真暦405年、"相続人クレロノモス"の中で"遺産戦争ポレモス・クリロノミアス"開始すぐに標的となったのはプラクシテレスであった。
 プラクシテレスは隣接するストリュポンと対立し、ストリュポンと結託したジャーヴィードに攻撃を受けた。ジャーヴィードは巧みな指揮によりプラクシテレス軍を撃破すると、ゴンディノ・ウェロス地方の各地を制圧していった。
 西方でのストリュポン派の伸長を坐視できないリュサンドロスは傭兵隊長ゼノンを派遣してストリュポン勢に圧迫を加えようと図った。しかし、ゼノンは強かに情勢を勘案しており、現状は自らの勢力圏構築に利用できると謀を巡らせた。ゼノンは傭兵団を率いてストリュポンと交渉し、プラクシテレス領への進出を認めさせた。それは同時にゼノンとストリュポンの互いに背後を守る協同態勢、リュサンドロスからの離反を示していた。



 ゼノンとジャーヴィードは共にプラクシテレス領の制圧を進めた。プラクシテレスはゼノンとの戦いで戦死し、ホルシード北西部は事実上ストリュポン派の圏内に入った。
 更にストリュポンはアルティオケアのクテシッポスに同盟を打診した。シラエアのドリエウスへの抑えの為である。クテシッポスとしても南のドリエウスと対抗状態にあり、ストリュポンとの同盟はありがたい申し出であった。
 ドリエウスはリュサンドロスと同盟まではいかないものの友好・協調関係を構築し、フォカニアなど西方への影響を強めたいミスルのヘルミアスとは不可侵条約に結んだ。

 対してリュサンドロスも指を咥えて見ていた訳ではない。先のドリエウスとの協調関係もだが、メナディのクレアンドリダス、ベビュラのオノマルコスとは同盟を組み、東方のオロデスや南のカリステネスとは不可侵条約を結んで、着々と周囲を固めていった。
 この折、特に活躍したのがリュサンドロスの妻アンティゴネであった。リュサンドロスの二番目の妻となったアンティゴネはゼスメルで王家に次ぐ名門貴族の生まれで、活動的で気丈、女だてらに策士で野心家という女傑であった。リュサンドロスがメネラオスの後継者としての自意識を強く持つようになったのには彼女の指嗾も関わっていた。

 これらの事態からも分かるように、"遺産戦争ポレモス・クリロノミアス“の第一段階はストリュポン派とリュサンドロス派の戦いという図式で推移していく。
 総執権ヘゲモンリュサンドロスはメネラオスの血縁であることやロスタム家門を押さえているなど権威の継承的な面を強調し、大将軍キリアルケスストリュポンは征服者・将軍としての強さを根拠として諸勢力を陣営に引き込んでいった。
 だからこそ、名実共に頂点であったメネラオスの後を襲って大指導者アウトクラトールと名乗ることはどちらもまだなかった。

 ◆ ◆ ◆

 遺産戦争ポレモス・クリロノミアスが始まり各地で戦闘が発生していても、後々に比べて戦いは当初小規模といえた。"相続人クレロノモス"は国力増強、支配地の掌握と内政に専念していたからだ。彼らは勝手にバラバ王国の領土を切り分けたに過ぎない。特にトラバス系の"相続人クレロノモス"は東征からさえもまだ十年すら経っていない、全くの余所者なのだ。その点でいえば、トランクィルス海域でのトラバス諸国の戦争の方が激しかっただろう。
 数年も経つ頃には徐々に力が増し、より大規模な戦いへの機運が高まっていった。

 真暦408年、ストリュポンの指示でジャーヴィード軍がメナディに侵攻した。
 メナディ地方の主クレアンドリダスはリュサンドロス派として敵対しているという事情だけでなく、予てからストリュポンと不仲であった。メネラオスの親衛部隊を自認するクレアンドリダスは東征軍第二位として幅を利かせようとするストリュポンに強く反発していた。遺産戦争ポレモス・クリロノミアスの勃発以来、積極的な攻撃姿勢を示すクレアンドリダスに先手を打って手鼻を挫こうというのであった。
 結果から言えば、このメナディ侵攻は失敗に終わる。ジャーヴィードは狙うべき要所を絞って行軍し、都市を落とすよりもクレアンドリダスの国力に打撃を与えることを目的とした。対するクレアンドリダスは騎兵隊を中心に快速の機動部隊を率いて強引にジャーヴィード軍に追い付いて強襲した。しかして、ジャーヴィードは激戦の末に後退し、クレアンドリダスは激しい追撃を仕掛け続けた。戦巧者のジャーヴィードは敵の猛攻を捌いてはいたものの、その損害は小さなものでは済まなかった。

 翌、真歴409年、優勢を確固とせんとリュサンドロスは軍勢を集め自ら出陣した。オノマルコスにも出兵させ、クレアンドリダス軍とも合流したリュサンドロス派軍4万8千がストリュポン領要地の一つセパ―ハーンへ向かって進軍した。協調体制にあるドリエウスにも南からストリュポン派に圧力を加えるよう要請が為された。
 ストリュポンも自ら軍勢を率いて迎撃に向かった。こちらもジャーヴィード・ゼノンといった同盟諸軍と合流しているが、元より相手方はペルシス中枢部を抑えている上に、ゼノンは旧プラクシテレス領平定に兵を割かねばならないと言い、ジャーヴィードはメナディ侵攻の損害があることから、兵力ではリュサンドロス派に劣る4万2千である。
 両軍は地方街レアンマナ近郊で衝突した。
 リュサンドロス派軍・ストリュポン派軍共に各相続人クレロノモスが中央・左翼・右翼を担当する様に布陣し、共通してトラバス重装歩兵を主軸に据えていた。特に全軍の中央にはゼスメル人の重装歩兵団が展開した。
 騎兵総隊長エピヒッパルコスクレアンドリダスは得意の騎兵攻撃を有効に使うべく片翼に騎兵を集中していた。また、ストリュポンは味方の相続人クレロノモスを必ずしも信用してはおらず、特に寝返った実績のあるゼノンの裏切りを警戒して自軍の騎兵部隊を最左翼に配置していた。



 兵力でやや上回るリュサンドロス軍に対し流石は東征軍第一位の将帥ストリュポンが敢然と対抗し、中央では互角の戦いが展開された。
 しかし、両翼では異なる様相を見せた。ゼノンの傭兵軍は数でも劣るオノマルコス軍に優勢を占め、反対にジャーヴィード軍はクレアンドリダス軍に押し込まれ劣勢にあった。
 ジャーヴィード軍の半数が耐え切れずに崩れ、クレアンドリダス軍がストリュポン派軍を側面から攻め立てた。ストリュポンはジャーヴィード軍を援護するべく、予備のホルシード歩兵・最左翼の騎兵を右翼に援軍として回した。だが勢いに乗るクレアンドリダス軍を抑え込むには不足だった。
 更に戦況を見たリュサンドロスは自軍予備の1万人に及ぶホルシード歩兵をオノマルコスの支援に投入した。ゼノンが強引な攻勢を嫌ったこともあり、こちらの方面は膠着した。
 総合して、戦況はストリュポン軍の劣勢に傾きつつあった。勇将クレアンドリダスはこのまま敵翼を粉砕して勝敗を決定づけようとし、味方との連携を無視して前進攻撃を続けた。
 その時、突如戦場に新たな兵が現れた。その軍勢は到着すると、そのままクレアンドリダス軍を背後から強襲した。彼らはジャーヴィードの伏兵であった。ジャーヴィードは先のメナディ侵攻失敗を利用し負傷兵に扮して軍勢の一部を後方に留め置き、密かに動かしていたのだ。別動隊を用意していることを悟られない為に、敢えてこれまでの戦いでは弱体な兵で本気で戦った上で本当に敗走させていた。
 ジャーヴィード軍別動隊の攻撃でクレアンドリダス軍は逆に包囲される形になった。勝利しかけていると思っていたところでの逆転は兵の士気を容易に崩す。クレアンドリダス軍は敗走に転じた。
 クレアンドリダス軍の敗走でリュサンドロス軍左翼はがら空きとなっている。ストリュポンは全軍に攻勢を命じた。
 ストリュポン軍に正面から、クレアンドリダス軍を撃破したジャーヴィード軍に側面から猛攻を受け、中央のリュサンドロス軍は遂には崩れた。敗走の中、リュサンドロスは懸命に軍勢の立て直しを図るが敢え無く戦死ししてしまう。残ったオノマルコス軍もゼノン軍の攻勢を受けて敗走、オノマルコスも戦死した。

 レアンマナで想定以上の大勝利を手にしたストリュポンはそのまま軍を進め、ホルシード中枢部へ入った。クレアンドリダスはメナディへ逃げ、リュサンドロス軍やオノマルコス軍の残党は統率を失っており、ストリュポンの足を阻む者は無かった。
 その様な状況の中、亡きリュサンドロスの妃アンティゴネはリュサンドロス勢残党を巧みに説得してまとめ上げると、それを手土産に素早くストリュポンに接近した。リュサンドロスとの間に出来ていた娘エウポリアをストリュポンの息子セネライダスに嫁がせる約束、自らの美貌と弁舌も駆使してストリュポンの信を得たアンティゴネは政治的立場を保持することに成功する。この一連の活動で上手く言い包められ利用されてしまったリュサンドロスの長男リュビスは激しく憤り、元よりアンティゴネとは不仲であったこともあり、残党軍の一部と共に出奔してしまう。
 アンティゴネの只者ならぬ点は、夫の死で未亡人となった自らも政争の道具として利用した。ストリュポンは健在の妻がいる為にその方面で取り入るのは難しいこともあるが、彼女の見立てでストリュポン以上に有用な男に近づいて行った―――ジャーヴィードである。二人の策略家は結託してストリュポン政権の運命を操っていく。

 王都アジナバールに入城したストリュポンはロスタム家門を"保護"して統治権威も強化した。そして精力的に敵残党の討伐、旧リュサンドロス領の平定に勤しんだ。
 そして、ペルシス中枢部もロスタム家門も獲得して勢力を拡大させたストリュポンは"大指導者アウトクラトール"を名乗り、他の相続人クレロノモス達に従属の使者を送るよう要求した。だが既に派閥内のジャーヴィード、ゼノンを除いていずれの相続人クレロノモスもストリュポンの要求には従わなかった。交戦中のクレアンドリダスはドリエウスとヘルミアスは明確に否と応え、カリステネスとヴォロガセス家門は無視した。

 ストリュポンとリュサンドロスがぶつかり合っている頃、ルバノス・シラエアではクテシッポスとドリエウスが戦いの佳境を迎えていた。
 両者とも十分な能力を持つ良将であるも、ドリエウスの方が一段上であった。無念にも敗北したクテシッポスは拠点アルディオケアに退き籠城する。アルティオケアを包囲するドリエウスだが、外港までも持つこの大拠点を力付くで攻略するのは勿論困難である。
 ドリエウスは艦隊も動員して隙間の無い重包囲網を築き、特に外部の情報が一切入らないような情報封鎖に力をいれた。一方で様々な噂が流れクテシッポス側を混乱させるよう仕掛けた。
 包囲が続き食料不足に悩み始めたクテシッポスの下に、ストリュポンが敗北したという情報と共にドリエウスから交渉の提案が届いた。民衆暴動の気配を感じ、余所者として不安定な統治をまだせざるを得なかったクテシッポスとしては、肝心の判断材料となる情報が封鎖によって得られないことからも、この提案を受け入れる他に無かった。クテシッポスは軍と財貨を保持する条件でアルティオケアを明け渡すことを受け入れた。
 しかし、クテシッポスが開城したのは丁度ストリュポンがアジナバールを掌握し、苦戦する南に援軍を送ろうという時であった。クテシッポスは勝利に傲慢になったストリュポンの不興を買ってしまい、裏切り者扱いされ追討を受ける立場にさえなってしまう。
 窮したクテシッポスを拾い上げたのは、意外というべきかドリエウスであった。これからの戦いを考えれば優秀な将軍は幾らでも欲しく、先頃まで鎬を削っていた相手ゆえにその力量は十分に分かっていた。
 クテシッポスはドリエウスとの戦いは正当な武略の競い合いで、彼の事は恨んでいなかった。クテシッポスはドリエウスの招聘に応じて彼の幕下に加わり、かつての拠点アルティオケアこそ渡されなかったものの、軍勢と"領事ハルモスト"の肩書、他の拠点の保持が許された。

 ◆ ◆ ◆

 どの相続人クレロノモスからも帰順を得られなかったストリュポンは既に傘下の者、特にジャーヴィードへの信用を強めた。ジャーヴィードの世渡りの巧さ故か、ゼノンが同胞トラバス人故に却って信用できなかったのか、人間同士の如何ともしがたい相性によるのか、それは明らかでない。
 再び北西部攻撃に向かうゼノンはもうそれでよいとさせ、ジャーヴィードにはクレアンドリダス攻撃を任せた。ストリュポン自身が向かうのは南のドリエウス攻撃である。
 4万の兵を率いてアルティオケアへ攻め込んだストリュポンだが、まだリュサンドロス残党が徘徊している状態では時期尚早といえた。クテシッポスも取り込んだドリエウス軍は敵の攻撃を跳ね返し、リュビスらリュサンドロス残党軍がストリュポン軍の補給線や背後を執拗に狙ってきたため、ストリュポンは撤退せざるを得なくなった。

 憤ったストリュポンは相続人クレロノモス勢力攻撃よりもリュサンドロス残党征伐へ向かうこととした。アンティゴネからも勧めがあったとも言われているが、この時期のストリュポンはかつてにも増して傲慢さが目立っており、浅慮で強引な戦略を立てるように生っていた。
 この折、王都アジナバールでも騒擾が度々発生していた。度重なる統治者の変遷は容易に乱れさせるものである。これもまたアンティゴネの勧めがあったと言われているが、アジナバールの擾乱対応にストリュポンはクレアンドリダス戦を優勢に進めて余裕のあるジャーヴィードを任命した。
 ホルシード人の有力者でアジナバール地域の事情に通じているジャーヴィードは確かに適任であったが、同時に危険な采配でもあった。
 実のところジャーヴィードはまさに獅子身中の虫であった。ジャーヴィードはアンティゴネと密かに結託し、アジナバールの安定と擾乱を巧みに左右させていた。そして統治者としてのストリュポンの手落ち、自身の良評を少しずつ流布させていった。
 ストリュポンはリュサンドロス残党軍に想定外の苦戦を強いられていた。残党率いるリュビスの執念だけでなく、そこには何者かの内通もあったようであった。怒るストリュポンは一旦アジナバールへ帰還すると、リュビスへの内通者炙り出しを始めた。だが、ストリュポンの失敗はまだ続き、よりにもよってその担当者にジャーヴィードを任じてしまった。怒りと傲慢は簡単に人の目を曇らせる。
 後はジャーヴィードの思うがまま、人士は操られ、ストリュポンの評判は弄られていった。失墜しつつあるストリュポンに好機と見たリュビスらリュサンドロス残党軍は軍勢を集結させ、アジナバールへ向かった。
 ストリュポンは再びリュサンドロス残党軍討伐に出立する。ところが、経路の情報が知られていたのか、リュサンドロス残党軍に奇襲を受け、甚大な被害を被ってしまう。
 大きな損害を受けたストリュポンはジャーヴィードに軍を率いて来援するよう命じる。が、ストリュポンの苦境を知ったクレアンドリダスが反撃に出てきていること、ドリエウスも国境を侵していることもあり、ジャーヴィードはすぐには軍勢は動かせず、リュビスと和解すべきと提案した。ストリュポンは悩んだ末、ジャーヴィードの言を受け入れ、リュビスとの和解に踏み切った。 
 両軍相まみえる中、会談の席がもたれたものの、残念ながら和解とはならなかった。ストリュポンがまさにその場でリュビス自身に刺殺されたからだった。歴戦の将であるストリュポンも老いたか、傲慢ゆえに目が曇っていたか、凶刃を避けれられなかった。そして、暗殺の騒ぎの瞬間、手勢を率いて到着した――実に都合のよいことに――ジャーヴィードによりリュビスは直ちに討ち取られた。リュビスは討ち取られるきわに、ストリュポンこそ騙された愚か者だと叫んでいたが、誰にも気にされることはなかった。
 首領を失ったリュサンドロス残党はそのまま消失し、兵は各勢力に吸収されるか野盗となった。

 ◆ ◆ ◆

 ジャーヴィードは忽ちホルシード中枢部を掌中に収め、勢力を拡大させた。ストリュポン亡き今、彼が最大の実力者であることは揺るぎなく、王都アジナバールも、リュサンドロスの娘エウポリアも、更にロスタム家門までもジャーヴィードは確保した。勿論、アンティゴネが手を貸したことは言うまでもない。
 ストリュポンの子セネライダスは一見こちらを立たせようとしているかのような巧みなジャーヴィードの駆け引きにも引き回されて後手に回り、気付いた時には覆し得ない程の勢力差が広がっていた。

 ジャーヴィードが権力の完全掌握を狙っていたことにも今更ながら気付いたセネライダスら反ジャーヴィード派ストリュポン残党はここに至りメナディのクレアンドリダスと結託して対抗せんとした。
 真歴410年、モトーザスの地でジャーヴィード軍3万2千と反ジャーヴィード派軍1万8千が戦った。クレアンドリダス、セネライダスは数の不利を押して勇戦するも覆すことは出来なかった。ゼスメル兵は今だ強力ではあるがホルシードでの奢侈な生活で弱体化しつつあり、何より強さの源である同胞同共同体の団結が緩んでおり、かつての無双の力は最早発揮出来なくなっていたのだ。
 何とか打開しようと図るクレアンドリダスがアカルナニア騎兵隊を直卒して敢行した突撃が失敗して戦死すると、勝利は完全にジャーヴィードのものとなった。セネライダスは敗走の中ジャーヴィードの手に掛かる位ならばと自決した。

 この間、ホルシード中枢部の混乱に乗じてドリエウスはムンドルト奪取など勢力を拡大し、ゼノンも背後を顧みることなくホルシード北西部平定に地歩を固めた。

 翌真歴411年、権力を確立したジャーヴィードは、"主権君スルタン"を名乗り、以後、"ジャーヴィード朝"と呼ばれる国家を建てた。"主権君スルタン"は新しく作られたハレブ語由来の称号である。
 大王シャーを名乗らなかったのは、ロスタム家門とジェタ統原理の観念を臣下の立場から利用した方が有益だという、あくまで実利的な判断をしたからに過ぎない。女王アマストリを裏切ってトラバス人側についたような男らしい皮肉であろう。

 大権力の座を得たジャーヴィードが先ず行ったのはリュサンドロス妃アンティゴネの粛清であった。これまで散々彼女から利益を得ておきながら終いには全て奪い取ったのだ。アンティゴネに従っていた者も、殆どが結局は時勢から苦々しく従っていただけのことで、いざ彼女が排除されれば喜びこそすれ悲しむ者は少数だった。
 余談だがアンティゴネはジャーヴィードから結婚の話をされるのだと勘違いして油断したところを始末されたと伝えられている。そもそも油断するなどというのが不思議な話なのだが、巷に流布する説ではアンティゴネは強烈な個性を持つジャーヴィードに惹かれており、ジャーヴィードもそれを利用した、とも言われているが真相は明らかになることはない。

 バラバ王朝の繁栄と衰退の中で、神官勢力と商人勢力は同じ様に繁栄と衰退を繰り返し、同時にホルシード全域に深く浸透していた。一方で経済の発展と共に、商人勢力は神官との付き合い無しでも立脚するようになり、神官勢力もより世俗化していった。更に自前の武力保持や配下に豪族を抱えるなど、武装勢力としても無視できない存在となりつつあった。
 中でも"聖火アタル・ジェタ"大神殿の大神官シアマクは最も特筆すべき人物だった。彼は他の有力神官勢力を叩き、ホルシード全域規模で神官勢力を組織化せんとしてい。それは燃える権力への野心の側面もあったが、本心からの信仰心もあった―――ただそれは"神"そのものに対する信仰心であって"ジェタの一族"に対するものとは言えなかった。
 海千山千の陰謀家であるシアマクはこれまでも巧みに立ち回ってきたが、ジャーヴィード政権で本格的に活動を始めたシアマクは"ジェタ統原理"の観念を上手く利用してジャーヴィードの正統性を宣伝し、ジャーヴィードもシアマクは互いの利害を一致させられると判断し彼を支持した。勿論、全面的な信頼などというものはない。
 シアマクとジャーヴィードは複数就任していた他の大神官の粛清を皮切りに、反抗的或いは有力な地方の神官勢力も粛清し飲み込んでいった。
 シアマクは"聖火アタル・ジェタ"大神殿と大神官を頂点とする神官組織を築き上げていった。各地の在地多神教は尽くが併呑、吸収され、その上に絶対的な最高神格として"ジェタ"という概念そのものが神格化されて置かれた。この神官組織は明確な名はなかったが、歴史上"ジェタ統教"と呼ばれ、ホルシードの信仰的基盤として成立していくこととなる。
 宗教的組織の再編整備は統治や権力への服従を信仰の面からも制御でき、加えて臣民の自発的な治安維持にも役立ち、徴税・徴兵・行政をより効率的に進める事が出来るようになった。

 神官再編に代表されるように、ジャーヴィードは強引な手段に出ることを躊躇しなかった。一方で知事ダビーラーンや官僚、地方豪族といった中間統治層と融和・結託もし、結果として戦乱で崩壊しつつあった内政の再整備が、例え圧政だとしても、進んだことは事実だった。
 ジャーヴィード朝下のトラバス系人は情勢からジャーヴィードに従ってはいるが、征服者たるおのれらがホルシード人を君主に戴かねばならない事態に憤っていた。
 トラバス人とホルシード人の人口そのものは圧倒的な開きがあり、人数の差はそのままホルシード人への恐れに繋がっていた。
 それをよく知るジャーヴィードはトラバス人を土地再分配や財宝で懐柔しつつ粛清で縛り上げた。トラバス系とホルシード系の対立の上で均衡を取っていた。

 ジャーヴィードは矛盾に満ちた君主であり、その統治は歪な恐怖政治だったといえるが、人物性としても厄介な両面性があった。基本的に冷酷な陰謀家だが唐突に寛大になったり、享楽に耽るかと思えば吝嗇に没入したりした。
 ジャーヴィードには大勢の側室や愛人はいたが正妻は帥司使マルズバーン就任直後に死去し、以後はいなかった。そして、この度、エウポリアを妻に迎えた。エウポリアがメネラオスの家系に連なる点が重要だったと推測される。というのも、度々メネラオスを真似てでもいるかのような態度や振る舞いをすることがあり、トラバス風の服装を身に纏うことも少なくなかった。ジャーヴィードにとってメネラオスは決して超えられなかった憎むべき壁であり、同時に崇敬する至上の到達点であったのだ。とはいえ、同胞のホルシード人からもメネラオスを神聖視或いは憎悪するトラバス人からもこれは酷く不人気な振舞いだった。

 暴君だが暗君ではないジャーヴィードの統治は皮肉にも役立ち、後のホルシード国の雛形の一つとなっていった。

 ◆ ◆ ◆

 各相続人クレロノモスは保持する領域でそれぞれ特徴のある統治を進め、ジャーヴィード朝を代表に"国家"として再編していった。

 ストリュポン、リュサンドロス、ドリエウスなどはトラバス流の統治を骨子とした国を築いた。トラバス植民者に与える為に土地や財産の没収したり、伝統的なホルシードの階級制度にも階級制度に手を加えようとしていた。彼らはトラバス系とホルシード系の融合は企図しておらず、基本的にトラバス人が支配階級を形成した。
 一部を除いてトラバス式都市の建設は少なく、トラバス系民は既存都市に移住という形で植民した。都市内部に衛城アクロポリスを築いたり、各地に拠点を築いて防御網を築きながら支配体制を維持しようとしていた。これら新規拠点は殆どは都市ではなく軍事的要塞の様相を帯びている。
 しかし、体制としては不安定で、征服者という前提と周辺勢力との対立構造の中で漸く成立していた。
 ストリュポンやリュサンドロスは君主制を志向して中央集権体制を整備していたのに対し、ドリエウスは傘下の入植者クレルコイ各勢を纏め上げた"新連邦コイノン・ネオス"――或いはネオス連邦とも――を設立し、都をアルティオケアに置いた。入植者クレルコイ各勢に一定の権限が認められた諸邦連合国家である。ドリエウスは自らを連邦の盟主として任じさせ、"筆頭司令エピストラテゴス"の名に実を含めさせた。"連邦"であることは集団としての大枠を作って拡大させ易い反面、集権性の弱さ、特に盟主自身が権限を振るうことの限界を示している。

 ミスル地方のヘルミアスは支配階層こそトラバス系だが、現地の習慣風俗を尊重したりミスル人内での階級に手を加えないなど、上手く融合し安定した統治体制を早くも築いていた。特にミスルの大貴族イザード家門とは密接な協力関係を構築させた。
 歴史的にミスル地方は外来人の統治を受ける事に慣れて――或いは統治されても大丈夫な程に文化的に強固である――いることも体制の安定化に寄与している。
 また、ミスルでも植民の形態はホルシードへのそれと同じではあるが、積極的な融合を目指したことは特徴的である。ヘルミアス自身も現地ミスル人を妻に娶っている。
 以後、このミスル政権は"ヘルミアス朝"と呼ばれる。その主は最後まで"守護ピュラケス"を自称し、公式文書に於ける国家としての自称も"守護管轄域ノモス・ピュラケス"であった。トラバス風の共和制ではなく、伝統的な君主制国家として成り立っていくこととなる。

 ホルシード北西部を制したゼノンもまた自身を盟主に"連邦"を成立させ、当地に対するトラバス人の習慣的な呼び名から"小ホルシードミクラシード連邦"と呼ばれた。ネオス連邦と同じく連邦制だが内実はかなり異なる。
 本土近いことからもトラバス人植民者の比率が他地域に比べてやや高く、中枢部に比べてホルシード人人口が少ないので土地もあった。そこでトラバス人たちは自治植民都市を多く築き、ゼノンもこれを奨励した。
 興味深いことに現地ホルシード人勢力にも自治に認め連邦に組み込んだ。また、ホルシード人の方もトラバス人に影響を受けて自治的都市を形成し始めていた。
 集権体制としては弱いが、強権的な周辺諸国や政治的に混乱しやすいトラバス本土に比し"連邦"という大きな枠組みに対しては求心力を比較的強く保つことが出来た。これもまたある意味でトラバス人とホルシード人の融合といえるだろう。トラバスにより近いミクラシード連邦の方が、ある程度ホルシード人も含めた連邦制としてネオス連邦より安定していたのは皮肉なことである。
 ゼノンーー大ゼノンーーの逝去以後、代々ゼノンの一族が盟主の座は"驃軍将プロトスタテス"・"国司エピスタテス"の職名と共に継承していくこととなる。

 ホルシード南東部のカリステネスの領域はトラバス人比率が非常に低く、ホルシード人を圧倒するというわけにはいかなかった。
 統治はほぼ君主制で、伝統的なホルシード流統治法を多く採用し、現地風俗習慣にも能く配慮した。長の地位は世襲とされ、以後カリステネスの作ったこの国は"カリステネス朝"と呼ばれる。
 カリステネス朝のトラバス人は軍事貴族・軍事家系としてカリステネス家門と密接に繋がっており、カリステネスも"驃軍将プロトスタテス"・"国司エピスタテス"を同様に名乗り続けていた。
 カリステネス朝は地勢から防御的で、内政の充実や安定性を特に重要視していた。更にこれまでの政策を続けて各地から戦火を逃れた文民を受け入れており、彼らはこの地に文化的な成長をもたらすこととなる。

 オロデスやムーサーはその出自からも伝統的なホルシード流統治を行っている。
 オロデスは死去し、息子ヴォロガセス――ヴォロガセス二世――が帥司使マルズバーン位を継承している。更にこの際ヴォロガセスは、現在最大の、そして正規の帥司使マルズバーンとして、自らを"大帥司使パードマルズバーン"であると宣言した。以後、ヴォロガセス家門の国はヴォロガセス朝と呼ばれる。 
 ヴォロガセス朝はバラバ王朝の継承者としての自意識を強く持ち、旧来のバラバ王朝の制度や階級を度々復活させていった。

 ◆ ◆ ◆

 トラバスやトランクィルス海でも戦乱の嵐は吹き荒れていた。メネラオスの失踪と隣保同盟アンフィクティオニア消滅により、トラバス諸国もアレラス人も再び争い始めたて。

 "遺産戦争ポレモス・クリロノミアス"の鏑矢となったヒポクラテスはリンドーンを攻撃、イアネスとの戦争に突入した。当初は優勢のヒポクラテスだったが、ピュゴモスの海戦でダイオン将軍率いるイアネス艦隊に大敗すると瞬く間に威勢は衰え、拠点のカルカディス島の掌握さえ覚束ない有様になる。反乱勢力討伐に失敗したヒポクラテスは戦死して早々に"遺産戦争ポレモス・クリロノミアス"から脱落することとなった。

 ヒポクラテスを返り討ちにしたイアネス市では勝利の立役者ダイオンが権勢を強めていた。元よりイアネス最大の有力者の一人でもあったダイオンはイアネス市政を牛耳り、事実上の支配者となった。この様な支配者――僭主テュランノス――はトラバス世界でも度々現れていたが、"遺産戦争ポレモス・クリロノミアス"以後は更に数を増し、主流となっていく。
 ダイオンは同じ様にトラバス本土で勢力拡大に動いたゼスメル市と再度同盟を組み、後にはミクラシード連邦のゼノンとも同盟した。イアネス勢はエピュダレス・リンドーン・カルカディス攻撃を進め、トランクィルス海域で勢力を拡大させる。イアネス含む地域も空洞化は進んでいたがトラバス本土よりは緩かったことも快進撃の一因である。

 トラバス本土での覇権を求めるゼスメル市は積極的な軍事行動に出ていた。イアネスとの同盟を追い風に、トラバス諸都市を制覇していった。メネラオスの遠征で空洞化しているゼスメルだが他の都市はそれ以上であったのだ。
 また、ゼスメル有数の名家出身のプレイタルコス将軍の活躍も特筆された。プレイタルコスは若く野心的で、軍神メネラオスの後追いを強く望んでおり、周辺諸国に取って不運なことに、プレイタルコスにはある程度後追いを為すだけの才覚があった。同じように、多くの市民がホルシードへ移っても、残りの中からメネラオスの伝説に新たに感化された者は後を絶たず、投機的冒険に身を投じていた。

 トラバスの主役を張ってきたドラナ市は今やトラバス本土でもトランクィルス海域でも良い様にされ、何とか凌ぐような苦境にあった。著しい空洞化もあるが、隣保同盟崩壊で早速アレラス人がトラバスに攻め込んで来ていたのだ。
 東征軍での活躍にも関わらず、トラバス兵に比べてアレラス兵を手元に留めようという動きは鈍く――差別意識や敵意の影響は大である――、東征を経験した熟練の将兵が少なからずアレラスに帰還していた。その中にロドリュス族長の息子クラキアスがいた。帰還したクラキアスは老病の父から族長の地位を継承すると、忽ちに部族を掌握、周辺部族も従えていった。
 ロドリュス族をアレラス最大勢力にまで成長させたクラキアスは"アナクス"を称し、ロドリュス王国の成立を宣言した。トラバス人ではないクラキアスもメネラオスへの崇敬から"バシレウス"は称しなかった。
 クラキアスらロドリュス勢は容赦なくトラバスを攻撃し、特にドラナが大きな被害を受ける。アレラス人に対応しなければならないドラナはトラバス本土の他地域にもトランクィルス海情勢にも関与する余裕がとても無かった。

 相続人クレロノモス達はこれらトラバス情勢に殆ど興味を示さなかった。故郷オリオン市がゼスメルに制された時もヘルミアスは特に反応していない。そのヘルミアスもヘルミアスでフォカニア攻撃という形でトランクィルス海域に介入するのみであった。

 ◆ ◆ ◆

 オドニアに残留したトラバス人集団はメネラオスの捜索を断念し、彼の遺志を継ぐとして、オドニアでの勢力拡大に乗り出した。
 ジャラセーナ王国はウラグセーナ王の死で混乱しており、ホルシード同樣に偉大過ぎる王の消失で分解しつつあった。内乱の中、東のカセエラ王国が再独立を果たしたこともトラバス人達に追い風となった。フィンゼ河下流域の新興国ドレシュヴァラ王国も弱体化するジャラセーナ系勢力を攻撃した。

 首領テオティモスとトラバス人は"トーリス朝"――トラバスという語がオドニア風に訛った――を築いた。都をアーメールに置き、ヴァナート寺院など一帯の主要地点を占領した。
 君主はオドニア語では王侯ラージャと呼ばれていたが、テオティモスはメネラオスから与えられた驃軍将プロトスタテスの肩書を何よりもの名乗りとし、王号の代わりとした。
 とはいえトラバス人は人数としては千人程度しかおらず、すぐに現地オドニア・ホルシード系と混合していった。

 ◆ ◆ ◆

 ジャーヴィード朝とネオス連邦は当初から激しく対立した。
 反ジャーヴィード派の植民者クレルコイともドリエウスは結託し、早くも真歴412年にはドリエウス軍がジャーヴィード朝下のファラデアを攻撃している。
 ジャーヴィードとドリエウスも直接対決に及び、413年のハラルトトーンの会戦、414年のティタリスの会戦と第二次ハラルトトーンの会戦と三度衝突している。直接対決ではジャーヴィードの才覚と運が優り、ティタリスでは引き分け、ハラルトトーンの二度の戦いでは勝利している。トラバス系の将帥を主に使うドリエウスに対し、ゼスメル人のナビスやシグ出身のマカニダスなどトラバス人将軍、古参の副将カフターバやサラノス北部の帥司使マルズバーンユシュナスといったホルシード系将軍をも巧みに駆使するジャーヴィードの方が手駒の量でも優位に立てたことも大きかった。
 更に隣接するネオス連邦と関係の悪化しつつあったヘルミアス朝ともジャーヴィードは協同戦線を張り、ネオス連邦の主要拠点ダイマクスはヘルミアス朝は度々攻撃を受けた。
 ハレブ地方では帥司使マルズバーンムーサーがヘルミアスと結託していたが反ムーサー派をドリエウスは支援した。反ムーサー派が優勢になり、中心地ファジラなどを押さえた。この一連の戦いでは特に漠野民ベドウィンのアルバタルの一族が活躍した。彼ら自身の戦士もだが、専門の軍事奴隷を活用したと言われている。彼らはその名をとった"勇者アルバタル"家門を興し、デルモザンに移住・都市化していった。
 
 ジャーヴィード朝やや優勢の状況に大きな揺らぎが生じ始めたのは、真歴416年のジャーヴィード朝によるカリステネス朝攻撃からである。ジャーヴィードはネオス連邦以外の周辺国には手を出さずにいたのだが、使者が不遜な態度をとった懲罰であるなどと称して突如としてカリステネス朝を攻撃した。その真意は定かではない。
 この侵攻軍の指揮官には庶長子のザンドが任命され、他に三人の庶子も帯同した。ザンドは父譲りの才を持ち、決して愚鈍な将ではなかったが、如何せん対するカリステネスとグリュロスの方が軍才も経験も遥かに上だった。両者の活躍でジャーヴィード朝軍は散々に打ち破られ撃退されてしまう。庶子三人も戦死している。
 ジャーヴィードは元より庶子達へは冷淡だったが、敗戦に際してザンドを"フーク"と呼び過剰な冷遇で応えた。ジャーヴィードのこれまでの統治を見るに、ザンドは自尊心を傷つけられた憎しみ以上に粛清の恐怖に怯え、宮廷への出仕を拒むようになった。
 尚、カリステネスは戦後死没し、グリュロスの後見の下に息子プロクセノスが長の座につくこととなった。

 それ以来、ジャーヴィードはエウポリアを妊娠させることに強く執着するようになる。メネラオスに対する矛盾する思想の余りに"己の血では限界がある"という妄想に取りつかれたのかもしれない。
 エウポリアにとってジャーヴィードは父の死に関わり、母と兄を殺した張本人で、憎み嫌悪しこそすれ親愛の情を抱くことなど無かった。もし、ジャーヴィードがエウポリアを愛しているとか、通常の政略結婚のように両家を結びつける鎹としての役目があれば、エウポリアもまだ耐えられたかもしれない。しかし、エウポリアにジャーヴィードが求めているのは彼女の中に流れるメネラオスの血、そしてその後ろに見るジャーヴィード自身の異なる影なのである。自分という人間を求めすら本質的にはしていないのだ。
 そして、ついに訪れた懐妊はエウポリアの心の箍を外してしまった。憎悪や怒りなどとという言葉でも言い表せないような強い負の感情が彼女の内を満たしていった。

 エウポリアを孕ませたジャーヴィードの精神は明らかに歪みを増し、気に障ることが起きるたびに家臣を処罰していった。財産没収程度で済めば幸運で処刑されることの方が多かった。
 挙句、政治的共演として揺るがぬ立場と思われていた大神官シアマクさえへも粛清の鎌を振るった。
 組織化されつつある神官勢力――ジェタ統教――を奪うことは目的だったろうが、それだけではない。シアマクによら減らされた大神官の座を二名に増やし、その一人にロスタム家門のナリマーンを据えた。ロスタム家門を抱えていることの意味合いを強めさせ独占したかったのかもしれない。
 当のナリマーンは力を得る可能性よりも、与えられたことによる粛清の可能性について怯え宮廷への出仕を拒むようになった。そして同じように恐怖に怯えジャーヴィードを憎む者は日一日毎に増加していった。

 真暦418年2月、ある嵐の夜。寝室でザンドとエウポリアの訪室を受けたジャーヴィードは珍しく上機嫌だったと伝えられている。夜が開けた朝、寝室でジャーヴィードの死体が見つかった。周囲は吐いたらしき血に塗れ、苦悶の表情を浮かべた遺体はのたうち回った痕があった。
 明らかに毒殺だったが、死因は直ちにザンドとエウポリアによって病死と断定され、それに誰も異を唱えることは無かった―――"仮に"毒殺だとして殺す動機のある者が多すぎた。



 まだジャーヴィードの遺体が禄に片付けられてない内に、庶子ザンドが“主権君スルタン“位を継承を宣言した。ロスタム家門にして大神官のナリマーンに継承の正統性を認めさせ、更にエウポリアを妻にして正統性を補強しようとした。
 父の子を妊娠している未亡人を娶るとは当時のホルシード上流社会であっても倫理的行為とは当然だがいえない。エウポリアは何か取引でもあったのか、或いは単に憎しみを吐き出して空っぽになってしまったのか、ザンドとの婚姻に抵抗しなかった。その直後にエウポリアは娘を出産する。
 ザンド自身は決して無能な男ではない。策謀と決断は素早く、実際政治的速攻により彼は主権君スルタン位を手にしている。その後も積極的に政治工作や謀略を実行していったが、その努力に効果があったのは僅か二ヶ月程でしかなかった。
 最初から真っ向から反抗していたトラバス系のナビス将軍との和解の席の途上、そのナビス将軍に強襲され、殺されてしまった。エウポリアとナリマーンが同道し、まさか手を出すまいとザンドが油断した時を狙らわれた。
 ナビスは――先代より更に早く――ザンドの遺骸からまだ血が流れている間に主権君スルタン位を宣言し、欲張りにも総執権ヘゲモン大将軍キリアルケスも名乗りさえした。エウポリアを妻に、生まれた娘が成長したら息子と結婚させるとその場で決め、ナリマーンにはザンドに対したのと同じ様に正統性の承認をさせた。ナリマーンは恥も外聞もなく直ぐに承認したことで、利用価値ありとして殺されずに済んだ。

 ジャーヴィードの死はまだ運命と豪弁出来ないことはなかったし、ザンド自身はジャーヴィードの血を引いているのだから継承についても名分はあった。しかし、ナビスが行ったのは卑劣な暗殺と謀反である。残された者には従う義理は何も無いのだ。ジャーヴィード朝領の各地で反乱が勃発し、ジャーヴィードの副将カフターバ将軍もならば我もと主権君スルタン位継承を宣言、ユシュナスは独立宣言の上で新たに主権君スルタンを名乗った。
 ジャーヴィード朝の衰退に乗じて、ネオス連邦やミクラシード連邦は勢力を拡大させていた。良くも悪くもこの国の存続はジャーヴィード個人の特異な才覚に依存していたのだ。

 ジャーヴィード朝崩壊の決定打となったのはマカニダスの決起だった。リュサンドロスの部下であったマカニダスは縁あって繋がっていたエウポリアと娘を脱出させつつネオス連邦に与した。エウポリアにとってはまだドリエウスとネオス連邦に利用される方がまだ心が静まったことだろう。
 折しも、ダイマクス遠征を企図していたヘルミアスが病に倒れ急逝したことで、ネオス連邦は南からの圧力が減じていた。機を得たドリエウスはエウポリアと共に手にした大義名分を掲げ、ジャーヴィード朝領を進軍した。ナビスとカフターバはこの期に及んで協同戦線を組むが、それでも彼らの戦力ではネオス連邦軍を抑え込むことは出来ず、ネオス連邦に与したマカニダスの調略で足元も切り崩されていった。
 真暦420年、ナビス・カフターバ連合軍を散々に撃破して両者を戦死させたドリエウスはアジナバールを占領した。ユシュナスは独立宣言しており、ジャーヴィード朝継承を主張した者も消えた為、ジャーヴィード朝はここに滅びた。
 同年、ジャーヴィード朝残党を粗方片付けたドリエウスもアルティオケアへの帰還中に体調を崩し死去した。一般にこの年を以て、メネラオス死後の取り分けが了し、"遺産戦争ポレモス・クリロノミアス"は終わったとされる。

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