The Unbalanced Hunters ―戦士二人― 第二章:第二幕

ランドール




第二章 〜追憶を断ち斬る刃〜


第二幕 〜優しい魔法の紡ぎ方〜


「二年……か。そうよね、あの時期で二年って……長いわよねぇー」
カウンターに頬杖をついて、山のような書類の整理から一時逃れながら。
ハンターギルドの受付け嬢、フリージアは一人ごちたのでした。

ニ年前、雨上がりの空が眩しかったある日。

長身白髪の剣士と、それに連れられてやってきた、黒髪の少女。
その場にいた人間の第一印象は、
「……子連れハンター?」
ほぼ満場一致で、これでした。
子持ちのハンター自体はさして珍しくもないのですけれど、普通、ギルドまで連れて来たりはしないものです。それは、公私混同以前の問題でして。
(教育上、とってもよろしくないものねえ……)
ハンターといえば基本的に腕自慢力自慢ですから、誰しもが紳士淑女というわけにはいかないのです。率直に言えば、そんなものを期待してはいけません、ということなのでした。
(でも可愛い子ね〜。お父さんにはあんまり似てないけれど、よく懐いてるみたい。
いかついおにーさんおねーさんに囲まれてさぞ怖いでしょうに、にこにこしちゃってまあ。
う〜ん……あーゆー子なら、一人二人育ててみてもいいんだけどなあ)
嘆息より儚い最後の夢想を除けば、これまたほぼ満場一致の感想でしたし、それだけで少女は興味を失われる、という流れも同様でした。
どんな世界であれ、新参者をある程度値踏みすることは、通過儀礼の一環と言えるでしょう。とりわけ、実力至上主義の中心をゲリョスの如く突き抜けるハンター業界に置きましては、いっそうその傾向は顕著なのです。
命運を共にする仲間?
依頼を奪い合う商売敵?
意味も無く好ましい友人?
ひたすら無関心を貫く他人?
運命的な出会いを果す伴侶?
不倶戴天な呪いの如き宿敵?
十人十色の視線と嗜好と思想から、『自分にとってどんな意味合いを持つか』という唯一の関心事においてのみ、先達のハンターたちは、この子連れハンターを見据えるのでした。
(私も商売柄、他人事じゃあないのよね。ううん、実は私が、一番関係あるのかもしれない)
ギルドの特色として、ハンターと受注する依頼にはそれぞれランクが設定されます。噛み砕いて言えば、高いランクの依頼を受けるには、相応の実績を積んでハンターとしてのランクを上げなければならない、というものです。信頼と実績と報酬量、非常に明快な相関関係なのでした。
ただし。
この一見シンプルで合理的に見えるシステムの裏には、常に一つの現実が見え隠れするのです。 ギルドが依頼のランクを認定するおおまかな基準は、依頼者の身分、報酬量、緊急の程度、依頼難易度の4つです。極端な話、王家からの依頼であれば焼肉調達でも最高ランクの依頼に、貧村がなけなしのお金をかき集めた依頼であれば、飛竜との交戦が前提でも最低ランクに成り得るのでした。
(そして、実際に依頼をハンターたちに提示するのが――受付けの役目)
これは、ギルドの公認ではなくあくまで黙認とされておりますけれど。
事実上の受付け権限として、『ハンターに提示する依頼を勝手に選別できる』というものがあります。低いランクに潜んでいる高難度の依頼を、何食わぬ顔で新進気鋭のハンターに請け負わせるのも、当たり障りの無い依頼をヒヨっ子さんに割り振るのも、全ては受付けの胸三寸、ということなのです。
実力に見合った依頼を斡旋できれば、ハンターもギルドも利益を上げられますし。
実力にそぐわない依頼を斡旋してしまえば、ハンターもギルドも共倒れです。
これは、組織と個人双方の命運を握っている、と言っても過言では無い責任を示します。
本来的な意味で『ハンターと依頼にランク付け』をするのが、愛想笑いとともに課せられた、受付けの至上使命と言えるでしょう。
(今欲しいのは……とにかく、即戦力ね。今日からでも動ける即戦力。
『銀月狼』はすでにギルドの顔役だしー、『破銃一笑』はある意味ギルドの天敵だしー。
『裁判魔女』は単独でしか動かないしー、『貴腐人』は群体でしか動かないしー。
……うん、個々のハンターの実力だけ切り取れば、他の街と比べても全然遜色無いんだけれど、 一長一短があんまりに激しすぎるわよ、この街の面子は。だから依頼も偏るし。
汎用に仕事を振れるヒトが増えると、ギルドとしては大繁盛の大助かりだわ。
さてさて……この新人さんはどうなのかな。期待しちゃうぞぉ、子供可愛いし〜♪)
眼鏡越しに、フリージアはそれとなく視線を走らせます。
生肉剥ぎ成功を誇らしげに報告する新人から、天災級の飛竜を屠る歴戦の勇士までを見守ってきた眼力は、生半なものではありません。
(業物らしい刀……顔立ちもそれっぽいし、東国出身かしら。髪の色はまあ、若い人だし。
防御より機動性を重視した防具、足音を立てない体運び……大剣で速度を重視した戦闘形態は、珍しいといえば珍しいけれど……年齢以上に練達された雰囲気、はったりじゃあないわね。
中堅以上であるのは間違いないように見えるけれど……街に出てきたばかりの、新人さんなのかしら? まあ、地方で実績を積んでから正式に登録に来る人も珍しくはないから……)
それでも、どこかしら奇妙な印象が拭えません。これは、いったい何から来ているのでしょう?
……と、頭の中ではそんな考察を着々と進めながらも、完璧な営業スマイルで二人を迎えます。
「こんにちは。ご用件は、何でしょうか?」
すると案の定、白髪の剣士はハンター登録の書類を求めました。
基本的に、ハンター登録には審査やそれに順ずるものは一切無く、書類への記入だけで完了してしまいます。朝に登録をすれば昼前にはもう身分証となるハンターIDが発行され、晴れてハンターですおめでとうございます、となってしまうお手軽さです。
この異様なまでに広々と開け放たれた門戸に誘われて、夢を見たくなる若者は後を絶ちません。けれど、門をくぐった時の倍の速さで逃げ出すのがほぼ同じ数、というのが現実です。

『止めはいたしませんが、その代わり何の保証も出来ません』

登録書類の最後に、皮肉なほど慎ましやかに綴られているこの一行のフレーズに、ハンターギルドという組織の姿勢、全てが表れていると言ってよいでしょう
「では、太枠で囲まれている箇所に、それぞれ必要事項を書き込んでください」
「――だ、そうだぞ」
きょとん、と首を傾げるフリージアの目の前で、白髪の剣士は、少女をひょいっと抱え上げました。そうして、カウンターの上に置かれた書類の目の前に差し出したのです。
合法的なセクハラですね、とか呟かれて目を白黒させている剣士の様子も見物でしたけれど、そんなことは問題ではありません。
(うんうん、背丈がそもそもカウンターにギリギリだから、抱き抱えでもしないと届かないのねー。
ああそうねとっても合理的ね、疑問を差し挟む余地が微塵も皆無なくらいわかりやすいわねー。
ええ、悪いのはお嬢ちゃんじゃないわよぅ、この親馬鹿全っ開な馬鹿親様ですよぉー!)
そう、今ある最大の問題は――急上昇中のフリージアの血圧を除けばですが――少女が何食わぬ顔で、書類に記入を始めている、ということでして。
「あの、大変もうしわけありませんが、正式な書類にそういったことをなされては困るのですが」
子供さんに代筆させてはいけませんよ、ということをやんわり嗜めたつもりだったのですけれど。
どうやら目の前の二人は、別の意味でその言葉を捉えたようでした。
「――やっぱりセクハラにあたるみたいですよ、これ」
「むう……だが、ソナタの背では届かないのだから、仕方あるまい」
「では、椅子を一脚借りましょうか。踏み台にするなんて、お行儀良くはありませんけれど」
「次善策としては妥当だな」
話が異次元に飛んでいってしまいそうでしたので、フリージアは慌てて言い足しました。
「いえ、そうではなくて、ですね。手続き上、ご本人が記入されないと無効となりまして……」
「うむ、当然だろうな」
「勝手に登録されたりしたら困りますものね」
さもありなん、とばかりに頷きあう二人に、ちょっと絶望的な気分になりました。
(なんなの……この話の噛み合わなさ具合はー!?)
何かの罰かな、それとも冷やかしかな、嫌がらせだったら泣いちゃうぞぉあははー、とか思いながらも、スマイルにしわ一つ寄ることが無いのは、さすがのプロ根性と言えるでしょう。
「出来ました。記入洩れは無いと思いますけれど、確認をお願いします」
「あ、はい。確認のため、少々お待ち下さい」
職業的反射で受け取ってしまってから、心の中で盛大に舌打ちをするフリージアでした。
(……まあ、代筆なので受け取れませんってことになるんだけれど、ねー)
思いながら、斜め読みで書類に目を通します。
『名前:ソナタ 性別:女 年齢:6歳』
…………………………
――とりあえず、先週新調したばかりの眼鏡の度に疑惑を向けてから。
先の半分の速度と倍の注意深さで、もう一度、ようく、内容を確認した後。
今度は心の中では無く、はうあ、と呻きました。
「何か不備がありましたか?」
きょとん、と首を傾げている少女に向けたスマイルが引きつっていたのは、もう、仕方の無いことなのでしょう。
「不備も何も……この内容だと、あなたがハンターになってしまうのよ?」
「はい、そのつもりです」
「馬鹿なこと言わないで!?」
強いて言うなら、毒怪鳥の咆哮に近い悲鳴でした。
声の大きさに注目が集まることさえ気にせず、続けます。
「いい? ギルドに依頼があるということは、ちゃんと依頼者の人たちがいるっていうことなの。
その人たちは、ひょっとしたら明日は飛竜に襲われるような状況かもしれない。
藁どころか綿毛にすがるような気分で、依頼をしているのかもしれない。
そんな人たちからすれば、ね。後ろにいるあなたのお父さんも、あなたも、同じように仕事をしてくれる人だって、当然そう思うのよ。『ハンターなんだから出来ないはず無い』って、ね。
ギルドである程度、出来る仕事出来ない仕事は区別して斡旋するけれど、
どんな仕事だって一度引き受けたら、幼いから、未熟だから、なんて通用しないわ。
わかる? ひどいこと言うけれど、あなたが生きるか死ぬかはあなたの責任で済むこと。
勝手にしてくれって思うし、勝手にしてくれればいいわ。少なくとも私は知ったことじゃないから。
でもね、迂闊な気持ちは依頼者の人まで殺してしまうの。謝って済むことじゃあないの。
……子供の遊びなんかじゃ、無いのよ。怪我しないうちに、お家へ帰りなさい!」
一気にまくしたてながら、ほとんど睨みつけるように少女を見据えます。
「――」
驚いて声も出ないのでしょうか、はたまた、何を言われたのかまだ理解が及んでいないのでしょうか。ともかく、少女の黒曜の瞳は大きく見開かれたままで、フリージアを見上げているのでした。
(うあー……泣かせちゃったかなぁ、これは……)
少なくとも、自分の四分の一しか人生を送っていない相手に対して、相応しい言葉だったとは言えないでしょう。伝えたい内容に嘘偽りはありませんが、それにしたところで、焼けつく感情を流し込んだ言葉は、子供にとってはナイフと変わらぬ鋭さです。大人気無いにもほどがあります。
(でも……草食恐竜がたまたまぶつかっただけだって、こんな小さな子じゃあ大怪我しちゃうもの。
大人がついているから平気、なんて類の代物じゃないのよ、ハンターっていうのは……)
今にも腸が微塵切りになりそうな思いで、少女をじっと見据えます。
そうして、黒曜の瞳が揺れ、みるみる大粒の雫が溜まり、やがて溢れ出す光景を覚悟しました。
けれど。
――くすり、と。
唸り声を上げそうな空気を、一瞬で手なずけてしまうような不敵さと。
触れれば崩れるほど無防備で、ともすれば危ういくらいの子供らしさと。
そんな、ひどくアンバランスな要素が入り混じった微笑を、少女は浮かべたのでした。

「厳しさの意味を知っている優しさは――素敵ですね」

一瞬、どころか十回は瞬きする時間があってもまだ足りないくらいで。
フリージアの頭の中は閃光玉でも炸裂したかのように、星が回っておりました。
(私は何を言われたの? というか何か言われたっけ? 何かってなんだっけ?
あれれれれ? うわあなんだろう全然わけがわからない私はここで誰はどこ?)
といった具合で、いっそ見事と言って良いくらいの混乱模様でしたから、
「あの……ええっと、ありがとう?」
と、何だかよくわからない答えを返してしまい、いっそう少女を微笑ませてしまったのでした。
「そんな素敵なあなたの素敵なお名前は?」
「あ……フリージア、と申しますですハイ」
「愛想のよさ、純潔、親愛の情、ですか。やっぱり素敵なお名前ですね。
親御様の愛情と人格が窺えようというものです」
はあ、と生返事を返せただけで上出来の部類でしょうか。自分でも知らないような名前の意味をすらすら並べられるなんて、それこそ夢にも思わないことです。
(この子――大人びているとかそんなんじゃ……ない?
何か……何かが、違うわ。決定的に、ずれている……というより、アンバランスなの?)
パチン、と。
世界のどこかでスイッチが入ったような唐突さで。
消化不良な物体を胃袋に詰め込んだような息の詰まりと共に。
フリージアは、はたと、気づいたのでした。
(目を――そう、目を逸らさないんだ、この子は!)
普通――大人の目線という意味において――は、話をするならば相手を見るのが当たり前です。そして相手の反応を受け止め、表情から快、不快といった情報を取り出し、よりよい話題や反応を模索する。これも、極めて基本的なことです。意識するしないは別として、通常、会話とはそのようにして成立しているものなのですから。
では、子供の場合はどうでしょう?
そもそもの前提において、『じっとしている』というだけで、子供としては相当特殊な部類に入ります。 特に『見知らぬ』『大人と』『一対一で話す』となると、恥ずかしさでもじもじと体を動かしたり視線を彷徨わせたり、無闇ににこにこと笑って見せたり逆に怯えてどうにもならなかったり、そういった反応の方が普通です。
加えて。
そこに『真正面から罵声を浴びた』となれば、どんなに我慢強い子でも、後ろの保護者を振り返るくらいのことはするでしょう、絶対に。普通はフリージアが懸念したように泣き出すでしょうし、その後の会話が続くはずが無いのです。
なのに。
終始無邪気な微笑を湛えたまま。
瞳逸らさず真っ向から見据え。
淀みなくすらりさらりと言葉を紡ぐ、この少女。
(少なくとも、自分の気持ちを言葉にするだけで精一杯のお子様じゃあないわけね。
ていうか……相手を見透かして会話の主導権握るなんてどーゆー6歳児なの神様〜!?
第一、これだけいろんな意味で将来楽しみな子が、何をどうしてハンターなのよぅ……)
後半は愚痴に終始した思考をそのまま読み取ったように、
「――そうそう、ハンター登録のお話が途中でしたけれど」
とか言われたものですから、思わずはぅ、と声を上げそうになってしまい、慌てて飲み込みます。
このあたりでもう、スマイルだのなんだのはとっくに彼岸に吹き飛んでいるのですけれど、もちろん、そうと気づく余裕なぞ、フリージアにあるはずもないのでした。
「実は、断られるか止められるかすると、予想はしていたのですね。
なので、一応のこと『説得』の方法も用意してまいりました」
「それはまた……随分と準備がいいのね」
どうも、飛竜に突っつかれてからかわれるランポスのような気分でした。
掌で遊ばれている……というより、何かとても危険で物騒な代物にじゃれつかれているような、居たたまれなさを感じるのです。
獲たり――といった顔で微笑む少女を見ると、一層そんな色が濃くなっていくようでした。

「さあさ、お立ち会い」

ポン、と一つ手を打って、少女は勢い良く喋りだしました。
「これから始まるのは、世にも不思議な『説得』の魔法さ。
この魔法にかかってしまうとさあ大変。どうにもこうにもにっちもさっちも、前後不覚の五里霧中。
真っ赤になっては真っ青になって、悲鳴を上げては声も出ない。
それでも結局最後には、くすりと笑って納得してしまうような、そんな素敵な魔法なのさ」
大げさな身振りと特徴的な語り口調は、路肩の販売か何かのようでした。
しかしその口上はなかなか堂に入ったものでして、遠巻きに見守っていたハンターたちの中でも、興味を引かれた者たちがちらほらといたようです。
「もちろん人生みたいに逃げ場は無い。覚悟はいいかな、素敵な名前のフリージアさん?」
「あ……はい」
思わず返事をしてしまったのは、痛恨でした。しかも間髪入れず、
「うん、十全。じゃあ始めようか」
と、少女の凶悪すぎる笑顔が炸裂するのですからたまりません。
……これはもう、『魔法』とやらに付き合うものとして、認識されてしまったことでしょう。
少女と、それを見守るハンターたち、全員に。
――あの口上は、周囲を巻き込むため?
少女の微笑みは、その思いには答えず先を促すばかりでした。
「まずはゆっくりと深呼吸を一つ二つ、三つもすれば、充分存分十二分さ」
「すぅ〜は〜、すぅ〜は〜、すぅ〜〜はぁ」
「次にゆっくり目を瞑って」
「はい」
何やら妙なことになったなあ、と思いながらも、どこか楽しんでいる自分がいるのでした。
――この子は、次はどんなふうに期待を裏切ってくれるのかしら?
「まず、あなたには木になってもらう」
「木? 二つ揃って林で三つ揃って森で一寸つけば村になる、木?」
「そう。足から水を吸って、その水が体を巡るのが木のイメージ。
呼吸は深く。心清かに。ただ、鼓動だけに身を任せて」
すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……
――足から水を吸い上げる。
立ち仕事には慣れている足。そこにある流れ。心臓が胸に有る以上、足元から血は上ってくる。
――うん、確かに、水を吸い上げるイメージ。
「吸い上げられた水は体を巡る。足から腰、腰から胸、胸から首と腕に枝分かれして、また戻る。
流れは淀まない。繰り返され、そのたび巡る。足、腰、胸、首、腕、どこもかしこも何度でも」
とくん……とくん……とくん……
――聞こえる。感じる。鼓動と流れ。巡る心地が伝わってくる。
当たり前の命の営み。当たり前の血の通い。ああ、どうして今まで気づかないでいたのか。
――私は、水の流れる音で出来ているのに。
「それが木のイメージ。その感覚を失わないまま、また想像して。
あなたは――ハンター。広大な丘を走っている、ハンター」
「丘を……走る」
大地を踏みしめる感覚――広がる、木の息吹の感覚。
風を従えて颯爽と、しかし高揚を押さえ切れずに疾走する姿を思い浮かべます。
――とくん。
鼓動が、想いと重なるように弾みだしました。
いっそう強くなる水の流れる音――生きている、その実感。
「そう。アプトノスがのそのそ歩いているのに軽く挨拶をして、自分の仕事に向かうところ。
今日は飛竜みたいな危ない相手じゃないから、足取りだって軽いのさ。
丘を下って、次は上って、平地に出る。左手に森が少しずつ近付いてくるね。
――そろそろ敵の縄張りかな、なんて考えが頭をよぎり始める頃だ」
同時に、つん、と鼻の奥を痛ませる動物の匂い。
けれど耳を打つのは、自分の鼓動と呼吸、そして風の音だけでした。
「少し足取りを緩めて、辺りに注意しながら進まないとダメね」
自分の声が気持ち低くなっていることに、フリージアは気づきません。
目を瞑ったまま、瞼の裏に敵の姿を求めていることにも。
「そうしてあなたは獲物を探す。ようくその目を走らせて……見つけた!
敵の姿は、こうだ。
大の大人の倍はある、後ろ足で立つぎょろりとした目の蜥蜴。
水とも空とも違う、冷たいだけの硬質な蒼色の鱗。
頭から鮮血を浴びて染まったような赤いトサカと。もっと紅い爪。
……そら、聞こえてきた。地面から響いてくるような重低音の叫び声だ」
「ドスランポス、か」
見上げないといけない大きさの肉食獣と向き合う自分。
けれど湧いてくるのは恐怖ではなく、むしろ――
「油断は禁物だけれど、負けるものか。あなたは強いハンターなのだからね。
もちろんすぐさま武器を取る。長年の相棒、ずっしりと来る頼もしい大剣さ。
それを構えて真っ向から睨みつける。うん、絶対に負けないって気がしてこないかな?」
「ええ、もちろんよ」
――とくん。
そう言い切れるだけの高揚と自信を、確かに胸の真ん中に感じるのです。
――しゃん、と音を立てる無骨な鉄の塊。
油断すれば腕を持っていかれそうなじゃじゃ馬を、正眼に構え。
そして。

「――では、目を開けてみて下さいな」

「……え?」
あってはならないことですが、一瞬、その言葉の意味を捉え損ねてしまいました。
はっ、と気づいた瞬間に、霧散していくイメージの断片。手に感じていた鉄の感触も、頬に風を受ける感覚も、あっさりと消え果てしまいました。
(あ〜あ、残念……って、ものの見事に乗せられてるじゃないのよ!)
それだけ話に引き込まれていたのだと気づくと、焦りを含みながらも安心が湧いてくるから不思議なものです。
(でもやっぱり、うん、ちょっと……楽しかったの、かな?)
ふう、と息を一つ吐いてから目を見開いて。
息のかかる距離で、ぴたり、と合う視線。
…………………………………………
ドスランポスが居ました。

「うわひゃらぅあああああ!?」

通行人が何事かと思うほどの大音声が、ギルドの内外に響き渡りまして。
後を追うように、どわっ、とハンターたちからの笑いと喝采が上がります。
すると目の前でドスランポスの頭がひょいっと持ち上がり、ぺろっと舌を出した少女が顔を覗かせました。いつの間にやら椅子の上に立っております。
では少女を抱えていた白髪の剣士どうしたかというと、周囲のハンターたちに向けて、

『フリージア嬢が気づくまで、どうぞお静かに』

と書かれた紙を、仏頂面で掲げていたのでした。

「え? ええ? ええええええ!?」

後に『マヌケの儀式でマヌケの神を呼ぼうとするような素敵なマヌケぶりでした』と、このときの狼狽ぶりを振り返るフリージアでしたが、全ては後の祭りです。
(よりにもよって……あれだけの口上を使って、『これ』だっていうの!?)
目を瞑って口上に聞き入っている間に着々と準備をして、目を開けてみるとあらびっくり。
そんな典型的な――子供の悪戯。
単純なだけに、そんなのにひっかかった、という衝撃は相当なものなのでしょう。
赤くなった後に真っ青になり、やっぱりまた真っ赤になってしまいます。
何かを訴えかけようと口をぱくぱくさせますが、とてもとても、言葉になんてなりません。
「まあ、まずは落ち着いてくださいな」
ちょっぴり首を絞めたくなる言葉をさらりと紡ぐ少女は、やたらよくできたドスランポスの被り物をカウンターに置き、水の入ったコップと毒々しいほど赤いキノコ、黒っぽい粉末の入った小瓶を取り出したのでした。
コップだけを目の前に置いて、ぽうん、と小瓶とキノコを真上に放ります。
「マックス流調合術」
落ちてくる小瓶とキノコに合わせて、小さな両手が交叉するように舞いました。
やや細かくなったキノコがまずコップの中に落ち、タッチの差で遅れながら黒っぽい粉末が降り注ぎます。小瓶はコップに落ちることは無く、いつの間にやら少女の手の中にありました。
すると。
風も無いのにコップの水がぐにゃりと波打って、そのまま小刻みにふるふると震え続けるという異常事態が生じました。やがて震えが収まるや否や、黒かった粉末がパァっと光ったかと思うと、次の瞬間には、西日に照らされたような金色の液体が出来上がっていたのでした。
「活力剤です。気つけにどうぞ」
先ほどとは別の意味で、周囲のハンターたちから喝采が上がります。
調合。
それ自体はハンターに必須とされる基本技能の一つですけれど、今行われたのは、熟練のハンターでも確実に成功するとはいえない、そういう難度の調合です。
(まさか『それ専門の』教育を受けている……とでも言うの?
こんなお人形さん遊びが似合う年頃の子に何やらせてるのよ、馬鹿親ぁ〜!)
ぐびぐびと、やけくそ気味に活力剤をあおります。
「ちなみにこのドスランポス頭、良く出来ていると思いません?」
「そりゃあね……すっごい声だしちゃったわよぅ」
「でしょうね。私が狩った本物ですから」
活力剤が噴水になりそうな一言でした。
「何かの役に立つかと思って持ってきましたけれど、そのとおりでした♪」
「え……ええ? あ、いやでも……例えそうだとしたって……」
「『あのお父さんに手伝ってもらったのでしょう』とあなたは聞きます」
「……!」
思考を見透かされ、完全に言葉に詰まります。
「それは――二重の間違いですね」
今度は、カウンターにおいてあったドスランポスの頭が高々と放り上げられて。
(あの左手……!?)
いつの間にやら少女の左手は、禍々しいシルエットの、鍵爪じみた篭手を纏っているのでした。
そうして、落ちてくる頭をぐわしと掴み。
「グラウンド零」
爆砕。
轟音と共に、ドスランポスの頭は欠片も残さずこの世から消え去ったのでした。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
その場にいた屈強なハンターたちでさえ、軒並み言葉を失いました。
酒瓶を傾けた格好で固まって、テーブルを酒浸しにしているハンマー使い。
ステーキの代わりに自分の手をフォークでさしてしまったボウガン使い。
驚いて椅子から転げ落ちて、頭にお皿を被ってしまったランス使い。
呆然としながら、何故か自分の武器を研ぎ始めた大剣使い。
思わずぱちぱちと拍手を送る、爆弾好きの小剣使い。
そして。
そんな周囲の反応に、少女はスカートの端をちょこんと持ち上げて、恭しく礼を返してから。
何事も無かったかのように、フリージアへ向き直って。
「間違いの二つ目ですが――あれ、父親じゃありませんよ」
「へ?」
あれ呼ばわりとはけしからん、とぼやく白髪の剣士に、たちまち注目が集まります。
「……お兄さん?」
「全然似てないでしょう」
「……お母さん?」
「発言には責任を持ってください」
「……お爺さん?」
「本人泣きますよ」
「……親戚の叔父さん?」
「そもそも血縁者ではありません」
「……人攫い?」
「近いですが微妙に違います」
近いものか! という抗議の声を完全に黙殺しつつ、やれやれと肩を竦め。
少女は、きっぱりと言ったものでした。

「夫です」

建物が消し飛ばんばかりの絶叫が上がりました。
もちろん、最大音量を放ったのは、他ならぬ白髪の剣士本人でしたけれど。
「……いきなり我の人生を終わらせかねない冗談をぬかすなぁぁぁぁ!」
「それはそうですね」
今度はあっさりと抗議を受け入れて、訂正します、と前置きし。

「籍はまだ入れていませんから、情婦ですね」

何かが砕け散る音がしました。
真っ白な灰となった白髪の剣士は、そのまま風化して土に還ってしまうと思われましたけれど、
「あー……まーあれだ、若気の至りってのはあるもんだよな?」
馴れ馴れしく肩を叩いてくる、苦笑。
「そ……そうですよね、不特定多数を毒牙に……もとい恋愛対象としないだけでも、紳士です!」
わけのわからない熱弁を振るう、赤面。
「つーか普通に変態でしょ?」
眠たそうな切れ長の目を向ける、無表情。
「いいや! 人生のドロップアウトをも辞さない心意気に、ワシは真実の愛を見た!」
はた迷惑な賛同を叫ぶ、感涙。
「うふふ、わたくしあなたとはとっても気が合いそうですわ。よしなに」
晴れやかに握手を求める、笑顔。
「……………………」
それら全ての的となった、大往生一歩手前のむっつり顔。
まるきり固まったかに見えた長身は、何やら、微かに震えているようでした。
初めは小さく細かな漣程度、やがて小波から大波、大波から津波へ。
――まるで、噴火直前の火山みたい。
フリージアの何気ない連想は、全くもって、正鵠を射ておりました。
ぴたり、と震えが治まった瞬間。
白髪の剣士は。
爆発しました。
「我は! まだ! ソナタに! 何も! していない! 神に! 悪魔に! 天に! 地に! 
森羅万象っ! 全てに誓って! 憚るものなぞっ! 完全完璧完膚なきまでに絶無だぁぁぁっ!」
声というよりも音、音というよりも衝撃。
鼓膜を直接殴りつける、もの凄まじい蛮声でした。
目は一分の隙も無く鎮座しておりますし、体から立ち上る気配は猛獣のそれです。
先の怒号と相まって、誰もが黙するしかない乾いた空気の中。
ゆるり、と頬を凪ぐそよ風のような、微かな呟きが聞こえました。

「――まだ?」

あまりにも致命傷な声がひどく幼い響きだったのは、はたして気のせいでしょうか。
ともあれ。
「まだって言うことは……成長するまで待つってこと? いわゆる光源氏計画?」
「ある意味プラトニックな関係と言えませんか? 少なくともロマンはありますし」
「ふん、あの宣言は変態なりの仁義なのかもしれん。だとしたら奴め……なかなかの漢よ」
「違いますわ。あくまで少女は愛でるものであり劣情の対象ではありませんのよ。
ええ、わかりますわ。わかりますとも。わたくしは全て理解しておりますわ」
鎮火したかに思えた火種は、再び、倍の勢いで燃え上がり出したのでした。
元来血の気の多さには定評があるハンターの皆様ですから、気分が否応無く高揚すれば、行き着く先は何となく見えてこようというものです。
「やっぱり変態……筋金入りで折り紙付きな純真純正混じりっ気無しの変態?」
「違うぞ! 彼は変態などではなく愛の勇者だ! って……うおお危ねぇ!?」
「変態の仲間は変態。変態は抹殺するモノ。以上、証明終了と同時に抹殺開始」
「上等だテメエ……。おめでとう、洩れなく全・殺・し! 決定だぁ!」
舞うフォーク。撃ち落とすナイフ。
「……どうも、皆さん騒がしいですねえ。半永久的に静まりたい方、おいでなさい」
「つーか元凶絶ったら?」
「それも道理。ようがす。のべつまくなし、皆さんのどてっ腹にイイモノをぶちこみましょう」
「はーん……オーケイ、そっちがその気ならこっちもこの気っ! 死ぬまであたしと踊れろらぁ!」
矛の椅子。盾のテーブル。
「まあ、皆さんお下品。こんなときは優雅に華麗に刺激的に……毒を嗜むものでしょうに」
「ど……毒煙玉を、室内で使う奴がある……くぁ……」
微笑むモノ。崩落ちるモノ。
「くくく……変態であろうと、確かに貴様は漢よ。死なせるには惜しい! ワシが助太刀しようぞ!」
「何故に……何故に、さも決定事項のように、我を変態などと認定しているのだぁぁぁぁ!」
意義の無い友情。意味の無い叫び。
喧々囂々侃々諤々。
一応、ハント用の武器を抜いているモノがいないのは救いといえば救いですけれど、生態系の頂点を脅かす方々による、あまりにも見応えのありすぎる乱闘騒ぎでした。
ちなみにその禍を逃れているのは、フリージアとソナタ、たったの二名だけ。
まあ、フリージアは受付け嬢ですし、ソナタはまだハンターでもない子供ですから、これは当然といえば当然です。とはいえ、ある意味元凶の二人が蚊帳の外なのも、不思議といえば不思議でした。
「あの……ソナタちゃん、念のため聞く臆病な私を許して欲しいけど……さっきの、冗談よねえ?」
「ええ、今のところ」
「じゃあ止めないと。ユウくん死んじゃうよ、なんていうか……ヒトとしての尊厳とかが」
「それも一興ですね」
カウンターにふわりと腰を下ろした少女は、完全に高みの見物と決め込んだようでした。 その行儀の悪さを嗜める気力さえ、今のフリージアにはありません。
――ちょっと待って? 確か当初の目的、説得じゃなかった?
けれどその結果は、乱闘騒ぎという目も当てられない状況です。なのに、何故、この少女はこうも落ち着いているのでしょう。それは、肝が据わっているとかそういう問題では無いはずです。
ならばこれは――予定調和?
「こうなるよう……企んだ、の? ソナタちゃん……」
それは怒鳴られても仕方ないほど失礼で、突拍子も無い発想でしたけれど。
むしろそれを愉快そうに、少女の皮を被ったナニモノかは、微笑むのでした。
「ユウって、無口で、無愛想で、そのくせ腕は立ちそうに見えるでしょう?
もちろん、私は中身を知っていますから気になりませんけれど、初見の人は困りますよね」
「否定はできないわね。怖いっていうのとも違うけれど、確かに話しかけやすいタイプじゃないわ。
特に……先達のハンターたちからすれば、目の上のタンコブにさえ映るかもね」
「そう。そして悪いことに、ユウ本人はよほどのことが無い限り、他人にどう見られようと気にしないのですね。というより、自分がどう見られているかなんて気づきもしない、幸せなヒトなのですよ」
そこが可愛いのですけれどね、と言う口元が、悪戯っぽく歪みます。
「ならば逃れようの無い一言を刻めば良いでしょう。
今後、どれだけ無口で無愛想であっても、ふと頭をよぎる、そんな見た目の印象を打ち砕く一言が。それは単純で、強力で、誰が聞いても容易にイメージの湧くモノが相応しいと言えます」
聞こえてくるのは、口々に『変態』と叫ぶ声と、それを潰して回る怒声。
仮に、今後どれほど仏頂面で通したとしても。『ああ、あの噂の変態か』なんて一言が用意されている限り、どこか砕けた親近感に取って代わられることでしょう。例え本人がいくら怒り否定したところで、周囲がいっそう囃し立てるための材料を提供しているようなものです。
そしてそれは、確実に、ユウという存在を人々に浸透させる結果へと繋がるのでした。
――たった一つの欠点が、仏頂面さえ人間味に変えてしまうという、この魔法。
覚えず、フリージアは唸りました。
「あなた……ユウくんが、誰からも壁を作られないように?」
それは驚くべきことで、同時に感動するべきことでした。
誰がどう見ても、徹底的に保護が必要に見える年頃の、無力な少女が。
守るために。そう――たった一人の人間を守るために、力尽くし心砕くという、この事実。
「お節介はここまでです。後は、ユウ本人がどう受け止められるか。それだけのことですから」
でもね、と言葉は続きます。
「私の未来の夫は――伊達ではありませんよ?」
「その根拠は?」
「決まっています。私を選んだというその一点です」
吹き出しました。
お腹を抱えてもまだ足りず。
大爆笑でした。
――ああ、なあんだ、そういうことか。
初めにユウを見たときに感じた、奇妙な感覚の正体。
それが、ここにいたってようやくわかったのでした。
(『長身白髪の剣士に連れられた黒髪の少女』なんて、どこにも居なかった。
『長身白髪の剣士を引き連れた黒髪の少女』が、当たり前のように居ただけだったんだ!)
目の端に涙が浮かんでも、笑いの発作は止まりません。
「……それ、ちょっと、失礼です」
なんて頬を膨らます少女を眺めつつ、思います。
――決めた。私は、この子を見守る。この子の信じるヒトを見守る。
笑顔で見送り、誰よりも無事を祈る。
笑顔で向かえ、誰よりも無事を喜ぶ。
それが私の仕事。それが私の願い。
私が見るのは背中で充分。私が見るのは足跡で存分。
そうして出来た道こそが、何より大事な記憶になるから。
このへんてこな二人が行き着く先を、私は心に刻み続ける。
だから私は。今、私に出来る精一杯は。
「ねえ、ソナタちゃん」
「はい?」
真正面から向き合って。
フリージアは、微笑みました。
営業用とは程遠い、ちょっと顔の作りが崩れるくらい、ほこほこに綻んだ顔で。
誰もが受け取る、始まりの言葉を紡ぎだします。

「ようこそ、モンスターハンターの世界へ」

真っ赤になっては真っ青になり。悲鳴を上げては声も出ない。
けれど、最後にはくすりと笑って納得してしまうような――そんな、説得の、魔法。
――私は、どうもそれに、ころっとやられてしまったようなのでした。

「ようこそ、炎の子供の世界へ」

そうやって、微笑み返された日。
始まりの一歩目を、心に刻んだ近くて遠い日。
炎の子供と風の剣士に出会った、二年前、雨上がりの空が眩しかったある日。


                         ◇


「……つまり、私のお肌も二年分歳食っちゃってるのよねえ、残念ながら」
とめどない思索から復帰すると、決して少なくはない時間が経過していたようでした。
「あらいけない。さてっと、お出迎えの準備準備〜♪」
ギルドの裏の顔の一つとして、依頼の成否を迅速に伝えるネットワークが上げられます。これは主に依頼失敗時、すぐさま次のハンターを送って時間的ロスを防ぐことや、もっと切実に、死に瀕しているハンターの救援部隊編成などに活かされます。
対して、依頼成功時にはさしたる恩恵はありませんが、それでも、おおまかな帰還時間くらいはわかるのでした。
山積の書類との格闘をもうちょっとだけ先延ばしにして、まずは飲み物の準備です。
帰ってきたハンターたちは大成功ならば祝杯ですし、大失敗ならばヤケ酒です。つまり基本的に人数分以上の飲み物(付随して食べ物)の注文があるわけで、実はこれが、ギルドの馬鹿にならない収入源の一つだったりします。
ただ、今回用意するのは、お酒ではありませんでした。
天然水にわずかにハチミツを落とし、ライムを搾って風味を付けただけのジュース。
専用の器と道具を用いて、決まった手順で粉末を湯に溶き作成する、緑淡色のお茶。
どちらもほとんど需要が無く、本来メニューに存在すらしない代物なのですけれど、フリージアは慣れた手つきでその両方を用意しました。
「キンキンに冷やした天然素材ジュースと、じんわり染み入る芸術作法のお茶と、か。
ホント、飲むものまで正反対なのは、どうなのかしらね〜」
そういえばいつだったか、ストローで一緒に飲む計画だけは目処が立ちませんよ、と嘆いていたでしょうか。もっともその直後、あ〜ん、で食べさせれば良いだけの話、と笑っておりましたけれど。
「まだまだよ。もっとずうっといっぱい、あなたたちは足跡を刻むんだわ。
そうして、もっとずうっといっぱい、私も笑顔を返し続けるんだから、ね」
背筋をしゃんと伸ばして、カウンターにそそと立ちます。
はたして、近付いてくる影が、二つ。
「ただいま帰りました」
「うむ」
いつも通りの顔。
いつも通りの二人。
いつも通りの喜び。
さあ、今日の土産話は何だろう。
仕事上砂漠での討伐の手際は気になるし、人生の先輩としてそれ以外の成果も気になるところ。レディの心得を色々教えてはあるけれど、さて今回は、手ぐらい繋いできたのだろうか。長い目で足跡を辿れば、確実にあの朴念仁の牙城は崩されつつある。後もう二年もしたら、本当にわからないかもしれない。……ああ、どうにも話の種は尽きそうにないけれど、大丈夫。飲み物の用意だって、万端なのだから。
――でも、まずは。
この笑顔と言葉で迎えることから始めよう。
あの日の想い、そのままに。

「お帰りなさい」

そんないつも通りの光景の中――書類の山から落ちた一枚の依頼書に、気づくモノはおりませんでした。
討伐依頼書『一本角の悪魔』
かさり、とも音を立てず地に落ちたその紙切れが、どんな意味を持っているのか。
気づくモノは、おりませんでした。
2005年08月22日(月) 20:49:22 Modified by funnybunny




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