斬風のウルリック 第二章:王女と狩人 後編

作者:K・H


岩で囲まれた長い通路を、五つの人影が、相次いで通り過ぎて行った。
「これは失礼しました。モルセイス伯直々の御依頼を受けた方々であったとは。私も、昨日の夜から、獣に追われ霧に巻かれの繰り返しで、いつに無く気が立っておりましてな、非礼はお詫び申し上げたい」
ランプを手に、先頭を行く老年の男は、丁寧な言葉遣いでそう言った。
「まあ、非礼はこの際お互い様だからいいんだけどよ…俺が悪乗りし過ぎたってのもあったし…」
頬を掻いて、アガレスがぼそぼそと独りごちた。
「…けど、爺さん、あんたも随分と肝の据わった人だな。この先にある、あんたらが夜を明かした場所ってのは、元は飛竜のねぐらだった所なんだぜ?」
すぐ後ろを歩くアガレスの言葉に、老人は、肩越しに振り返る。
「何と、左様であったか…散々辺りを彷徨った果てに、漸くこの洞窟まで辿り着きましてな。沼の獣も立ち入らぬ故、一夜の宿には相応しかろうと…しかし、それが飛竜の巣穴であったとは、いやはや…」
「穴の主は、大分前にいなくなったみたいだがな。それでも、他のトカゲ共にすりゃ、恐ろしい場所って記憶が強いんだろうから、今も内部までは入り込まないんだろ。奴らにとって暮らし易い環境って訳でもなし」
老人と話し込むアガレスの後ろで、ヴラードが、ニッキへ囁き掛ける。
「…全く、脅かさないで欲しいもんだぜ。あんなナリで、穴から顔だけ出された日にゃ、拝まされるこっちは心臓に悪過ぎらァ…」
「あたしは、どっちかって言うと、あんたの絶叫の方にびっくりしたけどね」
ニッキは、苦笑交じりに応えた。
それぞれが、それぞれに言葉を交わす中、ウルリックだけは、どちらの話の輪にも加わらず、黙々と歩を進めて行った。
程無くして岩の通路は途切れ、赤や白の薄明かりが五人を迎えた。
先と同じく、壁から露出した鉱石が、何処からか届く淡い光を周囲に撒き散らす。
洞窟の入口にあった空間と比べ随分と狭い、しかし、人が隠れるには充分な広さの、ほぼ円形の空間が、そこにあった。
小さな水場が、岩陰の隅に覗く。
か細くはあるが、天然の照明に浮かぶ空間には焚火の跡もあり、痩せたつる草の燃えカスが、床の焦げ跡からはみ出ていた。
そして、円形の空間の壁際に、毛布に全身を包んだ、もう一人の遭難者が座り込んでいた。
「ルハリ様、御喜び下さい。天は、いえ、この地の聡明なる統治者は、我らを御見捨てにはなりませんでしたぞ」
横穴から降りるなり、喜色満面で、老人は、座り込んでいる相手へと話し掛けた。
「…オイクリート? 戻ったの?」
ルハリと呼ばれたその相手は、微かに首を持ち上げ、怪訝そうな声を上げる。
高く細い、うら若い女の声だった。
老人、オイクリートは、尚も笑みを浮かべつつ、動かない主の元へ歩み寄る。
「すぐに御支度をなさって下さい。彼らが、この魔境を脱する道案内を務めてくれましょうぞ」
「その方々が…?」
呟いて、蹲っていた人影は立ち上がった。
鉱石の煌きが、その表を浮かび上がらせる。
細く、白い顔。すらりとした首筋には、腰まで伸びた亜麻色の髪が垂れ、紺碧の瞳が、老いた従者の後ろに並ぶ四人の狩人を捉える。
ヴラードが、口笛を吹いた。
ニッキも、相手の容姿を認めて、目を丸くする。
「こりゃまた、こんな穴蔵とは場違いな程に可愛らしいお嬢さんだ…」
呟いてから、彼女は、右隣に立つウルリックを垣間見た。
「歳は、あんたと近そうじゃないか」
「…だから何だ?」
含みのある物言いに、ウルリックは、ただ冷たい一瞥を返した。
一行の先頭で、アガレスが頬を掻く。
「…何処かの姫君かな?」
その言葉を受けて、ルハリの傍らに立ったオイクリートが、照れと誇りの入り混じった微笑を返す。
「如何にも。こちらに在らせられる方こそ…」
「ちょっと待って、オイクリート」
彼の紹介は、当のルハリによって遮られた。
ルハリは、紺碧の双眸に、いつしか警戒と明らかな敵意の光を灯して、眼前に佇む四人の来訪者を睨んでいる。
「…こいつら、狩人じゃないの?」
「さ、左様ですが、姫様、どの様な手合いであれ、今現在における我らの窮状を救ってくれる者に変わりは無い筈…ましてや、彼らは、この地の領主閣下より直々の…」
「黙りなさい」
凛とした声が、オイクリートの弁明をはね付けた。
「私はこれ以上、下賎な守銭奴などとは関わりたくないし、そんな連中の助けを借りるなど沙汰の外です。来賓の迎えにこんな連中を遣すというなら、モルセイス伯の仁政も、畢竟風評のみに過ぎないという事。大人しく身の朽ちるに任せた方がましです」
厳しい口調で一方的に捲くし立てると、ルハリは、再び、四人の狩人をきつく睨んだ。
一方で、当の狩人達は、互いに何やら囁き合う。
「…おい、何か言われてるぞ。お前、女の恨みを買うような真似したか?」
「俺? 知らねえよ。旦那だろ? いつだか、妓館のツケを踏み倒して逃げたって…」
「馬鹿、ありゃ二十年近く前の話だ。時効だ、時効。お前こそ、こないだ内、集会所の姐ちゃんに粉掛けて…」
「何を、陰でこそこそ話し込んでいるの、無礼者!」
苛立ちを隠さない声が、密談に熱中する男二人に降り掛かった。
言われて、アガレスも、ルハリの方へと向き直る。
「いや、悪い。そりゃそうと、そっちにも何やら込み入った事情があるようだが、俺らにも、依頼を受けた都合ってもんがあるんだ。ムサいのばかりで済まないんだが、取り合えず、一緒に来てくんねえか?」
「嫌よ」
ルハリが、即答した。
身も蓋も無い回答に、流石のアガレスも、顔を顰める。
「おいおい、こんな風邪引きそうな所で、駄々こねないでくれよ。あんたが、何処の何方様だか知らねえが…」
「何ですって? あなた達、迎えに来た相手の事も把握していないと言うの?」
アガレスの嘆願は、非難の言葉に遮ぎられた。
「…まあ、急な話だったからなあ…」
「信じられない…でも、あなた達らしいかもね。金の話に釣られれば、すぐにうかうかと首を突っ込んで…」
声を落としたアガレスへ、心底嫌そうな眼差しを送り付けると、ルハリは胸を反らす。
「私は、ルハリ・クリムヒルト。ここより西に位置する、オルト公国の公女です」
鉱石の赤い光が、紅潮した頬を照らす。
傍らで、オイクリートが心配そうに見遣る中、ルハリは、昂然と名乗りを上げた。
恥じ入る所の無い、毅然とした姿勢と声音。それらは、相手に対しての礼節と言うより、王侯として、己に向けて誇りを示す為であったろう。
ところが、そうした全霊を賭すに等しい振舞にも、下賎な守銭奴達は、揃って首を捻るばかり。
「オルト公国だあ? 知らんなあ。聞いた事あるか?」
「旅烏の旦那が知らねえ事、俺が知ってる訳ねえだろ」
「あたしも初耳だねぇ。そんな国が近くにあったんだ。あんたはどう?」
「知らん」
頬の筋を引き攣らせるルハリを置いて、四人の狩人達は、思い思いの事を忌憚無く口外に漏らして行く。
天井から滴る水の音が、白んだ時を刻んだ。
やがて、咳払いを一つ挟んで、アガレスが、改めてルハリの方へ向き直った。
「…参ったなァ…この手の連中の相手ってのは、俺も得意じゃないんだが…」
最年長の狩人は、何やらぼやいた末、上目遣いに王族を見遣る。
「では、片田舎のお姫様、願わくば、我らと共に俗世へと御戻り下さること、承知して頂けませんかな?」
慇懃無礼な物言いは、ルハリの瞳の光に、余計に憤怒の色合いを塗り重ねて行った。

ぬかるんだ大地には、さながら、空から落ちて砕け散った鏡の破片のように、幾つもの水溜りが生じていた。
灰色の空を映し出す水面を踏み付け、六つの人影が、薄く霧の掛かる沼地を進んで行く。
先頭を歩く、太刀を背負った偉丈夫は、広い肩を竦めた。
「…あったく、探索よか、説得の方に労力を費やす羽目ンなるとは思いもしなかった…」
いっそ、この霧が、自分以外の全てを呑み込んで行ってくれないだろうか。
叶う筈も無く、また年甲斐も無い願望を胸中に抱きつつ、アガレスは、太い首筋を解きほぐした。
何も答えず、霧はただ漂い続ける。
少しして、アガレスは、従者に引かれて後ろを歩くルハリを、肩越しに顧みた。
「ところで姫さんよ、あんたは、どうしてそこまで俺らを毛嫌いすんだ?」
出し抜けの質問を浴び、ルハリは、眉をぴくりと振るわせる。
と、意識が散ったか、彼女は、ぬかるんだ土に足を取られてよろめいた。
「姫様、しっかり…」
オイクリートに支えられ、ルハリは何とか姿勢を戻すと、自分に投げ遣りな視線を送るアガレスを睨み上げた。
「…あなた達みたいなのが、私の国を滅ぼしたのよ…」
「はァ? 何じゃそりゃ? おかしな新税でも掛けて、反乱でも起こされたか?」
アガレスが、左右の眉に段差を付けた。
単純に戦力で見た場合、狩人もまた、体制に抗い、覆すだけの力は充分に備えているであろう。
但し、彼らは、彼らが狩るものと同じく、徒党を組む事が無い。基本的に、必要に応じて離合集散を繰り返すだけの一匹狼である彼ら狩人が、群を成して国政に反旗を翻すなど、砂漠に津波が押し寄せるに等しく、まず起こり得ない事態なのである。
よって、ルハリの発言は、不快である以前に、単にアガレスを困惑させただけだった。
しかし、彼女の眼光に含まれる、混じり気の無い強い憎しみの光が、相手の言葉を一蹴したアガレスを更に困惑させる。
唇を噛むルハリに代わって、傍らのオイクリートが、後を続けた。
「…我らのおりましたオルト公国は、周囲を切り立った山に囲まれた小国でしてな、その地形故、他国と衝突を起こす事も無く、国内の情勢も平穏なものでした」
目線を下げ、老人は回想する。
「ところがです。ちょうど半年程前に、領内に飛竜が出没するようになってから、事態は一変しました。何処からやって来たものか、災いは、いとも容易く国境を越え、そのまま領地に居付いてしまいました」
「…まあ、奴らにゃ山なんざ障害の内に入らねえし、人間の都合なんてのも、端から眼中に無いだろうしな。それで?」
「戦にも縁遠かった我らは、突如として現れた飛竜には対処のしようも無く、止む無く、国内の狩人達に助勢を請いました。ですが…」
「それが、揃いも揃って、碌でもないごろつきばかりだったのよ!」
一直線にアガレスを睨んだルハリが、吐き捨てた。
「尤もらしい大口を叩けるだけ叩いて! 実際に、都が飛竜の襲撃を受けた時には、皆、一目散に逃げ出して行った! それこそ、蜘蛛の子を散らすみたいにね!」
震える声を絞り出す内、ルハリの目は赤くなって行った。
対照的に、肩を落とし、俯いたオイクリートが、また話を続ける。
「残念ながら、そういう次第なのです。恐慌に陥った都の守備隊は、抵抗らしい抵抗も出来ず、漸く飛竜が飛び去った時には、城も街並みも、かつての面影を失い…その中で、こちらのルハリ様も、父君、母君を亡くされてしまいました…」
語るオイクリートの声は、徐々に沈んで行った。
「結局、その混乱に付け込まれ、隣国の侵入を許した我らのオルト公国は、全土を掌握され、国としての形を失いました。件の飛竜が、その後何処へ行ったのかは知りませんが…兎も角、落人狩りを逃れ、断腸の思いで国を脱した我らは、この地の領主の招きにより、異国に身を預ける運びとなったのです」
「…色々あんだな、世の中は」
二人の亡命者の後ろで、ヴラードが、そっとニッキへ耳打ちした。
その前方では、亡国の公女が、憎き狩人を睨め上げている。
「判った? あなた達みたいに、お金の量り方以外に道理を弁えないならず者なんかと、今もこうして同じ空気の中にいるのは、硫黄を吸うより苦しいのよ」
すっかり涙目になったルハリの見据える先で、だが、アガレスは、歩きながら空を見上げていた。
やがて、彼は思い出したように、ルハリの方へ首を巡らせる。
「…ははーん、読めたぞ。お前ら、ギルドを介さずに面子を揃えたんだろ?」
言って、アガレスは人の悪い笑みを浮かべる。
「そんな不祥事、実際に起きたんなら、ギルドや仲間を伝って、必ず俺らの耳にも入るからな。過去に全然聞いた覚えが無いって事は、お前ら、仲介料を渋ったな?」
「な…」
ルハリが、驚きと怒りとを面に晒した。
笑顔を収め、アガレスは言う。
「そりゃ、どんな手順踏もうと勝手だがよ、素人同士で頭捻った所で、事が上手く運んだ例はねえって。市井には、歴戦の狩人を自称する、素性の知れない与太者なんざ腐る程いんだから…いや、素性の知れないってんじゃ、俺らも人の事ァ言えないが…何にしても、実績の怪しい奴らを集めて、あまつさえ、そんなのに国の命運任せたのが運の尽きだよ。何で、餅は餅屋に任せねえかなァ…」
溜息すらついて見せるアガレスへ、ルハリは、怒気迸る眼差しを向けた。
「無礼な! 我らを愚弄するか!」
「そこまでは言ってねえよ。大体、俺ァ、自分の身の振り方を決める事も叶わねえ人間を苛めて喜ぶ程、悪趣味じゃねえんだ」
毛を逆立てた山猫のように怒る公女へ向け、壮年の狩人は、穏やかな声を掛けた。
「さっきの話を聞いた限りだと、お前さん、こっから先が大変だぜ? 領主の元へ着いた所で、無償で寝食を提供されるって事はねえだろう。落ち延びた直系の王族を確保すりゃ、占領されてるあんたの国の領有権を主張出来る、絶好の材料になる訳だからな」
静かなる声は、霧の間をたゆたう。
「まあ、これで合点が行ったよ。あんたらが何故、御者も付けず、人目を避けて、こんな僻地を通る事ンなったのか…確かに、あまり衆目に晒していい類の来賓じゃねえよなぁ」
「…そんな…私は、この地を治めるのは、心の広い方だと聞いて、それで…」
ルハリは、一転して気勢の殺がれた声を漏らしていた。
「土地も無い、財も無い、民も無い。ただ名前が残るだけの王侯の末路なんざ、大概こんなもんだ。最悪、この先ずっと、外交の材料として、あちこちをたらい回しにされる。そいつは覚悟しといた方がいい」
「お、お前のような者に、何が…」
覚めた口調で語るアガレスを見上げるルハリの目には、いつしか濃い怯えが表れていた。
そこへ、
「…もう、その辺りで御容赦下さらんか?」
徐に声を上げたのは、一人ぼっちの公女に付き従う、ただ一人の老臣であった。
「事実はどうであれ、これから先の事は、私達が考えて行く事です」
「…道理だな。悪かった」
己を仰ぐ老人の、穏やかながらも悲しい眼差しを浴びて、アガレスも口を閉ざすと、そのまま前を向いた。
その後の沈黙は、どれ程の間、続いただろうか。
ぬかるんだ大地が、途切れた。
霧の向こうに、葉を落とした喬木が、やおら姿を見せ始める。
湿地を抜けた一行は、沼地の入口へと辿り着いていた。
「やあっと戻って来れたよ…」
一行の後ろで、ヴラードが、安堵の息を漏らした。
だが、
「…妙だな」
先頭では、アガレスが、顎先に手を当てて首を捻っていた。
直後、彼は片手を水平に持ち上げて、後続の行進を遮る。
「どうしたの?」
訊ねながらも、ニッキは既に、肩に掛けた武具へ手を伸ばしていた。
アガレスは、神妙な顔で答える。
「静か過ぎる。鳥の囀り一つ聞こえやしねえ。空気が変だ」
「…『顔無し』か?」
「阿呆、あいつらがここまで来るかよ。『棘付き』か、『岩肌』か、いずれにしても、すんなりとは帰してくれないようだぜ」
腰を引いたヴラードを叱咤すると、アガレスは、霧の覆いの向こうへ、針金のような、細く鋭い視線を投げ掛けた。
広々とした木立は、確かに、ひっそりと静まり返っていたが、それ以上の変化を見せる事も、また無かった。
「ちっ…これじゃ埒が空かねえな。ひとまず探りに出た方がいいか」
そう言った後、アガレスは、一同を振り返ると、最後尾に立つ人影に目を向ける。
「ウル、お前はここに残れ。倒木の陰にでも隠れて、様子を見とけ。勿論、この二人をしっかりと護ってな」
「おいおい、ンな事、こいつ一人に任せて大丈夫かよ?」
自身も訝る面持ちを作るウルリックの横で、ヴラードが怪訝そうに訊ねた。
「消去法による人選だ。戦力としてニッキは外せねえし、若い娘の傍にお前を残しとくと、後々不安が出て来ていけねえ」
アガレスが、いともあっさり言い返すと、ヴラードは頬を膨らませる。
「そんなん、こいつだって、どう出るか判んねえじゃねえか。こういう年頃の奴が、一番見境無いんだぜ?」
「俺も反対だ。護衛など、やった事が無い」
文句を垂れるヴラードの脇から、ウルリックも異議を申し立てる。
「…ったく、こいつらは…!」
額を押さえたアガレスは、ややあってから、唸るように言う。
「だあ! もう、この際、異論は無しだ。時間が惜しい。行くぞ、コラ!」
言うなり、ヴラードの襟首を引っ掴むと、アガレスは、大股で歩き出す。
去り際、彼は、ウルリックにも一瞥を投げ掛けた。
「お前も、腐ってねえで、やる事をやれ。経験が無いからって何もしないようじゃ、一生、一人で何も出来ない人間になっちまうぞ」
それでも尚、不服げな表情を保つウルリックを置いて、アガレスとヴラードは、霧の中へと消えた。
「あはは、おっさんがキレた」
一笑して、その後を追ったニッキも、程無く輪郭を消す。
後には、ふて腐れた顔をした、ウルリックだけが残された。

時刻は、夕刻に近付いていた筈であったが、霧の上に広がる鈍色の空は何の変容も見せず、取り残された人間達を俯瞰していた。
倒木の幹の陰から前方を凝視していたウルリックの肩を、ルハリが、肘で小突いた。
「ちょっと、あまり近付いて来ないで」
渋面を作り、嫌悪感も露に言うルハリへ、冷たい視線を返すと、ウルリックは、無言で肩を引いた。
そしてまた、彼は、霧の包む木立へと、視線を投げ掛ける。
岩壁を背にした木立の隅で、ウルリック、ルハリ、オイクリートの三人は、横たわる倒木の陰に横一列になって身を屈め、時折、それぞれに顔を覗かせながら、先行した者達の帰還を待っていた。
沈黙の中での待機は、どれ程の間、続いただろうか。
時折、微かに霧を揺らす風の感触だけが、途切れ途切れに、時の移ろいを教えていた。さながら、細い糸を手繰り寄せて行くかのような、全く覚束無い時間認識の末に、まず口を開いたのは、三人の中央で腰を下ろしたルハリだった。
「…どうして、こんな事になったんだろう…」
そいつは全く同感だな、と、心中に苛立ちを抱えながら、右隣のウルリックは思った。
嘆息を放った公女は、曇天を見上げると、胸中より漏れる細い声を紡いで行く。
「暗く寒い所で夜を明かしたかと思えば、今はこうして、じめじめした場所で蹲っている…それも、よりによって、狩人なんかと一緒に!」
相変わらず、敵意の込められた眼差しを送って来るルハリを、ウルリックは、小煩げに一瞥した。
「…坊主と王侯は口数が少ないと聞いたが、例外もあるようだな」
「こちらの世界の事など知りもしない賤民に、勝手な定義を付けられる覚えは無いわ。国賓に対する礼儀も知らない癖に」
「何が国賓だ。体のいい人質だろうが」
つまらなそうにウルリックが切り返すと、ルハリは、一層、目元を歪めた。
ウルリックは、感情を面に出さずに相手を見下ろす。
これまでの彼の人生の中で、およそ縁が無かった人種、しかし、それをいざ目の前にしてみても、彼の心中には、格別、感慨らしい感慨も湧いて来なかった。
高貴な面立ち、と言えば、そう言えない事も無いような相貌。些か、まなじりの吊り上がった目元は、見る者が見れば、魅力的と評するかも知れない。
内心で、平淡に評するウルリックを、ルハリもまた見つめ返していた。
「荒んだ目!」
唐突に、彼女は、唾を吐くように言った。
「いつも何かの命を奪って、そうして手に入れたお金で遊び回っているから、そんな目をしていられるんだわ。自分の事しか考えてない、獣の目よ」
不愉快だが、同感だな。
我が事にも関わらず、ウルリックは、実にあっさりと、相手の弁を肯定していた。
それは、彼自身が心の片隅で描く狩人像が、正にその通りだったからである。
しかし、認めはしながらも、口を突いて出た言葉は、別の、冷ややかなものだった。
「お前らが戯れで身に付ける、衣装、宝石、靴や鞄、その中に、俺達の手を通らずに渡った物が、何かあるのか?」
特定の飛竜の鱗や爪、及び体内の生成物は、装飾品の材料として重宝される。無論、大衆が、易々と手に出来る代物ではない。
言葉を詰まらせたルハリへ、ウルリックは、尚も冷たい視線を向けていた。
「一体、あまねくこの世界に、誰かの血や汗、涙で濡れていない物が、一つでもあると思うのか。目を逸らし、耳を塞いだ所で、その本質が変わるものでもあるまい」
「だから何? 結局、皆が皆共犯だとでも言う積もり? そんなの、ただの自己弁護、下らない詭弁よ」
「不浄と呼ぶなら、この世に不浄でないものなど、一つとして無いのだと言っている。自分の手が返り血に濡れていないというだけで、平然と聖人面をしている奴らを、俺は幾度と無く見て来た。あらゆる人間の活動は、別の誰かの欲求もあるからこそ成り立つという事実を、奴らは完全に忘れているようだった。お前も、自分に都合のいい物忘れを気取る積もりか? それこそ、下らん自己弁護だ」
柄にも無い事を言っている、と、ウルリックは内心で、自身の態度を不快に思った。
一方で、唇を噛んだルハリは、それでも、恨めしそうな眼差しを、傲然と構える狩人へ寄せた。
「だからって、こんな生活をいつまでも続けるのが、誇りある生き方だと胸を張って言えるの? あんたなんか、どうせ何の目的も無い癖に!」
目的か。
言われて、ウルリックは、再び、天を見上げた。
果たして、何故に自分はここに在るのか。
それは、いつとも知れぬ昔から、幾度と無く己に問い聞かせて来た命題であった。
金、名誉、他者の羨望、それらのいずれの為でもないと知りながら、しかし、確たる答えは未だ掴めてはいない。
ただ、
「俺は…」
ぼそりと、ウルリックは言葉を吐き出した。
「…俺は、力が欲しいんだ…」
呟きにすら及ばぬ、小さな声。だが、それを発したウルリックの眼差しは、虚空のある一点に向けて、一筋の線を刻んでいた。
「…何よ、それ? 何を言ってるの?」
俄かに、ルハリが眉を曇らせる。
ウルリックは、黙って、視線を下げた。
何を望んで、この場に在るかは判らぬ。しかし、狩人となって、今この場に立つのは、決して運命などいう可愛げのあるものの采配ではない事を、彼は知っていた。
掘り返した所で、何が出て来る過去も無い。
思い浮かぶのは、薄暗く、隙間が目立つ家の間取り。
反対に、ぴったりと建ち連なる家々が作る、白々とした遠い街並み。
何処からか、微かに届く人の声。
そんなものだろうか。
それら、脳裏の染みとも言うべき掴みようも無い景色も、この目で実際に見たものか、それとも自身の内面が映し出されただけのものか、今となっては定かでない。
ただ、所々の物陰から、己を指して笑い合う幾つもの人影、時折浮かぶそれだけは、実在した景色であったように思える。
父無し子、瘋癲の子と、はっきりと姿の見えない、しかし無数ちらつく何者かの影は、自分をそう呼んで笑っていた。
これまで、ずっと、見えぬ何かに翻弄されて来た気がして止まない。
思い起こすに、どうやら母も、終生定職には就かなかった人であったらしく、自分も含め、余計に周囲から浮き上がっていたのであろう。
立ちはだかったのは、時に、数の力であり、良識と呼ばれる強制力であり、そして、権威と言う名の、絶対的な壁だった。
いや、元を正せば、世に生を受けた事、それすらも、某かの力の作用によるものであるように、ウルリックには思えてならなかった。
通常、生誕とは、万物に祝福されるべき事象であると言う。
しかし、自分に対してだけは、そんな理想論は当てはまらぬように感じられた。
さながら、詰まり物を押し出すように、塵界へと追い遣られ突き落とされた、それが己であるように、彼には思えてならなかったのである。
「何を黙り込んでいるのよ?」
深く俯いたウルリックを、ルハリが覗き込んでいた。
「…何でもない」
ウルリックは、顔を上げた。
何故、こんな取り止めの無い考えを始めたのだろうか。
そう思い、目を移した彼は、依然として、険しい目付きを崩さないルハリと視線を交わらせる。秩序も脈絡も無くうねる、熱を持った感情の波が、彼女の瞳の表面に、独特の光彩を形作っていた。
どうも、こいつと話していると、調子が狂うようだ。
仏頂面をして、ウルリックは、ルハリから顔を背けた。
そんな相手の横顔を、ルハリは、胡散臭そうに眺める。
「無愛想な人。これだから、狩人なんてのは…」
と、ルハリがそこまで言った時、遠く、前方から、軽い地響きが伝わって来た。
瞬時に張り詰めた顔をすると、ウルリックは、倒木の上から顔を覗かせる。
 果たして、微かな震動の寄せて来た先、霧の覆いの向こうに、一個の巨影が浮かび上がっていた。
 
乳白色の霧の彼方に、それは立っていた。
遠くからでも判る威容の持ち主は、広く天地の間にも、一握りしか無いだろう。
ゆっくりと、二本の足で歩きながら、近付いて来る飛竜の影姿を、ウルリックらは、それぞれに険しい面持ちで見遣っていた。
「…何?…何なの、あれは…?」
ルハリが、浮付いた声を絞り出した。
「飛竜のようです、姫様」
こちらも緊張に硬くなった声を出し、オイクリートが、大して救いにならない説明を遣した。
「よりによって、こんな時に…アガレス達、行き違いになったか」
ウルリックは、苦々しく呟いた。
「ど、どうするのよ?」
怯えの色の滲む声で、ルハリが問う。
「じっとしていろ。変に動けば、逆に危ない。どうにかやり過ごすんだ」
言いながら、ウルリックは、倒木の陰に身を沈めた。
足音は、刻一刻と大きくなり、それに伴って、付近の草木を揺らす震動も、また規模を増して行く。
まるで、己の心臓を直に揺さぶられているかのような不気味な震動を、大地に蹲ったルハリは、懸命に堪えていた。彼女を挟み、ウルリックもオイクリートも、息を殺して、形在る天災の行き過ぎるのを待つ。
やがて、足音は、三人の隠れる倒木の前まで接近し、そして、止んだ。
「…?」
ぴたりと止まった足音と震動に、ルハリは、僅かに頭を起こした。
そこで、彼女は見てしまった。
倒木と地面との間に空いた、小さな隙間、そこから覗く、瞳の無い、銀色の眼球を。
「ひっ…!」
戦慄のもたらした呻き声を、飛竜のけたたましい鳴声が掻き消した。地に首を這わせて倒木を覗き込んでいた飛竜は、巨体を反らし、隠れていた獲物へ威嚇の雄叫びを浴びせた。
「くそっ、どうしてバレたんだ?」
悪態を吐きながら、ウルリックは身を起こすや、腰に差した剣を抜き放った。
倒木を挟み、対峙するのは、青紫色の体色を持つ不細工な姿の飛竜であった。
鱗の一枚とてない体表は、強い弾性を備えた皮に覆われ、丸い胴から伸びた頭には、松かさを横にしたような形状のトサカが乗っている。
霧立ち込める木立を背に、毒怪鳥は、それまでの静寂を打ち破る絶叫を上げた。
「逃げるぞ!」
言った端から、ウルリックはルハリの手を乱暴に掴むと、大股で駆け出した。
ウルリックを先頭に、三人は、霧の中を走り抜けた。
そのすぐ後ろを、毒怪鳥が猛追して来る。地面を、そこに立ち込める霧さえも揺らして、丸々とした体躯の飛竜は、喜劇的なまでに猛々しく、逃げる獲物へと追い縋った。
無論、追われる側からすれば、喜劇では到底片付かぬ事態であったろうが。
「何してるの! さっさと追い払いなさいよ!」
時折、足を縺れさせながらも、ルハリは、己の手を引く狩人を非難した。
「お前らがいなけりゃ、そうするさ!」
振り向きざま吐き捨てたウルリックは、嘴を振り上げた毒怪鳥の姿を認めて、矢庭に走る方向を変えた。
「逃げ切れませんぞ! 何処かへ、また隠れないと…!」
「判ってる!」
オイクリートの提案に怒鳴り声で答え、ウルリックは、走りながら辺りを見回した。
一行は、大きな岩の陰に駆け込んだ。
ウルリックが、付近を徘徊する毒怪鳥の影を確認する。
「この霧だ。奴だって、大して視界は利かない筈だ。何とかして奴の目を逃れれば、いずれ、アガレス達も合流して…」
ウルリックがそう言った時、やおら、毒怪鳥が首の向きを変えた。
嘴の上に付いた、不恰好な鼻をひくつかせながら、毒怪鳥は、ウルリック達の元へと近付いて来る。
「臭いを辿って…? そうか!」
瞬間、ウルリックは、傍らに立つルハリへと、鋭い視線を移した。
「お前、香水か何かを付けてるな?」
「えっ…?」
突然詰問され、ルハリは、覚束無い返事を発した。
「…香水なんて…でも、そんな、昨夜の事だし…きつい物を使った訳じゃ…」
「奴らは、癇に障るのか、不自然な臭いにはすこぶる敏感なんだ。これじゃ、奴を撒くのは不可能か…」
無念そうに呟いたウルリックの横手に、毒怪鳥の影が差した。
口元に手を当て、ルハリが頭上を仰ぐ。
毒怪鳥も、彼女らを見下ろしていた。
笑っているとも、怒っているとも付かぬ顔だった。
しかし、その銀色の目に荒々しい光が灯った瞬間、毒怪鳥は、殺意の篭った叫びを、霧の四方へ散らしていた。
「ちいっ!」
ルハリを庇い、ウルリックが剣を前に立ち塞がったその時、彼の後ろから、別の影が走り抜けた。
「姫様を連れて! 早く!」
「…おい?」
自身の脇を駆け抜け、毒怪鳥へ向かう老人へ、ウルリックは手を伸ばし掛けた。
腰に差していた剣を抜き、オイクリートは真正面から飛竜へ立ち向った。所詮は対人仕様の、護身用の細剣を手に、忠節厚い老臣は、それでも怯む気配も見せずに突進する。
「止せっ!」
ウルリックが叫んだ。
ルハリは、拳を噛んだ。
果たして。
両者の目の前で、毒怪鳥の太い足に蹴り上げられたオイクリートの体は、あたかも子供に投げ捨てられた人形の如く、高々と宙を舞った。
乾いた音を立てて、老人の痩せた体は、草むらに転がった。
形にならない叫びを、ルハリは上げていた。
「喚いてる場合か! 早く助け起こせ!」
ウルリックは目元を歪めて叱り付けると、倒れ伏した老人を庇って、飛竜の進路に立ち塞がった。
直後、毒怪鳥は、全身の動きを止めた。
疑念の浮かんだウルリックの双眸に、次に映ったのは、全き白の閃光であった。
「くあっ…?」
毒怪鳥の頭部から発せられた強烈な光の奔流は、ウルリックの両眼を焼くと同時に、彼の全身を固まらせる。
背を丸め、よろめいたウルリックへ、毒怪鳥が嘴を振り上げた。
普段は感情の無い銀色の眼球に、荒々しい光が灯っていた。
しかし、次の瞬間、立ち込める霧を引き裂いたのは、毒怪鳥の嘴ではなく、横合いから駆け寄った、大柄の人影が放った斬撃であった。
首へ振り下ろされた太刀の一撃は、弾性の強い皮に弾かれ、その身を切り裂く事は叶わなかったものの、伝播した衝撃は、毒怪鳥を怯ませるには充分なものだった。
抜き身の太刀を引っ下げ、アガレスは、ウルリック達の前に滑り込む。
「間一髪ってとこか!」
「…アガレス?」
ウルリックは、目を擦りながら身を起こす。
そんな彼を見下ろして、アガレスは、口の端を吊り上げた。
「無事みてえだな…いや、そこの様子じゃ、完璧に無事ってんでもねえか」
倒れたオイクリートと、それを抱えているルハリをちらりと見遣って、アガレスは表情を曇らせた。
「抜けた真似して悪かった。早え所、こいつを片付けねえとな…!」
そう告げると、アガレスは、太刀を握る豪腕に力を篭めた。
その時、毒怪鳥の後ろから、新たな人影が、霧を突いて現れる。
「旦那!」
「右へ回れ!」
駆け付けたニッキに手早く指示を出すと、アガレスは、太刀を殊更に大きく、そして緩やかに振り被った。
意味ありげに上がって行く剣先に釣られ、毒怪鳥が首を持ち上げる。
その一瞬の間隙を突いて、側面に回り込んだニッキが、毒怪鳥の足の付け根に槍を突き刺した。
注意の外からの攻撃に、毒怪鳥は、たまらずよろめいた。
再度生まれた隙を、今度は、アガレスが見逃さなかった。
刃を上にして、太刀を地面と水平に構えると、アガレスは、両の足を大地に叩き付けて突進した。刀身を霧に濡らした大太刀は、そのまま毒怪鳥の胸へと吸い込まれ、、鍔の近くに至るまで、獲物の肉の内へ刃を滑り込ませる。
初めて苦しげな声を上げた毒怪鳥の背で、小さな爆発が起こった。
霧に霞む木々の間に立つ痩身の人影が、手元の弩へ新たに給弾している。
その間に、アガレスは、飛竜の体深く突き刺さった太刀から手を放すと、のたうつ毒怪鳥から距離を取った。乱雑に首を振り回す毒怪鳥の、その口元から撒き散らされる毒液を器用にかわし、彼は後退りすると、後ろ向きに手を伸ばした。
「ウル、剣を貸せ!」
ウルリックが即座に従ったのは、視覚がまだ完全に回復していなかった為であった。
ウルリックから渡された片手剣を後ろ手に掴むと、アガレスは、再度毒怪鳥へ向け走り出していた。
ヴラードが、ニッキが、それぞれに攻めの一手を打ち出して行く中、アガレスも、得物を変える事で攻撃の列に復帰する。喉元や胸元など、相手の皮の薄い箇所を重点的に狙って、アガレスは、幾度と無く、鋭い斬撃を繰り出して行った。
ウルリックの目に、漸く、ものの輪郭がはっきりと映り始めた時、彼の視界に入ったのは、巨大な飛竜を向こうに回して、一歩も引く事無く立ち回る偉丈夫の姿であった。
やがて、飛竜の動きが鈍って来たと見るや、アガレスは血刀を放り出すと、相手の胸に刺さったままの太刀に手を掛けた。
柄をきつく握り締め、肉の内にある刃を滑らせて行く。
「はああっ!」
一意専心、アガレスは毒怪鳥に背を向け、まるで相手ごと投げ飛ばすように、渾身の力で太刀を振り翳した。
一際激しい血飛沫と共に、毒怪鳥の背中が裂けた。
青紫色の外皮を内側から突き破り、長大な白刃が姿を現す。
その光景を目の当たりにした時、ウルリックは、全身の皮膚の下に波が走るのを、確かに感じた。
産声の代わりに銀光を放ち、鮮血を跳ね飛ばして出現したそれは、霧の中でも明確な存在感を発した。
何ものにも曇らされる事を許さず、ただ、己が輝きを以って行く手を切り開く。
憧憬が生まれた。
同時に、浅からぬ嫉妬の念も。
今、それを振るうのは、いつか追い抜かねばならぬ、しかし、未だ追い付けないでいる、巨大なる先達であった。
奔放不羈にして不撓不屈、ウルリックに別の憧憬を与えるその姿勢は、一度として崩された事は無い。
かつてはまるで意識しなかった想いが、今頃形となって現れたのは、相手の背に目が届く位置まで、自分が近付いた証であろう。しかし、近付くにつれ、否、近付いたからこそ、尚も広がる距離に打ちのめされる、それは、背を追う者の辿る宿命的な道程であった。
翻った太刀が、毒怪鳥の頭を、トサカ諸共打ち砕いた。
短い悲鳴を残して、毒怪鳥は、腹這いに倒れ伏す。
擬死ではない。手傷の程から考えて、真に息絶えたのであろう。毒怪鳥は、それきり、ぴくりとも動かなかった。
「…終わった、か」
アガレスは太刀を下ろすと、深い息を吐いた。
そして、彼は愛刀を肩に担ぎ、徐に振り返った。
後ろに立つウルリックを見て、アガレスは、ふと口の端を吊り上げる。
そんなアガレスを、ウルリックは、静かに見つめていた。
霧の彼方から、夕刻の冷たい風が吹き込んで来た。
両者の髪が、冷風に乱された。

地面の上に仰向けに寝かされた老人は、未だ両の瞼を下ろしたまま、苦しげな呻き声を漏らしていた。
「オイクリート、しっかり…! 目を開けてよ!」
傍らに膝を下ろしたルハリが、涙声になって呼び掛ける。
だが、主の呼び声にも応じず、老臣は意識の無い状態で咳き込んだ。
「オイクリート、ねえ…!」
「下手に揺するな。アバラが四本程いかれてるんだ。しかし、つくづく無茶ばかりする爺さんだな…」
無理にでもオイクリートを起こそうとするルハリを制すると、アガレスは、後ろに立つ仲間二人に目を向けた。
「担架を作ろう。手頃な枝を見付けて来てくれ」
「判った」
応えると、ニッキは、ヴラードを連れて木立の方へと歩き出した。
後には、ルハリとアガレス、そして、その両者の後ろに佇むウルリックの三人が残った。
ウルリックは、色覚の戻り始めた目で、少し前に立つアガレスの背を、じっと見つめ続けていた。
そこに掛けられた大刀も含めて、である。
自分が本当に魅せられ、追っているものは何なのだろうと、ウルリックは考えていた。
いつ芽生えたかも判らない、形も定まらない小さな願望。
あの日、砂塵の中で見たそれは、まるで古い友に巡り会ったかのように彼の心を捉え、そこに根を張って居座ってしまった。
父への苛立ちや、狩人に対する偏見が消えた訳ではない。
ただ、それらの感情を脇へ押し退けて訪れた、ある一つの欲求が、ウルリックを、今もこの場に立たせていた。
何ものにも侵されず、何事にも揺るがず、己の生を切り開いて行く力、それこそが、かつて灰色の日々の中で、ウルリックが密かに求め欲していた概念であった。
それは今、形となって、彼のすぐ前にある。
それを手に入れたかった。血肉の一部と呼べるまでに、我がものとしたかった。
しかし。
「どうだ? 目の調子は戻ったか?」
振り返ったアガレスが、ねぎらう口調で問うた。
ウルリックは、黙って頷く。
実際の所、ウルリックは悟ってもいたのである。
我を通す力という点で見るならば、剣という象徴以外にも、狩人という生き方自体もまた、その条件に沿うものだと。
面前に立つ者が、それを証明している。
自分にも、あのようになれる日が来るのだろうか。
内心の渇望とは打って変わって、力無く、ウルリックは推考した。
さながら、斜陽に引き伸ばされた影法師を追うかの如く、それは容易ならざる道であるに違いない。しかし、その試練を避けていては、大いなる剣光を掴む機会も、永遠に訪れないような気もする。
アガレスは、再び前を向いた。
その背を尚も見続けていたウルリックは、少しして、ふと目元を起こす。
霧の間に漂う風に乗って、潮騒のように穏やかな音が、いつの間にか、彼の耳元へまで伝わって来ていた。
ウルリックが目を移した先、ルハリが、オイクリートの頭を膝に乗せ、声を殺して泣いていた。時折、老いた廷臣の白髪頭を撫でながら、異国の公女は熱い涙を落として行く。
今や、互いを頼るのみの異邦人達の姿を、ウルリックは、暫くの間見つめていた。
霧が、木立の隙間を緩々と流れて行く。
薄暗くなった曇天を、若き狩人は静かに仰いだ。

〈斬風のウルリック 第二章 了〉
2006年11月19日(日) 11:52:00 Modified by funnybunny




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