The Unbalanced Hunters 第二章:第7幕 2

作者:ランドール



第7幕 〜敗者ばかりの黄昏時〜 2


 しゅんしゅん、と湯の沸く音だけが響くベースキャンプの中で、何となしに背を向けあう形になった二人は、ともあれ、各々の治療に没頭した。
 医療知識と調合知識のみを比べれば、この少女はそこいらのハンターには決して引けを取らないのだが、実施においてモノを言うのはまず経験である。だからその手際を比べれば、当然のこと、白髪の剣士のそれは少女を圧倒的に上回っていると言えた。
 しかしその事実に反して、二人の治療状況は、ほとんど平行して進んでいる。
 理由は明らかだった。
「…………」
 さりげなく――と、本人は信じているらしい挙動不審具合で――白髪の剣士は、背中越しに少女の様子をうかがっている。自然、手元への注意は相当なおざりになっていて、なるほど、これでは治療が進まないわけだった。
 もちろんこの行動の背景には、純粋に怪我の具合を心配する部分もあったのだろう。しかしそれを踏まえたとしても、やたらめったらそわそわしている上、何事かを口にしようとして思いとどまったりを繰り返したりと、あまりにも落ち着きが無い。
 ようするに、先ほどのやりとりで、少女に謝るタイミングも気力も完全に逸してしまって、けれど何事も無かったかのように接することは出来なくて、結果、こうしてばれていないのが不思議なくらいにそわそわしながら、解決の糸口を探そうとしているらしかった。
「あー……その、なんだ」
「はい?」
 少女の声は、少し硬かった。その理由は、ツンと鼻をつく消毒液の匂いが雄弁に物語っている。ある意味、治療の中で今が一番辛い段階なわけだ。
「ん、傷は……痛むか?」
「当たり前でしょう。だから治療してるんじゃないですか」
 これまた当たり前のように、不機嫌な声だった。 
「いや、まあ……そうだろうな、うん……」
「変なユウ。でも、変じゃなかったらユウじゃありませんけれど」
「……」
 ごく自然にひどいことを言われた。
 自然に。
 いつものとおりに。
 何事も、無かったかのように。

 ――そんなはず、無い、というのに。

 蔑んでいるに決まっているのに。
 罵倒したくてたまらないに違いないのに。
 ハラワタが煮えくり返っているはずなのに。
 背中越しというこの距離にあって。
 自分は命あるままに、大切な人を彼岸まで失いつつあるはずなのに。
 なのに。
「……どうして、おまえは、何も言わない?」
「消毒するたび薬を塗るたび、痛い、しみる、と騒ぎ回れと? 日が暮れますよ」
「戯れ合いはいいっ!」
 声を荒げてすぐに、後悔と嫌悪が自己増殖を開始する。
 ――結局、自分が楽になりたいだけなのか。
 自嘲する醒めた心根とは裏腹に、感情と言葉は、止め処なく溢れ出していた。

「独りで充分だと大風呂敷を広げ、邪魔をするなと大見得を切り、その挙句どうだ?
 ガーベラに無惨に敗れたばかりか、おまえを死なせるところだった……!
 それも、オレの身代わりになるような真似をさせてだぞ!」

 怒声の嵐と感情の渦。
 その螺旋は、自分も相手も傷つける、諸刃の剣。
 こんなことを言うべきではない。
 こんなことを言うつもりでもない。
 なのに。
 そうとわかっているのに。
 脆い心が。
 決壊した想いが。
 止まらない。

「……原因がオレで、結果がこれだ。
 許されるはずが――許されていいはずが無い、こんなものは!
 なのにどうして、おまえは、何も言わない?
 疎めばいいモノを……恨んでくれればいいモノを! 何故だ!?
 どうして……どうして、おまえは――!」

 その後。
 しばらく、何事かを喚き続けていたのだろうと思うが、よく覚えていない。
 実際、言葉の内容などにまるで意味はなく、ただ、一言ごとに自分が内面から崩れていく感触と、背中越しに在る温かな気配が遠ざかっていく実感だけが、全てだった。
 そうして。
 吐き出すだけ吐き出して。
 ぶちまけるだけぶちまけて。
 残ったものは、ただただ、沈黙だけだった。
 ――否。しゅんしゅん、と湯の沸く音だけが、響いている。
 それ以外の全てが変わり果ててしまった、このベースキャンプの中で。
 何一つ変わらずに、響いている。
(失うときなんて……本当に、呆気無い)
 ふと、治療を放り出したままの左足に目を落とす。
 抜け殻のようになったこの体の中にあって――滲み出る血を押さえ込もうとするその戦いだけが、未だ懸命に生き抜こうとしている意思のようで、滑稽だった。

「ねえ、ユウ」
「なんだ、ソナタ」

 背中越しにかかった声は平静そのものに聞こえた。
 だからこちらも平静そのものに聞こえるように返した。
 お互い、その何気なさを装うために、どれだけの努力を費やしていたのかはわからない。
 ただ。
 次に少女の口から紡がれる言葉が、諦めや同情、慰めや憤り――そのどれかかもしれないし、そのどれでもないのかもしれないと、漠然と思ったとき。
 理由の無い恐怖が、それでもはっきりと、背筋を凍りつかせていた。
 そのわけを探る間も無く、少女は、空気が湿ってきたので一雨来るかもしれませんね、というくらいの何気なさで、こう告げた。

「私はそこにいますか?」
「何……?」

 言葉の意味が上手く汲み取れず、何の芸も無い問い返しが口を突いた。
 しかし少女はもう一度繰り替えすでもなく、やはり何気ない調子で、続ける。

「私はどうも、あまり忘れるということが得意では無いみたいなのです」
「……ソナタ?」

 意外という以前に、それは、あまりにもわかりきったことだった。
 炎の子供は、一度見聞きしたことを決して忘れない。
 地図だろうと調合書だろうとヒトの顔だろうと戦術だろうと何だろうと、全てを記録したように記憶し、自在に引っ張り出してみせるのである。
 智は力なり。
 ハンターとして、誰よりも身体的な脆弱さを背負った少女の戦う術は、この使い古されたたった一言に凝縮されていると言っても過言ではないだろう。
 だが今、こんなタイミングでわざわざそのことを口にする理由は、まるで不明なのだった。
 そんな葛藤を知らずに、あるいは知っていても問題とはせずに、少女は続ける。
「だからきっと、それはあなたが忘れているような些細なこと。
 あなたにとっては取るに足らない、当たり前のことだったのだろうと、そう思います」
「何を、言って――」
「まず、右前腕の裂傷」
「……!?」
 言われて反射的にその箇所を見やる。もう判別出来ないほどの、けれど確かな古傷が、そこには刻まれていて――それが、少女と初めてハンターとしての公式な仕事をしたときに、その身を庇って負ったものだと思い出す。
 その間に、少女はなおも続ける。
「左側頭部の擦傷」
 これも、少女を庇った古傷。
「左手甲の刺傷2箇所」
 それも。
「腹部の打撲5箇所」
 あれも。
「背面部の火傷3箇所に裂傷2箇所」
 どれも。
「その他全身の主だった傷の合計が79箇所、うち骨折が4箇所。
 ……全部、覚えています。
 これまであなたが、私を庇って受けてきた傷……大したこと無いと言って、一人で我慢して、何事も無かったかのようにしてきた姿を、私は、覚えているのですよ?」
「…………」
 何も、言えなかった。
 自分のせいで大切な人が傷つくという、その重荷を。
 今まさに、体内でのたうつように渦を巻くこの感情を。
 少女は、ずっと背負い、そして戦ってきたのだ。
 無様な救いなんて、求めようともせずに。

「そして、そんなときのあなたは――ごめんなさい、という言葉が一番嫌いでしたね。
 戦士の傷に謝罪は侮辱なのだと。
 その悔しさは次の力に代えろと。
 あなたの大きな背中は、いつでもそう語って、私を諌めているようでした」

 ぞっとするような驚きがあった。
 少なくともそうと口にした覚えは無い。
 なのに、こんなにも――わかられている。

(ソナタは……いや、子供というのは、こちらが思うよりずっと見ているものなのだな……)

 同時に、ふと思う。
 幼き頃、自分が追いかけていた大きな背中のことを。
 はたして、今の自分は。
 物言わず多くのことを教えてくれたあの背中に、近づけたのだろうか――

「どこか不器用でひどく厳しい、その優しさが。
 私には少し悔しくて……そして、とても、嬉しかった。
 あなたは私を、どんなときでも一人の戦士として扱ってくれたのですから」

 そう。
 それは普段忘れているような些細なこと。
 意識するまでも無い、当たり前のこと。
 この少女は、誰よりも小さく、けれど雄々しい戦士だということ。

(……怒って、いるのか? まるでただの被保護者のように扱われたことを……。
 実際にガーベラを退けたのは自分なのに、まだお荷物扱いなのかと……)

 それはあたかも、傷への謝罪を嫌う自分と同じ、戦士としての誇りで――

「そして、それで満足しかけていた私を、私は許せない」
「……っ!?」

 冷水を浴びせられた、などというものではない。
 胸を氷柱で串刺しにされ、がごんがごんとハンマーで打ち込まれるような心地だった。
 思い知る。思い知らされる。
 違う。
 問題としていることが、まるで違う。
 この少女は、『こんなに頑張ってるのにどうして認めてくれないの』とか、『怪我のことなんか気にしなくていいから悲しいこと言わないで』とか、そんなことは一切求めていない。
 怒っている。
 怪我のことなんか一切気にせず、まるで別次元のことにおいて。
 烈火のごとく、怒り狂っているのだ。


「何故なら私はあまりにも弱かった」


 …………。
 ……。
 正直に言う。
 真っ白になった。
 いっそ場違いな冗談であって欲しいとさえ思った。

(これ以上物騒で勇ましい八歳児が、いったいどこの世界にいるというのだ……)

 そんなことを考えた自分は、確かに混乱していたのだろう。
 だから気づいたのは、今ある状況が全て終わってしまってからのこと。
 弱かった、と。
 少女は、過去形で、そう言ったのだ――

「私は、弱かった。
 いつでも守られるしかないほどに、ただ、弱かった。
 だからあなたは、私に守られてはいけないと思った。
 だからあなたは、自分が傷つかなければと感じた。

 大人のあなたにとって、子供の私を守るのはひどく当たり前のことだから。

 その逆をしてしまうことは、単純な、罪だから。
 だからあなたは今、そんなにも苦しみ傷ついている。

 この十日間のことだって、結局は、同じ。

 独りになろうとしたあなたは、そうとできてしまった。
 それは何故? 簡単なこと……あなたから手を伸ばしてくれなければ、私たちは繋がってなんていられなかったから。私に、あなたを支えるだけの力なんてなかったから。どこまでも単純な理由――子供は所詮どこまでも子供でしかなかったという、たったそれだけのこと」
「それは……それは、仕方の無いことだ。気に病むことじゃ無い。
 子供だから出来ないのは……だから大人が支えるのは、自然なことなんだ……!」
 
 半分は本音だったけれど。
 もう半分はきっと、言い訳で出来ていた。
 だって、認めてしまえば。
 出来なかった子供の自分は。
 やってみせた子供の彼女を。
 どう受け止めればいいのか、わからなかったのだから。

「仕方の無いことだけれど。子供が子供なのは、ひどく自然で仕方の無いことだけれど。

 ――それでも、その『仕方無さ』に甘え、諦めてしまうのは、違う。

 『子供だから出来なくて当たり前』とか『特別何も感じなくていい』とか、そんなのは違う。絶対に、違う。先に言い訳を用意して、逃げ道を作って、それで何かが出来るはずなんて、無い。
 それは大人も子供も関係無い、『ヒトの弱さ』だから――心がうつむいて、曲がって、折れてしまうことだから」

 折れる心の弱さ。
 折れない心の強さ。
 それはいつか誰かが謳った言葉。

「もちろん、努力はしていたつもりだったけれど。それでも私は甘えていた。あなたが手を引いてくれている現状に、満足しきっていた。

 ――この十日間。離れてみて、そのことがようく、わかりました。

 だって、そうでしょう。
 私にとってあなたは必要だったけれどあなたに私は必要なかったのだから」
「それは違う!」

 打ち消すような強い調子の声には、しかし、明確な根拠など無かった。
 むしろ、逆だ。
 独りである方がむしろ都合が良いとさえ、振る舞って見せた自覚がある。
 だがそれでも、考えるより先に言葉は出ていた。
 当たり前だ。
 理由なんてシンプルだ。
 自分が必要とされていないなんて。
 子供に口にさせていい言葉では、断じて、無い。

「いまさら、言い訳のしようなどあったものではないが、それでも!
 それだけは、違う! 何があっても、それだけは……!」
「では、なおさらのこと。
 必要とされても、弱いままの私では、何一つ応えることが出来ない。
 たとえば大切な人が窮地に陥ってもそれを見ていることしか出来ない」
「……っ!」

 真紅の襲撃。
 宙に舞う体。
 過去の傷跡。
 そして。
 その影を追うようにして負った。
 背中越しの少女の――傷。

「為すべきときに何も出来ないのは辛いと思いませんか?」
「…………おまえは」

 傷痕(かこ)が――疼く。
 恐らく、意図していないことなのだろうけれど。
 少女の言う弱い自分と――あの日の神楽の少年とが、重なってしまう。
 まるで、罰も無くただ罪だけを突きつけられているように。
 じくじくと血が滲むほどに、ただ、疼く。

「だから私は、私のその弱さを許せない。
 ――ならば、強くなろうと、そう思いました。幸い時間はありましたからね」
「たったの十日間で……か?」
「それは、たった、ではありません。むしろ十日間もあった、というべきです。だって……」

 そこで何故か、ほんの少し、不自然で無い程度に言いよどんでから、少女は続けた。


「独りで過ごす時間は、いつもよりもずっと……ずうっと、長かったのですよ?」


 なるほど、と頷きごくごく自然に返す。

「そういえば、幼い頃は今よりずっと、時間を長く感じたものだったな。納得だ」
「……ともかくっ!」

 何故だろう。
 率直な不機嫌さの篭った声だった。

「古人曰く、三日会わざれば刮目してみよ――と言うではありませんか」
「……だから十日あれば十二分とでも? 馬鹿を言うな」

 十日間という期間は、何かの技術やコツのようなモノの向上ならばともかく、根本的な鍛錬の結果が出るまでの時間としては、あまりにも短い。そもそも、鍛錬の『鍛』は千回の練習、『錬』は一万回の練習を指すのだから、持続的な訓練の重要性は推して知るべし、である。
 しかし、少女はむしろ呆れたような声で、こう続けた。

「……やはり、あなたは忘れているのですね」
「何だと?」
「私が私の無力さを初めて思い知ったのが――たった十日前のはずがないでしょう?」
「な……」

 言われ、慌てて記憶を探ってみるも、穴の開いたポケットのようにまるで手応えが無い。
 ――いや、不自然なくらいに、無さ過ぎる。
 この少女が弱音を吐いているところ、辛いと文句を言うところ、何かを投げ出すという意味でのかんしゃくを起こしたところ、そんな光景が、何一つとして浮かんでこない。
 そして気づく。

(笑顔しか……覚えが無いだと!?)

 そう。
 思い出せないのではなく。
 はじめから、無かったのだ。
 もちろん、他愛の無いやりとり――具体的には自分があっさり言い負かされること――において、少女は怒りもしたし、涙を用いもしたし、甘え半分の我侭を言ったりもした。

 けれど、ハンターとしては一切、無い。

 戦いの場に立ったときには。
 いつでも背をピンと張り。
 小揺るぎもせずに。
 凛然と笑んできた。

(――異常だ。少なくとも自然ではありえない)

 往々にして子供は、『自分だけは大丈夫』とか『事故や死なんて関係無い世界のお話』とか、さしたる根拠も無しに信じ込む傾向があるが、この少女の場合はまるで事情が違う。
 弱肉強食の世界で、痛みも無力も存分に知った上で。
 それでも、全てを受け止めて微笑んできたのだから――

(だ……だが、もしそれがソナタの恐るべき意思の力で為されたことだとして……。
 いったい、いつ、なんだ?
 そんなにも深く呑んだ覚悟を得るような……決定的な出来事は。
 ガーベラとまみえてさえ微塵も崩れないこの存在を、傷つけられるようなモノがあったというのか?)
 
 その疑問を解く言葉は、あまりにも短かった。

「コルック村です」

 それは、少女がハンターになる以前に訪れた村。
 ……だとすると、まさか。

「覚えていますか? マックス爺さんと会った、あの場所でのことを。
 子供の戯言と取られて当たり前の、取るに足らない会話の中で。
 それでも、私は言いましたよ。
 『ただ守られっぱなしだなんて、御免ですからね?』と、あなたに」
「……ああ、よく、覚えているさ」
「ではその翌日。
 私が足手まといだからと、置いていかれたこともですね」
「…………無論だ」

 やはり、そうか。

「私は、同じ戦場に立ち守られるのではなく。
 はじめから同じ場所に立つことさえも、許されはしませんでした」

 ――今回の相手は、ソナタを守りながらでは存分に戦えぬ。
 そう告げて背を向けたのは、他でもない。
 この少女を最初に傷つけたのは自分だったのだ――

「だからこそ。
 私はコルック村を後にするとき、こうも言いました。
 『もう二度と、置いて行かせなんかしません』と」
「……」

 言われた当時も、ひどく恐ろしい響きを持っている言葉だと思ったけれど。
 それ以上に物騒な意味があるなんて、想像さえ出来なかった。
 そう。
 たったの十日間などではなく。
 ハンターにさえまだなっていなかった、その日から。
 この少女は己の弱さと戦い続けていたなんて―― 


「――二年、かかりました」


 幼い声が紡いだ、たったワンフレーズの言葉が。
 アンバランスなほどに、様々な想いの重さが篭った、その言葉が。
 胸の真ん中に、どすん、と響く。

「ガーベラという敵を前に、たったの一度でも、やっとあなたを守れた。
 初めてあなたと同じ場所に――守られるだけではない戦士に、なれた。
 だから今一度、問いましょう。

 私はそこにいますか?

 あなたと肩を並べて戦えるところに。
 二度と置いて行かせないと言える位置に。
 誰にも渡さないと決めた――あなたの背中を守る戦士という、その場所に。

 私は、そこに、いますか?」


 これが。
 ほんのこれっぽっちの問いかけが。
 この少女の抱く全てだったのだと、やっと、思い至る。

 彼女は、傷のことを案じ続けているのだ。
 自らのではなく――背中越しの男が、心に負ったそれを。

 そして彼女は、責めているのだ。
 背中越しの男をではなく――男を独りにさせてしまった、自分の弱さを。 

 だから、問うている。
 自分はあなたの背中を守れる戦士か、と。

 戦士であるなら――その傷への謝罪は侮辱なのだから、目の前の男が己を責める必要などなくなるのだと信じて。
 そして。
 二度と置いてなどいかせないと――二度と男を独りになどしないのだと、今再び、誓いを立てるために。

(……そんなにも策を尽くし、痛みを厭わず、涙さえ隠したままで。
 願ったのは……あまりにも子供っぽい、たったそれしきのこと、なのか……)

 何ということだろう。
 ほんの八年しか生きていない少女が費やした、二年という歳月は。
 たった一人の無様な男を守るためだけにあったというのか。
 まるで、一番尊敬した人のように。
 まるで、一番大好きだった人のように。
 まるで、その身がほんの小さな一振りの――護り刀であるかのように。

 護るべきモノを守るというただそれだけのために。

 ……こんちくしょう。

 だからたまに、嫌いたくなるのだ。
 憎んでしまいたくもなるのだ。
 そして、出来ないのだと思い知る。
 だって、そうだろう。
 君はあまりにも強くて弱くて。
 幼いのにずっと大人で。
 複雑なくせに単純で。
 どこもかしこもアンバランスで。
 噛み合うところなんか何一つ無くて。
 なのに。
 いつもいつでも、ひどく当たり前に。
 こんなにも、オレの心を。
 震わせる――

 
「今のオレは、独りだ。側には誰一人としていない。いるはずが、ない」
「……」
「だから今、目指している最中だ。オレがこの背を預ける戦士は、遥か前にいる」
「え?」
「ここに誓う。誰よりも小さく、けれど大きな心を持った戦士に、誓いを立てる。

 すぐに追いつく。
 二度と置いていかせなどしない。

 ――二年も、待たせたんだ。そろそろオレも、走り出して良い頃だろう?」


 告げてしばらく、反応は無かった。
 それどころか、呼吸の音さえ聞こえてこない。
 沈黙。
 聞こえてくるのは、しゅんしゅん、と湯の沸く音ばかりだ。
 そしてなおも沈黙。
 さすがに危ぶんで、振り向くべきかどうか思案し始めた頃。
 くっ……はぁぁぁぁあ、と、ひどく盛大に息を吐く音が聞こえ、


「あぁ……………………………………………………………………よかったぁ」


 本当に。
 本当に、心から、何もかもが報われたような調子。
 安堵と誇らしさと達成感の入り混じった幼い響き。
 表情を見るまでもなく、声だけで満面に微笑んでいるのがわかる。

 ――ああ、くそ。どうしてこの子は、こんなにも……こんなにも、信じられるのか。

 痛みは消えない。ガーベラから受けた敗北の残滓は未だ全身に残っている。
 でも、今湧き上がってくる感情は、別の熱を持ったモノだ。
 まだ終わらない、終われないという、魂の叫びだ。
 せめてこの気持ちを、そのままに伝えたい。
 こんなにもひたむきな存在に応える、そんな言葉を届けたい。
 後悔でも悔恨でも恨み言でもなく。
 まっさらな少女に応えるための。
 まっさらな自分の言葉を。
 たった一言でいいから。
 居てくれて良かったって。
 嬉しかったって。
 ごめんって。
 ごちゃごちゃでぐちゃぐちゃで、けれどあったかなこの想いを。
 全部君に伝える言葉が。
 ――欲しい。
 

「……ありが、とう」


 口をついて出た言葉に驚きつつ、そして納得する。
 この言葉も――何気ない日常の中で、少女が思い出させてくれたものだった、と。

「ありが、とう」

 もう一度告げた瞬間。
 込み上げてきて。
 溢れ出して。
 もう、どうしようもなかった。

「ありがとう、ありがとう…………ありがとう、ソナタ。ありがとう……守ってくれて。
 何よりも、生きていてくれて……ありがとう。本当に……ありがとう」

 声が、胸が、魂が、何もかもが震えて。
 それを押し隠すことは、もう、出来そうに無かった。
 涙のように言葉が溢れる。
 言葉のように涙が流れる。

 ありがとう、と。

 結局のところ。
 どれもこれもが、傲慢の為せる業、だったのだろう。
 全部、自分のせいだと抱え込むことも。
 全部、謝らなければなんて思ったことも。
 全部、ただの独りよがりに過ぎなかったのだ。
 何故なら。
 彼女は、保護すべき子供などではなく。
 いつでも自分と並び立たんとする――戦士だったのだから。


「――大したことではありませんよ」


 それは。
 何もかもをひっくるめての、言葉だったのだろう。
 今までの仕打ちを。
 負わせてしまった傷を。
 どこまでも傷つけてしまった心を。
 重ね続けここに至ってしまった過ちを。
 その一切合財を。

 全て、許す、と。

 あまりにもあっさりと。
 あまりにも自然に。
 少女は、そう、告げているのだった。

「…………ぅ……」

 ぼろぼろの心から。
 ぽろぽろと雫が零れた。
 そこには、後悔とか悔恨とか、余分なモノは一切無く。
 打ちひしがれた心を洗い流し。
 そこから再び顔を上げるという。
 たった二つの純粋な願いだけが篭められた。
 まっさらで、とても、綺麗な――

「――どうやら、通り雨のようですね」

 眩しいほどに斜陽の差し込むベースキャンプの中。
 何もかもを抱きとめるような優しい声で、少女は背中越しに告げた。

「止むまで少し……待ちましょうか。
 輝くような雨上がりの空と――そこに吹く優しい風を、楽しみにしながら」

 応えは無い。
 だが、小刻みに震える大きな背中は、確かに一度、頷き返し。
 ほんの少し誇らしげな小さな背中は、静かにピンと、張られていた。
 決して顔を向け合っているわけでも、触れ合っているわけでもないけれど。
 心と心が、しっかと重なり合っている、そう確信出来る光景だった。
 そんな背中合わせの温かな沈黙の隣で。
 やはり、しゅんしゅんと湯の沸く音だけが、響いている――
2007年01月05日(金) 20:42:39 Modified by funnybunny




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