【定義】
永平寺5世として晋住した僧であり、永平寺の中興と称された。
生没年:建長5年(1253)〜正慶2年(1333)
出身地:京都
【略歴】
京都の公卿の家に生まれた(古くは、中国出身の人であるといういいかたがされ、最近では宝慶寺の檀那である伊自良氏の出身とも推定されている)義雲禅師は、始め京都の教宗寺院にて出家し、華厳・法華の疏を通して、教学を学んだ。24歳の時に、禅宗に転じて、越前大野の宝慶寺に寂円禅師を訪ねた。
寂円禅師の左右に侍して、20年にしてようやくその堂奥の玄旨を了得し、嗣法した。正安元年(1299)寂円禅師が遷化すると、その遺言にしたがって、宝慶寺に2世として入った。そして、永平寺4世であった義演禅師が遷化すると、大檀那の波多野氏は義雲禅師を請したため、62歳の時に5世として晋住した。
当時の永平寺は荒廃が進んでいたとされており、義雲禅師は宝慶寺から什物を持ち出して永平寺の伽藍復興に努め、住持としての10年余りの活動によって中興と称されている。現在の永平寺には、「五代杉」と呼ばれる樹齢700年の杉の木があるけれども、それは義雲禅師が植えたと伝える。
正慶2年には法嗣である曇希禅師に永平寺の後席を譲り、その年に遷化した。世寿81歳、法臘61歳。遺偈は次のようなものであった。
【主な著作】
若い時分から『正法眼蔵』の参究を行っていた義雲禅師は、その集大成として、嘉暦4年(1329)から、60巻本『正法眼蔵』に頌と著語を付した『正法眼蔵品目頌』を著した(後述の通り『義雲和尚語録』に収録)。
また、侍者の円宗や空寂が編集した『義雲和尚語録』(一巻)が伝わっている。同著は、檀越の藤原朝冬の発願により、曇希禅師が延文2年(1357)に刊行している。宝慶寺・永平寺の上堂・小参・法語・仏祖賛・小仏事・偈頌などが収録されている。また、宝慶寺30世の龍堂即門は曇希禅師刊行の同語録に、更に宝慶寺室中から見出した永平寺語録・小参、そして賛や偈頌、そして『品目頌』などを合わせて拾遺一巻となして正徳5年(1715)に刊行している。また、拈則集である『永平秘密頂王三昧記』を著したともされる。
永平寺5世として晋住した僧であり、永平寺の中興と称された。
生没年:建長5年(1253)〜正慶2年(1333)
出身地:京都
【略歴】
京都の公卿の家に生まれた(古くは、中国出身の人であるといういいかたがされ、最近では宝慶寺の檀那である伊自良氏の出身とも推定されている)義雲禅師は、始め京都の教宗寺院にて出家し、華厳・法華の疏を通して、教学を学んだ。24歳の時に、禅宗に転じて、越前大野の宝慶寺に寂円禅師を訪ねた。
寂円禅師の左右に侍して、20年にしてようやくその堂奥の玄旨を了得し、嗣法した。正安元年(1299)寂円禅師が遷化すると、その遺言にしたがって、宝慶寺に2世として入った。そして、永平寺4世であった義演禅師が遷化すると、大檀那の波多野氏は義雲禅師を請したため、62歳の時に5世として晋住した。
当時の永平寺は荒廃が進んでいたとされており、義雲禅師は宝慶寺から什物を持ち出して永平寺の伽藍復興に努め、住持としての10年余りの活動によって中興と称されている。現在の永平寺には、「五代杉」と呼ばれる樹齢700年の杉の木があるけれども、それは義雲禅師が植えたと伝える。
正慶2年には法嗣である曇希禅師に永平寺の後席を譲り、その年に遷化した。世寿81歳、法臘61歳。遺偈は次のようなものであった。
教を毀り禅を謗ず、八十一年。天崩れ地裂く、火裏の泉に没す。 『義雲和尚語録』
【主な著作】
若い時分から『正法眼蔵』の参究を行っていた義雲禅師は、その集大成として、嘉暦4年(1329)から、60巻本『正法眼蔵』に頌と著語を付した『正法眼蔵品目頌』を著した(後述の通り『義雲和尚語録』に収録)。
また、侍者の円宗や空寂が編集した『義雲和尚語録』(一巻)が伝わっている。同著は、檀越の藤原朝冬の発願により、曇希禅師が延文2年(1357)に刊行している。宝慶寺・永平寺の上堂・小参・法語・仏祖賛・小仏事・偈頌などが収録されている。また、宝慶寺30世の龍堂即門は曇希禅師刊行の同語録に、更に宝慶寺室中から見出した永平寺語録・小参、そして賛や偈頌、そして『品目頌』などを合わせて拾遺一巻となして正徳5年(1715)に刊行している。また、拈則集である『永平秘密頂王三昧記』を著したともされる。
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