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タグ検索で宝慶寺は7件見つかりました。
瑩山
]禅師の兄弟弟子に当たる、越前大野の[[宝慶寺]]に住していた[[寂円]]禅師を訪ね、19歳の時の夏には[[維那]]という修行僧を監督する役目を頂戴し、また[[菩提心]]を発して不退転位に至った。 しかし、秋には辞して、次いで京都に上ると、臨済宗聖一派の東山湛照や白雲慧暁などから密教禅の系統を学んだとされ、比叡山では天台教学に接し、20歳の秋には紀伊国由良の興国寺にいた無本覚心を訪ねたともされる。この無本覚心も密教禅である。なお、近年ではこの密教禅の瑩山禅師への影響については、限定的だったという見解もあ…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e0%f2%bb%b3... - 2008年02月27日更新
宝慶寺由緒記
]]13世(本書では12世と自称)・[[宝慶寺]]14世である[[建綱]][[禅師]]が編集したとされる、越前大野にある薦福山[[宝慶寺]]の[[開山]]由来記のこと。全1巻。『[[宝慶由緒記]]』とも。 &color(blue){''【内容】''} 本書は長らく写本にて伝わったが、『[[曹洞宗古文書]](下)』や、『[[曹洞宗全書]]』「[[寺誌]]」巻に収められるなどして、世に広まった。宝慶寺開山である[[寂円]]禅師、同寺二世・[[義雲]]禅師の伝記や、宝慶寺開山の由来などを示し、並びに、義雲禅…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%f5%b7%c4%bb... - 2010年11月01日更新
義雲
であるといういいかたがされ、最近では[[宝慶寺]]の[[檀那]]である伊自良氏の出身とも推定されている)義雲[[禅師]]は、始め京都の教宗寺院にて[[出家]]し、華厳・法華の疏を通して、教学を学んだ。24歳の時に、[[禅宗]]に転じて、越前大野の[[宝慶寺]]に[[寂円]][[禅師]]を訪ねた。 寂円禅師の左右に侍して、20年にしてようやくその[[堂奥]]の[[玄旨]]を了得し、[[嗣法]]した。正安元年(1299)寂円禅師が[[遷化]]すると、その遺言にしたがって、宝慶寺に2世として入った。そして、永…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c1%b1%c0... - 2008年08月05日更新
寂円派
宗の系譜]]」の一系統。福井県大野に[[宝慶寺]]を開いた[[寂円]][[禅師]]を派祖とする。派としての特徴は、寂円禅師の[[法嗣]]で宝慶寺二世であった[[義雲]]禅師が、[[大本山]][[永平寺]]の五世として入って以来、三十七世[[石牛]]天梁禅師に到るまで、永平寺の住持職を一派で担ったことが挙げられる。現在でも、永平寺・宝慶寺がある福井県及びその周辺の県に同法系が多い。また、永平寺十九世・[[祚玖]]禅師の法系が伊豆・[[修禅寺]]に住したこともあり、その地にも教線が拡大した。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%e4%b1%df%c7... - 2012年08月09日更新
宝慶記
をする許可を得たのであるが、その経緯が「宝慶寺本」等に記載されている。 ''道元、幼年より菩提心を発し、本国(=日本)に在りて道を諸師に訪ひて、聊か因果の所由を識れり。然も是の如くなりと雖も、未だ仏法僧の実帰を明らめず、徒に名相の懐幖に滞ほれり。後に千光禅師(=栄西のこと)の室に入りて、初めて臨済の[[宗風]]を聞く。今、全法師(=明全のこと)に随うて炎宋(=宋は火徳のため、「炎宋」と讃える)に入る。航海万里、幻身を波涛に任せて、遂に大宋に達し、[[和尚]]の[[法席]]に投ずることを得…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%f5%b7%c4%b5... - 2008年01月07日更新
寂円
師の[[法嗣]]となる。越前国大野に[[宝慶寺]]を開いた。寂円禅師の系統は[[寂円派]]と呼ばれ、同系統は後々まで[[永平寺]]の[[住持]]を務めることになる。 生没年:開禧3年(中国の元号・1207)〜正安元年(1299) 出身地:中国・洛陽人 俗 姓:不明 &color(blue){''【略歴】''} 中国天童山の如浄禅師の下で[[修行]]しているときに、日本から来た[[道元]]禅師に出逢って、その[[道心]]篤いことに感動する。そこで、如浄禅師が亡くなると、日本に来て[[道元]]禅師の弟子…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%e4%b1%df... - 2008年05月04日更新
建綱
(blue){''【略歴】''} [[宝慶寺]]慧林の後を継いで同寺14世として住した建綱禅師は、後に[[永平寺]]12世の了鑑禅師の[[法嗣]]となって康正3年(1457)に45歳(一説には56歳とも)で[[永平寺]]13世として出世した。応仁2年には、[[法嗣]]である[[建撕]]に寺を譲り、文明元年11月26日に世寿57歳で遷化した。 建綱は、[[永平寺]]に住していた頃に、『宝慶寺由緒記』をまとめ、[[宝慶寺]]成立の状況などを後世に伝えている。記録が少ない[[寂円]]禅師の行状も同著から知ら…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b7%fa%b9%cb... - 2006年10月13日更新