最終更新: greenland4 2009年02月15日(日) 07:05:37履歴
アンボワーズの陰謀は、フランスの新教徒コンデ親王ルイ(当時30歳)を中心とする、1560年3月の国王フランソワ2世拉致計画である。2年後に起こるフランスを二分した宗教戦争(ユグノー戦争、1562年−1598年)の伏線のひとつとなった。なお、その年の12月に国王フランソワは持病の悪化がもとで16歳の若さで病没した。
当時のフランス宮廷に勢力をもっていたのは、ロレーヌ地方に強力な地盤をもつフランソワ2世の外戚ギーズ家であり、当主ギーズ公フランソワは頑強なカトリックとして知られていた。当然ユグノーを代表するブルボン家やコンデ公はその反対党の頭目とならざるをえなかった。
1560年、コンデ公ルイによって仕組まれたこの陰謀は、熱狂的なカトリック教徒で弾圧側の中心であったギーズ公フランソワを襲い、国王フランソワ2世ら王族を奪取して王を拉致してギーズ公の息がかからないようにしようとしたものであった。
計画は事前に察知されていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われたが、これは摂政カトリーヌ・ド・メディシスが、ギーズ公の勢力を殺ぐためプロテスタントを利用しようと企図して失敗したものともいわれている。
この陰謀は失敗したが、これこそ以後40年にわたる新旧両派の抗争の序幕ともいうべき事件であった。
1560年、コンデ公ルイによって仕組まれたこの陰謀は、熱狂的なカトリック教徒で弾圧側の中心であったギーズ公フランソワを襲い、国王フランソワ2世ら王族を奪取して王を拉致してギーズ公の息がかからないようにしようとしたものであった。
計画は事前に察知されていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われたが、これは摂政カトリーヌ・ド・メディシスが、ギーズ公の勢力を殺ぐためプロテスタントを利用しようと企図して失敗したものともいわれている。
この陰謀は失敗したが、これこそ以後40年にわたる新旧両派の抗争の序幕ともいうべき事件であった。
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