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【定義】

江戸時代初期に活躍した元武士の篤信者。日本曹洞宗とも臨済宗とも浄土宗とも言われているが、深く曹洞宗に関係していると定められている。

生没年:天正7年(1579)〜明暦元年(1655)
世 寿:77歳
俗 姓:鈴木(本姓は穂積)
道 号:石平老人

【鈴木正三略伝】

正三は、天正7年1月10日に三河国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市[旧足助町])にある則定城主、鈴木重次の長男として生まれた。父の代から徳川家にしたがって、正三自身も戦場に身を置いた。初陣は23歳のときで、「関ヶ原の戦い」で本多佐渡守(本多正信)の隊に参加し、徳川秀忠を護衛しており、忠義の中で死ぬことを目指したところ、捨身の想いを抱いて仏道修行に必要な勇猛精進の心を会得した。

その後の大坂の陣にも参陣して、 本多出雲守(忠朝)にしたがって武功を挙げて、岡崎城にて新たに領地を賜り、200石の旗本となった。このように、三河武士であった正三だったが、常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降、仏教に傾倒するや職務の間に、諸寺院に参詣している。

1619年の大坂城番勤務の際、同僚の儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖?』を書いてこれに反論するなどしている。そして、翌年、42歳で弟の重成に鈴木家の家督を譲って遁世した。遁世をした際、以前から親交のあった徳川秀忠は、正三の意を汲んで、仏門に入ったとすると体面が悪いから、病によって出仕しなくなったことにして、隠居扱いにしたという。なお、正三の実子である重辰(しげとき・1607年生)は、後に重成の養子になった。

なお、遁世する際に、仏門に入ったことを明らかにするために新たな名前を臨済宗の大愚宗築和尚に請うたが、大愚和尚は「公の道価重し、誰か名を安んずることを為せん」といって固辞し、更に「旧名、可なり」と「正三」をそのまま用いるように勧めた。正三は、九州の雪窓和尚や、高野山の玄俊律師、或いは法隆寺などでも学び、玄俊律師から「沙弥戒」を受けた。更に、曹洞宗の万安英種などを師として参禅していたが、故郷に戻って石平山恩真寺を創建して布教活動などを行っている。

その折、島原の乱の後で天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破吉利支丹』を執筆してキリスト教の教義を理論的に批判した。同時代、キリスト教が禁教になっていく最中で行われた著述であり、正三の思想の高さ、或いは柔軟な態度を窺わせる著作である。

晩年は江戸の四谷の重俊院、牛込の了心院などを拠点に布教活動を続け、その様子は語録集である『驢鞍橋』にも見られる。また、島原住民への重税に抗議して切腹した弟の重成の後を継いだ自分の実子の重辰を後見し、島原の復興事業にも尽力しながら、明暦元年6月25日に示寂した。弟子には、『驢鞍橋』を編纂した慧中(恵中)などがいる。

【伝記資料・小説】

伝記資料としては、『石平道人四相』、『石平道人行業記(同弁疑)』(侍者恵中編)、『石平道人外記』、『石平道人碑』(八王子市長房町に現存)などが知られる。また、評伝・小説としては神谷満雄氏著『鈴木正三―現代に生きる勤勉の精神』(PHP文庫、2001年)、童門冬二氏『鈴木正三 武将から禅僧へ』(河出書房新社、2009年)、森和朗氏『甦る自由の思想家鈴木正三』(鳥影社、2010年)などがある。

また、近年の歴史学的な批判を伴う研究として、三浦雅彦氏著『鈴木正三研究序説』(花書院・2013年)を参照されたい。先に挙げた伝記資料を批判的に見つつ諸史料を集めているため、正三の実態を知るのに適している。

【鈴木正三の思想】

武士時代から常に生死のそばにいた正三は、在家の人々に近い立場で仏教を思索していた。それを示すのが、以下の故事である。
亦僧伽梨、直綴等を用給わず、只へんてつを著し、我禅門也と云て、謙り、世の僧の上に居し給わず。 『驢鞍橋』下-152、カナをかなに改める

これからすれば、自らを「禅門」と表現している。一般的に、これは在家信者の戒名に付けられる尊称であり、その意味では確かに遁世し、自ら修行もし、著述活動や説法などもしていた正三であったが、特定の宗派に属した僧侶ではないということを自覚していたのだろう。そして、一応、曹洞宗には近かったが、結局は特定の宗派の教義にも拘らずに、念仏などの教義も取り入れている。

また、仁王や不動明王といった厳しい姿を想い、その激しい精神で修行する「仁王禅」を主張している。在家化導として『万民徳用』などを執筆して、「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」と呼ばれる職業倫理を重視して、日々の職業生活の中での心持ち如何によって仏意に叶うという信仰的実践を説いた。また、正三は在家の教化のために、当時流行していた仮名草子(『因果物語』・『二人比丘尼』・『念仏草紙』など)を執筆して分かりやすく仏教を説いた。このような態度は、井原西鶴らに影響を与えている。

なおこのような正三の禅風について、臨済宗の無著道忠が自著の『金鞭指街』18にて批判している。また、今日的な視点から、正三の著作の一部は、当時の身分制度の中で作られ、しかも差別を助長しかねないとして批判する者もいる。

【著作】

鈴木正三の門人達は、正三没後もそれぞれ修行に励んだが、その時に「七部の書」または「九部の書」と呼ばれる諸本を重要なテキストと見なして、師の範に代えたという。それが以下の通りであり、上7篇が著作等、下2篇が語録等である。

・『盲安杖?』(1651年)
・『万民徳用』(1661年)
・『麓草分』(1656年)
・『破吉利支丹』(1662年)
・『二人比丘尼』(1632年)
・『念仏草紙?
・『因果物語?』(1661年)
※『鈴木正三全集(上)』に所収。

・『驢鞍橋』(1660年)
・『反故集?』(1634年)
※『鈴木正三全集(下)』に所収。

以上のものが知られているが、多くは『曹洞宗全書』に収録される。或いは、鈴木鉄心編『鈴木正三道人全集』(山喜房仏書林刊)、神谷・寺沢両氏編『鈴木正三全集(上・下)』(鈴木正三研究会)が出ているので参照されたい。また、多くの関連書籍も出ているけれども、その全体像を知りたいのならば、直接全集を当たり、また正三が関わった現地に行って調べてみるのが良い。

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