぬ場所から風に運ばれ舞い落ちた、正体も知れぬ木の種が、辿り着いた土地で芽吹いた後に、急速に枝葉を広げて行くように。
そして、忌むべきその宿木が、ひと度成長したが最後、本来肥沃である筈の心の大地は、深く濃い影に覆われてしまう。
向かうべき方角から差す光を遮り、また、刻々と揺れ動いて一切の実体を掴ませない、不気味なる影に。
後ろを見せて川面へと走る飛竜を敢然と追い、ウルリックは、まるで無警戒に、水竜の背後へと迫って行った。
刹那の出来事であった。
それは、水に潜る前の予備動作、若しくは、ほんの気紛れのようなものだったかも知れない。
川淵で立ち止まった水竜は、一切の予兆を見せず、軽く尾を振った。
尤も、この場合に軽くと言うのは、水竜自身の体格と比較しての話である。
攻撃的な動作でこそないが、人間程度なら容易く打ち倒せる程の尾の一振りは、その時、水竜の真後ろにまで迫り、正に剣を振り被ったウルリックへ、横殴りの不意打ちとなって襲い掛かった。
「…何っ?」
咄嗟に左腕で頭を庇ったものの、ウルリックの両足は地面を離れ、走って来た方向と直角の向きに跳ね飛ばされる。
川に飛び込んだ水竜が、流れる水面に太い水柱を突き立てた頃、川縁近くの土を滑ったウルリックは、漸く顔を起こした。
「舐めた真似を…!」
ウルリックが、珍しく、苛立ちも露に吐き捨てた。
だが、立ち上がろうとして初めて、彼は、自身の右足に掛かる異様な抵抗に気が付いた。
漆黒の瞳の向けられた先、黒ずんだ細い線が、右の足に纏わり付いている。
岸辺一帯に群生するツタが、倒れ込んだウルリックの脛の辺りにまで絡み付いていたのである。飛ばされた角度が悪かったか、ツタ同士が縦横に折り重なった、言わば天然の網の中に、ウルリックは片足を突っ込んでいた。
「おい、ふざけるなよ…!」
不快感と焦りとを声の内に滲ませながら、ウルリックは、両手で右足を引っ張った。
しかし、時に家や橋など建築物の補強に使われる程のしなりを持ったツタは、生半可な力にはびくともしない。むしろ、ウルリックがもがく事で、絡み付いたツタは、余計に彼の足へ食い込んで来る。
「何やってる!」
後から追い付いて来たニッキが、もがくウルリックの元へ駆け寄った。
「…ええい!」
力尽くで足を引き抜くのを諦め、ウルリックは、懐から小刀を抜いた。
その時であった。
それまで水中に潜っていた水竜が、突如、川面から顔を突き出したのである。
岸辺に群がる狩人、陸と水との境界を越える事の出来ない彼らを、水界の王は忌々しげに睥睨すると、その口を大きく押し開いた。
「…あれは…まずい!」
その様子を眺めていたニッキは、顔を強張らせると、未だ動けずにいるウルリックの前へ、盾を構えて立ち塞がる。
鼓膜を掻き鳴らす、凄まじいばかりの轟音が鳴り響いた。
水竜の口腔から打ち出された水の奔流は、空中に直線を描き、岸辺の地面を抉って、居並ぶ敵を横薙ぎに蹴散らした。
「あっ…!」
ニッキの漏らした呻きを、一瞬、ウルリックは耳にしたような気がした。
弾き飛ばされた盾が、宙を舞う。
霧のように細かな水飛沫が舞い落ちる中、しかし、ウルリックの右足は、尚も戒めから解き放たれずにいた。
少しの間閉ざしていた目を、ウルリックは開いた。
川の中程にある水竜を中心として、岸辺の土が扇形に削られている。猛き水の牙が走った跡は、彼のすぐ前にまで達し、地面に深い溝を刻んでいた。
後方へと吹き飛ばされたのであろう、先刻まで彼の前にあった赤毛の女の姿は最早無く、川面から姿を覗かせる水竜との間を遮るものは、今や何も無い。
蹲るウルリックの姿を認めて、水竜が、再び、上下に顎を広げた。
二度目の迸り。
ウルリックの黒い双眸に、迫り来る水の線が、くっきりと映し出される。
地面を削りながら、一直線に自分の元へと押し寄せる圧縮された水の塊を、ウルリックは、半ば呆然と見つめていた。
水の線が、標的を捉えて砕けた。
ウルリックの瞳孔が、俄かに拡散する。
その時、彼の目に映っていたもの。
それは、己を庇って水の射線軸上に立ちはだかり、そして今、己の方へと倒れ込む、壮年の偉丈夫の姿だった。

重いものが、自分の肩に圧し掛かって来た。
呆然と上の方を見上げていたウルリックへ、アガレスの大柄な体が崩れ落ちた。
たっぷり数秒を経てから、ウルリックは、漸く視線を下ろす。
深く目を閉ざし、既に意識を無くしているアガレスの顔を、ウルリックは、何か物忘れにでも取り付かれたような表情で見下ろした。
相手の体を抱き止めていた手に、生暖かな感触が伝わる。
それが多量の鮮血である事に気付いて、ウルリックの瞳の奥に、初めて悔恨の光が生まれた。
「…あ…」
小さく絞り出されたウルリックの呟きを、空を裂く水流の轟音が掻き消した。
河川中の水竜より、再び横薙ぎに打ち出された水の線は、ウルリックの足元にまで迫り、撒き散らした土共々、彼とアガレスを吹き飛ばした。
ツタの切れ端諸共、地面へと落着したウルリックは、自身の横手でうつ伏せに倒れているアガレスへ、這いずりながらも近寄ろうとする。
「旦那…! 嘘だろ?…こんなの嘘だろ! 旦那よォ!」
ヴラードが、遠くで喚いている。
やっとの事でアガレスの元へと這い寄ったウルリックは、その肩へ触れようとして、たちまち顔色を無くした。
アガレスの脇腹に大きく穿たれた傷からは、こんこんと血が溢れ、それは最早、周囲の地面にまで広がっていた。
「…あ…あ…」
発するべき言葉を、二度三度、ウルリックは喉の奥へと押し込んでいた。
そして、
「アガレスッ!」
聞く者の耳を突き刺す叫びが、遠く密林の木立にまで拡散して行った。
川の内より、水竜が、身を躍らせた。
陽光に水滴を光らせ、地面と平行に宙を滑った水竜は、その巨体を以って、進路上にいたヴラードを跳ね飛ばすと、ウルリックの斜め向かいで大地に立った。
生じた地響きに釣られるように、ウルリックは、ゆっくりと顔を起こす。
水竜もまた、彼の方へと体を向けた。
ウルリックは、緩やかな動作で膝を伸ばして行った。
その漆黒の双眸には、今、狂おしいまでの輝きが灯されていた。
彼が心の奥底に抱え、抑え続けてきたある感情。それはまた、仲間との生活を経る内、当人にも気付かぬ内に、いつしか薄れ始めていた感情でもあった。
しかし、それは今、胸の内の重い扉をこじ開けて、久方ぶりに姿を現し、主を完全に支配しようとする。
脳裏を埋め尽くす、紅い光。
それは、怒りと呼ばれる感情だった。
2006年12月23日(土) 11:23:15 Modified by funnybunny




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