In the case of 第一話

作者:揚げ玉




In the case of 第一話 (Cluster 1)


Cluster

長く伸びた穂が、辺り一面を埋め尽くしていた
見えない鳥が行く様に、風が穂の上に影を落として滑る
夏に入りかけの日差しは強く、私をちりちりと焼いてた



雲一つ無い一面の青空
何処を見ても、何処まで見ても、頭上は全て真っ青だった
水底から水面を眺める様に、遠すぎる空は歪んで見える

その日、農作業を終えた私の両親は、
空を見詰めたまま呆ける私を置いて、先に帰ってしまった
だから、何処までも続く畑の中、私は一人しかいなかった
吸い込まれそうな青空は、私一人のものだった

黒点

空を横切る黒点は、少しずつ高度を下げた
私にはそれが何か分からなかったし、
分かったところで成す術はなかったと思う



子供の頃、絵本でそれを見せられた日は、
胸の高鳴りが止まらずに寝付けなかった
そんな記憶も薄らいでいた頃、まさかそれが自分の目の前に現れるなど、
夢にも思わなかった

赤黒い輝き

更に光度を落としたそれは、私の視界に姿を作った
何故この日、辺境から遠く離れた土地に、彼が飛来したのか良く分からない
彼らの生息地など、御伽噺か、それと同じくらい遠い辺境の土地での話のはず
父や母にこの日のことを話したとて、彼らは白昼夢でも見たのだろうと笑うばかり
でも、私は確かに見たのだ
あれは鳥などではなかった

リオレウス

真っ青な空を滑るリオレウス
私を見つけ、高度を落とした彼
でも、彼は私を一瞥して飛び去ってしまった

笑われるかもしれない
でも、私は感じたのだ
この時、彼が私に微笑みかけた様に


 辺境の都市、ミナガルデ。狩人の聖地と呼ばれるこの都市は、ハンターらが昼夜を問わず喧騒を振りまいている。多分に漏れず、酒場の喧騒も昼夜を問わない。この日も酒場は昼からも賑わっている。

喧騒、雑踏、そして喧騒

 杯をあおる者、大声を張り上げる者、興が乗るに任せて楽器を奏でる者。そんな中で、多分そこに座っていた彼は、この中で最も静かであったろう。きょろきょろと酒場のあちこちを眺めては、嬉しそうに微笑んでいる。何がそんなに楽しいのかと思える程、彼は熱心に室内を見回していた。
「……」
その彼をみつめる瞳がある。
 目深に被った兜のせいで、その瞳をうかがう事は出来ない。その人物はそれこそ何がそんなに楽しいのかという程、彼をじっと見詰めていた。
 彼を見詰める人物。女性用の装備を身に付けた姿から察すると、どうやら女性であるらしいその人物は、性別を差し引いても小柄で細い方である。強面のハンターの為に作られた酒場内の椅子とテーブルは、彼女には少々不釣合いな様子だった。
「……よ、よし」
彼女は意を決した様に立ち上がり、店内を見回す男の元へ向かった。いかつい男達の間を縫う様に歩く彼女は、方々でぶつかりながら、ふらふらと彼のテーブルを目指す。
 彼の方でも彼女の姿に気が付いたらしく、近づいてくるのを不思議そうに見詰めている。ようやく人混みを泳ぎ切ってテーブル越しまでやってくると、彼女はずれ落ちそうになる兜を抑えながら口を開いた。
「……こ、これからランポスを狩りに行くんだけど、貴方もどう?」
席に座っていた彼がこちらを見上げると、長く美しい金色の髪がはらりと揺れる。遠目には分からなかったが、その長い前髪の下には端正な顔立ちが見え隠れしていた。
 切れ長の鋭い眼光が、まるで彼女の瞳を射抜かんばかりに彼女を見詰めている。
「うん、いいよ」
緊張した面持ちで問いかける彼女は、いささか拍子抜けした様子で彼を見詰めた。
 相変わらず嬉しそうに微笑みながら、彼は座ったまま彼女を見上げている。その容姿は、ややもすれば冷淡に見えかねない程、端正な顔立ちといえるだろう。しかしそれは暖かな微笑によって、跡形も無く掻き消されていた。
 あまりにも微笑むゆえに、その美青年振り自体が掻き消されている。美青年は美青年らしく冷淡で寡黙であり、時折見せる優しさにこそ心惹かれる。多くの英雄物語や伝説にある様な、そんな常識に囚われう者には、笑顔に埋もれる彼の美貌に気が付く事が出来ないかもしれない。
「他にメンバーは?」
難癖を付けられたり、無理難題を持ちかけられると思っていたのだ。彼女は彼のあまりにも歯ごたえのない態度に、肩透かしを食った様子だった。
 女が一人で依頼を受けようとすると、どうせ失敗するだろうと、大抵の男達は嘲笑いながら相手にしてくれない。稀に相手にしてくれた者がいたとしても、その優しさの裏には下心が隠れていた。
 彼女の年齢を知れば、それは尚の事なのかも知れないが。
「……こっち」
椅子に座る男の手を取ると、彼女は半ば強引に彼を立たせ、酒場の隅へと向かった。人気の無い場所、というのは喧騒に溢れ返る酒場の中では無理であろう。せめて人の視線の集まりにくい隅にまで来ると、彼女は目深に被っていた兜を恐る恐る外した。
「……私とでも行ってくれる?」
幼さの残る……とは表現出来まい。彼女は本当に幼い子供だった。
 その年齢は12・3といったところだろうか。無論彼女にその事を言えば、必死になって自分は子供じゃないと言い張るだろう。
 だが、そんな年頃なのだった。
「……」
兜を脱いだ彼女の表情には、悲壮なものが漂っている。年齢を元に、今まで余程揶揄されてきたのだろう。
 事実、彼女は実力でも経験でもなく、年齢と性別によって無条件に差別されて来たのだ。丸みを帯びた幼い肉付きの顔が、歳にふさわしくない表情を浮かべている。
 現実への悲しい諦め。
 そんな表情であった。彼女の様な歳の少女が、知るべきでは無い表情である。
もしかしたらこの男にも断られるかもしれない。そう思うと、彼女の表情はさらに険しくなった。
「うん、いいよ」
だが、彼からはすぐに先程と同じ返事が返ってくる。席に座っていた時と同じ微笑。彼女の素顔を見ても、彼の微笑が曇る事はなかった。
 変わらない微笑が、不意に安堵を与えてくれる。よく考えてみれば、この男からはまだ、うん、いいよ、という言葉しか聞いていなかった。
「……名前は? 私はカノン」
「クラスター」
彼はクラスターと名乗った。
 かなり朴訥な話し方なのだが、その抑揚は柔らかく、表情と相まってむしろ温厚な印象を受ける。表情はといえば、もっぱら暖かな笑みを浮かべ、辺りを楽しそうに眺めていた。
 切れ長の青い瞳は、常に微笑によって埋もれている。冷酷な印象を受ける唇は、寄せられた皺で形を崩し続けていた。
 身に着けているものは、いたって簡素である。何しろハンターが鎧の下に身につける衣服以外、防具らしき物は一切身につけていないのだ。
 鎧の類は皆無である。武器も所持しておらず、衣服がなければ、その温厚な表情ゆえ、ハンターにすら見えなかったかもしれない。
「ほかのメンバーは……いないわ。私の顔を見るなり皆嘲笑って……」
カノンが唇を噛む。目深にすっぽりと兜をつけていたのも、そのためらしい。少しでも年齢をごまかせればと、彼女は顔を隠すためにそんな被り方をしていたのだ。
 カノンの言葉の意味を察したのか、クラスターが悲しそうに瞳を潤ませる。
 まだまだ柔らかなカノンの金糸の髪。
 伸ばしかけの前髪が隠す、薄緑色の瞳。
 その瞳には、悔しさと悲しさによってさざなみが漂っている。
「べ、別に悔しくなんかないわよ!? 私の実力が分からない奴なんかこっちから願い下げよ!!」
クラスターが心配そうに覗き込んでいたカノンが、不意に腰に腕を当てて高らかに宣言する。その様子に安堵したのか、彼が表情を和らげた。
 辛い事があっても覇気を失わないカノンの様子に、クラスターは嬉しくなったのだ。
「さっそく今から狩りに行くわよ」
潤いのある瑞々しいソプラノの声が、クラスターの身体を突き抜ける。彼はその心地よさに微笑んでいた。

「アァッホでしょ?」
カノンの絶叫が酒場の出口に響き渡った。恐らくその声は酒場の中にも聞こえている事だろう。
「??」
耳を押さえながら、クラスターが不思議そうに首をかしげた。叱られた子犬の様な表情で、カノンを見詰める。
「何なのその装備!? もしかしてあんたど素人なの!!?」
クラスターの怯えた様な瞳を押し返しながら、カノンが瞳を見開いて一喝した。
 基本的に、ハンターは酒場内では思い思いの格好をしている。鎧を着たままの者、鎧の一部だけを身に付けている者、武器だけを所持している者。
 だからクラスターを見た時も、彼は装備を解いたまま酒場にやって来ているのだと思っていた。ゆえに二人は一度ゲストハウスへと戻り、用意を済ませてから集合という事になったのだ。
クラスターはどんな装備をしてくるのだろう。カノンは僅かながら、彼の装備を楽しみにしていたのだ。
ところが。
「いつもの服に手足のプロテクターを着けただけじゃない! レザーライトアームにグリーンジャージー!? そんなものあたしだって着ないわよ!! バカにしてんの!?」
実を言うと、カノンにとって本格的にモンスターと戦うのは今回が初めてである。
 これから初めて戦う肉食のモンスター、ランポス。
 その鋭い爪にかかれば、いかに熟練のハンターといえど命を落とす事もあるという。だからカノンは出来得る限りの装備に身を包んできた。この日のために幾つもの装備を新調し、戦闘のための道具も揃えている。
 それがどういう事だろう。ようやく見つけたメンバーは、装備をほとんど身に着けていない。まるで今日初めて狩りに赴いた様である。手には槍を持っているものの、それすらも申し訳程度に見える。持参するべき道具もまた、ほとんど持っていない様子だった。
「ううん」
驚いた様子でクラスターが首を振るが、どうにも説得力に欠けていた。持ち物からすると、ちょっとそこまで、といった様子である。およそ死の危険を犯して狩りに赴くようには見えない。緊張感のない装備だった。
「……もう……いい」
クラスターから顔を背けると、カノンは足早に目的地へと歩き始めた。
 ようやく仲間を見つけた。
 初めて自分と依頼をこなしてくれる人とめぐり合えた。
 ところが、である。初めての仲間はカノンを見下すかの様に、まるで冷やかしに来たかの様に、その身に装備を帯びる事も無くやって来た。
 子供が必死に依頼をこなす姿がそんなに滑稽なのか。
 自分の戦う姿をそんなに嘲笑いたいのか。
「……」
背中を向けたまま歩き続けるカノンに、クラスターは何も言おうとしなかった。付かず離れない距離で歩きながら、寂しそうに彼女を見続ける以外、何も出来なかった。街を出てから変わり続ける景色の中、二人の距離は縮まる事が無かった。

 街から程近い丘陵地帯、ハンター達から森と丘と呼ばれる地域に到着した二人は、無言のまま狩りの用意をしていた。もしもこれから始まる狩りにてこずれば、それは翌日まで伸びるかもしれない。
 丘陵地帯の入り口に設けられた、ハンターのための粗末な小屋。そこは数日掛りの狩りの際に、彼らハンターが使用する小屋である。拠点となるこの小屋で、ハンターは狩の始めに宿泊の用意をするのだ。薪を集めて火を起こせる様にしたり、水辺が遠い場合は水の確保をするのである。
「……」
黙々とクラスターが作業を続ける。
 野営のための作業が一段落したところで、二人は戦闘に向かう用意を始めた。クラスターが槍の穂先を砥石で磨き始め、カノンがボウガンに弾を込める。
 不意にカノンが弾を摘み損ね、それを地面にコロコロと転がしてしまう。クラスターがそれを拾おうとするが、彼女はそれすら拒絶し彼の手から弾を奪い取った。

ガチャリ

 無機質なりロード音と供に、カノンがキャンプを出て歩き始めた。
「……」
クラスターもまた、カノンの後を追う。
 ここに来た時と同じ様に距離を置き、同じ様に無口なままであった。


 森に入ってしばらく歩いたろうか。カノンは一人になっていた。クラスターという男は途中ではぐれたのだろうか。それとも帰ったのだろうか。自分の態度に腹を立てたのかもしれない。
 だが、帰るなら帰ればいい。
 初めての本格的な狩りだというので、きっと自分は弱気になっていたのだ。これまでこなした採取主体の依頼は全て一人でやってきた。採集の途上で、モスやブルファンゴなどの草食モンスターとなら戦闘もしている。
ブルファンゴなどは草食のモンスターとはいえ、極めて気性が荒く、狩るにはそれなりの苦労を要する。自分はそれをこなしたのだ。今回も一人でやれるはずなのだ。
「大丈夫、やれるはずよ」
両手で、手のひらを閉じたり開いたりを繰り返す。
 これまでの戦いを思い出し、今回の戦いもその延長線上にあると思えば良いのだ。改めて肩肘を張る必要はない。拳を作った両手には、確かに力を感じる。自分にはこれまで培った実力がある。これまでの戦いを、自信へと変えれば良い。
 自分を信じろ。
「……」
丘陵地帯は、断崖の広がる地域と緑濃い森林に分けられる。生物達は強い日差しの降り注ぐ断崖よりも、傘となる木々が生い茂る森林を好む。
 その彼らを主食とする肉食モンスターにとっても、それは同様である。彼らを狙うのなら、獲物の集まる森の中だ。
森は断崖付近から少し小高くなった所に広がっており、カノンは足場に気をつけながら崖をよじ登る。崖を登り切ると、途端に陽の光が柔らかくなり、肌を包む空気も優しくなった。彼女は周囲に気を配りながら、緑を踏みしめる。
不思議な静寂がある。
 鳥の鳴き声も、小動物の息吹も無い。
 怪訝に思ったカノンは、さらに小高い場所を見つけ、その上から辺りを見回そうと考える。彼女が岩場を上ろうとして、足場をつかんだ時であった。
崖の裏側から聞こえてくる物音。
 微かな奇声。
 小刻みに発せられる鳴き声は、これまで聞いた事の無い攻撃的なものだった。
 いる。
 崖に張り付いたまま崖の上に視線を這わせ、声が崖向こう側の、崖下からのものだと確認する。音を立てない様に崖を這い、周囲に生えている背丈の低い草を利用して身を隠す。さらに崖の上を前進すると、眼下にその獲物を認める事が出来た。
 青い生物の影が動いている。目の細かい青い鱗が、尾から背中を覆うモンスター、ランポス。そのしなやかな足は、自らの身長の何倍もの高さへ跳躍を可能にする。熟練のハンターですら、視界の外から不意に飛び掛られれば一撃で絶命する事もあり得るという。
 獲物を見るカノンの瞳に、頼りないざわめきが押し寄せた。眼下数メートル先に一匹のランポスがいる。食事を終えたばかりなのだろうか。頭上から注ぐ木漏れ日が、申し訳程度に口元の朱色を薄めている。
 しかしランポスはこちらに気が付いていないらしい。崖の上に陣取っているのが幸運だった。周囲に茂る低木も、こちらに利している。
 やるなら今だ。
 カノンの瞳を波立たせていた風が、不意に吹き止んだ。
「……行くわよ、カノン」
心の中のつぶやきと供に、二つ折りにして背負っていたボウガンを元の姿へと戻す。アルバレスト改と名づけられる、カノンのボウガンが姿を現した。弾はすでに装填してある。敵はたった一匹。
 後は、やる事は一つだ。

ズドンズドンッ

 カノンによって引き金が引かれ、数発の弾が銃口から放たれる。低質量の物質が空を切って打ち出された。

ギュエェ

弾の一発がランポスの肩口に当たり、そして、それは心臓まで達した。醜い鳴き声と供にランポスが倒れる。あっけ無い程、あっさりと済んでしまった。生まれて初めて、カノンは肉食モンスターを朱色に染め上げた。
「やった!!」
歓喜の声が上がる。
 だが、彼女はまだ気が付いていなかった。この時、カノンは自ら手でこれから始まる狩りの幕を開けてしまったのだ。

ギュオッギュオッッ

 不意にランポスの鳴き声が上がる。近くに仲間がいたのだ。カノンは慌ててボウガンに弾を込め、リロードを済ませる。
 いた。
 ランポスの死体から離れた所に、同じ姿をした生き物が二体。彼らは崖の上からこちらを見下ろすカノンの姿に気が付いたらしく、地面を蹴ってこちらに駆け始めている。
「もう一度!!」
偶然とはいえ、彼女が陣取ったのは絶好のポジションであった。小高い崖の様な岩場。その下に広がる、四方を崖に囲まれた空間。その奥には獣道らしきものがある。
 二匹のランポスはそこから現れた。崖から獣道までは数十メートルの距離があり、その距離を二匹のモンスターが走り寄って来る。彼らが崖へ到達するまでの間、崖の上からは緩やかな射角で狙い撃ちに出来る。
 ガンナーの好む緩やかな射角だ。カノンは絶好の瞬間を逃さなかった。

バシュッ

 アルバレスト改が唸りを上げる。一発、二発、三発……。一回のリロードで込める事の出来る、全ての弾がランポスに向けて注がれる。しかしそれは先程とは決定的に異なった。
 ランポスが倒れないのである。放った弾は全て命中したはずなのに、眼下のモンスターはひるむ事無く彼女へ駆け寄ってくる。
「な、なんで!?」
カノンは気が付かなかった。先のランポスは、辺りを見渡している間、上体が微かにのけぞった瞬間に胸を打ち抜かれたのである。鱗の生え揃っている背中よりも、打ち抜かれた胸部は柔らかく、彼女の弾を食い止める事は出来なかった。
 だが、前傾姿勢でこちらに走るランポスには、弾が当たるにしても背中の硬い鱗に邪魔されてしまう。命中しても心臓までは遠く、傷は浅いのだった。
「くそ……くそっ!」
焦る気持ちを必死でこらえ、ボウガンに弾を込めてリロードする。
 指が震えている。
 リロードに費やす一瞬一瞬が、死への秒読み様な感覚に襲われる。眼下のランポスは、既に崖までの半分を走破している。カノンは弾を込めたばかりのボウガンを眼下へ向け、夢中になって引き金を引いた。

ギュュェ

 数発がランポスの背に突き刺さり、ついにその中の一発が鱗を貫いて臓器へと達した。叫び声と供にモンスターの体が地面へ沈む。奇しくもそこは、先ほど仕留めた一匹目の死骸の上であった。
「!?」
矢継ぎ早のリロードを終えようとした瞬間、カノンは地面を蹴って身体を投げ出した。
 カノンの数本の髪が、パラパラと地面に舞い落ちる。一瞬の後、背後で硬質の物が地面を削る音がした。地面を蹴って崖下から跳躍したランポスが、爪を立てて着地した音だった。彼女が立っていた崖の上まで、ランポスは崖下から一瞬にして飛び掛かってきたのである。

ギャゥッ

 ランポスが威嚇の声をあげる。今の一撃で首を切り落としたつもりでいたのに、爪には数本の毛を切り落とした感触しか得られなかった。獲物を仕留め損ね、青色のモンスターは機嫌が悪い。彼は後ろ足に比べて極度に短い前足を振り、苛立ちを表している。
「……」
ボウガンを握る部分がじっとりと濡れていた。手のひらに冷や汗がわいている。倒れこんだ地面からゆっくりと身体を起こし、数歩を後ずさる。何とかしてランポスから距離をとらねばならない。
 この距離で弾を放つと、もしも即死させられなかった場合、発砲後の隙を突いてこちらに突っ込まれかねない。ランポスを仕留めるつもりが、逆にこちらが仕留めらる事になる。
 しかも、たとえ弾が命中しようとも、モンスターは凄まじい生命力でこちらへ突進してくる事もあるのだ。猪の様な草食モンスター、ブルファンゴを狩った時、その事を嫌という程思い知らされたものだ。
「あっ!」
更に数歩後ずさろうとした時、カノンは踵に硬いものを感じた。背後に岩がある。
 追い詰められた。
 そして声をあげたのだ。
 それが余計だった。
 ランポスはその声色から獲物が隙を見せた事を悟り、先と同じく、驚異的な跳躍を行なった。身体は宙へと舞い上がる。中空から勢いと体重を乗せて飛び掛れば、間違いなく獲物を両断できる。
 この距離なら外す事もない。
 青色のモンスターは狩りの終了を確信していた。
「キャァ!!」
そしてそれはカノン自身にも分かっていた。
 逃げ場は無い。
 ボウガンの中には、宙にあるランポスの体重を押し返せる様な、威力のある弾は装填されていない。ボウガンの中にある弾を全弾当てたとしても、飛来するランポスを打ち落とす事はできまい。
 だが、それでも。
 カノンは夢中になって引き金を引いた。

ガンッ

 金属的な音がカノンの弾を弾き飛ばした。
 何が起きたのか。
 数瞬の後、彼女は閉じかけていたエメラルドの瞳を広げた。
 目の前に金属の壁がある。
 その壁がランサーの持つ盾だと気が付くのに、数瞬以上が必要だった。
 盾の向こうに人間がいるのに気付くには、更に時間を要した。
「……クラスター!?」
カノンの声にクラスターがにっこりと微笑んだ。
 盾で弾いた兆弾がつけたのか、クラスターの頬に一筋の傷がある。それよりも何よりも、槍を持つ手元がべっとりと血に濡れていた。しかしそれは彼のものではない。槍の穂先にぐったりとした青い塊が突き刺さっているのだ。
 ランポスだった。
 クラスターはカノンの元に走りこむ刹那、彼女の発砲では打ち落とせないのを見て取り、左手の盾で彼女の弾を受け止めながら、反対の手に持つランスで空から襲い掛かるランポスを一突きにしたのである。
「大丈夫?」
ドウッという音と供に、穂先に突き刺さっていたランポスが地面へと叩きつけられる。最早息は無く、流れ出たモンスターの血液だけがジワリと地面へ広がった。
「……何よ、恩を売ったつもり? 今まで油売っといて……。それとも、そら見たことか! って嘲笑いに来たわけ!?」
クラスターが悲しげな表情を見せる。寂しそうな瞳をカノンに向け、しかし口に出しては何も言おうとしなかった。
「あんたが勝手にやったんだからね。お礼なんか言わないわよ」
身体に付いた泥を払い落としながら、カノンがボウガンを折りたたんだ。
「うん。俺が勝手にやった事だから。大丈夫なら良い」
それでもクラスターは嬉しそうに微笑んだ。
 カノンがクラスターに背を向ける。彼は自分の惨めな戦いぶりを影から見ていたのだろうか。街に帰って、彼は自分の仲間と今日の事を嘲笑うのだろうか。
 小さく首を振って、彼女は小走りでその場から駆け出した。

 緑の葉の屋根から一歩外に出ると、丘陵地帯には強い日差しが降り注いでいる。木々の葉を通された柔らかな日差しではなく、太陽から直接降り注ぐ強い光。不意に強くなった光に目を細めながら、カノンが木々の隙間から顔を出した。
 一時、その強い光で瞳を奪われるが、すぐに視界が戻ってくる。
 強い光に、紫色の大地。
 紫色の大地。
 そう、そこは柔らかな草が覆う緑の大地ではなく、青と赤に混ぜ合わされた紫色の地面が広がっていた。
「これ……!」
一面に横たわるランポスの死体。数十匹はいるだろうか。あるものは頭部を貫かれ、あるものは肉を裂かれ臓腑を撒き散らしている。
 ランポスの死骸の群れ。
 カノンは呆然と立ち尽くしていた。
「……あいつが!?」
恐る恐る死体に近づいてみると、それらは全て穴を穿たれ、肉を裂かれている。ランスによって突き刺された跡だった。
 
クラスター

 彼女の頭の中には一人の男の名前が浮かび上がった。一匹目のランポスを倒した時、彼女の耳に入った仲間を呼ぶランポスの鳴き声。それはここにいる仲間達を呼んだのではないだろうか。群れの存在に気が付いていたからこそ、クラスターは自分の後に付いて来なかったのでは無いだろうか。
 クラスターはたった一人でランポスの群れと戦っていたのだ。
 何故。
 クラスターは自分自身をこんな危険に晒してまで、どうして戦ったのだろう。
「!?」
振り返ると、カノンの後を付いてくる影がある。
 クラスターだった。
 彼もこちらに気が付いたのか、嬉しそうに微笑みながら手を振っている。
 カノンが慌てて視線を逸らした。
 クラスターの澄んだ瞳が、怖かったのだ。
 この時初めて、カノンはクラスターの微笑を見た。残酷なほど暖かで鷹揚な笑顔。彼はこれまでの男達とは違う。彼は自分の事を最初から仲間だと思ってくれていたのだ。だからこそ、命を懸けてまでランポスの群れを一人でひき付けていてくれたのである。彼の笑顔を偏見の無い瞳で見て初めて、全てが分かった。
 やはり彼は初めての仲間だったのだ。あの笑顔はその事を教えてくれる。
 カノンはそれが嫌だった。
 引き込まれそうな、クラスターの笑顔が嫌だった。
 その暖かで残酷な瞳に捕まってしまえば、もう多分、そこから逃げ出せそうに無いのだから。
「……これで依頼終了ね。今日はおごってあげる」
後ろから付いてくるクラスターの顔が見れない。
 きっと今、自分の顔は真っ赤なのだから。
 そしてクラスターは今も嬉しそうに微笑んでいるだろう。その笑顔に捕まってしまいそうで、しばらくは彼の顔を見たくなかった。
2005年08月19日(金) 01:11:08 Modified by orz26




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