最終更新: greenland4 2009年02月23日(月) 03:44:11履歴
カトー・カンブレジ条約(カトー・カンブレジの和約、仏:Traités du Cateau-Cambrésis、西:Paz de Cateau-Cambrésis、伊:Pace di Cateau-Cambrésis、英:Peace of Cateau-Cambrésis)は、16世紀前半のイタリア支配をめぐる戦争(イタリア戦争)を争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)が1559年に結んだ講和条約。
長期戦により交戦国のあいだには疲労感が濃くなり、国内的にはプロテスタント勢力が台頭し、財政難や宗教改革運動の進展に対処する必要などから、1559年、交戦国はメディチ家?のコジモ1世?を仲介人として和平交渉に応じることになった。1559年4月2日、フランス北部のカトー・カンブレジでイングランドとの間に和約を結んで講和し、翌4月3日、スペインとのあいだでも和約を結んで、1494年以来のイタリア戦争がここに終結した。
これによりフランスはイタリアにたいする領土要求権をすべて撤回した。わずかにサルッツォ侯爵領の管轄とピエモンテにおける若干の守備軍が認められただけである。エマヌエーレ・フィリベルトには、サヴォイア公国が返還された。フランスはシャルル8世?以来の征服地の大部分を失い、コルシカとルクセンブルクも手放すこととなり、代わりにロレーヌ(ロートリンゲン)を譲受し、メッツ(メッス)、トゥール、ヴェルダンの領有を確保した。
ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸はハプスブルク家の統治下に定まった。スペインはマレンマ(プレシディ領国)にある要塞だけでなく、当時ピエモンテ地方においてフランス領との均衡勢力となっていたヴェルツェリ、アスティを従来どおり保有することが認められた。また、フィレンツェ公国のメディチ家は、シエーナを獲得した。新女王エリザベス1世?をいただくイングランドは、大陸最後の拠点カレーから手を引いた。
さらに、和平の象徴として、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。エリザベートはフェリペ2世にとっては前イングランド女王メアリ1世?についで第2の妻となった。
これによりフランスはイタリアにたいする領土要求権をすべて撤回した。わずかにサルッツォ侯爵領の管轄とピエモンテにおける若干の守備軍が認められただけである。エマヌエーレ・フィリベルトには、サヴォイア公国が返還された。フランスはシャルル8世?以来の征服地の大部分を失い、コルシカとルクセンブルクも手放すこととなり、代わりにロレーヌ(ロートリンゲン)を譲受し、メッツ(メッス)、トゥール、ヴェルダンの領有を確保した。
ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸はハプスブルク家の統治下に定まった。スペインはマレンマ(プレシディ領国)にある要塞だけでなく、当時ピエモンテ地方においてフランス領との均衡勢力となっていたヴェルツェリ、アスティを従来どおり保有することが認められた。また、フィレンツェ公国のメディチ家は、シエーナを獲得した。新女王エリザベス1世?をいただくイングランドは、大陸最後の拠点カレーから手を引いた。
さらに、和平の象徴として、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。エリザベートはフェリペ2世にとっては前イングランド女王メアリ1世?についで第2の妻となった。
この条約は、イタリア戦争の終局を画したというだけでなく、イタリア半島をスペインに帰属させたという意味で、以後半世紀にわたって続くスペイン優位時代の基礎をつくった。その一方で、キリスト教世界の盟主たらんとしたフランス王家(ヴァロワ家)、ハプスブルク家の中世帝国建設の夢は断たれた。
また、本条約後のヨーロッパ国際政治は、最強の軍事力をもち国益擁護とカトリック信仰による制覇を掲げるスペイン王フェリペ2世と、その覇権を阻止しようとする諸国家との対立を軸に展開した。スペイン支配から離反した新教国オランダを、新教のイングランド、旧教のカトリックともに支援したのは、そのあらわれである。こうして教会と皇帝を軸とする普遍主義的な世界秩序はいっそう後退し、17世紀の三十年戦争後の主権国家システムへと移行していく。
また、本条約後のヨーロッパ国際政治は、最強の軍事力をもち国益擁護とカトリック信仰による制覇を掲げるスペイン王フェリペ2世と、その覇権を阻止しようとする諸国家との対立を軸に展開した。スペイン支配から離反した新教国オランダを、新教のイングランド、旧教のカトリックともに支援したのは、そのあらわれである。こうして教会と皇帝を軸とする普遍主義的な世界秩序はいっそう後退し、17世紀の三十年戦争後の主権国家システムへと移行していく。
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