斬風のウルリック 第二章:王女と狩人 前編

作者:K・H


初夏の朝、日中に至る前の黎明の空気は、肌を覆う涼しさ、優しさを保っていた。
遠く森の木立が、先端に薄靄を冠している頃、朝の静けさを、乾いた音が突付いていた。
互いに木剣を手にした二人、アガレスとウルリックとが、白く薄い日差しの下、涼気を裂いて剣戟を交えている。
木の枝から削り出された、簡素な木剣を手に、両者は幾度も打ち合いを重ねて行く。
模擬戦と言えど、双方の動きに、余裕や戯れの気配は全く無い。怒気や殺気こそ込められてはいないが、正確で躊躇の無い斬撃の応酬は、並の剣士ならば容易く打ちのめされてしまうであろう練度の高さを維持していた。
中々いいぞ、その調子だ。
脳天への一撃を受け流しながら、アガレスは、平時と変わらぬ思考を巡らせていた。そうしながらも、彼もまた、無駄の無い動作で一太刀を繰り出す。
一合一合の合間に、脳裏に浮かんで来る考えは、決して表に出る事は無い。
無論、口を動かすまでの余裕が無いという事もある。しかし、相手の動きに逐一注文を付ける事で、妙な足枷を付けてしまう事を恐れての配慮でもあった。
無表情の仮面の下では、感嘆や悔恨、自賛や慙愧と言った種々の感情が、木剣がぶつかる度、ちかちかと明滅を繰り返していた。
恐らくは、ウルリックにしても同様であろう。アガレスも、済ました表情で木剣を翻しつつ、ウルリックの太刀筋の一つ一つを評価していた。
木剣同士が打ち鳴らす、ある種の旋律のような響きが、薄く広く、草原に響き渡る。
近くの家の煙突から、緩々と煙が立ち昇って行く。
木作りの民家の多い、小さな村の片隅で、二人の狩人は木剣を打ち鳴らしていた。
得物を伝い、鋭い斬撃の残響が、アガレスの骨を震わす。重い一撃を打ち込みながらも、ウルリックは腰を回して、すかさず次の一太刀を繰り出しに掛かっていた。
初めの頃に比べれば、大した進歩だな。
意識には間隙を設けず、それでいて、アガレスは、ちらと回想を差し挟む。
砂漠での邂逅から一月も経った頃、狩人になる旨を聞いた次の日から、彼は、ウルリックに稽古を付けていた。
木剣を握らせて三月程は、殆ど五合以内で決着が付いた。大抵、相手の小手先に太刀を浴びせ、得物を叩き落として終わりである。
悔しそうに自分を見上げる少年の、ひた向きな視線を、内心ではくすぐったく思いながらも、アガレスは、務めて冷静に指導を繰り返して来た。
そら、これはどうする?
からかい交じりの考えを起こしながら、アガレスは、足元の土を蹴り飛ばした。
斜めに跳ね上がった土の粉は、そのまま、ウルリックの顔面目掛けて飛んで行く。
だが、ウルリックも、相手の足運びから既に読んでいたのであろう、上体を横に傾いで土くれをかわすと、不平も漏らさずに、再び木剣を打ち込んで行った。
ふむ、大分慣れて来たな。
悪びれる素振りも見せず、アガレスは、相手の剣を受け止めた。
一般に、狩人同士の稽古では、いわゆる禁じ手という枠組は存在しない。本来、向こうに回すべきものが、礼や美意識の通用する相手ではない故に。
今の蹴り上げにしても、放たれたのが土でなく、火焔であればどうか? 水弾ならば、どんな結果になったであろう? 電撃では?
実戦において言い訳が通用する筈も無いし、訓練においてすら配慮の足らぬ者が生き延びた例も、また無いのである。
実戦と訓練、この二つは、一本の軸で結ばれた両輪であると、アガレスは考えている。同時に、同じ力の配分で動かして行かねば、前に進む事は決して在り得ない。
事実、彼は、狩猟生活の基礎を教える傍ら、飛竜を相手にした実戦に、早くからウルリックを連れ出していた。
実戦の空気、訓練で重ねられる慣れ、これらは、互いが互いを補う為にこそある。鉄を鍛えるのに、炎と水とを交互に浴びせるように、人の心にも、それが当てはまるのだ。
苦悶と探求の繰り返しが、やがては、堅く、それでいてしなやかな、内面に豊かな輝きを持った金鉄を精製する。
…尤も、こいつの内面が、何処まで仕上がっているかは定かでないが。
ふと、アガレスは、悟られない程度に眉をひそめた。
ウルリックは、相変わらず覚めた面持ちで、無駄の無い斬撃を繰り出して来る。一事が万事の言葉が示す通り、ウルリックの剣捌きは、取りも直さず、彼自身の人間味の顕れでもあった。
酒に溺れず、色香に惑わず、金銭の輝きにすら目を眩ます事は無い。
その事自体は称賛すべき事であるのかも知れないが、しかし、そうした特異な性情の持ち主は、周囲の人間に、図らずも不安を抱かせてしまうのも事実である。
こいつは、何を見据えて生きてるんだろうな。
立て続けの打ち込みを、立て続けに払い除け、アガレスは、ぼんやりと考えた。
二年余り寝食を共にして来ても、その辺りの事柄は、実はアガレスも掴めずにいた。日常の何気無い素振りを見る限り、狩人という職種を、本当は内面で嫌っているのだろう。これまで、出会う以前の出来事を、ウルリックが話す事はあまり無かったし、アガレスもまた聞き出そうとはしなかった。
仲間に加わるに当たり、彼自身が語った事は、母親を既に亡くしている事と、幼い頃に行方を眩ませた父親が狩人であったという事のみである。
様々なものを抱えた、様々な人種の集まる世界の事、個々の事情には深く立ち入らないのが、この業界における暗黙の了解であった。
無論、それは、無言の内に交わされる、相互の信頼というものがあってこそ成り立つ。
悪い奴じゃないんだ。
酷く曖昧な信頼ではあったが、これまでの生活で、一度も弱音を吐いた事の無い事実が、アガレスが、愛想の無い後輩を認める一因となっていた。
そのウルリックは、崩れた体勢を立て直しつつ、剣の切っ先を視線の軸線上に据えて、きっとアガレスを仰視していた。
対するアガレスは、木剣を鼻先近くまで掲げ、相手の体全体を広く見渡す。
性情を隠しようも無い、剣舞の影を通して、アガレスは、ウルリックというものを観察していた。観察しようと試みていた。
こいつも、いつとも付かぬ過去、何処かに何かを落として来てしまった口かも知れない。
…俺と同じに。
木剣と木剣とが噛み合った。
互いに押し合う剣を境に、アガレスは、ウルリックの漆黒の双眸を覗く。
と、唐突に、ウルリックが力を緩めた。
素っ気無い程簡単に剣を引いたウルリックを、アガレスが怪訝そうに見遣る。
そのウルリックは、少し面倒臭そうに、アガレスの背後を指差した。
「…後ろ」
言われて、アガレスも肩越しに振り返る。
両者から五六歩程度の距離を置いて、赤毛の女が佇んでいた。

アガレスが、何処か名残惜しそうに木剣を下げる。
「何だ、いつからいたんだ?」
「ちょい前から」
問われたニッキは、所々はねた赤毛を不精たらしく掻きながら、詰まった声を出した。恐らくは起き抜けだろう。木綿の化粧着の上に毛織物の上掛を羽織って、狭まり来る両の瞼を不機嫌そうに支えている。
「…朝っぱらから精が出るね、あんたらも」
目覚めつつある村を背に、ニッキは、皮肉のようにも聞こえる一言を漏らした。
アガレスが、額の汗を手の甲で拭う。
「やかましくて目が覚めたか? そんな盛大にやらかした覚えも無いが…大体、声を掛けるんなら、もっと早くにそうすりゃいいものを、今まで突っ立ってたのかよ?」
「何だか、邪魔しちゃ悪いような雰囲気だったから」
そう言って、鼻息をつくニッキを見遣り、アガレスは小首を傾げた。
「…お前、何か最近、態度がひねて来てないか?」
「どうだか…」
ニッキは、一度、横に目を逸らして言い捨てると、改めて、不機嫌な面持ちをアガレスに向ける。
「…さっき、ギルドの使いが宿に来てさ、何でも、火急を要する依頼が舞い込んだそうで、速やかに集会所に来て欲しいんだって」
「何だそりゃ? こんな朝早くから急ぎの用事? 訳が判らん。どういう事だ?」
「あたしに訊くな」
目を丸くするアガレスへ、憤然と、ニッキは切り返していた。
「…こっちは寝てる所を叩き起こされて…夜半まで飲んでたんだから、少なくとも昼まではぐっすり行く積もりだったのに…ヴラードの馬鹿が起きないんで、あたしの部屋に来たらしいんだけど、全く…」
雌火竜をも竦ませそうな据わった目付きで不平を漏らすと、ニッキは、困り顔で佇むアガレスを睨み付けた。
「兎に角、伝えたからね」
「…あ、ああ…」
アガレスが、気を呑まれた呈で、それでも頷いて見せた。
それから、彼は、後ろで佇むウルリックの方へ顔を向ける。
「何だかよく判らんが、そういう事らしいから、ま、今朝はここまでだな」
「判った」
大して感慨も無さそうに、ウルリックは応えた。
 剣を下ろした二人。
何十合かの打ち合いを経たのであろう、両者の木剣には、細かな凹みが斑点のように刻まれていた。
ウルリックは、付近の木の枝に吊るした手ぬぐいを下ろし、顔の汗を拭き取り始める。
アガレスは、木剣を肩に担ぐと、宿の方へと歩き出した。
すると、そこへ、
「ちょっと待った、旦那」
アガレスの背後から声を掛けたのは、腕組みをして立つニッキであった。
三者の中央で佇む赤毛の女は、不機嫌そうな表情を保ったまま、肩越しに振り返った偉丈夫を見つめている。
「稽古は終わったんだろ? なら、最後に何か言ってやるもんじゃないのかい?」
ニッキはそう促しながら、目の端でウルリックを一瞥する。
「ん?…ああ、そうだな…」
上の空で相槌を打つと、アガレスは、視線をウルリックへと移す。
「…まあ、いいんじゃねえか?」
何とも、熱の無い物言いであった。

森へと分け入る内、視界が段々と霧に隠されて行く。
生い茂る周囲の樹木は、弱くなる光の中で、次第に葉を落とし、立ち枯れしたものが多くなっていた。
道を塞ぐように生える木々の合間を、一台の馬車が走り抜けて行く。
二頭の馬に引かせた台車の中で、アガレスら四人は、車座になって座っていた。
「んで? 向こう五日は休養を決め込んでた俺達を狩り出して、ギルドは何の用件だって?」
訊ねた後、ヴラードは、大きな欠伸を漏らした。
「領主閣下直々の依頼、と言うか、嘆願だそうだ」
胡坐を掻いたアガレスが、取り囲む面々を見渡して答えた。
建物で言えば上座に当たる、車中の奥に座るアガレスを囲って、ニッキ、ヴラードが脇に座り、台車の出入口を背にして、ウルリックが腰を下ろしている。
アガレスは、頭を掻いた。
「使いの秘書だか何だかの話に因れば? 何でも、さる高貴な御方を御館に招待しようとしたんだけども、これが夜になっても一向に到着しない。流石におかしいと思って、足取りを追ってみると、どうも領内にある沼地の何処かで消息を絶ったらしい。そいつを見付け出して欲しいんだと」
「おいおい、俺達ゃ、便利屋でもなきゃ慈善事業家でもないんだぜ? どうしてまた、そんなまどろっこしい仕事をやらされなきゃなんねえのよ?」
真っ先に不満を吐いたのは、訊ねた当のヴラードである。
むくれる細身の男へ、アガレスは頭髪を掻き毟ると、億劫そうに口を開く。
「仕方ねえだろ。領主が要請に来りゃ、何処の集会所も袖には出来ねえし、事が人命救助だってんなら尚更だ。わざわざギルドに依頼を遣したのは、土地勘や野外活動に関する一日の長を当て込んでの事で、その中で俺らに白羽の矢が立ったのは、他の連中が別の仕事で空けていて、たまたま暇だったのが、俺達だけだったからなんだとさ。巡り合わせを呪え」
額に皺を寄せながらも、ヴラードは沈黙した。
その向かいで、今度はニッキが質問を遣す。
「だけど、旦那、やっぱり畑違いだよ、この話。捜索だったら、素人衆でも人数があった方が色々と都合がいい。何なら、王国の騎士団に出動を要請すりゃいいんだ。あたしらが出張る事かねぇ…」
「だから、お前が今朝言ってたじゃねえか、火急を要するんだってよ。頭数揃えてから行動した所で、見付かったのが飛竜の残飯だけでしたってんじゃ、意味がねえだろ?」
「そうは言っても、あたしらが捜索した所で、遭難者の生存率がどれ程上がるかは怪しいもんだと思うけど…」
「…あのなァ…何事でも、始める前から悲嘆に暮れるのは止めろって」
言ってから、アガレスは、左から右へと、緩やかに視線を流す。
「他に質問は?」
その問いに、一同の中から、一本だけ手が上がった。
「おや、珍しい」
挙手した相手へ、アガレスが目を向ける。
他の三人の視線が交わる先、上げていた手を下ろしたウルリックは、徐に意見を述べた。
「…事のあらましは大体判ったが、そもそも、消息を絶った連中は、何故にこんな僻地へ足を踏み入れたんだ? 街道からも随分と逸れているのに?」
穿った意見の後には、常に沈黙が随行する。
ごとごとと、車輪の揺れが床を伝わった。
少しして、顎を押さえていたアガレスが、むっくりと顔を上げる。
「何か、人目に付いちゃまずい理由でもあったのかもな。あっちの世界じゃ、色々と隠し事も多いようだから」
答えた後で、アガレスは、馬車の出入口から覗く、外の景色を見遣った。
霧は、大分濃くなっていた。
その霧の奥深くへ、彼らの乗る馬車は疾走して行った。

昼前だと言うのに、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
葉を落とし、朽ちた木々の数々が、訪れる者を冷やかすかのように囲んでいる。もうもうと立ち込める霧が視界を遮り、風さえ吹き込まぬ湿った大地を更に蒸らして行く。
物寂しい雑木林の入口で、馬車は停車していた。
「いつ来ても辛気臭ぇとこだな、ここは…」
アガレスが、辺りを見回して呟いたが、その意見は、同じ場所に立つ皆の総意でもあったろう。
いななく馬車馬の声の内にも、心なしか、緊張の響きが混じっているようであった。
「用心するに越した事は無いと思いますよ」
一人、馬車に残った御者の青年が、沼地を前にする四人の狩人達へと呼び掛ける。
「元々、ここいらの霧は、そう簡単には晴れないんです。沼の奥にある洞窟から、引っ切り無しに湧いて出て来るもので。おまけに、この雲行きじゃ、お日様の恵みは、まず受けられないでしょうね」
「だろうなぁ…それでも行かなきゃなんねえのが、仕事人の辛い所だが…」
どんよりと曇った空を見上げ、アガレスがぼやいた。
「で、どうする、旦那? 二組に分かれて探す?」
ニッキの声に、曇天を仰いでいたアガレスは、首を戻した。
「それでもいいが、この霧だ。下手をすりゃ、ミイラ取りがミイラになりかねん。四人固まって、一つの区域を虱潰しにして、また次の区域に移動する。その繰り返しで行くとしようや」
「あいよ」
頷いたニッキは、鉄の槍と盾を肩に担いだ。
アガレスも、背に負った太刀を確認すると、御者の方へ向き直る。
「四時間後にまた来てくれ。もし、日が暮れても戻らないようだったら、ギルドへ連絡を頼む」
「判りました。気を付けて」
「ああ」
片手を上げて応えると、アガレスは、霧深い沼地へと歩を進めて行く。
その後を、ニッキ、ヴラード、ウルリックが続いた。
心配そうに見つめる若い御者の前で、四つの人影は、たちまち霧中に呑まれて行った。

霧と言うのも、不可思議なものである。
その中にいると、こちらの視線は阻まれる癖に、常に何者かの眼差しを意識せずにはいられない。
纏わり付く湿気、微弱な、それでいて認識出来る、形容し難い独特の香り、何処からか届く、微かな物音。五感を掻き乱すそれらの感覚が、視覚にも、実際には在り得ない情報を流すのであろうか。
まるで、何かの胎内にいるような錯覚を覚え、直後、ウルリックは、霧中で一人、眉間を歪めた。
彼は、誕生という現象に関する記憶や感覚が、大嫌いだったのである。
身を囲む霧の感触を振り払うように、辺りに生い茂る草を乱雑に蹴散らしていたウルリックの耳元に、この時、呼子の甲高い音が届いた。
吹き続けられる笛の音の発生源では、既に、他の三人が集まっていた。
「何かあったのか?」
駆け寄って問うたウルリックの前で、ヴラードが、草地の一角を指差す。
そこには、半壊した馬車の残骸が横たわっていた。
艶の無い黒で塗られた特注品らしい馬車は、ちょうど車体の中央辺りを大きく損壊し、草むらに沈んでいる。車軸が折れ、車体から斜めに持ち上がった鉄の車輪が、虚しく霧に濡れていた。
「爪の跡から察するに、青か斑の仕業だな。飛竜にやられたんなら、もっと影も形も無いようになってる筈だ」
馬車の残骸を覗き込んで、アガレスが推論を述べた。
「でも、肉食獣の群に襲われたんだったら、やっぱり生存の可能性は低いんじゃない?」
呼子を持ったニッキが、浮かない表情でアガレスを見る。
そのアガレスは、覗き込んでいた馬車から腰を持ち上げると、鼻息を一つつく。
「どうかな? 剣の心得のある奴でも同乗してれば、トカゲ共の間を切り抜ける事位出来るかも知れん。付近に死体も無けりゃ、それを漁ってる奴らの姿も見えないんだ。何処かで身を潜めてるって事も考えられる」
背筋を弓なりに反らして、アガレスは口を開いた。
「まあ、何にしても、もう少し捜索を続けて…」
「待て」
アガレスの言葉を、不意に、ウルリックが遮った。
一同の中で、一人神妙な顔をしたウルリックは、右手の方向に顔を向けていた。
「今、向こうで何か動いた」
「どっちだって?」
「この先、山並の下の方だ」
問うたアガレスへ、方角を指し示しながらウルリックが答えると、他の二人も、彼の指先の向けられた果てへ目を移す。
腰の辺りまで繁茂する草むらの向こう、遠く山々の姿が覗く下方は、しかし、周囲と同様、霧の覆いに包まれている。
「あっちの方向には、確か、洞窟があった筈だが…」
額に手を当てて、アガレスが、じっと目を凝らしている。
「こっからじゃ、遠過ぎて判らんな。人影ならいいが…」
「へへ、すわ穴ン中に入ってみたら、トカゲが輪になって踊ってたりしてな」
「いや、その程度なら、まだいいんだ。昔、あすこへ雨宿りに入った際に、『顔無し』とばったり鉢合わせした事があったもんでな…」
顔無しとは、電撃を操る、異形の白い飛竜を指す隠語である。
冷やかしたヴラードは、アガレスの言葉に、俄かに色を失った。
「…マジかよ?」
「何年も前の話だ。今もそいつが生きてるか、同じ場所をねぐらにしてるかも判らん。ただ、何か見えたんなら、一応、調べに行かねえとな」
実にあっさりと、アガレスは言い切った。
「ちょ、ちょ、ちょ…んな無責任な事言って、ホントに『顔無し』に出くわしたら、どうすんだよォ?」
息巻いて、苦言を呈するヴラードを、アガレスは目尻の端から見下ろした。
「何だぁ? ひょっとして怖いのか、お前?」
「誰が怖…じゃなくて、俺は、何考えてるか判んねえもんが嫌いなの!」
必死に弁明するヴラードの後ろで、ニッキが、くすくすと笑い出した。
「…まあ、何でもいいけどさ、確かに、確認はしておいた方がいいよね。他に手掛かりも無い訳だし」
「だな。霧の中で、これ以上話し込んでても、埒が明かねえや」
ニッキの提案を、アガレスが纏めた。
「さーて、鬼が出るか蛇が出るか…」
右肩を回しながら、アガレスが歩き出す。
その後ろをニッキが続き、更にその後を、気乗りしない様子で、ヴラードが追う。
一行の最後を歩きながら、ウルリックは、ふと、朽ちた馬車の方へと目を向けた。
しかし、後ろにはただ、薄靄の漂うばかり。

酷くぼんやりとした、赤や緑の輝きが、洞窟の内を満たしていた。
ひっそりと静まり返った穴蔵の中は、時折、天井から水滴が落ちる以外に音源は無く、ただ、己の息遣いを耳にするのみ。
白い息を吐いて、アガレスは、洞窟の天井付近を、ぐるりと見回した。
「…この様子だと、随分前に空き家になったようだ。良かったなァ、おい」
そう言うと、アガレスは、少し乱暴に、ヴラードの背を叩いた。
「何が良かったってんだよ…」
ぶつくさ言いながら、ヴラードは辺りをそぞろ歩く。
四方を囲う岩壁は、所々、煌びやかな鉱石を露出させ、赤や青、緑に輝くそれらが弱い光を反射すると、洞窟の内部は、あたかも、無数の宝石の塵が舞い上がっているかのような輝きに包まれた。
「…綺麗だねぇ」
「そうか?」
うっとりと呟くニッキの横で、ウルリックは、つまらなそうに言う。
「熱の無い光など、どれだけ瞬こうが、所詮紛い物だ」
そう言い捨てる彼の漆黒の瞳には、周囲の色彩の乱舞も、単に黙々と反射される。
「何でもいいけどよォ、おめえが見た人影ってのは、結局どうなったんだよ?」
頻りに、両手で肩の辺りを擦りながら、ヴラードが訊ねる。
「こんな薄ら寒い所まで来といて、見間違いでしたってんじゃあよォ…」
「俺は、見えた通りの事を口にしただけだ」
愚痴を零すヴラードに、ウルリックは、ふて腐れた様子で言葉を返した。
「案外、幽霊だったりしてな」
そこへ、至って真面目な顔付きで、アガレスが口を挟んだ。
「…よ、よせよ、そんな陳腐でありきたりで平凡な話…」
不意の発言に反発しながらも、ヴラードは、その場から数歩を退いていた。
それを見て、アガレスは意地の悪い笑みを浮かべると、訳知り顔で解説を加える。
「いやいや、判んねえぞ。よくあるだろ? 道の途中で行き倒れた旅人が、自分の死体を見付けて欲しくて、通り掛かりの人間の前に化けて出るの。あれだよ」
平然と佇むウルリックの横で、ヴラードは、面持ちを一層陰鬱なものに変えて行った。
「やめろって、だから…」
声の揺らぎに機を見たか、アガレスは不意に唇端を吊り上げ、上目遣いにヴラードを見据える。
「そうら、お前の真上に…」
低い声を出したアガレスが、洞窟の天井付近の一角を指し示す。
顔を歪めながらも、反射的にそちらを向いてしまったヴラードは、僅かの間を置いて、面皮を硬直させた。
ちょうど、アガレスが指差した近く、壁に空いた横穴から、人間が一人、顔を覗かせていた。
随分と年配の男。白いものの多く混じった頭髪は乱れ、皺の多い顔には、乾いた血や泥がこびり付いている。
その異質な容貌の男は、洞窟の天井近くの壁に空いた、広い横穴の中から顔だけを覗かせ、眼下に居並ぶ四人を、じっと見下ろしていた。
「うわああっ!」
岩壁に跳ね返る、喧しい悲鳴を上げたのは、一番先に視線を合わせたヴラードであった。

同じ頃、曇天の下を、御者は、沼地の入口へ向け、馬車を走らせていた。
昼を過ぎて尚、雲には切れ目も見えず、枯れ木の並ぶ遠くの景色には、うっすらと霧が掛かっている。
御者は、少し不安げな面持ちを作ると、林の横を通る道を、急ぎ馬車を走らせて行った。
「…ん?」
不意に、彼は眉根を寄せた。
前方に位置する沼地の方角の空に、その時、何か異様なものが見えたような気がした。濁った空の下、霧に隠れてはいたが、翼を持つ巨大な影が、ゆっくりと、沼地の木立へと舞い降りて行くのが見えたように思えたのである。
「今のは…」
半ば呆然と、御者は呟いた。
手綱を握る手が、いつしか強張っていた。
2006年11月19日(日) 11:50:07 Modified by funnybunny




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