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大輪田泊(おおわだのとまり)は兵庫県?神戸市?兵庫区?に所在していた港で、現在の神戸港?西側の一部に相当する。12世紀?後半の平清盛?による修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代?末期から鎌倉時代?前期にかけて日宋貿易?で栄えた。

立地

大輪田泊は、和田岬?の東側にいだかれて天然の良港をなし、奈良時代?から瀬戸内海?を航行する際の要津であった。和田岬は、六甲山地?から現在の大阪湾?に流下する湊川?・苅藻川・妙法寺川によって運ばれた土砂が、さらに潮汐?によって集積して形成された砂嘴?であった。

摂播五泊

大輪田泊は、延喜?14年(914年?)の三善清行?の『意見封事十二箇条?』に、奈良時代に大僧正?行基?が築いたとして記される摂播五泊?のひとつである。五泊は東より、
・河尻泊(兵庫県尼崎市?神崎 (尼崎市)|神崎町?
大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
・魚住泊(兵庫県明石市?魚住町)
・韓泊(兵庫県姫路市?的形町、のちの姫路港|飾磨津?
・室生泊(兵庫県たつの市?御津町 (兵庫県)|御津町?室津?

いずれも摂津国|摂津?から播磨国|播磨?にかけて所在するため、「摂播五泊」とも称される。

なお、「大輪田」の地名?は津泊の意におこるとも理解されており、上記河尻泊の所在した摂津国神崎川?河口?にも「大和田?」の地名があるのをはじめ日本列島?各地に同様の地名がのこり、そうしたなかで単に「大輪田」といえば概ね務古水門のことをさすのは、この地が古くから最重要港湾として認められていたことを示しているとも考えられる(1)。

造大輪田船瀬使

平安時代には、『日本後紀?』の弘仁?3年(812年?)6月条に大輪田泊修築のことが記されるのをはじめ、造大輪田船瀬使がおかれ、防風と防波を兼ねて石の堤(石椋?)を築くなど、たえず修築がおこなわれ、その経費を充当するため勝載料?もしくは船瀬庄田稲を徴収していたことのあったことが各種の文献資料 (歴史学)|文献資料?で確認されている(2)。とくに、泊の西?方向には和田岬があって西風の波浪には安全であったが、南東?方向は海にひらけており南東風のため諸船がしばしば難破した。そこで国費で船瀬(船だまり)をつくって修理が加えられたが、律令国家?の衰えとともに修築はおこなわれなくなり、放置されるようになった。

平清盛の大修築と福原遷都

鳥羽院?の信任の厚かった平忠盛?は、後院領荘園?天皇?の隠居所の所領)であった肥前国?神埼荘(3)の知行?を通じて日宋貿易?を開始し、舶来品を院に進呈して院の近臣?としてみとめられるようになった。その際、対外交渉を統括する大宰府?が、これを越権行為として批判したが、忠盛は院宣?によりこれを抑えた。

忠盛の子、平清盛?は安芸守、播磨守、大宰大弐(4)を歴任し、平治?元年(1159年?)の平治の乱?ののちに平氏政権?を成立させた。清盛は勢力基盤であった伊勢国?で産出する?などを輸出?し、安芸国?音戸瀬戸?を開削するなど瀬戸内航路?を確保し、さらに大宰府の対外交渉権の接収をおこなった。

応保2年(1162年)、清盛は福原?のある摂津八部(やたべ)荘を手に入れた。このとき、あるいはそれに先だって大輪田泊もかれの管轄下に入ったものとみられる。大輪田泊の重要性を深くみとめた清盛は、上述したように、従来、南東風による風浪が港湾施設を破壊することが多かったため、湊の前面に人工島?を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事に着手した。最初の工事は応保2年2月、清盛権中納言?のときに開始されたが、同年8月に大風があり、工事はそのため水泡に帰した。

長寛?元年(1163年?)3月に工事を再開したが、難工事であったため、その際さまざまな伝説?が生じている。もう少しで工事完成というそのときに日が暮れそうになったため、清盛が沈む太陽?を招き返した(5)、あるいは、人柱?を沈めてから工事をしようという意見をしりぞけて、諸人に一切経?の経文を書かせた石を沈めて基礎を築いた、そのため、この人工島を「経が島?」と称した(6)などである。

仁安 (日本)|仁安?3年(1168年?)、清盛は出家?(7)して「浄海」と名乗ったのち摂津福原に別荘?(福原山荘)をかまえ、常時ここに住んで周辺一帯を経営した<ref>妻の弟平時忠?検非違使?別当として京都の制圧にあたった。これは、大輪田泊を利用して外国貿易?をおこなうのに便利な地を選んだものと思われる。嘉応?2年(1170年?)、大輪田泊にはじめて北宋?の船が停泊した。後白河法皇?は清盛の招きで福原の清盛別荘をしばしば訪れ、宋人に引見している(8)。

承安?2年(1172年?)、中国明州(寧波?)の地方官より、後白河法皇と清盛に国書と贈り物がとどいた。翌承安3年(1173年?)、清盛は答礼使を派遣し、また、後白河院からは大輪田泊までの商船?通航許可を得て宋の商船に瀬戸内海を航行させ、また、後白河院が宋の使者に答物(9)を贈ったことによって、宋とのあいだに正式に国交?が開かれて日宋貿易が拡大した。清盛らが大量に輸入した宋銭?は、一時は物価騰貴?を起こし、貨幣経済?の発展をうながすなど中世?日本経済?に大きな影響をあたえた(10)。承安4年(1174年?)、推定面積37ヘクタールの人工島経が島?が竣工し、翌1175年には修築工事を終えた。経が島の工事責任者は、平氏水軍の中核をなす阿波国?の豪族田口成良?であった。清盛はまた、治承?3年(1179年?)に『太平御覧?』を購入して人に書写させ、写本?は手元において、印刷?本(摺本)は女婿にあたる高倉天皇?に献上するなど、新知識の導入にも努めた(11)。清盛はこの年の11月、軍事クーデターをおこし、後白河法皇を幽閉、反対派を一掃した。

治承?4年(1180年?)2月に譲位して上皇?となった高倉の最初の社参が、その年の3月から4月上旬にかけて、従来の慣例(12)を破って安芸の厳島神社?でおこなわれた(13)。また、この年の春には大輪田泊のあらたな改修が計画された。それまでの改修が平家の私財によったのに対し、今回の計画は国家権力をあげてのものとなった。

この年の6月、平清盛の主導により、まだ3歳の新帝安徳天皇??高倉上皇、祖父?後白河法皇の福原行幸?がおこなわれ、行宮?もその地に置かれた。清盛は福原に隣接する大輪田の地に「和田京」の造営を計画し、国々の功力による大輪田泊の永久的修築をも企図した。整備なった大輪田泊をそのうちに取り込む「和田京」造営計画(14)(15)は地形?的制約もあって計画のみに終わったが、清盛は、大輪田泊を見下ろす山麓に福原京?を築いて遷都?を強行した。高倉上皇や平家?一門の反対もあったが、それを押し切っての遷都であり、約半年後の京都還都まで、清盛の福原別邸が天皇の内裏?となり、「本皇居」と称された(16)。これについては、清盛は延暦寺?園城寺?興福寺?など寺社勢力の干渉を避けるためとも、また、?との貿易拡大によって海洋国家、西国国家の樹立を目指していたとも指摘される(17)。

大輪田泊の永久的修築の計画は源頼朝?源義仲?の挙兵にはじまる内乱とそれにつづく平氏?の失権により中絶してしまったが、福原京に建てられた建造物群もまた治承・寿永の内乱?のなかで源義仲?によって全て焼き払われた。

鎌倉時代以降

平氏政権滅亡後の鎌倉時代?には日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府?は民間貿易を認め、文治?元年(1185年?)に九州?に設けられた鎮西奉行?は、博多?を統治して幕府からの御用商船を宋へむけて派遣することとした。清盛による大輪田泊の修築工事も2度にわたっておこなわれたが、中絶を余儀なくされていた。

建久?7年(1196年?)、東大寺?俊乗坊重源?は、大輪田泊の修築事業の中絶とその後の泊の損壊状況を嘆き、山陽道?南海道?西海道?の諸国および荘園からこの港を経て運ばれる運上米?のうち1石あたり1升を徴収し、三道の一郡一荘それぞれから?1艘を課し、[[和泉国]・摂津・播磨・備前国?備中国?紀伊国?・伊勢国・淡路国?讃岐国?・阿波国の計10か国の海岸に漂着して破損した船を没収、また、山城国?河内国?・摂津国・播磨国・淡路国の5か国の公田・荘園の竹木を伐採し、さらに摂津・播磨・淡路の民家から人夫を徴用して、河尻泊・魚住泊とともにこの泊を修築することを奏請した。重源のこの意見はみとめられて上記諸国には太政官符?が下った。

重源が修築事業に乗り出したのは、かれが大勧進?として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津を利用することが多かったためと思われる(18)。その成果の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時の兵庫津のようすは絵巻物?法然上人絵伝?』や『一遍聖絵?』にも描かれている。

日宋貿易は南宋?代の終わりまで行われ、幕府の執権?を代々つとめた北条氏?臨済宗?を保護したため、宋の禅僧?も数多く貿易船に便乗して来日し、モンゴル帝国?による南宋攻撃が本格化してからも往来は継続した。流通経済の発達で国内の水運?がさかんになると、荘園からの年貢?減少に苦しむ大寺社?ではその維持のために船から関銭?を徴収することとした。南北朝時代?の兵庫津には、東大寺領の北関と興福寺領の南関が設けられていた。

室町時代?にはいると、兵庫津は足利義満?による日明貿易?の拠点となり、遣明船の発着港としてにぎわったほか、朝鮮王国?琉球王国?の船も来航して再び国際貿易港としての地位を得た。江戸時代?には西廻り航路?における国内航路の要津として栄えた。安政?5年(1858年?)の日米修好通商条約?においては、新潟?長崎?神奈川?横浜?)とともに開港場に指定されている。

脚注

(1)(2)(18)武藤(1979)
(3)佐賀平野?の穀倉地帯。忠盛のあとには信西?が神埼荘を知行した。信西は「遣唐大使」を夢みてみずから中国語?を習い、保元の乱?藤原頼長?の所領が没収されたのちは陸奥国?本良荘・高鞍荘など?を年貢とする荘園をも合わせた。信西没落後は、清盛がその跡を襲った。五味(1989)
(4)清盛の大宰大弐任官は保元3年(1158年?)。なお、大弐本人は赴任しないという当時の慣例をやぶって、仁安元年(1166年?)には、弟の平頼盛が現地に赴任している。
(5)(6)(11)竹内(1973)
(7)清盛の対宋積極策は出家によって天皇を頂点とする世俗の政治社会秩序にとらわれない自由な立場と深いかかわりがある。出家者は日本国王(天皇)の臣下ではないから、陪臣(臣下の臣下)とは外交をおこなわないという中国側の大原則にも抵触しない。高橋(1993)。
(8)『百錬抄?』および『玉葉?』の嘉応2年(1170年)9月20日条にも法皇が福原に御幸して宋人と会う記事が載っている。外国人との接見は宇多天皇?寛平御遺戒?で禁止された行為であったこともてつだって、『玉葉』の筆者九条兼実?は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と批判している。
(9)答進物としては後白河院からは色革30枚を納めた蒔絵?厨子?1脚と砂金100両を納めた手箱1、清盛からは?一振と武具?を納めた手箱があった。
(10)治承3年(1179年?)には「銭の病?」という奇病が流行している。
(12)これまでの例では最初の社参は石清水八幡宮?賀茂社?春日大社?あるいは日吉大社?などであり、遠い厳島を選んだのは異例のことであった。竹内理三は、高倉上皇の社参を、清盛の心をやわらげ、後白河法皇を幽閉の状況から救わんとする願いから発したものと解釈している。竹内(1973)。
(13)厳島参詣は華やかなものであったが、これに対する延暦寺・園城寺・興福寺の反発は激しく、それを背景に同年4月、以仁王?源頼政?が反平氏の兵を挙げている。
(14)かつては喜田貞吉?による山陽道?を正中線とする新京プランが提起されたが、足利健亮は喜田案には疑問ありとして、他の都城?同様南北線を正中線とする和田新京プランを想定している。足利(1989)
(15)新都の地割にあたったのは藤原実定?源通親?藤原行隆?らであった。
(16)高倉上皇は当初福原の平頼盛?の邸宅に入ったが、のちに平重衡?の邸に移った。後白河法皇は、平教盛?の邸に居住した。摂政藤原基房?は安楽寺の別当?安能(あんのう)の房を宿所と定めた。
(17)網野(1989)

関連項目

神戸港?
福原京?
日宋貿易?
経が島?
太平御覧?

参考文献

竹内理三?『日本の歴史6 武士の登場』中央公論社<中公文庫>、1973年12月。
武藤誠?「大輪田泊」日本歴史大辞典編纂委員会編『日本歴史大辞典 2』河出書房新社、1979年11月。
五味文彦?「奥州の金-京と地方の豪族」『朝日百科 日本の歴史3 古代から中世へ』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4
網野善彦?「西国国家の夢」『朝日百科 日本の歴史4 中世機拂日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4
足利健亮?「福原と和田新京」『朝日百科 日本の歴史4 中世機拂日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4
高橋昌明?「平氏の栄華」『日本歴史館』小学館、1993年12月。ISBN 4-09-623001-4
盛本昌広?「海上と水上の道」『日本歴史館』小学館、1993年12月。ISBN 4-09-623001-4

外部リンク

・[http://www.city.kobe.jp/cityoffice/84/about_hyogo/... 大輪田の泊と平清盛の時代](神戸市兵庫区役所)

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