最終更新: fan_arrow_1185 2008年07月19日(土) 16:02:00履歴
[52]
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そう、いつも私の居場所を奪おうとする。
昔は無邪気な風を装って。けれどとんでもないやり方で。
最後の競い合いだって……一族の秘法を駆使して、誇りを賭けて戦った時ですら。料理では優っていたはずなのに、お前の情熱とやら――いや泣き落とし――に、王様は惜しみない賛辞を与えた。
栄誉は私の手からすり抜けていき、それ以後、勝利の美酒に浸ることはできなかった。お前が去った後も。
私は、ただ栄誉に飢えた。
今は怨みに曇った目で、はっきりとした意志を持って飢えに苦しめる。
医術という武器を手に、王族の信頼を……治療の機を捉えては……お前が掴む分、私たちは……失くしていった。
それにまた、医女のくせに料理の腕までひけらかして。
私の作る夜食を中殿様は手も付けず、お前に作らせたものを口にされるとは。……奴婢にも劣る最高尚宮か。
ふっ
自嘲の笑いさえこみ上げてしまう。
薬材店の莫大な利権と引き換えるのも惜しくない、それほど邪魔でしょうがなかった。なんとしてでも消したかった。
しかしあれは。
消えない……。
それどころか追いやるほど一層近付き、まるで逃げても離れぬ影のよう。ついには私たちの真後ろに迫り到り、そして冷ややかに告げた。医局長の遺書が手元にある、時をやるから詫びろ。それが生き残る唯一の道だ、と。
牢屋でも同じ言葉を浴びせかけた。罪を償え、しかも涙を流して許しを請えなどと。ふざけたことを。そうすれば、お前の気持ちは宥められるのか。
しかしそんなこと、私に関わりの無い話。
関わりの無い。
そう胸の中で何回も繰り返す。
:
:
[53]
内人の言う"変わった教え方"の意味を知ってチャングムは苛立ちを覚えた。けれどそれだけではなく、どこか落ち着かない気分でもあった。
すっかりチェ一族の一員となってしまったクミョン。なのにどうして。その真意は……。
チャングムの按摩は評判で、指名されることも多かった。けれど彼女自身、それ以上に他の医女に率先して――そもそも皆が嫌がる仕事だったから――女官の部屋に行き、できるだけ丁寧に肩を揉んでいった。
時折尚宮にも呼ばれたが、さすがに内人とは違い、あまり多くを語らない。けれどやはり気になることを言う。
確かに料理は上手いんだけれど……新味祭でもないのに新しい料理を考えろと言われたり、ご自身でもいろいろ作られては、どう思うかと度々訊ねられる。
けれど、なぜそのようにされるのかちっとも理解できないし、うかつなことも言えないから困ってしまう。ほとんどしたことの無い料理を下の者に教えよと言われても、こちらももっと大変だ。今までどおりのやり方をしてくれればいいのに。それに、チェ女官長様が通りかかりにちらりと見られては不興顔をされる、とも。
そんな話を聞くうちに、チャングムは次第に感じるようになっていった。
あの痛みの元はもしかしたら。
わだかまりという名のしこりを、心に抱えているのではないかと。
クミョンは志を捨てたのだ。
願い通り最高尚宮に成り、ヨンセンや他に邪魔な者は全て遠ざけた。とりわけ、一族に楯突いたハン尚宮様のことなど思い出したくも無いはず。
それなのに、あの方法で教えているということは。
ハン尚宮様に申し訳ないとか、そんな気持ちからなの?
もしそうだとするならば。
[54]
:
:
けれど、おかげで手の内が読めたともいえる。
このたびの病の様子から、あの昏倒は食材の――硫黄泉で育てた――家鴨が原因ではない、つまり今と同じく誤診だったと言い立てる。また謀反とされたのは、誤診のせいだけではなかった。背後に誰かの何らかの企てがあったのだと。その旨の告発を目論み、証人になるよう医局長に迫ったのだろう。
だが叶わなかった。
人を見る目が無かったということよ。あの小心者に、私たち一族に歯向かう真似ができるはずはないじゃない。
しかたなく遺書など拵え、それを告げて私たちが綻ぶのを狙おうなんて。なんとも小賢しい策を弄するようになったものね。
以前なら、何も考えず突っ走っていた子だったけれど……人は変わりゆく。変わることができなければ、時勢の渦に呑まれ消える。頑固なまでに信念を貫こうとされたあの方みたいに……。
頭の中にハン尚宮様の顔が過ぎり、しかしすぐに振り払う。
考えてみれば分かる。
決定的な証拠になるなら、たちまち役所に届ければよい。ことを仕掛けるのが目的ならば、本物であると偽物であると大した違いはない。
そもそも医局長がいたとして、証言できるのは病のことだけ。アワビの仕掛けやオ・ギョモ大監(テガム)のお力添えについては知らない。しかも紙切れ、何の力もないでしょうに。
だからチェ女官長様に時を与えるのではない。時間と機会が欲しかったのは、あちら側。
我ながら。
我ながら、人の動きを読む時の私は冴えている。形勢を見通す、これも長く栄えた一族に備わった力なのだろう。
ということは、遺書の件をそのまま捨てては置けない……疑われ、一々弁明するのも面倒だから。けれどその有る無しに関わらず、他に証人や証拠となりそうな物を始末すればいい。
それに気が付いて、ユン尚宮を遠ざける段取りはしておいた。
:
:
[55]
宮に戻ってから、あなたと話したのは数えるほどだった。そのたびに投げられる腹立たしい言葉。
それだけだったら、私はこうして会おうなんて思わなかった。
でもあなたは、今の自分を受け入れているの? そうじゃないでしょ。
だってあなた自身が傷ついているじゃない。
あんなに痛がっていたじゃない。
牢屋で命すら惜しもうとはせず……頑なに私に言い返したけれど、あの時も同じだったわよ。やっぱり痛みを感じていたんでしょ。
私を拒む眼差しを……向けたけれど。お札の時と同じように……。
蔵の中でのクミョンの表情を思い出して、チャングムはため息をついた。
苦しみ悩んでいたのね。
もしあの時、あなたがためらいを感じていなかったなら。
再び会ってその足に触れて、あの時以上の痛みを診(み)なかったなら。
クミョン……本当はきっと。
その身体の奥には、あの懸命だったあなたが今もいるのよ。
そう私は信じたい!
[56]
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:
残念だったわね。小細工が却って仇となったようね。でも、ここまでよくやったと思ってあげようかしら。
いずれにせよ。あの顔を見ることも、もう無いだろう。これだけ宮中を騒がしたのだ。結局何も無いとなれば、いかに中殿様のご贔屓があろうと無事には済まされまい。
よくやってきた……そう……思えば……一層鮮明に蘇ってくる。
立ちふさがるものなどものともせず、乗り越えてしまう……菜園の時からそうだった……。太平館に送られたこともあったのに。何度宮から追い出されても切り抜けて、考えられない方法で舞い戻って来た。煩わしいくらい、いつもいつも。
それもただ戻るだけではなく、何かを手にして帰って来る。
罪人となって、遠く済州島に送られると今度は医女に活路を見出し、また宮中、内医院に入り込むだなんて。
宮には各地から何人も修練に来るらしいが、ここに残れるのはごく僅かだとヨンノが教えてくれた。やはり、たいそう優れていたという。
その後もその後も疫病の村、屍躯門(シグムン)からすらも……いずれも常人なら二度と戻れない。
やっぱり大した子だったわ。あなたはいつも頑張り屋さん。それだけは認めてあげる。
けれど、もう怖れることはない。
:
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[57]
石段の手前にチャングムは立ち続けていた。
なぜ私はここに来たのか。
もう一度だけ……昔、四阿で一晩中語り合ったように。そうすれば……募るばかりの憎しみを……。たとえこのひとときだけであったとしても、怨み辛みを流し去ることができるかもしれない。
もしあなたが罪を認めてくれるなら。
『そんなの無理よ』
ヨンセンなら即座に言うだろうけれど。
これは私のわがまま? 何かが少しでも変わるかもって、そう思いたかったから?
迷いを振り払うかのように、チャングムは頭を左右に振った。
どうしてもあなたのことが忘れられなかった。
たとえまた、拒絶されようとも罵倒されようとも……二人きりで会いたい。だってたぶん二度と。会えるのはこれが最後かも。そう思うと、いてもたってもいられなくて。
[58]
:
:
しかし。
ひとつ。
腑に落ちない。
全部の材料が完全に調えられて初めて料理となる。謀(はかりごと)も同じ。何か欠けたり、手順を誤ってはいけない。
気になる。
なぜあの場所で? なぜあんな話を?
四阿……ハン尚宮様とあの子の母親が内人の頃に埋めた……甘酢……だとか。それを私に使うか、なんて。このたびのこととは関係無い話を、何のために。
ことに叔母様にとっては、内人時代や競い合いを思い出されて、たいそう不愉快だったはず。横で聞いていてヒヤヒヤした。
でもそれは、女官長様に告げたかったのだろうか? それともお前の師匠たちの前で、復讐を宣言したつもりか。
分からない。
小骨のような不快感が、イガイガと喉につかえ続ける。しかもその酢をなぜ私に渡そうとしたのか? 受け取るわけもなかろうに。単なる嫌味、そう思う他ないか……。
『お二人はお互いを尊重し、信じ合った真の友であったとか……お二人とも最高尚宮の座にこだわることなく、座を巡り争うこともなく。切磋琢磨し、お互いが認めた方に譲ると約束されました』
かつて私も……懸命に修練を重ねていた。そして料理の実力で、最高尚宮を目指そうとしていた。そして隣には、いつもあの子が……。
いや、それは遠い昔。
意味はない。今の私はあの頃とは違うのだから、振り返る意味などない。
また胸の中で繰り返す。
:
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[59]
数日前、チェ女官長様とクミョンに"遺書"の存在を告げたあの場所。
奴婢として追われた時、身の回りの物は取り上げられてしまい、昔を偲べるものは残されていない。懐かしい水剌間にも近付くことはできない。そんな宮でただ一つ、楽しかった頃に戻り心安らげるのは、甘酢が埋められた松の下(もと)だった。
あの木の前にハン尚宮様と母が二人並んで……将来を夢見ながら、料理の研鑽を誓いながら、そしてきっと互いの友情に微笑みながらお納めになった。
土を取り除けそっと甕(かめ)に触れると、愛しい思いがあふれ出す。蓋を開け立ち昇る芳しい香りに、慕い続けて止まないお二人の、願いと祈りが入り混じる。それはかって女官だった頃の私が、同じように抱いていた夢を思い出させた。
そして、四阿。
宮に入りたての頃、そうとは知らず甘酢の側で松の実刺しをしていた。いや、母の夢に誘(いざな)われていたのか。
この練習を母もしていたのだろう。そう思うと山盛りの松葉と実を見ても、少しも辛くなんかなかった。だから月明かりを頼りに、ひとり……いいえ私にも、共に学んできた人がいた……。
あそこへ行くたび思うのは、もちろんお二人のこと。そして不覚にも、その友のこと。
……残り香の前で話した意味を……あなたには伝わっただろうか。
これから告げる私の思いは、あなたに届くだろうか。
チャングムはゆっくりと足を前へ運んだ。
[60]
:
:
尊重し信じ合える仲、それがなんだというのだ。その挙句が二人共……もう何もできやしない。まさに生きてこの座にいる自分が、勝者というもの。
けれど再会した時、放たれた言葉。
『その座に就くために、あまりにも大きなものを捨てられたのですから』
就くためにですって? 何を捨てたって?
けれどお前の目……私を見透かすかのようなあの眼差しは、お札の時に蔵の中で見せたよりも更に、悲しく私に注がれた。
それは私を容赦なく抉った。
いまいましい子。
気が付くと、震えるほどに強く、左拳を握り締めていた。
何も、この手には無いというのか。
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そう、いつも私の居場所を奪おうとする。
昔は無邪気な風を装って。けれどとんでもないやり方で。
最後の競い合いだって……一族の秘法を駆使して、誇りを賭けて戦った時ですら。料理では優っていたはずなのに、お前の情熱とやら――いや泣き落とし――に、王様は惜しみない賛辞を与えた。
栄誉は私の手からすり抜けていき、それ以後、勝利の美酒に浸ることはできなかった。お前が去った後も。
私は、ただ栄誉に飢えた。
今は怨みに曇った目で、はっきりとした意志を持って飢えに苦しめる。
医術という武器を手に、王族の信頼を……治療の機を捉えては……お前が掴む分、私たちは……失くしていった。
それにまた、医女のくせに料理の腕までひけらかして。
私の作る夜食を中殿様は手も付けず、お前に作らせたものを口にされるとは。……奴婢にも劣る最高尚宮か。
ふっ
自嘲の笑いさえこみ上げてしまう。
薬材店の莫大な利権と引き換えるのも惜しくない、それほど邪魔でしょうがなかった。なんとしてでも消したかった。
しかしあれは。
消えない……。
それどころか追いやるほど一層近付き、まるで逃げても離れぬ影のよう。ついには私たちの真後ろに迫り到り、そして冷ややかに告げた。医局長の遺書が手元にある、時をやるから詫びろ。それが生き残る唯一の道だ、と。
牢屋でも同じ言葉を浴びせかけた。罪を償え、しかも涙を流して許しを請えなどと。ふざけたことを。そうすれば、お前の気持ちは宥められるのか。
しかしそんなこと、私に関わりの無い話。
関わりの無い。
そう胸の中で何回も繰り返す。
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内人の言う"変わった教え方"の意味を知ってチャングムは苛立ちを覚えた。けれどそれだけではなく、どこか落ち着かない気分でもあった。
すっかりチェ一族の一員となってしまったクミョン。なのにどうして。その真意は……。
チャングムの按摩は評判で、指名されることも多かった。けれど彼女自身、それ以上に他の医女に率先して――そもそも皆が嫌がる仕事だったから――女官の部屋に行き、できるだけ丁寧に肩を揉んでいった。
時折尚宮にも呼ばれたが、さすがに内人とは違い、あまり多くを語らない。けれどやはり気になることを言う。
確かに料理は上手いんだけれど……新味祭でもないのに新しい料理を考えろと言われたり、ご自身でもいろいろ作られては、どう思うかと度々訊ねられる。
けれど、なぜそのようにされるのかちっとも理解できないし、うかつなことも言えないから困ってしまう。ほとんどしたことの無い料理を下の者に教えよと言われても、こちらももっと大変だ。今までどおりのやり方をしてくれればいいのに。それに、チェ女官長様が通りかかりにちらりと見られては不興顔をされる、とも。
そんな話を聞くうちに、チャングムは次第に感じるようになっていった。
あの痛みの元はもしかしたら。
わだかまりという名のしこりを、心に抱えているのではないかと。
クミョンは志を捨てたのだ。
願い通り最高尚宮に成り、ヨンセンや他に邪魔な者は全て遠ざけた。とりわけ、一族に楯突いたハン尚宮様のことなど思い出したくも無いはず。
それなのに、あの方法で教えているということは。
ハン尚宮様に申し訳ないとか、そんな気持ちからなの?
もしそうだとするならば。
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けれど、おかげで手の内が読めたともいえる。
このたびの病の様子から、あの昏倒は食材の――硫黄泉で育てた――家鴨が原因ではない、つまり今と同じく誤診だったと言い立てる。また謀反とされたのは、誤診のせいだけではなかった。背後に誰かの何らかの企てがあったのだと。その旨の告発を目論み、証人になるよう医局長に迫ったのだろう。
だが叶わなかった。
人を見る目が無かったということよ。あの小心者に、私たち一族に歯向かう真似ができるはずはないじゃない。
しかたなく遺書など拵え、それを告げて私たちが綻ぶのを狙おうなんて。なんとも小賢しい策を弄するようになったものね。
以前なら、何も考えず突っ走っていた子だったけれど……人は変わりゆく。変わることができなければ、時勢の渦に呑まれ消える。頑固なまでに信念を貫こうとされたあの方みたいに……。
頭の中にハン尚宮様の顔が過ぎり、しかしすぐに振り払う。
考えてみれば分かる。
決定的な証拠になるなら、たちまち役所に届ければよい。ことを仕掛けるのが目的ならば、本物であると偽物であると大した違いはない。
そもそも医局長がいたとして、証言できるのは病のことだけ。アワビの仕掛けやオ・ギョモ大監(テガム)のお力添えについては知らない。しかも紙切れ、何の力もないでしょうに。
だからチェ女官長様に時を与えるのではない。時間と機会が欲しかったのは、あちら側。
我ながら。
我ながら、人の動きを読む時の私は冴えている。形勢を見通す、これも長く栄えた一族に備わった力なのだろう。
ということは、遺書の件をそのまま捨てては置けない……疑われ、一々弁明するのも面倒だから。けれどその有る無しに関わらず、他に証人や証拠となりそうな物を始末すればいい。
それに気が付いて、ユン尚宮を遠ざける段取りはしておいた。
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[55]
宮に戻ってから、あなたと話したのは数えるほどだった。そのたびに投げられる腹立たしい言葉。
それだけだったら、私はこうして会おうなんて思わなかった。
でもあなたは、今の自分を受け入れているの? そうじゃないでしょ。
だってあなた自身が傷ついているじゃない。
あんなに痛がっていたじゃない。
牢屋で命すら惜しもうとはせず……頑なに私に言い返したけれど、あの時も同じだったわよ。やっぱり痛みを感じていたんでしょ。
私を拒む眼差しを……向けたけれど。お札の時と同じように……。
蔵の中でのクミョンの表情を思い出して、チャングムはため息をついた。
苦しみ悩んでいたのね。
もしあの時、あなたがためらいを感じていなかったなら。
再び会ってその足に触れて、あの時以上の痛みを診(み)なかったなら。
クミョン……本当はきっと。
その身体の奥には、あの懸命だったあなたが今もいるのよ。
そう私は信じたい!
[56]
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残念だったわね。小細工が却って仇となったようね。でも、ここまでよくやったと思ってあげようかしら。
いずれにせよ。あの顔を見ることも、もう無いだろう。これだけ宮中を騒がしたのだ。結局何も無いとなれば、いかに中殿様のご贔屓があろうと無事には済まされまい。
よくやってきた……そう……思えば……一層鮮明に蘇ってくる。
立ちふさがるものなどものともせず、乗り越えてしまう……菜園の時からそうだった……。太平館に送られたこともあったのに。何度宮から追い出されても切り抜けて、考えられない方法で舞い戻って来た。煩わしいくらい、いつもいつも。
それもただ戻るだけではなく、何かを手にして帰って来る。
罪人となって、遠く済州島に送られると今度は医女に活路を見出し、また宮中、内医院に入り込むだなんて。
宮には各地から何人も修練に来るらしいが、ここに残れるのはごく僅かだとヨンノが教えてくれた。やはり、たいそう優れていたという。
その後もその後も疫病の村、屍躯門(シグムン)からすらも……いずれも常人なら二度と戻れない。
やっぱり大した子だったわ。あなたはいつも頑張り屋さん。それだけは認めてあげる。
けれど、もう怖れることはない。
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[57]
石段の手前にチャングムは立ち続けていた。
なぜ私はここに来たのか。
もう一度だけ……昔、四阿で一晩中語り合ったように。そうすれば……募るばかりの憎しみを……。たとえこのひとときだけであったとしても、怨み辛みを流し去ることができるかもしれない。
もしあなたが罪を認めてくれるなら。
『そんなの無理よ』
ヨンセンなら即座に言うだろうけれど。
これは私のわがまま? 何かが少しでも変わるかもって、そう思いたかったから?
迷いを振り払うかのように、チャングムは頭を左右に振った。
どうしてもあなたのことが忘れられなかった。
たとえまた、拒絶されようとも罵倒されようとも……二人きりで会いたい。だってたぶん二度と。会えるのはこれが最後かも。そう思うと、いてもたってもいられなくて。
[58]
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しかし。
ひとつ。
腑に落ちない。
全部の材料が完全に調えられて初めて料理となる。謀(はかりごと)も同じ。何か欠けたり、手順を誤ってはいけない。
気になる。
なぜあの場所で? なぜあんな話を?
四阿……ハン尚宮様とあの子の母親が内人の頃に埋めた……甘酢……だとか。それを私に使うか、なんて。このたびのこととは関係無い話を、何のために。
ことに叔母様にとっては、内人時代や競い合いを思い出されて、たいそう不愉快だったはず。横で聞いていてヒヤヒヤした。
でもそれは、女官長様に告げたかったのだろうか? それともお前の師匠たちの前で、復讐を宣言したつもりか。
分からない。
小骨のような不快感が、イガイガと喉につかえ続ける。しかもその酢をなぜ私に渡そうとしたのか? 受け取るわけもなかろうに。単なる嫌味、そう思う他ないか……。
『お二人はお互いを尊重し、信じ合った真の友であったとか……お二人とも最高尚宮の座にこだわることなく、座を巡り争うこともなく。切磋琢磨し、お互いが認めた方に譲ると約束されました』
かつて私も……懸命に修練を重ねていた。そして料理の実力で、最高尚宮を目指そうとしていた。そして隣には、いつもあの子が……。
いや、それは遠い昔。
意味はない。今の私はあの頃とは違うのだから、振り返る意味などない。
また胸の中で繰り返す。
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数日前、チェ女官長様とクミョンに"遺書"の存在を告げたあの場所。
奴婢として追われた時、身の回りの物は取り上げられてしまい、昔を偲べるものは残されていない。懐かしい水剌間にも近付くことはできない。そんな宮でただ一つ、楽しかった頃に戻り心安らげるのは、甘酢が埋められた松の下(もと)だった。
あの木の前にハン尚宮様と母が二人並んで……将来を夢見ながら、料理の研鑽を誓いながら、そしてきっと互いの友情に微笑みながらお納めになった。
土を取り除けそっと甕(かめ)に触れると、愛しい思いがあふれ出す。蓋を開け立ち昇る芳しい香りに、慕い続けて止まないお二人の、願いと祈りが入り混じる。それはかって女官だった頃の私が、同じように抱いていた夢を思い出させた。
そして、四阿。
宮に入りたての頃、そうとは知らず甘酢の側で松の実刺しをしていた。いや、母の夢に誘(いざな)われていたのか。
この練習を母もしていたのだろう。そう思うと山盛りの松葉と実を見ても、少しも辛くなんかなかった。だから月明かりを頼りに、ひとり……いいえ私にも、共に学んできた人がいた……。
あそこへ行くたび思うのは、もちろんお二人のこと。そして不覚にも、その友のこと。
……残り香の前で話した意味を……あなたには伝わっただろうか。
これから告げる私の思いは、あなたに届くだろうか。
チャングムはゆっくりと足を前へ運んだ。
[60]
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尊重し信じ合える仲、それがなんだというのだ。その挙句が二人共……もう何もできやしない。まさに生きてこの座にいる自分が、勝者というもの。
けれど再会した時、放たれた言葉。
『その座に就くために、あまりにも大きなものを捨てられたのですから』
就くためにですって? 何を捨てたって?
けれどお前の目……私を見透かすかのようなあの眼差しは、お札の時に蔵の中で見せたよりも更に、悲しく私に注がれた。
それは私を容赦なく抉った。
いまいましい子。
気が付くと、震えるほどに強く、左拳を握り締めていた。
何も、この手には無いというのか。
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