<03――逃避行>
  
「それで、捕まえたわけか」
「ああ、なにか情報が得られるのではないかと考えてな」
「フムン」
 津田の襲撃があったあと、二人は場所を変えて一晩を過ごした。
 気絶していた津田はガムテープでがんじがらめにして、車のトランクにしまっておいた。
「それで」
 朝一番で二人が泊まっている安ホテルを訪れた飯島は、むくれた顔の透華をみて、小さ
な声で言った。
「お姫様はどうして、不機嫌なんだ?」
 紅は朝からビールの缶を開けながら、「さあな」といったが。そこへ枕がぶつけられた。
「なにをする」
「あなた、顔はいいけど。性格は最低だってことよ!」
 シーツに包まった透華は顔を真っ赤にしていった。
「……なんのことだ?」
「分からないならいいわっ」
 そういうと透華はシーツに包まってうずくまった。
 昨晩、津田の襲撃があったのち、場所を変えようということになったのだが。
 透華の衣服には津田の精液がべたべたにつけられていて、着れたものではなくなってい
た。そんな透華に、紅はコートとラブホテルにおいてあったスリッパを手渡した。
 最初、透華は冗談だと思ったが、違った。
 紅は透華に全裸の上からコートを着て、スリッパ履きで夜の街を歩けといったのだ。
 透華は、それでも三十分ほど抵抗したのだが、命と羞恥心を天秤にかけさせられて、透
華は折れた。
 夜の街を歩いている間中。「AVの撮影かなあ?」「痴女だ、痴女」「おーい、そのコ
ートも脱げよー」などと声をかけられ続けた。正直、死んだほうがましだとすら思ってし
まった。
 飯島は二人の雰囲気を見て、小さくため息をついたが。藪をつついて蛇に出てこられて
も困るという風に肩を竦め。
「ほら、お嬢ちゃん、着替えだ」
 紙袋を透華のほうへ投げた。
 透華はそれを受け取ると、シーツの中で広げてみたのか。
「うわ、ださい下着。ブラジャーもないし」
「コンビ二で買えるようなのはそれくらいしかなかったんだ」
「それに、この服、なんか脱臭剤の匂いする」
「いいから、着なさい。ここにも長くいられないんだからな」
 飯島がそう怒鳴ると、透華は渋々といった様子でシーツの中で着替え始めたが。シーツ
の中では手狭だったのか、飛び出すと隠す様子もなく着替え始めた。
 その間、紅も飯島から家から取ってきてもらった替えの衣服に着替えた。といってもジ
ーンズとコートはそのままで、シャツと下着を取り替えただけだったが。
 飯島は額に手をあて、ため息を吐いた。
「……お前ら、女なら少しは恥ずかしがったらどうだ」
 その呟きに、二人は同時に答えた。
「なにを今更」
 紅は言った。
「アンタの前で恥ずかしがる理由がない」
 透華は言った。
「なんか、どうでもよくなってきちゃって」
 飯島は再びため息。
「お前ら……」
 
 
***
 
 
 津田の尋問に関しては、飯島の仲間に引渡し行うということとなった。
 紅は自分たちでやろうと主張したが、飯島は首を縦に振らなかったからだ。
 二人のその様子を見て、透華は紅と飯島は親子ではないかと考えたが、確証はなかった。
二人の苗字は違っていたし、顔の作りも全然違うし、何より親子の間柄というには近すぎ
るように見えた。
 いや。
 透華は自らの考えを否定した。
 親子だからといって、必ずしも苗字が同じというわけではない。両親が離婚していれば、
片親とは違う苗字になってしまうし。親子の顔のつくりが似ることはよくあるとはいえ、
似ないことだってある。透華自身母親には似ているとよく言われるが、父と似ているとい
うことはあまりなかった。
 それに、親子だからといって、愛し合ってはならないということはない。
 昨日の夜乗っていた車は飯島の仲間が回収しに来るということになり、飯島が新たに乗っ
てきた車に乗った。
 前の席に座った飯島と紅は、殆ど喋らなかったし。ラジオも音楽も流れていない車内は
少女にとって、退屈なものだった。
 だから透華は――どこへ行くのかは知らなかったが――目的地に着くまでの暇を埋める
話題として、二人に話しかけた。
「あの、ちょっと訊いてもいいですか?」
「ん? どうした」
 飯島が応えた。
 紅は腕を組んで目を瞑っていた。
「飯島さんと紅さん、二人はどんな関係なんですか?」
 飯島は「んー?」と不思議そうに、バックミラー越しに透華を見た。
「なんだね、突然」
「いや、なんとなく」
 透華はあははと軽快に笑ってごまかした。
 紅の冷たい目よりは接しやすいけれど、飯島の目はどこか冷たい、冷めているように透
華には見えた。
 飯島は「ふうむ」と唸った。
「家族だよ。血は繋がっていないがね」
 その言葉に、眠っているようにみえる紅の身体がわずかに揺れた。
「奥さんの連れ子とかですか?」
「連れ子か」
 そういって飯島は笑った。
 踏み込んでいい会話なのかどうか、幼い透華には判断つかなかったが、飯島の態度はそ
うした透華の追求を拒絶するものではなかった。
「俺は一度も結婚したことないよ。紅と違って、見た目がよくないからな」
「えと、じゃあ……」
 飯島はちらちらとバックミラーを見ていた。
「孤児だったんだ、こいつは」
 出勤ラッシュが終わった直後の朝のオフィス街を、流れるように飯島は車を走らせる。
「孤児、ですか?」
「そうだ。親が死んで、俺が引き取った。もう二十年も前の話さ」
「そうだったんですか……」
 道理で二人の容姿が似ていないわけだ、と、透華は思った。
 その時だった。
 紅が目を開いて、言った。
「話している暇はなさそうだ」
「え?」
 紅の言葉の意味が透華には分からなかったが、飯島にはきちんと伝わったようだった。
「やっこさん、俺たちが車を降りた瞬間を狙ってきそうだな」
「人目につかない場所がいいな」
「分かっている。商店街で銃撃戦なんぞされたら、俺の首まで危ないからな」
 飯島はそういいながらハンドルを切った。
 タイヤが悲鳴をあげ、雪を跳ね上げた。
「きゃっ」
 透華が悲鳴を上げたが、心配してくれるものはいなかった。
 
***

 地沼庄助は苛立っていた。
 昨晩、彼はとても簡単な任務についていた。
 一人でいる少女の家へ赴き、犯し、誘拐する。
 今まで何度となく行ってきた仕事だった。
 彼にとって、簡単すぎる仕事だった。
 ――そのはずだった。
 しかし、実際には、途中で現れた介入者によって目的の少女は連れ去られ、地沼の右腕
は打ち砕かれてしまった。
 地沼は直ぐに病院へ連れて行かれ、手術を受けたが。右手はもう使い物にならないとい
われてしまった。
 彼にとって鍛え上げられた肉体は武器だった。
 それが失われて自失する彼へ、田所は言った。
『そんな手では、もう役に立ちませんね。今までありがとうございました』
 地沼は怒り狂った。
 こんな怪我だけで、解雇されるというのか、用済みだというのか、と。
 実際、片手がないだけでも相当不利になるのは分かっている。彼はあくまで実働部隊な
のだ、誘拐、殺人、暴力が彼の仕事だ。なのに片手がないとなれば、無条件で相手へハン
デをくれてやることになる。
 だから、辞めろという田所の言葉は理解できた。
 けれど彼はそれを認めることはできなかった。
 なぜなら、彼はこの仕事が好きだったからだ。
 自由に暴力を振るい、人を殺しても逮捕されない、女を犯して殺しても捕まらない、そ
んなこの商売が好きで好きでしょうがなかった。天職だとすら考えていた。
 辞めろと言われて、はいそうですかと諦められるわけがなかった。
 田所は『ならば』と言った。
『あの介入者を殺し、柊透華を捕まえることができれば。続けることを認めましょう』
 望むところだった。
 彼は暴力も好きだったが、なにより勝負事、賭け事も好きだった。それに負けず嫌いで
もあった。
 復讐する機会が与えられるというのなら、望むところというものだ。
「ぐ、ふふふふ。見つけたぜ」
 片手でハンドルを切りながら、地沼は笑った。
 透華たちの居所は、昨日の時点で津田が見つけ出していた。
 津田が報告した場所には透華たちはいなかったが、見つけ出すのは簡単だった。
「マヌケなんだよ、てめえらはよぉ」
 透華たちは目立つまねをしていたからだ。
 田所の部下たちが聞き込みを行ったところ、直ぐに透華たちは見つかり、地沼は直ぐに
尾行を開始した。
 だがどうにも短気なこの男の尾行は、目だった。
 飯島が運転する車の直ぐ後ろにつけて、追いかけるという。尾行とはいえないようなこ
とをしていた。
 それもしょうがないことだった。
 地沼には正常な思考力が失われていたからだ。
 包帯でぐるぐる巻きにされた右手の痛みをごまかすために、彼は鎮痛剤を過剰摂取し、
それでも足りないと、錠剤のドラッグを大量に頬張っていた。
 ばりぼりと錠剤を噛み砕き続け、口の中からそれらがなくなると、更に口の中に突っ込
むということを続けていたが。途中から彼は嚥下していなかった。錠剤はぐふぐふと笑う
口からこぼれ、噛み砕かれた状態で零れ落ちていたのだから。
「おいおい、おいおいおいおい! そっち行っていいのかよ、そっちは行き止まりだぜ」
 地沼は大笑いして錠剤を大量にこぼしながらそう言った。
 透華の乗る車は、次第に人目のない場所へと迷い込んでいこうとしている。
 それが可笑しくてしょうがなかった。
 
 
***
 
 
「乗ってきたぞ」
 紅は短く言った。
 飯島は首肯した。
「え、なに、なんのこと?」
 透華だけがわかっていなかった。
 紅は透華を無視して、銃の手入れを始めた。
 手に入れた当初は玩具の銃だと思っていたが、なかなかどうして威力は申し分ないもの
があった。それに射撃時の銃声も少なく、扱いやすいと感じていた。ただ、反動が大きく、
五発しか装弾できないという弱点もあったが。
 飯島は紅の横顔をちらりと覗いた後。
「嬢ちゃん、後ろ走ってる車をちょっと見てみな」
「え?」
 言われて透華が振り返ると――
「あ!?」
 そこには血走った目でこちらを睨み付けながら車を運転している、あの巨漢の男がいた。
 透華は巨漢と目があって、直ぐに背もたれに隠れた。
「な、来てますよ!」
「分かっている」
 紅の短いいらえ。
 飯島は一人娘の無愛想さに呆れた。かといって、これから始まる戦闘に向けて集中して
いるのだと思ったら、なんとも言えなかった。
 だから飯島は娘の代わりに答えた。
「これから戦闘が始まる」
「せ、戦闘って」
「おっかけまわされてたら、ゆっくり休む暇もないからな。ここで始末をつけるというこ
とだ」
「始末って……」
 透華は、平然とそういう飯島が恐ろしかったが。よく考えれば、飯島も紅も銃を持って
いる、この日本でだ。
 ナイフと違って、銃の使い道は少ない。
 考えないようにしていた、いや、考える余裕もなかった。
 昨日から、透華には余裕なんてひとつもなかったのだから。
 透華は背中に、冷たいものが流れるのを感じた。
「少しだけ、訊いてもいいですか?」
「なんだね?」
 透華は、唾を飲み込んだ。
「あなたたちは、人を殺したことがあるんですか?」
「それは……」
 飯島はわずかに逡巡を見せたが、紅は違った。
「ある。私は人を殺してきた、それが仕事だからな」
「そんな……」
 透華は顔を引きつらせてうめき声をあげた。
「そんなの、……うそよ」
 信じられなかった。
 昨日、透華を襲ったような男たちが人を殺したことがあると言ったのなら、すんなり受
け入れられるだろう。
 しかし、紅がそういうのはショックだった。
 透華にとって、紅は救世主だった。ピンチだったところを助けてくれた、いうなれば白
馬の王子様だった。
 なのに、それなのに、そんな紅があんなやつらと同類だなんて……。
「うそだって言ってください」
 透華の呻きに、飯島が何かを言おうとしたが。それを遮って、紅が言った。
「嘘じゃない。私は殺してきた。自らが生きるために、直治に認められるために、殺して
きた。それが、私の生きてきた道だ。それを嘘だと否定するな」
「…………」
 透華は絶句するしかなかった。
 紅の言葉が理解できなかった。生きるためになぜ人を殺す必要があるのだろう、人に認
められるために殺す必要がるというのだろうか、透華には分からなかった。
 飯島が「ちっ」と舌打ちした。
 二台の車は立体駐車場へ進入しようとしていた。

「バーを壊せ、紅!」
 飯島が鋭く叫ぶと、紅は窓を開き、今まさに降りてきていた黄色と黒の進入禁止を意味
するバーの根元を打ち抜いた。
 紅はそれを確認すると、直ぐに身を車の中へ戻した。
 先ほどまで紅の身体があった場所に、銃弾が通り抜けていった。
 バックミラー越しにみると、巨漢の男はフロントミラーを自ら撃ち抜いて紅を撃ったよ
うだった。
「いかれてやがる」
 飯島はそう吐き捨て、車を立体駐車場の上へ上へと走らせていく。
「う、上に行ったら逃げ場がなくなるんじゃ」
 透華が悲鳴をあげた。
 まるで「いかれている」と批判されているようだと、飯島は口端を歪めて笑った。
 ああそうだ、すこしくらいいかれていないと、この商売はつとまらない。
 飯島は透華の言葉を一旦無視して、紅に命じた。
「紅! 次曲がったら、飛び降りて、そこでやれ!」
「了解」
 紅は短く答えた。
「今だ!」
 飯島が叫んだ瞬間に、紅は扉を開き車から飛び降りた。
 透華は驚き紅の姿を追った。
 紅はコンクリートの上をはねるように転がり、壁に叩きつけられていたが、直ぐに立ち
上がった。
「紅はっ?」
 飯島の叫びに、透華は意味を理解するまでしばらく時間が必要だったが。それが紅がど
うなったかだと気づくと、答えは早かった。
「無事です」
 その言葉に五十男の皺だらけの顔に笑みが一瞬だけ浮かぶのが見えた、だがそれは直ぐ
に引き締められた。
「紅さん一人で大丈夫なんですか?」
 透華が訊いた。
 飯島は薄く笑って答えた。
「心配すんな、紅は強い」
 それは自慢の娘を紹介する時の父親の声だった。
 
 
***
 
 
 片腕でのハンドリングでは、何度も何度も曲がらなければならない立体駐車場は走りに
くくてしょうがなかった。実際、どんどん引き離されていってるのが分かった。
 だが――と、地沼は哄(わら)った。
 立体駐車場に逃げ込むとは、バカな奴らだと思った。
 立体駐車場の構造を考えれば、上へ行けば行くほど逃げ場は失われていく、奴らは自ら
袋のねずみになったということだ。
 だから、焦らず、ゆっくりと追い詰め。じっくりと料理してやろうと思った地沼だった
が――
「なに」
 上の階へと登るための坂に、あの黒コートが立っていた。
「て、テメエはっ!」
 血が沸き立つのを感じた。
 あの黒コートのせいで、簡単な任務に失敗した、少女をいたぶることもできなかった。
なによりも、だ。
「テメエのせいで、俺の、俺の、俺のぉぉぉぉぉ!!」
 黒コートは白貌に笑みを浮かべていた。
 そして、左手に持った銃で、右手を撃つまねをした。
 傷口から血がにじむのを感じた。
「轢き殺してやる」
 地沼はそうと決め、アクセルを踏み込む。
 しかし、すんでのところで黒コートはジャンプして、ボンネットに飛び乗ると、更に跳
んだ。

「なんだとっ!?」
 黒コート/紅がいた場所を通り過ぎた瞬間、後方から銃声、正確に後部タイヤが撃ち抜
かれた。
 激昂し薬物に溺れていた地沼では、唐突な事態に対処できず、車は操作を失い、壁に激
突した。
 紅はカートリッジを取り出すと、弾を装填した。
 これで終わるとは思ってもいなかった。
 想像通り――
「くっ」
 車体を撃ち抜き、弾丸が飛来して、紅のコートに穴を開けた。
「……ゆるさねえ」
 扉を蹴破り、地沼は車から降りて、その巨大な銃を紅へ向けた。発砲。
 紅は横に跳び、コンクリートの柱の陰に隠れた。いかな銃とはいえ、携行サイズでは柱
ほどの太さのコンクリートを貫くことはできない。
「隠れるなよ、くそがあ!」
 地沼は天井へ向け発砲した、蛍光管が割れ、ガラスが辺りに散らばる、地沼はガラスの
シャワーを浴びながら、リロードしながらゆっくりと距離を詰めてくる。
「戦う前に三つ聞きたいことがある」
「ああっ?」
 紅はコートに隠したナイフの位置を確かめた。それは金属探知機にでもかけない限り、
精巧に隠してある。
「アンタらはどこの組織に所属している、なんの目的で柊透華を狙っているんだ」
 地沼は哄笑した。
 なにかと思えばそんなことか。今更なにを言い出すかと思えば、呆れてしまった。
「答える義理はねえ」
「そうか」
 予想通りだった。
 質問自体には意味はなかった、ついでに聞けたらいい程度のことだった。紅が質問した
意味は別にあった。それは飛び降りた時に、隠した武器に異常はないか調べる時間が欲し
かったのだ。
 紅は銃をいつでも撃てるようにすると、最後の質問をした。
「私に撃たれた手は痛くなかったか?」
 その言葉で、大男が憤るのが分かった。
「テメエっ、ぶっ殺す。こんな逃げ場のないとこに逃げ込んだばかさ加減を恨むんだな」
「逃げ場がない?」
 紅は無表情にそういうと、柱の陰から飛び出た。
「悪いな。迎え撃つために、ここに誘い込んだんだよ!」
 
 
***
 
 
「心配するなって言っても、紅さん女の人なんですよ? あんな力の強そうなのに勝てる
わけないですよ」
 透華は今にも、「紅を助けに行く」と飛び出しそうな勢いでそう言った。
 飯島はわずかに苦笑した。
「そのために、紅は武器を持っている。いくら力が強くても、銃弾をはじき返すことはで
きないさ」
「それは、そうですけど」
 透華は呻いたが、納得した様子ではなかった。
 飯島は無理もないかとため息を吐いて、少女の気晴らしのために、違うことを言った。
「紅を拾ったのは、あいつが四歳の頃だった」
「え?」
 飯島は「昔話さ」と笑った。
「あいつの親は有名な政治家だった、それこそ今でも紅の親が所属していた政党は、紅の
親の意思を継いで、なんて言ってる。もし、紅が表舞台に立っていたら、連中によって担
ぎ上げられていただろうな。それほど影響力のある人だった、それだけに敵も多かった、
だから殺された」
「え、殺されたって……誰にですか?」
「……」

「分からないんですか?」
 飯島は胸ポケットから煙草とライターを取り出した。
「敵が多かったって言ったろ、それに誰が依頼したかなんて、実行に移す連中なんて教え
てもらえないんだよ。もっと言えば、誰を殺すかすら教えられない。実際、俺がそいつを
知っていたのは、何度もその顔をテレビでみていたからだな」
 透華は、その言葉の意味を理解するのに時間が必要だった。
 顔を知っているということは、しかし、飯島が紅を育てているのだ、だから、まさか。
そう頭の中でごちゃごちゃと考えていたが、あっさりと飯島が答えを言った。
「俺が、紅の親を暗殺した」
「……そんな、うそですよね」
「いや、本当だ。俺が紅の親を、家族を皆殺しにした」
 はっきりと言われたのに、理解できなかった。いや、認めたくなかった。
「そんな、信じられない……なんで、なんでそんなことを」
「組織に命じられたからだ」
 飯島は明確に答えた。
「それが俺の、いや、俺たちの仕事だ」
 飯島の言葉に透華は泣き叫んで否定したい気分になったけれど、自分にそうする資格が
ないことは理解していた。
 自分にとって、この二人は無関係ではない。襲われているところを何度も助けてもらっ
たのだから、彼らは命の恩人だ。
 しかし、二人にとって自分の存在は、あくまで仕事で守れといわれているだけなのだろ
うと思うと、言えなかった。
 透華は首を振り、目元を拭った。拭った手は濡れてしまった。
「……紅さんは、そのことを?」
 ようやく出た言葉。
 飯島は煙草をふかしていて、バックミラーを覗こうともしなかった。
「ああ、知っているよ」
「それなのに、紅さんは」
 飯島は深く紫煙を吸い込み、吐いた。
「ああ、あいつはそれなのに、俺に認めてもらいたがっている、俺に頭を撫でて欲しいと
がんばってる」
 
 
***
 
 
 紅は柱から飛び出ると、男の方へ発砲し、直ぐに転がるように車の陰に隠れた。
 真正面から打ち合うには、得物の威力の差が違いすぎる。距離をとって戦うしかない。
慎重に戦い、殺せるタイミングを見定めなければならない。
 しかし、それには、この立体駐車場という場所はやりにくい。
 いつ人が来るか分からないし、警察が介入してきては厄介だ。警察という組織は上のほ
うはルーズだが、現場の人間たちはその場その場に全力であたってくる。
 そうした介入がない場所であれば、巨漢の大男でも、手負いだ。調理のしようはいくら
でもある。
「出てこいやぁ!」
 地沼はそういって天井に発砲した。
「テメエも男なら、正々堂々と勝負に応じやがれ!」
 あの男がうるさすぎるのも問題だな、と紅は思った。
 それにあの男の体力を考えると、左手を右手と同じにしてやっても、いのししの如く向
かってくる可能性がある。肉弾戦での体力勝負となると、勝ち目は薄い。相手を殺すこと
ができても、紅も無事でいられるかは微妙だ。
「悪いが、騎士道精神は持ち合わせていない」
「なにが騎士道だ、かっこうつけやがって!」
 紅は車の陰を身をかがめて走った。
「私は暗殺専門なんだ」
「それがどうしたってんだあああああ!!」
 地沼はむちゃくちゃに銃を乱射した。
 フロントガラスが撃ち抜かれ、タイヤが弾け、ボンネットが爆発した。
「まずいな」
 紅は時間をかけていられないこの戦いに苛立った。

 地沼は常軌を逸している、完全に頭がおかしくなっている、正常な判断などできないだ
ろう。――ならば。
 紅は黒コートを一旦脱いで、羽織った。
「こちらだ!」
 紅は叫び車の影から飛び出した。
「そこかあ!!」
 銃口が向けられる。
 紅はそれへ真っ直ぐに駆ける
「死ねえええええええええええええええええええええ!!!!」
 銃弾が放たれる。
 紅の深紅の鋭い眼光は、それを捉え、羽織っていたコートを掴むと前方へ投げた。
「なにっ!」
 空中で大きく広がったコートには手榴弾がはりつけられてあった、信管の抜けたそれは
空中で爆発した。
 炸裂した手榴弾は、辺りに金属片をばら撒き、車を破壊し、コートをズタズタにし、そ
して地沼にも襲い掛かった。
「ぐあっ!?」
 全身を刻まれるような痛み、地沼は、あの黒コートを殺そうと引き金を引こうとした。
それなのに銃弾は発射されなかった、なぜだと思い、見ると。
「――――ッ」
 左手がなくなっていた。
 彼のペニスのように太くて雄雄しい銃は、コンクリートの上に転がっていた、手首から
先と一緒に――
 地沼は言葉にならない咆哮を上げた。
 それを聞きながら、黒衣の暗殺者は地沼の背後に回りこむと、もてる銃弾全てを地沼に
撃ち込んだ。
 あっけない幕切れだった。
 遅まきながらスプリンクラーが作動し、人工の雨が降りだした。
 紅は肩で息をしながら、自らのぼろぼろになった衣服を見て「くそっ」と叱責した。
 折角、直治が自分のためにもって来てくれたものだというのに。紅の嗜虐的な思考が、
肉だるまをもう少し痛めつけたいと思った。やつが持っていた銃で、更に撃とう。止めを
ささなければならないし。そう思って、紅は無防備足を近づけていった。
 それは、失敗だった。
「なにっ」
 死んだと思われた地沼が、紅の足を払い、追い討ちをかけるようにしてコンクリートに
叩きつけた。
「――がっ!?」
 地獄の、悪夢のような笑い声が駐車場に響く。
「油断したなあっ!」
 紅は直ぐに起き上がろうとしたが、それを防ぐように、地沼の巨体が紅の上に乗った。
 両腕を足で押さえつけられ、地沼の上体でもって地面に身体を押し付けられている。返
すには、紅の力では不可能だった。
 しかし、と、紅は笑った。
「両手がないアンタが、なにができる!」
 それは精一杯の挑発だった。
 それで男の拘束が弛むのを狙ったのだが、うまくいかなかった。男は哄笑する。
 血だまりが駐車場に広がっていく、それはスプリンクラーで作られた水溜りと混じり、
攪拌していく。
「へっ……へへっ……俺は、まだ負けたわけじゃねえっ」
 地沼はそういうと、紅のジーンズの前を口で開け、一気に下着ごと押し下げた。
「やめろっ」
 紅は思わず叫んでいた。
 だが、地沼はそこにあるはずのものがないのを見て、驚いた。
「へええ、テメエ、女だったのか」
「ぐっ……だとしたら、なんだっていうんだ」
 くつくつと地沼は笑った、吐く息が荒い。
「男ならちんこ噛み千切ってやろうと思ったんだがなあ、残念だ」
 まあそれなら、と地沼はいった。
「こうするまでよ」
「――――ッ!?」

 手首から先がない、地沼の左腕が紅の膣に押し込まれた。
 突然の衝撃に、紅は全身を貫かれたかのような衝撃を感じた。
「ふぅ……ふう……ははっ!」
 地沼は笑いながら、紅の膣を自らの腕でこする。じゅぷじゅぷと血があふれ出てくる、
それが面白くてしょうがなかった。
「や、やめろ……」
 紅は息も絶え絶えになりながら、そう言ったが、地沼は聞かない。
 膣に地沼の血が中出しされていく。
 紅は銃を探した。
 ――殺したい。
 ――殺したい。殺したい。
 殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺す殺す殺す殺
す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺――。
 紅は獣のような咆哮をあげ、抗った。
 私を、わたしを穢すな、犯すな、侵すな、冒すな――
 わたしはナオハルのものなんだ。
 わたしはナオハルがいなければ生きていけない。ナオハルがいないと死んでしまう。ナ
オハルに嫌われたら殺されてしまう。ナオハルのためになにかしたい、しないと、しよう
――殺せ。
 ナオハルの所有物であるわたしが穢されているんだ、殺せ。
 こいつはナオハルの敵だから、殺せ。
 マグマのように、炎のように、怒りのように、血が沸き立つような感覚がした。
 紅の口からは叫びが溢れ。
 紅の目からは涙が溢れ。
 紅の視界は真っ赤に染まっていた。
「おい、うるせえぞ」
 地沼がそう言って身体を動かした、隙が生まれた。
 紅はその瞬間を逃さず、身体を跳ねさせ、身体の上から地沼を振り落とすと、地沼の銃
を取った。立ち上がる。地沼の腕は紅の膣から抜けていない。地沼の顔に絶望がよぎった。
紅は圧倒的な無表情を浮かべたまま、引き金を引いた、弾けた。紅の身体が深紅に染まっ
た。だらりとして動かなくなった肉塊へ、紅は幾度も引き金を引き続けた。
 
 
   <04――飯島>
 
 
 翌朝目覚めると、紅は昨日までと変わらない無表情さだった。
「大丈夫ですか?」
 透華が心配でそう聞くと、紅は不思議そうに首をかしげた。
「なにがだ」
「えと、あの、膣に違和感とかありません?」
 そういわれて、ようやく紅はああと納得した。
「問題ない。ここはシャワーは?」
「あ、あります。こっちです」
「そうか」
 透華に手を引かれながら、紅は言った。
「なんで私は裸なんだ?」
 
 
 シャワーを浴びる紅へ、すりガラス越しに透華は昨日あったことを説明した。
 大男の壮絶な死体とともに倒れる紅、その膣には男の腕が突き刺さっていて、中は血ま
みれだった。飯島の顔が効くホテルに紅を運び込み、紅の身体を透華が洗ったこと。特に、
膣の中から血を出すのが大変だったと透華は言った。
「……触ったのか」
 紅がぽつりというと、透華は顔を赤くした。
「わ、わたしだって触りたくて触ったんじゃないです。中すっごい血だらけで、怖かった
んですよ」
「自分のと比べてみて、どうだったんだ?」
「それは、……って、そんなのわからないですっ!」
 十四歳の少女は激昂すると、扉を蹴ってからシャワールームを後にした。

 紅はその足音を確認し、バスタブのふちに腰をかけて、脚を開いた。
 無毛の陰部は外見上異変がないように見えたし、違和感も感じない。
 指をあてがい、押し開いてみても、血が出てくることはなかったし。ちゃんと触ってい
るのも分かった。
「……よかった」
 使い物にならなくなっていたら、どうしようかと思ったが、少なくともセックスには使
えそうだと安心した。
 その瞬間――
「あ、そうだタオ……」
 扉が開かれ、タオルを持った透華が現れた。
 紅は透華の顔を見たが。
 透華は、紅が脚を開き自らの陰部を弄っているのを見てしまった。
「…………」
「…………ッ」
 沈黙が流れる。
 先に動いたのは透華だった。
「失礼しましたっ」
 そう言って出て行こうとしたが、遅かった。
 紅に肩を掴まれ、浴室にひきずりこまれた。
「勘違いするな」
 紅は強く言った。
「別に自慰をしていたわけではない」
「え、あ、はい。ワカッテイマス」
「なんで片言なんだ!」
 紅は「くそっ」呟き、短く息を吐いた。
「本当に違うんだ。というか、昨日の今日でそんなことをする元気はない」
「そ、そうですよね」
 透華はこくこくと頷いた。
「異常がないか調べていただけだ」
「で、ですよね」
「違和感がないか調べていた」
「ああ、気持ちいいかとかですか?」
「そうだ――って、違う!」
 紅は思い切り透華の頭をはたくと、ため息をついた。
「あんなことをされたんだ、おかしくなっているかもしれないだろ」
 透華は紅の顔を見て、少し安心したように笑った。
「……なんだ?」
 その表情をいぶかって紅が聞いたが、透華は
「いえ、なんでもないです」
 と笑いながら答えるばかり。
 紅はむうと唇をすぼめると、あることを思いついた。
「そうだ、アンタに頼みたいことがある」
「へ? なんですか?」
 紅は真っ直ぐに透華の目をみつめていった。
「血の味がしないか、確かめてくれ」
 直ぐに言葉の意味が理解できなかった。
「わたしの股間周りに少し舌を這わせるだけでいい、やれ」
「な、ななな、なに言ってるんですか」
 顔を真っ赤にして首をぶんぶん横に振る透華。
 紅は透華を睨み付け。
「別に私がいくまで舐めろと言っているわけではない、血の味がしなければそれでいい。
それに、誰のために命がけで戦ってると思ってるんだ」
「う」
 透華は複雑な表情を浮かべた。
「やれ」
 
 
***
 
 
 飯島は紅の着替えを取りに行こうと考えたのだが、このタイミングで飯島が紅の住処へ
行くのはまずいし、飯島自身の家へ帰るのもまずい気がした。
 住処が分かれば敵方に報復される危険性がある。
 だから、飯島はホテルの近くに衣料品を扱っている店があるのを確認すると、そこで二
人に服を買わせることにした。
 透華を家に帰してやりたくもあったが、もうすでに透華の家の周辺は警察とマスコミで
いっぱいになっていた。
 二人がいるはずの部屋へ戻ると、二人の姿はなく、どこだろうと探してみると、どうや
ら二人そろってバスルームにいるようだった。
 見ると、扉は開かれっぱなしだ。
 ならば覗いても大丈夫だろうと、飯島はバスルームを覗き込んだ。
「おい、二人と、も……」
 飯島は想定外の状況に、言葉を失った。
 女二人も飯島が現れると思っていなかったのか、驚いた顔のまま硬直している。
 飯島は、二人がなにをしているか聞いたほうがいいのかとも思ったが。
 紅がバスタブのふちにこしかけ、股を開き、割れ目を自ら押し開いていて。透華はその
股に顔を埋めていた。
 聞かずとも、なにをしているかは、一目瞭然だった。
「すまなかった」
 飯島は扉をしめると、背を向けて、急ぎ足で立ち去っていく。
 女二人はようやく我に返り――
「待て!!」「待って!!」
 同時に叫んでいた。
 
 
***
 
 
 透華は逃避行が始まって三台目になる飯島の車を見て、どうやって次から次に調達して
くるんだろうと思った。
「――なるほどな」
 飯島はくつくつと笑いながら、女たちの事情を把握した。
「分かったらいいんだ」
 紅は不機嫌そうに答えた。
 透華はそんな二人を他所に、飯島に借りた携帯電話でインターネットサイトを覗くのに
夢中だった。
 男たちに襲撃され、父親が死んだと告げられ、紅たちと逃げ始めてから既に四日目だっ
た。透華は情報が欲しいと二人に言ったら、飯島の携帯電話が渡された。
 その際、飯島は「知っても辛いだけだぞ」と透華に言ったが、かまわなかった。
 男たちや飯島たちの他から、父が死んだという情報が得たかったのだが、実際にニュー
スサイトに書いてあるのを見ると、透華は予想以上に動揺してしまった。
 透華の父は普段はテレビなどに露出する機会は少なかったが、それでもその筋では権威
だということには変わりなかったということだろう。それに加え、その死に様がショッキ
ングだったのが大きかったのかもしれない。
「……バラバラって」
 透華の呟きに、飯島は「だからやめろといったんだ」と呟いた。
「なんで、父さんが殺されなくちゃならないのよ」
 透華はそういうと、携帯電話を閉じ投げ捨てようとして、他人のものだと気づき、ぎゅっ
と握って、膝を抱えた。
 透華の父・柊健介は研究者だった。
 生命の設計図ともいうべき遺伝子について研究していた。
 透華は一度だけ父親の職場を見学に行ったことがあった、健介がプロジェクトの主任を
任された時のことだった、そこでの父は周りの人に慕われているようだったけれど、そん
な偉そうな立場にみえなかった。
 家での柊健介は善良で朴訥な――退屈な父親だった。
 なにを言ってもにこにこ笑っているばかりで、勉強をみてもらおうと思ったら一緒に頭
を抱えてしまったり、日曜大工も満足にできないような、平凡な父親だった。
 だから、透華にとって父健介は特別な人間だった。どこにでもいる、普通の人だと、そ
う思っていた。
 だからこそ理解できなかった。

 何故、父が殺されなければならないのか。
 全く理解できなかった。
 飯島は信号待ちで車を停めると、タバコを取り出して吸った。
 紅は飯島から借りたコートを抱くようにして眠っている。
 透華は言った。
「飯島さんたちって、お金もらったら人を殺してくれるんですよね?」
 紅の肩がひくりと揺れた。
「ああ、そうだよ」
 飯島が穏やかな声で答えた。
「それって、わたしでもお願いできるんですか? お金を積んだら、殺してくれますか?」
「それは、」
 信号が青に変わった、飯島はタバコを窓の外に投げ捨て、アクセルを踏んだ。
「親父さんを殺した奴を殺してくれ――ってことかい?」
「はい」透華は頷いた。「はい、そうです」
 飯島はバックミラー越しに少女の表情を見た、そこにはいつか見たような顔があって、
古傷が痛んだ。
 だが、飯島は悔恨という名の古傷を自らの中に押し隠したまま言った。
「ああ、頼まれたら、やる。それが俺たちの商売だからな」
「じゃあ」
 透華が言いかけたその時だった、紅が口を挟んだ。
「やめておけ」
「……なんでですか? 父さんの保険金とか貯金とか使えば、お金はあります」
 紅は目を閉じたままだった。
「どうしてですか、ちゃんと答えてください。紅さん!」
 紅は小さく息を吐き、「これだから、女は苦手だ」と呻いた。
「そんなことをしても、アンタの親は蘇らない。なら、その金はアンタが生きるのにつか
ったほうが、あの世で親も喜ぶだろうさ。それに、人を殺したら罪になる、頼んだだけで
もだ、アンタの親は娘が犯罪者になって喜ぶのか?」
「そ、それは……」
 透華は首を横に振った。
「でも、わたし、父さんのためになにかしてあげたいんです」
「それで、人殺しか」
 紅は吐き捨てるように言った。
 透華は答えず、膝に顔を埋めた。
 窓の外では新年を迎える準備のために、人々が忙しく動いていた。今日は十二月三十日、
明後日には新年を迎える。
 飯島は思った。
 父親の遺産の鍵を開いたあと、果たしてこの少女は元の生活に戻ることができるのだろ
うか――と。
 透華は見なくてもいいものを見すぎてしまったのではないだろうか。
 紅の横顔を見た。
 小さな少女は、いつの間にか表情を変えずに人を殺せるようになっていた。何度、普通
の生活をさせてやろうとがんばっても、紅はそれを良しとしなかった。
 もし、普通の生活を送れていたら、どんな大人になっていたのだろうか?
 そう考えると、飯島は苛立った。
 うまくやれなかった自分に、戻ってきてしまう紅に、理不尽なまでに冷たい世界に。
 紅はまぶたを開くと、飯島を見た。
 深紅の瞳は不思議そうに飯島を見ている。
 美しいまでに怜悧な視線に耐えられず飯島は顔を逸らしてしまった。
 すると、紅はどこか寂しそうに笑った。
 
 
***
 
 
 豊幌ファクトリー。
 明治に創業されたビール工場の跡地に造られた、国内でも最大級の大型商業複合施設で
あり。その内部には衣料品から小物雑貨まで揃う様々なショップ・飲食店・シネマコンプ
レックスやゲームセンターなどのアミューズメント施設・ホテルなど計百五十店舗を内包
しており。観光施設としてはもちろん、地元にいるものたちにも幅広く利用されている。
 飯島はここならば人も多く、相手方も強引にはでてこられないだろうと踏み、二人に必
要なものがあったら買ってくるよう言った。
 あと二日程度の逃避行といえ、替えの下着や衣服など欲しいものもあるだろうと思った
のだ。
 紅は買い物に乗り気ではなかったが、透華は喜び紅を引っ張っていった。その様子が少
し、空回りしてしまっているようにも見えた。
 二人が買い物している間、飯島は捕まえた小男の尋問の様子を見に行くことにした。
 
 
 先ほどまでの落ち込んでいた顔もどこへやら、透華は顔を輝かせてガラスケースを指差
した。
「わー、これかわいい。ねえ、紅さん、紅さん、そう思わない?」
「思わない」
 嬌声をあげる透華に、紅はにべもなくそういい捨てたが。
「それよりも、先に私の服を買ってきてくれないか。私はここで待っているから」
 飯島から借りたコートの裾を押さえながら言った。
 その視線はきょろきょろとどこか落ち着きなく、顔も不安そうだった。
 透華は否定されて不機嫌そうだった顔に、不適な笑みを浮かべた。
「あれー? どうしたんですか? 何か問題でも?」
 にやにや笑いながら言う透華。
 紅は周囲の視線を気にしながら、キッと透華を睨み付けた。
「……分かっているだろう。いいから買ってこい」
「わっかりませーん」
「ぐっ」
 昨日の戦いで紅の衣服は血まみれになってしまった、とても洗濯して落とせるような状
態ではなく、捨てることにしたのはよかったのだが。一つ、問題があった。紅が着る服が
ない。
 紅は自らの家に取りに帰ろうとしたのだが、これからのことを考えると、周囲の住人に
不信感を与えるのはまずいと飯島に止められた。普段暮らす隠れ家のような場所は、日本
の狭い土地では限られているからだ。
 だから買いに行こうということになったのだが。
 その間着ている服がない。
 自分が透華にさせたように、裸でも上からコートを着れば十分だ、と。紅は最初のうち
は言っていたが。
 しかし、実際には
「恥ずかしいんですか?」
 透華は冷たい声で言った。
 飯島のコートは紅には横に大きく、縦に短かった。
 脚を開いて歩けば尻がでるし、襟元を抑えていなければ胸元が丸見えだし、と露出狂の
ようだった。
「わたしにも、おなじことさせましたよね?」
「それは、その……悪かった」
「よし」
 透華は鼻息荒く頷くと、紅にそこで待っているように言って、一人で服を買いに行った。
 紅は手近なベンチを探すと、そこに座った。
 脚を閉じて、膝に手を置いて、こんなに行儀よく座ったのはいつ以来だろうと思った。
 息を吐くと、紅は透華が帰ってくるまでの間、周囲の様子を見ていることにした。
 新年が近いからか買い物客は多く、少し騒々しい、でも不快ではなかった。
 普段は限られた人間としか関わらない、関わっても殺すか殺そうとしてくる相手、そう
いった生活を送っている紅には眩しい光景だった。
 見上げると天井がガラスのドームでできていることに気がついた。
 その日光を取り入れるように、地下一階地上三階まで吹き抜けになっていた。紅は暖か
な日差しを受け、ゆっくりと目を閉じた。
 
***

 飯島が指揮するグループの根城は豊幌市にいくつもあった、津田を閉じ込めているこの
地下施設もその一つだった。
 津田は壁に鎖で繋がれていた。
 その周囲が四人ほどの男たちが囲んでいる。
「なんか漏らしたか?」
 飯島がそう聞くと、別な一人が言った。
「仲間の情報くらいだな、参考になるのは」
「仲間、ね」
 今は気を失っている津田の身体にはいくつもの傷跡が刻まれていた。猿ぐつわを噛まさ
れ、指には拷問器具のようなものがはめられていた。
「こいつが知っている範囲は少ない、意味はない」
 別な誰かが言った。
「そういうなよ、それでも情報だろ?」
 先ほどの男がそう答えた。
 飯島は「そうだぞ」と笑い。
「聞かせてもらおう」
 と言った。
 小男は津田良人という名前だった。
 普段はポルノサイトの管理人と誘拐犯の二つの顔をもっているらしく、飯島もそのサイ
トを見たが、津田の顔以上にその内容は醜悪だった。
 幼児を痛めつけ犯している画像の羅列に吐き気を覚えた。
 津田の誘拐犯としての顔には、相棒がおりそれが巨漢の地沼庄助。
 津田の言葉によれば、地沼もいかれた趣味をもっていたようだったが、飯島は興味を抱
かないようにして聞かなかった。
 しかし分からないことがあった。
 なぜこの二人が柊透華を誘拐しようとしたのか、だ。
 柊透華が知っているという、遺産の鍵の情報は、こんな誘拐魔たちがえられるような情
報ではない。
 となると、誰かが与えたということだろう。
 その誰かについても、津田は明かしていた。
 津田と地沼を操る黒幕とでも言うべき男――田所遼について。
 田所は裏の組織に所属していると津田は言ったが、その名称までは知らないようだった
が、二人は田所の命令でその組織の一員として動いていたようだった。
 田所について知っていることを教えろといっても、津田は殆ど何も知らなかった。
「駒でしかなかったわけか」
 飯島は指を噛んで津田を睨んだ。気絶した津田は何も言わない。
「ええ、せめてその組織とやらの名前が分かればよかったんですが」
 その言葉に、誰かが笑って応えた。
「俺たちだって自分たちの組織の名前しらないだろ」
「違いない」
 笑って頷いた。
 飯島たちが所属している組織には、そもそも名前がない。
 その理由をあくまで現場の構成員でしかない飯島たちは知らなかったが、察することは
できた。
 名前はないと不便な点もあったが、名前があっても邪魔になる時のほうが多い。
 特に、名前があると外から属性をつけられてしまうからだ。
 たとえば放火殺人を行い、それが組織によるものだとばれた場合。以後、放火殺人が起
きるたびに容疑をかけられてしまい、動きにくくなる。
 それに飯島たちが所属する組織は、巨大な一塊というわけではなく、それぞれが巨大な
生物の細胞のように構成されているのだが。その細胞同士はあまり交流がなく、それぞれ
が上の支持の下やっているに過ぎない。
 どこかの細胞がへたをうって捕まった場合、そこから名前をつてに芋づる式にひっぱら
れないようにという意味もある。
 だから、細胞の構成員は自分が属する細胞のことくらいしか知らず、他の細胞の構成員
など知らない。
「そういえば」
 とナイフのように鋭い目つきの男が言った。
「お姫様二人はどちらへ?」
「お姫様は良かったな」飯島は笑い。「豊幌ファクトリーで買い物中だよ、もう少しした
ら迎えにいく」

「そうですか」
 そういって、男は笑った。
「じゃあ、私が迎えに行きますよ」
「いや、――ッ!?」
 銃声が地下室に響いた、一発、二発、そして銃口が飯島に向けられた。
 銃を持った男は飯島に笑って言った。
「はじめまして、今までお世話になりました」
「……な、なにを」
「私が田所、田所遼です。貴方を踏み台にしてのし上がる男の名前です」
 銃声が――――――鳴った。
 
 
***
 
 
「え?」
 紅は目を開けると、周囲を見回した。銃声が鳴ったような気がしたのだ。
 だが、豊幌ファクトリーアトリウム館内は、平穏そのものといった様子。
「……夢か」
 紅は呟くと、軽く頭を振ろうとして、右側に重量を感じた。
「……ん?」
 みると、透華が紅に身体を預け、すやすやと穏やかな寝息をたてていた。その腕には紙
袋がしっかりと抱かれている。
 紅は起こそうかと思ったが、やめた。
 もう少し寝させておいてやろう、そう思って自らも瞳を閉じた。
 
 
 ――続く

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