最終更新: greenland4 2009年03月11日(水) 15:46:44履歴
マルグリット・ド・ヴァロワ(Marguerite de Valois, 1553年−1615年)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の妹であり、アランソン公フランソワの姉。ナヴァル王アンリ(のちのフランス王アンリ4世)の王妃。デュマの歴史小説『王妃マルゴ』(La Reine Margot)のヒロインでヴァロワ朝最後の王女。美男の騎士ラ・モールとの悲恋で知られる。
マルグリットは1553年5月14日、パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーの城でアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女として生まれた。ニックネームの「マルゴ」は、のちにフランス国王となったシャルル9世によって名づけられたという。幼い頃から際立つ美貌とギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、「ヴァロワの真珠」「宮廷の華」として誰もが憧れる絶世の美女として成長した。
類いまれな美しさと早熟な肉体から3兄弟とは近親相姦の関係にあったと噂された。デュマ『王妃マルゴ』では、兄フランソワ王の政界工作のためフランドルに赴いた際、ネーデルラント総督ドン・フアン・デ・アウストリアを魅了し、ドン・フアンに「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」という科白を語らせている。
類いまれな美しさと早熟な肉体から3兄弟とは近親相姦の関係にあったと噂された。デュマ『王妃マルゴ』では、兄フランソワ王の政界工作のためフランドルに赴いた際、ネーデルラント総督ドン・フアン・デ・アウストリアを魅了し、ドン・フアンに「あれは、男を救うというよりは、破滅させるたぐいの美しさだ」という科白を語らせている。
マルグリットには大勢の男性が求婚したが、彼女が結婚したいと願ったのはギーズ公アンリであった。しかし、彼女の母カトリーヌは、激化するカトリックとユグノーの宗教対立を解消するために、彼女をユグノーの指導者ナヴァル王子アンリ・ド・ブルボンに嫁がせようと、アンリの母でナヴァル女王のジャンヌ・ダルブレと交渉を行っていた。
当初、カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレも、宗教対立の解消という母后カトリーヌの意向に同調し、縁談がまとまった。しかし、そのジャンヌ・ダルブレは1572年6月9日に急死する。一説にはカトリーヌによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われ、ブルボン枢機卿が、ノートルダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりにのっとって、花婿花嫁を結びつけた。この時マルグリットは19歳、アンリ・ド・ナヴァルは18歳であった。
しかし、婚礼の6日後の8月24日、ギーズ公アンリと母后カトリーヌによってサン・バルテルミの虐殺が発生する。マルゴとアンリの婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー達は次々に惨殺され、夫となったアンリ自身も幽閉された。
1576年、アンリ・ド・ナヴァルがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄のアンリ3世の許に一人取り残された。そののち、マルグリットは夫アンリの許に送り届けられたが、それぞれに愛人がいて、夫婦仲は冷え切っていた。華麗な男性遍歴で知られたマルグリットは、現代的には一種の恋愛依存症ととらえられることが多い。マルグリットは病に伏したのち、1582年に再びパリの宮廷に戻ったが、兄アンリと仲違いをして再び宮廷をあとにした。
マルグリットは肉体的には夫のナヴァル王に惹かれるものをまったく感じなかったが、のちにみずから回想録『思い出の記』をものにするほどの知性に恵まれている女性ではあったので、知性や統治能力の面では兄のシャルル9世やアンリ3世よりも、ナヴァル王アンリの方が優れた人物であることは見抜いており。政治的に同盟を結ぼうという夫の申し出は受け入れている。
当初、カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレも、宗教対立の解消という母后カトリーヌの意向に同調し、縁談がまとまった。しかし、そのジャンヌ・ダルブレは1572年6月9日に急死する。一説にはカトリーヌによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われ、ブルボン枢機卿が、ノートルダム寺院に設けられた舞台の上で、フランス王女の結婚式のしきたりにのっとって、花婿花嫁を結びつけた。この時マルグリットは19歳、アンリ・ド・ナヴァルは18歳であった。
しかし、婚礼の6日後の8月24日、ギーズ公アンリと母后カトリーヌによってサン・バルテルミの虐殺が発生する。マルゴとアンリの婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー達は次々に惨殺され、夫となったアンリ自身も幽閉された。
1576年、アンリ・ド・ナヴァルがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄のアンリ3世の許に一人取り残された。そののち、マルグリットは夫アンリの許に送り届けられたが、それぞれに愛人がいて、夫婦仲は冷え切っていた。華麗な男性遍歴で知られたマルグリットは、現代的には一種の恋愛依存症ととらえられることが多い。マルグリットは病に伏したのち、1582年に再びパリの宮廷に戻ったが、兄アンリと仲違いをして再び宮廷をあとにした。
マルグリットは肉体的には夫のナヴァル王に惹かれるものをまったく感じなかったが、のちにみずから回想録『思い出の記』をものにするほどの知性に恵まれている女性ではあったので、知性や統治能力の面では兄のシャルル9世やアンリ3世よりも、ナヴァル王アンリの方が優れた人物であることは見抜いており。政治的に同盟を結ぼうという夫の申し出は受け入れている。
1589年、兄アンリ3世が暗殺によって急死し、夫アンリ・ド・ナヴァルがアンリ4世としてフランス王位に就いた。マルグリットとの間に子供はなく、仲も疎遠であった。王位に就いてもパリ入城を果たせないアンリ4世は「王国も兵士も金もない王、妻もない夫」と自嘲のことばを述べている。
夫アンリは、マルグリットとの結婚を解消し、カトリックへの改宗を勧めた若き愛人ガブリエル・デストレとの結婚を望んだが、こののちガブリエルが病死し、メディチ家のマリー・ド・メディシスとの結婚話が持ち上がった。ガブリエルとの結婚には反対したマルグリットもマリーとの縁談には理解を示し、1599年、アンリとマルグリットの2人は正式に結婚を解消した。
結婚解消後も、アンリ4世とは友人と付き合い、アンリ4世一家との関係も良好だったという。特にアンリとマリー妃との子であるルイ13世を可愛がり、自身の館と領地を遺贈した。1615年?5月27日、62歳で死去。ヴァロワ家直系の血統はここに途絶えた。
夫アンリは、マルグリットとの結婚を解消し、カトリックへの改宗を勧めた若き愛人ガブリエル・デストレとの結婚を望んだが、こののちガブリエルが病死し、メディチ家のマリー・ド・メディシスとの結婚話が持ち上がった。ガブリエルとの結婚には反対したマルグリットもマリーとの縁談には理解を示し、1599年、アンリとマルグリットの2人は正式に結婚を解消した。
結婚解消後も、アンリ4世とは友人と付き合い、アンリ4世一家との関係も良好だったという。特にアンリとマリー妃との子であるルイ13世を可愛がり、自身の館と領地を遺贈した。1615年?5月27日、62歳で死去。ヴァロワ家直系の血統はここに途絶えた。
『王妃マルゴ』には、新教派の騎士ラ・モールとの激しい恋が描かれている。マルグリットの親友でギーズ公アンリの義姉にあたるヌヴェール公爵夫人にはカトリック派の騎士ココナスがおり、ラ・モールの友人である。ラ・モールとココナスは,保身をはかるアランソン公フランソワのために政治的な犠牲となり,公開処刑がなされた。この2つの恋はアレクサンドル・デュマがほぼ史実に則って描いたものである。
タグ
コメントをかく