最終更新: fan_arrow_1185 2008年07月18日(金) 21:48:45履歴
[19]
その頃、尚宮様が競い合われることになって、私たちはそれぞれチェ尚宮様、ハン尚宮様の補助に付いた。だから前ほどは、気楽に話せなくなっていた。
でもあなたが気になるのは相変わらず。それでヨンノから、どんな様子か、こっそり聞き出したりしていた。そんな時チェ尚宮様から、あなたの身体が麻痺し、味覚まで失ったと教えられた。
本当は心配でしかたがなかったけれど。私が困っていた時に、あなたは助けようとしてくれたのに。
あなたと向き合えないどころか、あなたが辛い時に側にいることも、案じることも、声すらかけてあげられない。
もうそれは許されない。そして私は、あの笑顔を受け取ることはできない。
だから、あなたの味覚が戻ったと分かって、チェ尚宮様には申し訳ないけれども、本当に嬉しく思ったわ。
それと共に……教えられてもいないことができて……思いもつかない味を見つけ、味見しなくてもお料理を作る……そんなことができる。目の前であなたの力を見てからは、心細さばかりが私を取り巻く。
ハン尚宮様のお教え? 数多くの本……医書とかを紐解いたから?
一族の秘法を綴った本を開いてあれこれ考えても、出てくるのはため息ばかり。あなたのような力、発想は、これっぽっちも生まれてこない。
―――その力が……欲しい。
最高尚宮を輩出してきた伝統の技を学んできて……貴重な食材を手に入れる
のもたやすい。なのになぜ、あのようにはできないのだろう。
本当に私は恵まれているの?
あなたはどんどん、新しい道を進んでいく。
私は……。
それに、チョン尚宮様はこうおっしゃった。
「チャングムは元子様の麻痺の原因を突き止めるため、人の身体にどのような働きをするのかを調べようとして、危険を顧みず自らチュンジョチョナプタンを食べた。
料理人として、大切なことをチャングムはやり遂げた」
私が怖れ立ちすくみ、あるいは諦めてしまうようなことでも、あなたはやってのける。全身でぶつかり、痛みなどものともせず切り開いていく。
あれほどまでの情熱を、私は持っているだろうか。
いつか、追いつけなく……。
得体のしれない不安が背中にへばり付く。私は一番の料理人になれるのだろうか。
ずっと脇目も振らず料理に打ち込めばいいと思っていた……それで、誰にも負けはしなかったけれど……。
完璧になるには、それだけではいけないのではないかしら。私には、まだまだ足りないものがあるのじゃないかしら……。
何か、違う。
あの子と私。
……自分自身も、教えられていることも、信じ切ることができない。
でもこんなこと、誰にも相談できない。チェ尚宮様にも、この心の底からの怯えを分かってはもらえなかった。
[20]
四阿に向かう途中、ふと、香ばしい匂いがしてきた。水剌間を覗くと、あなたが何かを作っている。こんなに遅くに、まだ練習をしているのかしら?
「思いがけない方が慰めて下さったの」
あなたも独りで苦しんでいたと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ……よかったわね。励ましてくれる人がいて。
―――どんな方なのかしら? あなたの側に居られる人もまた、羨ましく思うわ。
なのに私は……。
引き出しから硯を取り出し、丸い上蓋を撫でる。
―――私には、もうナウリしか……。
いつかお届けしたいと、何度も手に取っては見つめてきた。
―――ただひと目、あの眼差しを私に向けて欲しい。けれど……。
そのたびに、望んではならないと諦め、またしまい直した。
―――ほんの少しだけ、お心に触れさせていただきたい。見ているだけ、
心に想うだけ、今まではそれでよかったけれど……。
でもお探しになっていた物だから、きっとお気に召して下さるだろう。
―――ひととき、お近くに行けるだけで。受け取っていただけるだけで。
それだけでいい。
決心してお渡しした時、本当に思いもかけず、いただいた励まし。
「ある人が言っていました。『料理をする時、食べる人の顔に笑みが広がればと願いながら作る』と。料理は相手をいかに喜ばせるかを考えて作るというのです。チェ内人はそのような仕事をしているのです。自信を持って下さい」
その言葉は、忘れかけていた気持ちを思い出させてくれた。
―――そうよ、そう! ああ、さすがだわ。ナウリはお分かりなのよ。
お料理の素晴らしさを、料理人の気持ちまでもご存知なのね。
たとえこの一族に生まれたとしても、料理に情熱を注ぐことは、それだけで
尊いのだと。
そして料理に打ち込む私のことをご存知だったんだ!
女官の私のことなんて、お目に留めてはいただけないと思い込んでいた。
そんな風に思っていたけど、ナウリは少しご覧になるだけで全てお見通し
なのよ。
そして、励ましまでいただいた!
上の叔母様たちがどうであったにせよ、私たちは実力であの座を得てみせる。
久しく失っていた自信が、身体中みなぎった。
―――ああよかった、思い切ってお届けして。
ナウリのような方ですら、自信を無くされることもあると言われた。私のような
未熟者なら、なおのこと。不安だなんて嘆いていないで、懸命にやってみよう。
ちょうどその時、競い合いは大妃様がご判定されることになり、三回の御膳料理の優劣で決することになった。
よかった。あなたと……料理。料理という舞台の上でだけは、あなたと対等に向き合うことができるから。
―――ああ、そして私が勝ったなら。
あの方はどこかで見ておいでで、お褒めの言葉をいただけるかも。
[21]
最初の課題は、質素を旨とするものだった。チェ尚宮様はがっかりされていたけれど、私はむしろ嬉しかった。これなら純粋に、技を競うことができる。
そう思えば人任せにはしたくない。伯父の家を飛び出して、市場にある食材を、ひとつひとつ見て回った。
新しい味を、自分の力だけで見つけた。ナウリのお言葉を胸に抱いて、ソルロンタンを作った。チェ尚宮様のご指示に従わず、一族の秘法も使わず、召し上がる方の笑顔を思い浮かべながら、ありったけの手間と心を込めた。
やっぱり、私はできるのよ。あなたにも勝てたわ! チェ尚宮様もとても喜んで下さった。
あのお言葉に導かれ、大きな大きな結果を得ることができた。
ひとことお礼を申し上げたい。
お料理を作り……競い合いに込めた以上の祈りを、正菓(チョンガ)に込めた。
遠く、遥かに高い世界の方だと思っていたけれど、ナウリならきっと一緒に喜んでいただける……。
でも内禁衛にお姿は無かった。とても残念だったけれど、その時は諦めたの。
あなたがいなくなってから、水剌間でヨンセンたちが、あなたの代わりの補助内人のことを話していた。
下拵えの手は止まっているのに、それぞれが与えられた課題を、競い合いとはちっとも関係ない、わざと無理ばっかり言ってと口だけはよく動くこと。
挙句にハン尚宮様が贔屓されているなんて言うから、あの子は全部をやったって、つい口を挟んでしまったけれど……。それではっきり気が付いた。
どれだけあなたが他の内人とは比べ物にならないかということを。
そしてハン尚宮様は、あなたの才能をただ一人……私の他には、ただ一人ご存知で。
いいえ、そうじゃないわ。ハン尚宮様のお教えが、あの変わった訓練法が、あの子の才能を芽吹かせたのよ。
ヨンノの言い付かった水汲みは、チャングムが最初に与えられた課題だった。昔一緒に練習している時に、嬉しそうに話してくれたっけ。
ハン尚宮様のお部屋に入るなり言われて、何度もやり直しをさせられたって。他の見習いに聞いてもどうしていいか分からなくて、しょげていたらチョン尚宮様が励まして下さったとか。やっとお望みに適って、いただいたお言葉が嬉しくて、でも母のことを思い出して泣いてしまったら、泣くなと言われて。
あの時は、泣いているあなたが思い浮かんで面白いと思っただけだった。けれどなんでそんなことをさせられるのか不思議だった。もしかしてあの子の落ち着かないところや、時々余計なことをしゃべってしまうのがお気に召さなくて、難題を押し付けておられるのかと思ったりもしたけど、そうでもなかったみたいだったし。
それから後も、チャンイの課題の山菜摘みをさせたり、ヨンセンに言われたような味を描く訓練をしたり。
それは私にも……いろんな訓練を積んできた私にも、分からないことばかりだった。
ということは……。
競い合いに負けてお叱りを受け、あなたはしょんぼりと宮を出た。けれど、きっと何か訳があるに違いない。
再び……あなたを怖れる気持ちが頭をもたげる。
一回は勝ったけれど……。次にあなたと会う時には、もっと別の力を付けて……。
漠然とした不安が徐々に形になり、いないはずのあなたの存在が圧し掛かってくる。
耐え切れない。この苦しい、押しつぶされそうな胸の内を。
もう一度、ナウリに会いに行こう。心の淀みを知っていただくだけで、ほんのひとこといただけるだけで……私は導かれ……あの時のように、きっと救われるはず。
ついでにチャングムの様子も見てこよう。あの子のことだから、そろそろ気を取り直して料理の研究をしているわよね。『何かまた新しいものを見つけた?』って聞いてみたりして。
それにいつかは帰ってくるのでしょうし、ハン尚宮様の感じだと、また競い合いに出させてもらうだろうから。
どんな訓練をお命じになったのか気にもなる。
まだしょんぼりしているなら、ちょっと励ましてあげようかしら。尚宮様もあなたをお待ちのご様子よと、教えてあげよう。
[22]
行くと決めただけで、気持ちが軽くなった。逸る心を抑えて海沿いを進む。頬を撫でる潮風が心地よい。
まずはご挨拶を申し上げて、それから、なんてお伝えしようかしら。
遠方でのお勤めご苦労様です、それから、なにかと不便なことでしょうね、それで
つまらない物ですが正菓を持っ、 ええっと、作って参りました、お口に合えば嬉しい
ですがどうかお召し上がり下さい、それから、その節は色々と思い迷うこともたくさん
ありましたがお励ましをいただいて、それから、お導きを支えに心から打ち込むことが
でき競い合いに勝利を得られました、それから、本当にありがとうございました、今後
とも 懸命にお料理に取り組みたいと、それから、これからもなにとぞ私をお見守り下さい
ませ ……それから、……本当に………それから、………本当に………それから、…
……それから、………それから、………それから、………それから、それから、……
雲岩寺(ウナム寺)に、ナウリはいて…………隣には……チャングム、あなたが。
優しい眼差し。暖かくて愛しさに満ちあふれた……私が一度も見たことのない面立ちだった。あなたは、あの方の瞳に抱き締められていた。
―――そうだったの……
あなたを慰めた方というのは…………
あなたが料理を作り、差し入れた方とは………………
ナウリが励ましてくれた、あの言葉を言った人とは……………………………
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
寄せては返す波音は、傷つけもしないが慰めもしない。それは空ろな自分に絶え間なく流れるなんの意味もなさない響き。
―――どうして会いに行こうとしたの。どうしてすがろうなどと考えたの。分かって
いたはずじゃないの……ずっとずっと前から。心をお寄せしてはいけないと、
それは許されないと。
ひとりたたずんで、海を見やる。
遠くに見える海は穏やかなのに、浜辺にいる私の心はこんなにも騒(ざわ)めいている。
時々強い波が来て―――どどっどーん―――足元まで打ち寄せ私を阻む。……私はここにいることさえも許されないのか。
部屋に戻って風呂敷包みを投げ出した。
―――料理は人を喜ばせるもの? 料理は人の幸せを願うもの? 料理への情熱?
そんな言葉はうそよ! 建前にしか過ぎないわ! 私の料理など誰も望んで
いない、誰も喜ばすことはできない。いったい誰の笑顔を願えばいいの?
誰に私の思いを差し上げればいいの?
あの方は、私にあの柔らかな微笑を分け与えてはくれないのに。
振り払おうとしても、打ち消そうとしても、あなたとナウリが消えない。
懸命に、そしてとても楽しそうに料理を作る、厨房のあなた。
熱心に、そしてとても楽しそうに小筆を選ぶ、市場のナウリ。
あの日も、今日も、また明日も、二人は眼差しを注ぎ交しているのか。いつまで、いったいいつまでそれが続くのか。
二人が幸せそうに手を取り、私を置き去りにして海の彼方へ消えていく。
波打ち際に浮かぶ木の葉が水面を渡り、岸を離れて向こうまで……たどり着こうとするけれど、揉み寄せる波はそれを許さず。揺蕩(たゆた)い舞い彷徨(さまよ)いながら、やがて徒(あだ)波に飲み込まれる。沈みゆく木の葉のように、私の心も海の中……。
白波返る海は思いの外、その水中は静かだった。吹き荒ぶ風も届かず、物音もほとんどしない。
頬を伝う涙も、誰に見られる心配もない。
ここに居てもいいよと言うかのように、時折ゆらめくうねりが私を優しく抱き包む。
うねりの中小さな泡、大きな泡が、さわさわ、ぷくっ。ゆっくりゆっくりと、立ち昇っていく。
見上げると……紺青の波間から月光が幾筋も射し込み、泡を浮べた天井できらめいている。
手を伸ばすと泡は指にまとわり付き、真珠のように輝いて……。
見蕩れているうち真珠たちは離れ消えゆき、天井もどんどん暗くなる。鼓膜の奥でごうごうと渦が巻き、もがけど、もがけど漆黒の闇へ、冷え凍えながら私の身体は沈んでいった。
そんな夢を見ては、夜中に何度も目が覚めた。
[23]
私の志は、変わっていった。
―――料理なんて……。
お寺から戻ってきたあなたと目が合った。
再び、心が騒めき始める。落ち着かせようと……衿の合わせ目あたりを手で軽く叩いたけれど、胸元のもやもやが治まらない。
どうにか気持ちを抑え、水剌間で並んで下拵えをしていると、あなたが親しげに話しかけてきた。
ハン尚宮様に許してもらえなかったらどうしよう、なんてとぼけたことを言う。
その素振りが、初めて偽善的に思えた。
―――あなたが眼差しを交し合っている間、ずっとあなたをお待ちだったのよ。
どれだけ尚宮様があなたを必要とされているか、あなたを思っておられるか。
どうしてあなたには分からないの!
輝く才能も、努力し続けるひたむきさも備え、素晴らしい師匠も、あなたを慕う友達もいる。
……その上、慰め励ましてくれる方すらも。
―――望んでも望んでも……望むことすら叶わないものを。
あなたは奪っていく。私には何も残さずに。どうしてそんなに無頓着に、何もかも。
―――逃れられないしがらみ
やるせない無力感
凍てつく孤独
何も知らない何も感じないあなたは
無垢の目を私に、真っすぐ向ける
身体の中が沸き立ち、激情がどくどく噴き出し抑えられない。
もう、今までの私じゃない。
―――これが一族の血……なのか。
憎悪、敵意。抱いたことのない感情。
手の戦慄(わななき)に目をやると、拳を痛いほど握り締めていた。
―――あの日あなたは、私が長い間大切にしてきたものを奪った。私の心の支えを、
あなたのものにした。いとも易々と、私に向けるのと変わらない笑顔で。
それなのに、まだ欲しいものがあるわけ?
昔はおぼつかない腕だったのに、今では私に負けない。いや、私よりもずっと先に進んでいる。もう同志ではない、競争相手でもない。目の前に立ちふさがる敵。
―――私の居場所は無くなってしまう。
一族を繁栄させるため、居場所を守るため。どうあってもあの地位を得るしかない。あなたや、あなたのハン尚宮様に、一族の座は譲れない。そんなことはさせない!
―――たとえ料理を手段にしてでも。
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その頃、尚宮様が競い合われることになって、私たちはそれぞれチェ尚宮様、ハン尚宮様の補助に付いた。だから前ほどは、気楽に話せなくなっていた。
でもあなたが気になるのは相変わらず。それでヨンノから、どんな様子か、こっそり聞き出したりしていた。そんな時チェ尚宮様から、あなたの身体が麻痺し、味覚まで失ったと教えられた。
本当は心配でしかたがなかったけれど。私が困っていた時に、あなたは助けようとしてくれたのに。
あなたと向き合えないどころか、あなたが辛い時に側にいることも、案じることも、声すらかけてあげられない。
もうそれは許されない。そして私は、あの笑顔を受け取ることはできない。
だから、あなたの味覚が戻ったと分かって、チェ尚宮様には申し訳ないけれども、本当に嬉しく思ったわ。
それと共に……教えられてもいないことができて……思いもつかない味を見つけ、味見しなくてもお料理を作る……そんなことができる。目の前であなたの力を見てからは、心細さばかりが私を取り巻く。
ハン尚宮様のお教え? 数多くの本……医書とかを紐解いたから?
一族の秘法を綴った本を開いてあれこれ考えても、出てくるのはため息ばかり。あなたのような力、発想は、これっぽっちも生まれてこない。
―――その力が……欲しい。
最高尚宮を輩出してきた伝統の技を学んできて……貴重な食材を手に入れる
のもたやすい。なのになぜ、あのようにはできないのだろう。
本当に私は恵まれているの?
あなたはどんどん、新しい道を進んでいく。
私は……。
それに、チョン尚宮様はこうおっしゃった。
「チャングムは元子様の麻痺の原因を突き止めるため、人の身体にどのような働きをするのかを調べようとして、危険を顧みず自らチュンジョチョナプタンを食べた。
料理人として、大切なことをチャングムはやり遂げた」
私が怖れ立ちすくみ、あるいは諦めてしまうようなことでも、あなたはやってのける。全身でぶつかり、痛みなどものともせず切り開いていく。
あれほどまでの情熱を、私は持っているだろうか。
いつか、追いつけなく……。
得体のしれない不安が背中にへばり付く。私は一番の料理人になれるのだろうか。
ずっと脇目も振らず料理に打ち込めばいいと思っていた……それで、誰にも負けはしなかったけれど……。
完璧になるには、それだけではいけないのではないかしら。私には、まだまだ足りないものがあるのじゃないかしら……。
何か、違う。
あの子と私。
……自分自身も、教えられていることも、信じ切ることができない。
でもこんなこと、誰にも相談できない。チェ尚宮様にも、この心の底からの怯えを分かってはもらえなかった。
[20]
四阿に向かう途中、ふと、香ばしい匂いがしてきた。水剌間を覗くと、あなたが何かを作っている。こんなに遅くに、まだ練習をしているのかしら?
「思いがけない方が慰めて下さったの」
あなたも独りで苦しんでいたと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ……よかったわね。励ましてくれる人がいて。
―――どんな方なのかしら? あなたの側に居られる人もまた、羨ましく思うわ。
なのに私は……。
引き出しから硯を取り出し、丸い上蓋を撫でる。
―――私には、もうナウリしか……。
いつかお届けしたいと、何度も手に取っては見つめてきた。
―――ただひと目、あの眼差しを私に向けて欲しい。けれど……。
そのたびに、望んではならないと諦め、またしまい直した。
―――ほんの少しだけ、お心に触れさせていただきたい。見ているだけ、
心に想うだけ、今まではそれでよかったけれど……。
でもお探しになっていた物だから、きっとお気に召して下さるだろう。
―――ひととき、お近くに行けるだけで。受け取っていただけるだけで。
それだけでいい。
決心してお渡しした時、本当に思いもかけず、いただいた励まし。
「ある人が言っていました。『料理をする時、食べる人の顔に笑みが広がればと願いながら作る』と。料理は相手をいかに喜ばせるかを考えて作るというのです。チェ内人はそのような仕事をしているのです。自信を持って下さい」
その言葉は、忘れかけていた気持ちを思い出させてくれた。
―――そうよ、そう! ああ、さすがだわ。ナウリはお分かりなのよ。
お料理の素晴らしさを、料理人の気持ちまでもご存知なのね。
たとえこの一族に生まれたとしても、料理に情熱を注ぐことは、それだけで
尊いのだと。
そして料理に打ち込む私のことをご存知だったんだ!
女官の私のことなんて、お目に留めてはいただけないと思い込んでいた。
そんな風に思っていたけど、ナウリは少しご覧になるだけで全てお見通し
なのよ。
そして、励ましまでいただいた!
上の叔母様たちがどうであったにせよ、私たちは実力であの座を得てみせる。
久しく失っていた自信が、身体中みなぎった。
―――ああよかった、思い切ってお届けして。
ナウリのような方ですら、自信を無くされることもあると言われた。私のような
未熟者なら、なおのこと。不安だなんて嘆いていないで、懸命にやってみよう。
ちょうどその時、競い合いは大妃様がご判定されることになり、三回の御膳料理の優劣で決することになった。
よかった。あなたと……料理。料理という舞台の上でだけは、あなたと対等に向き合うことができるから。
―――ああ、そして私が勝ったなら。
あの方はどこかで見ておいでで、お褒めの言葉をいただけるかも。
[21]
最初の課題は、質素を旨とするものだった。チェ尚宮様はがっかりされていたけれど、私はむしろ嬉しかった。これなら純粋に、技を競うことができる。
そう思えば人任せにはしたくない。伯父の家を飛び出して、市場にある食材を、ひとつひとつ見て回った。
新しい味を、自分の力だけで見つけた。ナウリのお言葉を胸に抱いて、ソルロンタンを作った。チェ尚宮様のご指示に従わず、一族の秘法も使わず、召し上がる方の笑顔を思い浮かべながら、ありったけの手間と心を込めた。
やっぱり、私はできるのよ。あなたにも勝てたわ! チェ尚宮様もとても喜んで下さった。
あのお言葉に導かれ、大きな大きな結果を得ることができた。
ひとことお礼を申し上げたい。
お料理を作り……競い合いに込めた以上の祈りを、正菓(チョンガ)に込めた。
遠く、遥かに高い世界の方だと思っていたけれど、ナウリならきっと一緒に喜んでいただける……。
でも内禁衛にお姿は無かった。とても残念だったけれど、その時は諦めたの。
あなたがいなくなってから、水剌間でヨンセンたちが、あなたの代わりの補助内人のことを話していた。
下拵えの手は止まっているのに、それぞれが与えられた課題を、競い合いとはちっとも関係ない、わざと無理ばっかり言ってと口だけはよく動くこと。
挙句にハン尚宮様が贔屓されているなんて言うから、あの子は全部をやったって、つい口を挟んでしまったけれど……。それではっきり気が付いた。
どれだけあなたが他の内人とは比べ物にならないかということを。
そしてハン尚宮様は、あなたの才能をただ一人……私の他には、ただ一人ご存知で。
いいえ、そうじゃないわ。ハン尚宮様のお教えが、あの変わった訓練法が、あの子の才能を芽吹かせたのよ。
ヨンノの言い付かった水汲みは、チャングムが最初に与えられた課題だった。昔一緒に練習している時に、嬉しそうに話してくれたっけ。
ハン尚宮様のお部屋に入るなり言われて、何度もやり直しをさせられたって。他の見習いに聞いてもどうしていいか分からなくて、しょげていたらチョン尚宮様が励まして下さったとか。やっとお望みに適って、いただいたお言葉が嬉しくて、でも母のことを思い出して泣いてしまったら、泣くなと言われて。
あの時は、泣いているあなたが思い浮かんで面白いと思っただけだった。けれどなんでそんなことをさせられるのか不思議だった。もしかしてあの子の落ち着かないところや、時々余計なことをしゃべってしまうのがお気に召さなくて、難題を押し付けておられるのかと思ったりもしたけど、そうでもなかったみたいだったし。
それから後も、チャンイの課題の山菜摘みをさせたり、ヨンセンに言われたような味を描く訓練をしたり。
それは私にも……いろんな訓練を積んできた私にも、分からないことばかりだった。
ということは……。
競い合いに負けてお叱りを受け、あなたはしょんぼりと宮を出た。けれど、きっと何か訳があるに違いない。
再び……あなたを怖れる気持ちが頭をもたげる。
一回は勝ったけれど……。次にあなたと会う時には、もっと別の力を付けて……。
漠然とした不安が徐々に形になり、いないはずのあなたの存在が圧し掛かってくる。
耐え切れない。この苦しい、押しつぶされそうな胸の内を。
もう一度、ナウリに会いに行こう。心の淀みを知っていただくだけで、ほんのひとこといただけるだけで……私は導かれ……あの時のように、きっと救われるはず。
ついでにチャングムの様子も見てこよう。あの子のことだから、そろそろ気を取り直して料理の研究をしているわよね。『何かまた新しいものを見つけた?』って聞いてみたりして。
それにいつかは帰ってくるのでしょうし、ハン尚宮様の感じだと、また競い合いに出させてもらうだろうから。
どんな訓練をお命じになったのか気にもなる。
まだしょんぼりしているなら、ちょっと励ましてあげようかしら。尚宮様もあなたをお待ちのご様子よと、教えてあげよう。
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行くと決めただけで、気持ちが軽くなった。逸る心を抑えて海沿いを進む。頬を撫でる潮風が心地よい。
まずはご挨拶を申し上げて、それから、なんてお伝えしようかしら。
遠方でのお勤めご苦労様です、それから、なにかと不便なことでしょうね、それで
つまらない物ですが正菓を持っ、 ええっと、作って参りました、お口に合えば嬉しい
ですがどうかお召し上がり下さい、それから、その節は色々と思い迷うこともたくさん
ありましたがお励ましをいただいて、それから、お導きを支えに心から打ち込むことが
でき競い合いに勝利を得られました、それから、本当にありがとうございました、今後
とも 懸命にお料理に取り組みたいと、それから、これからもなにとぞ私をお見守り下さい
ませ ……それから、……本当に………それから、………本当に………それから、…
……それから、………それから、………それから、………それから、それから、……
雲岩寺(ウナム寺)に、ナウリはいて…………隣には……チャングム、あなたが。
優しい眼差し。暖かくて愛しさに満ちあふれた……私が一度も見たことのない面立ちだった。あなたは、あの方の瞳に抱き締められていた。
―――そうだったの……
あなたを慰めた方というのは…………
あなたが料理を作り、差し入れた方とは………………
ナウリが励ましてくれた、あの言葉を言った人とは……………………………
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー ざぶり ざぶん ざざっー
寄せては返す波音は、傷つけもしないが慰めもしない。それは空ろな自分に絶え間なく流れるなんの意味もなさない響き。
―――どうして会いに行こうとしたの。どうしてすがろうなどと考えたの。分かって
いたはずじゃないの……ずっとずっと前から。心をお寄せしてはいけないと、
それは許されないと。
ひとりたたずんで、海を見やる。
遠くに見える海は穏やかなのに、浜辺にいる私の心はこんなにも騒(ざわ)めいている。
時々強い波が来て―――どどっどーん―――足元まで打ち寄せ私を阻む。……私はここにいることさえも許されないのか。
部屋に戻って風呂敷包みを投げ出した。
―――料理は人を喜ばせるもの? 料理は人の幸せを願うもの? 料理への情熱?
そんな言葉はうそよ! 建前にしか過ぎないわ! 私の料理など誰も望んで
いない、誰も喜ばすことはできない。いったい誰の笑顔を願えばいいの?
誰に私の思いを差し上げればいいの?
あの方は、私にあの柔らかな微笑を分け与えてはくれないのに。
振り払おうとしても、打ち消そうとしても、あなたとナウリが消えない。
懸命に、そしてとても楽しそうに料理を作る、厨房のあなた。
熱心に、そしてとても楽しそうに小筆を選ぶ、市場のナウリ。
あの日も、今日も、また明日も、二人は眼差しを注ぎ交しているのか。いつまで、いったいいつまでそれが続くのか。
二人が幸せそうに手を取り、私を置き去りにして海の彼方へ消えていく。
波打ち際に浮かぶ木の葉が水面を渡り、岸を離れて向こうまで……たどり着こうとするけれど、揉み寄せる波はそれを許さず。揺蕩(たゆた)い舞い彷徨(さまよ)いながら、やがて徒(あだ)波に飲み込まれる。沈みゆく木の葉のように、私の心も海の中……。
白波返る海は思いの外、その水中は静かだった。吹き荒ぶ風も届かず、物音もほとんどしない。
頬を伝う涙も、誰に見られる心配もない。
ここに居てもいいよと言うかのように、時折ゆらめくうねりが私を優しく抱き包む。
うねりの中小さな泡、大きな泡が、さわさわ、ぷくっ。ゆっくりゆっくりと、立ち昇っていく。
見上げると……紺青の波間から月光が幾筋も射し込み、泡を浮べた天井できらめいている。
手を伸ばすと泡は指にまとわり付き、真珠のように輝いて……。
見蕩れているうち真珠たちは離れ消えゆき、天井もどんどん暗くなる。鼓膜の奥でごうごうと渦が巻き、もがけど、もがけど漆黒の闇へ、冷え凍えながら私の身体は沈んでいった。
そんな夢を見ては、夜中に何度も目が覚めた。
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私の志は、変わっていった。
―――料理なんて……。
お寺から戻ってきたあなたと目が合った。
再び、心が騒めき始める。落ち着かせようと……衿の合わせ目あたりを手で軽く叩いたけれど、胸元のもやもやが治まらない。
どうにか気持ちを抑え、水剌間で並んで下拵えをしていると、あなたが親しげに話しかけてきた。
ハン尚宮様に許してもらえなかったらどうしよう、なんてとぼけたことを言う。
その素振りが、初めて偽善的に思えた。
―――あなたが眼差しを交し合っている間、ずっとあなたをお待ちだったのよ。
どれだけ尚宮様があなたを必要とされているか、あなたを思っておられるか。
どうしてあなたには分からないの!
輝く才能も、努力し続けるひたむきさも備え、素晴らしい師匠も、あなたを慕う友達もいる。
……その上、慰め励ましてくれる方すらも。
―――望んでも望んでも……望むことすら叶わないものを。
あなたは奪っていく。私には何も残さずに。どうしてそんなに無頓着に、何もかも。
―――逃れられないしがらみ
やるせない無力感
凍てつく孤独
何も知らない何も感じないあなたは
無垢の目を私に、真っすぐ向ける
身体の中が沸き立ち、激情がどくどく噴き出し抑えられない。
もう、今までの私じゃない。
―――これが一族の血……なのか。
憎悪、敵意。抱いたことのない感情。
手の戦慄(わななき)に目をやると、拳を痛いほど握り締めていた。
―――あの日あなたは、私が長い間大切にしてきたものを奪った。私の心の支えを、
あなたのものにした。いとも易々と、私に向けるのと変わらない笑顔で。
それなのに、まだ欲しいものがあるわけ?
昔はおぼつかない腕だったのに、今では私に負けない。いや、私よりもずっと先に進んでいる。もう同志ではない、競争相手でもない。目の前に立ちふさがる敵。
―――私の居場所は無くなってしまう。
一族を繁栄させるため、居場所を守るため。どうあってもあの地位を得るしかない。あなたや、あなたのハン尚宮様に、一族の座は譲れない。そんなことはさせない!
―――たとえ料理を手段にしてでも。
--------------------
コメントをかく