最終更新: fan_arrow_1185 2008年07月18日(金) 21:39:11履歴
[15]
もう私は、あの楽しい時を過ごすことはできないのか。
けれどチェ尚宮様のお言葉は、間違いでは無かった。
尚宮様の言うとおりにしておけば……たとえ私にとって、小さなものではなかったとしても。あの時捨て去っていれば今になって、こんなに大きな痛みを感じることはなかっただろう。
あれから二年たち、私たちが十八歳になった時。
私は当たり前のように、尚宮様や内人様たちに混じって御膳を拵え(こしら)ていた。チャングムは相変わらず、料理の実験を繰り返しては尚宮様たちにお叱りを受けていた。
叔母様にはあのように言われたけれど、二人の間は前と変わることもなかった。私もあなたも、同じように料理の研鑽を積んでいた。
誘い合わせたわけでもないのに、夜になると四阿に姿を見つけ、一日のことを話したり。
そんなある日、お食事が進まれない公主様のために、チェ尚宮様と私は特別なお料理を作ることになった。けれど、先代から受け継いだ秘法を凝らしても、口にされようとしない。とうとう王様まで食を断たれるとおっしゃられ、水剌間だけでなく、宮中が大騒ぎになった。
チェ尚宮様から一番熟成した味噌を持ってくるように言われて醤庫に行くと、甕(かめ)の前であれこれ試しては思案しているあなたがいた。みんな大変だというのにまた怒られるようなことを。そう思ったけど、あなたが持っていた炭を見て、ふとひらめいた。
そして誰一人気が付かなかったお米の臭いを消して、無事、お召し上がりいただくことができた。
皆が集められ、どのように工夫したのかと、チョン尚宮様は興味深げに問われた。それは、チャングムを見ていて考え付いたのですと申し上げて、あなたの方を見た。そしたら、よくやったわねというように目が微笑んでいた。私もありがとうって目でお礼を言った。
だからその手柄は、半分はあなたのおかげだったけれど。
でも私は、ちょうどお見えになった明国の使者にお出しする料理膳の手伝いをさせていただけることになった。
そしてチェ尚宮様から、皇帝陛下より賜った錦鶏を任された。
とても貴重な、そして御膳に捧げる錦鶏。しっかり世話をして、餌も充分にやって。
明日になれば、チェ尚宮様と一緒にお料理をして。
あろうことか……それを……逃がしてしまうなんて。
必死で宮中を、ひとり駆けずり回ったけれど。
四阿に夕闇が、じわじわと迫ってくる……。
―――この私が……皆に見習うようにと、チョン尚宮様からお褒めいただいた
程の私が。
するはずのない、こんな恥ずかしい過ち。
チェ尚宮様も外出されていて……どうしよう……。
けれど誰にも…………誰にも、言えない。
錦鶏さえあれば。
そうよ、どんなことをしてでも錦鶏を手に入れなくては。
それだけで頭がいっぱいになって。チェ尚宮様から振舞いに気を付けるようにと言われていたことも、思い出すことができなかった。
とにかく、宮殿を抜け出さなくては。
そしてとにかく伯父様にお願いすれば、なんとかなるんじゃないかって。
こんな夜中、どこから出られるのかすら分からないけれど……一生懸命やれば、とにかくそうすれば。
宮の門の前でまごまごしていたら、いきなり現れ私の手を取り助けてくれたのはあなただった。薄気味悪い道のりも、あなたと一緒でどれほど心強かったことか。
けれども、あなたは約束の時間に戻って来られず……でも私のことは何も言わず……あの時、何をしていたのか話してもくれず……。
独り菜園に送られてしまった。
追放処分を免れさせるために、チョン尚宮様とハン尚宮様が三年間の俸禄を返上されたと聞いたわ。それにはチェ尚宮様も、そこまでしてと驚かれていた。
あなたが水剌間にいなかったその頃は、見習いにとって一番大切な時期だった。
内人に成るための料理試験が間もなく行われる。今までのんびりしていた人も大慌てで練習をしたり、尚宮様の講義にも熱がこもっていた。
そんな中ヨンセンは、自分のことはそっちのけで、あなたのために……。
あの子だけは、あなたが帰ってくるのを本気で信じていた。馬鹿みたいに……それで尚宮様のご指導を、こと細かに書き記していた。私はただその手帳を渡す、それだけしかできなかった。
実は私も、書き付けを作っていたんだけれど。
私もあなたの力になりたかったの。だって、元々は私のせいだからって、必死にチェ尚宮様に申し上げた……。
「事を荒立てはならぬ。それはお前だけの問題ではなく、一族全体に関わる不祥事よ。お前のその、友など思う気持ち、そんなことで我らを危機に晒していいと思っているの!」
そうおっしゃって、何も言い返せなかった。これ以上ご迷惑を……かけられない。
それでも何度かお願いした。けれど、最後にこう言われた。
「お前、あの子のために何か書いてやっているようだが、無駄なことを。あそこから戻った者は、未だかつていないのよ。諦めることを覚えなさい」
そう、ハン尚宮様でさえ諦められたご様子で、あなたを見ないようにされていたというのに。
なのにあなたは菜園で、これまで無理だとされていたキバナオウギの栽培に成功して、水剌間に戻ってきた。
あなたは目の前に立ちふさがるものなどものともせず、自分の力だけで乗り越えてしまった。
本当に、たいした子。
[16]
もうすぐ料理試験の日が来る。
あの子は帰ってきてから一生懸命に勉強していた。でも一緒に勉強する子たちが、あんな迷信に引っ掛かるような人ばかりだから。その前にやるべきことがあるでしょうに。
ハン尚宮様はそれでも教えては下さらないって、あの子はもう諦めたように言っていた。
私も教えてあげたかったのだけど、毎晩のようにチェ尚宮様から最後の特訓を受けていて、四阿に立ち寄ってみる暇さえ無かった。
いよいよ明日という晩に、チェ尚宮様は一本の瓶をお持ちになった。
「これは?」
「焼酎よ。お前が宮に上がった年、記念に兄上が特別に作らせたものなの」
「じゃあ十年も……寝かせたものなのですね?」
「そうよ。私も伯母様の手から。そして内人に成った時も新しく仕込んでもらって、それを尚宮に上がった時に兄上からいただいた。
だからこれは、我ら一族がずっと先を見通して、じっくり次の代を育てていくという意味もあるの。大切に使いなさい」
料理名を当てる課題の時、あなたは問題が解けなくて、出汁には一番向いていない肉しか与えられなかった。そしてどうした訳か、小麦粉まで失くしてしまって。
しかたなくスンチェで饅頭を作ったから、他とはずいぶん見てくれが違った。
それがかえって目を引いたのか、大妃様から直々にお誉めの言葉を賜った。
決められた材料を使っていないのに……。あなたの作った饅頭は『美味だ、元子にも食べさせたい』だなんて、首席でもないくせに王族の目に留まるなんて。そして畏(おそ)れ多くも大妃様に、得意げに皆の知らない野菜の効能を述べ立てて。
私はあの焼酎を使って、肉の臭みを感じさせないように工夫してみたのに。
まだ温かいって言われただけだった。
少し不満だったし、そしてあなたの才能が芽を吹き始めたことを感じさせられたりもした。
でも、もしあなたが落第したら、元はといえば錦鶏の事だったから私にも責任がある。それに……あなたがいないと、張り合う相手がいなくなる。だから宮に残れることになって、ほっとしたのも本当よ。
それに同じ部屋になったから、毎日お料理を教え合ったり、これからは四阿に行かなくてもいっぱいお話しもできる。
……って喜んでいたら。
寝支度を整える私たちの部屋にまで、騒がしい声やどたどたと物音が聞こえ……たと思ったら、ヨンセンが転がり込んできて!
[17]
内人に成って間もなく、私たちは王様の狩りに随行して、昼の御膳の用意にあたった。
ところがチョバン姉さんたちの失敗でハン尚宮様たちが倒れられてしまい、二人だけの力で用意しなくてはならなくなった。
しかも献立に無かった冷麺を、王様直々のご命令だから急遽拵えてくれって言われて。突然のことだったけれど、でも私はできる気がしていた。だってハン尚宮様が、私を信じているとおっしゃったんですもの。
それで二人で、足りない冷麺の出汁をどうしようか相談していたのに、あなたはいきなり『ちょっと出かけてくる!』と、飛び出して行った。
後に残された私は、懸命に麺を打ったり、長官様からお叱りを受けたり。なかなか戻らないあなたにいらいらもして。
戻ったら戻ったでケロッとした顔で、『冷麺の汁には初めて使うの』と聞いた時は胸が潰れそうになった。
後で、その水は遠くから苦労して汲んできたって話してくれたけれど、先にひとこと、どこに何をしにいくか言うべきじゃない?
いろいろあったけれど、なんとか無事に作り上げた。
そして一緒に、召し上がる王族方を見守った。もしお口に合わなければどうしよう。自信はあるけれど、やっぱりどきどきして見つめた。
「美味である。独特だが、このような日には打ってつけである」
お言葉に胸を撫で下ろし、ふとまわりに目をやると、護衛姿も凛々しいナウリが。
―――ご一緒だったのね。あら、こちらに会釈を。
えっ? あなたに!
気になった。いつものナウリとは違う雰囲気を感じたから。
あなたは顔見知り程度だというから、それを信じようとしたのだけれど。
そんなこともあったけれど、しばらくは、あなたと良き仲間として過ごした。そしてそれは、これから先もずっと続くものだと思っていた。
だって一緒に御膳を作ったんですもの。初めての献立でも、私はちゃんとできたわ。そしてあなた以外の誰も、あんな機転は利かないわ。
そうよ、私の技とあなたの突拍子もない工夫が組み合わされば素晴らしいお料理ができる、あなたとならこの水剌間で共に歩んでいける……そんな人に巡り合えたんだって。
それでね、初めての新味祭(シンミジェ)では、あなたが菜園から持ってきたスンチェを使ってみたくて、今からいろいろ考えているの。
それを見たらチャングムはどんな顔をするかなあ。驚くかしら? きっと喜んでくれるでしょうね。
[18]
なのに……退膳間(テソンカン)のお札のことは……おぞましく胸に刻まれている。
才能と努力を兼備えていれば、最高尚宮の座を射止めることができると思っていた。最高尚宮とは、そのような方が就かれるのだと思っていた。そして叔母様も、大叔母様も、その上の叔母様たちも……皆そのような立派な方だと思っていた。
それを真っ向から否定された。
―――では何が違うというの! 努力も工夫もせず、一度の讒言(ざんげん)で
成り上がったような賎しい者共と、私たちの間に。
疑いの心ばかりが私を捉えて離さない。歴代の最高尚宮にも、私にも叔母にも、同じ、穢(けが)らわしい血が流れているというのか。
そうとも知らず、幼い頃から精進させられてきたのか。
そうとも知らず、この一族を誇りに思ってきたのか。
そうとも知らず、叔母を……チェ尚宮様を………。
―――意味があるの? それが誇り? それが私? こんなことを認めたくない。
そんなことはしたくない。
腕を磨き、チェ尚宮様のように高い評価を受け、だから最高尚宮にも成れて、一族も繁栄する。それが一族に尽くすことだと思ってきた。そう思ったからこそ自分に言い聞かせ、この手この心この身体、私の全てを捧げてきた。なのに……。
何もかもが嫌。
悩み、考えれば考えるほど、身体中がきしんだ。
でも、そうするより他にどんな道があったというの?
私を案じてくれるあなたすら、鬱陶しかった。
―――私はあなたとは違う。私だけの私じゃないの! あなたには両親もいないし、
何だって自分の好きにできるじゃない。
でももしハン尚宮様のお言い付けだったら、それでもあなたは、しないって
言える?
やらなければ……一族には居られなくなる。きっと、叔母様のお側にも居られなくなる……。
「こんな宿命は、私が終わらせます」
精一杯そう言って、お札を受け取った。
私の思いを分かってくれない叔母様……恨めしくて、そして悲しい。
なんとか無事にお札を隠せたと思ったのに。
退膳間で何をしていたのか分からないけど、よりによってあなたが濡れ衣を着せられるなんて。
ヨンセンが余計なことを言って、私も蔵に連れて行かれた。
蔵の中。
―――先代たちの手は醜く染まっていたのだ。そして私の手もまた、同じ……。
同じ場所で同じ時間、弱りきったあなたと過ごす。話すことなんて何も無い。
ただ、あなたの隣にいた。
―――こんなに近くにいるのに、あなたを遠くに感じてしまう。
私がいるのに気が付いて、あなたは聞いてきた。
「クミョン……あなたなの……?」
あんなに心配してくれたのに。錦鶏の時だって、懸命に力になろうとしてくれたのに。
他の誰に知られようともあなたにだけは、恥ずかしい私を見せたくない。本当のことを知られるぐらいなら、いっそ嫌われてしまったほうがいい。
「いいえ。やっていないわ。あなたでしょ」
こんな、見え透いたことを言うしかなかった。
それを聞いたあなたの顔が微かに歪み……憎しみ……いいえ、私に注がれたのは哀れみ。今まで、あなたが見せたことのないような悲しい眼差しだった。その瞬間から、あなたと向き合えなくなった。ましてや、あなたと力を合わせるなんて……もうそんな資格は、私には無い。
―――そうよ、あなたと今までのように関わり合うことはできないのよ。
あのハン尚宮様が最高尚宮様の言い付けを守られず、蔵に立ち入ってあなたに匙(さじ)で水をお与えになっていた。あなたは誰にも、何も話さなかった。お仕えし……支えだと言っていたハン尚宮様にさえ、何も。それなのに尚宮様はあなたを信じていらっしゃった。
後でチャンイが、尚宮様に背負われて部屋まで戻ったって、話しているのを聞いた。
あなたの側にはあなたの全てを受け入れ、守り、愛してくれる人がいる。
私には……務めを果たせないような私を、チェ尚宮様は受け止めては下さらなかった。
あれから何度か四阿に行った。
あなたがここに座って、星空を見上げているのは知っていたけど……。そっと見守りながら、月の明かりを浴びた。
あの時……私が苦しんでいた時、本当に心配してくれたわね。
なのにあんなことを言ってしまって……前のように接することなど……けれど……話しかけてみたら? そしたら今でもあなたは、微笑んでくれる?
やっぱり……できない。
月は端から欠け始め、半分になり細くなり。また次第に丸く満ち、また再び欠けていく。
―――あなたは何を考えているの? 少しは私のことを思い出してくれているの……。
どれだけ同じ月を眺めても、あなたに寄り添うことは二度と無かった。
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もう私は、あの楽しい時を過ごすことはできないのか。
けれどチェ尚宮様のお言葉は、間違いでは無かった。
尚宮様の言うとおりにしておけば……たとえ私にとって、小さなものではなかったとしても。あの時捨て去っていれば今になって、こんなに大きな痛みを感じることはなかっただろう。
あれから二年たち、私たちが十八歳になった時。
私は当たり前のように、尚宮様や内人様たちに混じって御膳を拵え(こしら)ていた。チャングムは相変わらず、料理の実験を繰り返しては尚宮様たちにお叱りを受けていた。
叔母様にはあのように言われたけれど、二人の間は前と変わることもなかった。私もあなたも、同じように料理の研鑽を積んでいた。
誘い合わせたわけでもないのに、夜になると四阿に姿を見つけ、一日のことを話したり。
そんなある日、お食事が進まれない公主様のために、チェ尚宮様と私は特別なお料理を作ることになった。けれど、先代から受け継いだ秘法を凝らしても、口にされようとしない。とうとう王様まで食を断たれるとおっしゃられ、水剌間だけでなく、宮中が大騒ぎになった。
チェ尚宮様から一番熟成した味噌を持ってくるように言われて醤庫に行くと、甕(かめ)の前であれこれ試しては思案しているあなたがいた。みんな大変だというのにまた怒られるようなことを。そう思ったけど、あなたが持っていた炭を見て、ふとひらめいた。
そして誰一人気が付かなかったお米の臭いを消して、無事、お召し上がりいただくことができた。
皆が集められ、どのように工夫したのかと、チョン尚宮様は興味深げに問われた。それは、チャングムを見ていて考え付いたのですと申し上げて、あなたの方を見た。そしたら、よくやったわねというように目が微笑んでいた。私もありがとうって目でお礼を言った。
だからその手柄は、半分はあなたのおかげだったけれど。
でも私は、ちょうどお見えになった明国の使者にお出しする料理膳の手伝いをさせていただけることになった。
そしてチェ尚宮様から、皇帝陛下より賜った錦鶏を任された。
とても貴重な、そして御膳に捧げる錦鶏。しっかり世話をして、餌も充分にやって。
明日になれば、チェ尚宮様と一緒にお料理をして。
あろうことか……それを……逃がしてしまうなんて。
必死で宮中を、ひとり駆けずり回ったけれど。
四阿に夕闇が、じわじわと迫ってくる……。
―――この私が……皆に見習うようにと、チョン尚宮様からお褒めいただいた
程の私が。
するはずのない、こんな恥ずかしい過ち。
チェ尚宮様も外出されていて……どうしよう……。
けれど誰にも…………誰にも、言えない。
錦鶏さえあれば。
そうよ、どんなことをしてでも錦鶏を手に入れなくては。
それだけで頭がいっぱいになって。チェ尚宮様から振舞いに気を付けるようにと言われていたことも、思い出すことができなかった。
とにかく、宮殿を抜け出さなくては。
そしてとにかく伯父様にお願いすれば、なんとかなるんじゃないかって。
こんな夜中、どこから出られるのかすら分からないけれど……一生懸命やれば、とにかくそうすれば。
宮の門の前でまごまごしていたら、いきなり現れ私の手を取り助けてくれたのはあなただった。薄気味悪い道のりも、あなたと一緒でどれほど心強かったことか。
けれども、あなたは約束の時間に戻って来られず……でも私のことは何も言わず……あの時、何をしていたのか話してもくれず……。
独り菜園に送られてしまった。
追放処分を免れさせるために、チョン尚宮様とハン尚宮様が三年間の俸禄を返上されたと聞いたわ。それにはチェ尚宮様も、そこまでしてと驚かれていた。
あなたが水剌間にいなかったその頃は、見習いにとって一番大切な時期だった。
内人に成るための料理試験が間もなく行われる。今までのんびりしていた人も大慌てで練習をしたり、尚宮様の講義にも熱がこもっていた。
そんな中ヨンセンは、自分のことはそっちのけで、あなたのために……。
あの子だけは、あなたが帰ってくるのを本気で信じていた。馬鹿みたいに……それで尚宮様のご指導を、こと細かに書き記していた。私はただその手帳を渡す、それだけしかできなかった。
実は私も、書き付けを作っていたんだけれど。
私もあなたの力になりたかったの。だって、元々は私のせいだからって、必死にチェ尚宮様に申し上げた……。
「事を荒立てはならぬ。それはお前だけの問題ではなく、一族全体に関わる不祥事よ。お前のその、友など思う気持ち、そんなことで我らを危機に晒していいと思っているの!」
そうおっしゃって、何も言い返せなかった。これ以上ご迷惑を……かけられない。
それでも何度かお願いした。けれど、最後にこう言われた。
「お前、あの子のために何か書いてやっているようだが、無駄なことを。あそこから戻った者は、未だかつていないのよ。諦めることを覚えなさい」
そう、ハン尚宮様でさえ諦められたご様子で、あなたを見ないようにされていたというのに。
なのにあなたは菜園で、これまで無理だとされていたキバナオウギの栽培に成功して、水剌間に戻ってきた。
あなたは目の前に立ちふさがるものなどものともせず、自分の力だけで乗り越えてしまった。
本当に、たいした子。
[16]
もうすぐ料理試験の日が来る。
あの子は帰ってきてから一生懸命に勉強していた。でも一緒に勉強する子たちが、あんな迷信に引っ掛かるような人ばかりだから。その前にやるべきことがあるでしょうに。
ハン尚宮様はそれでも教えては下さらないって、あの子はもう諦めたように言っていた。
私も教えてあげたかったのだけど、毎晩のようにチェ尚宮様から最後の特訓を受けていて、四阿に立ち寄ってみる暇さえ無かった。
いよいよ明日という晩に、チェ尚宮様は一本の瓶をお持ちになった。
「これは?」
「焼酎よ。お前が宮に上がった年、記念に兄上が特別に作らせたものなの」
「じゃあ十年も……寝かせたものなのですね?」
「そうよ。私も伯母様の手から。そして内人に成った時も新しく仕込んでもらって、それを尚宮に上がった時に兄上からいただいた。
だからこれは、我ら一族がずっと先を見通して、じっくり次の代を育てていくという意味もあるの。大切に使いなさい」
料理名を当てる課題の時、あなたは問題が解けなくて、出汁には一番向いていない肉しか与えられなかった。そしてどうした訳か、小麦粉まで失くしてしまって。
しかたなくスンチェで饅頭を作ったから、他とはずいぶん見てくれが違った。
それがかえって目を引いたのか、大妃様から直々にお誉めの言葉を賜った。
決められた材料を使っていないのに……。あなたの作った饅頭は『美味だ、元子にも食べさせたい』だなんて、首席でもないくせに王族の目に留まるなんて。そして畏(おそ)れ多くも大妃様に、得意げに皆の知らない野菜の効能を述べ立てて。
私はあの焼酎を使って、肉の臭みを感じさせないように工夫してみたのに。
まだ温かいって言われただけだった。
少し不満だったし、そしてあなたの才能が芽を吹き始めたことを感じさせられたりもした。
でも、もしあなたが落第したら、元はといえば錦鶏の事だったから私にも責任がある。それに……あなたがいないと、張り合う相手がいなくなる。だから宮に残れることになって、ほっとしたのも本当よ。
それに同じ部屋になったから、毎日お料理を教え合ったり、これからは四阿に行かなくてもいっぱいお話しもできる。
……って喜んでいたら。
寝支度を整える私たちの部屋にまで、騒がしい声やどたどたと物音が聞こえ……たと思ったら、ヨンセンが転がり込んできて!
[17]
内人に成って間もなく、私たちは王様の狩りに随行して、昼の御膳の用意にあたった。
ところがチョバン姉さんたちの失敗でハン尚宮様たちが倒れられてしまい、二人だけの力で用意しなくてはならなくなった。
しかも献立に無かった冷麺を、王様直々のご命令だから急遽拵えてくれって言われて。突然のことだったけれど、でも私はできる気がしていた。だってハン尚宮様が、私を信じているとおっしゃったんですもの。
それで二人で、足りない冷麺の出汁をどうしようか相談していたのに、あなたはいきなり『ちょっと出かけてくる!』と、飛び出して行った。
後に残された私は、懸命に麺を打ったり、長官様からお叱りを受けたり。なかなか戻らないあなたにいらいらもして。
戻ったら戻ったでケロッとした顔で、『冷麺の汁には初めて使うの』と聞いた時は胸が潰れそうになった。
後で、その水は遠くから苦労して汲んできたって話してくれたけれど、先にひとこと、どこに何をしにいくか言うべきじゃない?
いろいろあったけれど、なんとか無事に作り上げた。
そして一緒に、召し上がる王族方を見守った。もしお口に合わなければどうしよう。自信はあるけれど、やっぱりどきどきして見つめた。
「美味である。独特だが、このような日には打ってつけである」
お言葉に胸を撫で下ろし、ふとまわりに目をやると、護衛姿も凛々しいナウリが。
―――ご一緒だったのね。あら、こちらに会釈を。
えっ? あなたに!
気になった。いつものナウリとは違う雰囲気を感じたから。
あなたは顔見知り程度だというから、それを信じようとしたのだけれど。
そんなこともあったけれど、しばらくは、あなたと良き仲間として過ごした。そしてそれは、これから先もずっと続くものだと思っていた。
だって一緒に御膳を作ったんですもの。初めての献立でも、私はちゃんとできたわ。そしてあなた以外の誰も、あんな機転は利かないわ。
そうよ、私の技とあなたの突拍子もない工夫が組み合わされば素晴らしいお料理ができる、あなたとならこの水剌間で共に歩んでいける……そんな人に巡り合えたんだって。
それでね、初めての新味祭(シンミジェ)では、あなたが菜園から持ってきたスンチェを使ってみたくて、今からいろいろ考えているの。
それを見たらチャングムはどんな顔をするかなあ。驚くかしら? きっと喜んでくれるでしょうね。
[18]
なのに……退膳間(テソンカン)のお札のことは……おぞましく胸に刻まれている。
才能と努力を兼備えていれば、最高尚宮の座を射止めることができると思っていた。最高尚宮とは、そのような方が就かれるのだと思っていた。そして叔母様も、大叔母様も、その上の叔母様たちも……皆そのような立派な方だと思っていた。
それを真っ向から否定された。
―――では何が違うというの! 努力も工夫もせず、一度の讒言(ざんげん)で
成り上がったような賎しい者共と、私たちの間に。
疑いの心ばかりが私を捉えて離さない。歴代の最高尚宮にも、私にも叔母にも、同じ、穢(けが)らわしい血が流れているというのか。
そうとも知らず、幼い頃から精進させられてきたのか。
そうとも知らず、この一族を誇りに思ってきたのか。
そうとも知らず、叔母を……チェ尚宮様を………。
―――意味があるの? それが誇り? それが私? こんなことを認めたくない。
そんなことはしたくない。
腕を磨き、チェ尚宮様のように高い評価を受け、だから最高尚宮にも成れて、一族も繁栄する。それが一族に尽くすことだと思ってきた。そう思ったからこそ自分に言い聞かせ、この手この心この身体、私の全てを捧げてきた。なのに……。
何もかもが嫌。
悩み、考えれば考えるほど、身体中がきしんだ。
でも、そうするより他にどんな道があったというの?
私を案じてくれるあなたすら、鬱陶しかった。
―――私はあなたとは違う。私だけの私じゃないの! あなたには両親もいないし、
何だって自分の好きにできるじゃない。
でももしハン尚宮様のお言い付けだったら、それでもあなたは、しないって
言える?
やらなければ……一族には居られなくなる。きっと、叔母様のお側にも居られなくなる……。
「こんな宿命は、私が終わらせます」
精一杯そう言って、お札を受け取った。
私の思いを分かってくれない叔母様……恨めしくて、そして悲しい。
なんとか無事にお札を隠せたと思ったのに。
退膳間で何をしていたのか分からないけど、よりによってあなたが濡れ衣を着せられるなんて。
ヨンセンが余計なことを言って、私も蔵に連れて行かれた。
蔵の中。
―――先代たちの手は醜く染まっていたのだ。そして私の手もまた、同じ……。
同じ場所で同じ時間、弱りきったあなたと過ごす。話すことなんて何も無い。
ただ、あなたの隣にいた。
―――こんなに近くにいるのに、あなたを遠くに感じてしまう。
私がいるのに気が付いて、あなたは聞いてきた。
「クミョン……あなたなの……?」
あんなに心配してくれたのに。錦鶏の時だって、懸命に力になろうとしてくれたのに。
他の誰に知られようともあなたにだけは、恥ずかしい私を見せたくない。本当のことを知られるぐらいなら、いっそ嫌われてしまったほうがいい。
「いいえ。やっていないわ。あなたでしょ」
こんな、見え透いたことを言うしかなかった。
それを聞いたあなたの顔が微かに歪み……憎しみ……いいえ、私に注がれたのは哀れみ。今まで、あなたが見せたことのないような悲しい眼差しだった。その瞬間から、あなたと向き合えなくなった。ましてや、あなたと力を合わせるなんて……もうそんな資格は、私には無い。
―――そうよ、あなたと今までのように関わり合うことはできないのよ。
あのハン尚宮様が最高尚宮様の言い付けを守られず、蔵に立ち入ってあなたに匙(さじ)で水をお与えになっていた。あなたは誰にも、何も話さなかった。お仕えし……支えだと言っていたハン尚宮様にさえ、何も。それなのに尚宮様はあなたを信じていらっしゃった。
後でチャンイが、尚宮様に背負われて部屋まで戻ったって、話しているのを聞いた。
あなたの側にはあなたの全てを受け入れ、守り、愛してくれる人がいる。
私には……務めを果たせないような私を、チェ尚宮様は受け止めては下さらなかった。
あれから何度か四阿に行った。
あなたがここに座って、星空を見上げているのは知っていたけど……。そっと見守りながら、月の明かりを浴びた。
あの時……私が苦しんでいた時、本当に心配してくれたわね。
なのにあんなことを言ってしまって……前のように接することなど……けれど……話しかけてみたら? そしたら今でもあなたは、微笑んでくれる?
やっぱり……できない。
月は端から欠け始め、半分になり細くなり。また次第に丸く満ち、また再び欠けていく。
―――あなたは何を考えているの? 少しは私のことを思い出してくれているの……。
どれだけ同じ月を眺めても、あなたに寄り添うことは二度と無かった。
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