| 大人は努力を他人に見せない。ただ、結果で示せばいい。いつだって、そうしてきた。 |
| 猛勉強をして有名大学に入れた時も。何か月にも及ぶ就職活動の結果、有名企業に勤めることになった時も。 |
| 努力の結果は自ずとついてきた。だから、これでいい。 |
| 私の努力を他人に理解してほしいなんて……そんなワガママには、蓋をする。 |
留美 | こちらが次の会議で使う資料です。 |
専務 | 早いね。ま、和久井さんなら当然か。じゃあ次は、出張の手配をよろしくね。 |
専務 | 訪問時の手土産は先方の好みに合わせておいて。和久井さんならさらっとできるでしょ。 |
留美 | かしこまりました。すぐに対応します。 |
| 秘書業務は、いつも時間との戦い。多忙な役職者のスケジュール管理を担うのだから当然だ。 |
| そして、完璧にこなすのも当たり前。 |
留美 | (先方の好みは、ハイセンスなものだったわね。それなら王道な品よりも、限定品や希少性の高い品がいいわ) |
留美 | (そうすると、該当するお店の商品は――) |
| 私の頭も、役職者のスケジュール同様、忙しなく回転し続ける。 |
| 少なくとも、仕事のことしか考えなくなるくらいには。 |
| これも、秘書としては当たり前。誰に見せることもない、当然の努力だ。 |
留美 | (ふう、ちょっと休憩しましょう……あら?誰かの話し声がするわ。この声は――) |
同僚A | ――ねえ、聞いた?和久井さん、専務のお気に入りらしいよ。ま、あれだけ仕事ができるならね。 |
同僚B | 聞いた聞いた。しかも顔がいいから。特に努力しなくても、出世コースにのれるわよ。 |
同僚A | いいな〜。苦労もなさそうで、人生楽だろうね〜。 |
留美 | ……ただいま。今日もお留守番、ありがとう。 |
| 家に帰っても、話し相手は猫のぬいぐるみくらい。一目ぼれして買ったその子は今、ぽつんとベッドに置かれている。 |
留美 | 貴方も、友だちが欲しかったりするのかしら?本物もお迎えできればいいんだけど……やっぱり、アレルギーがね。 |
| それに、仕事が忙しくて、きちんと世話ができるかも疑わしい。 |
| そうだった、仕事だ。今日は残業だったから、いつもの日課をこなせていない。 |
| 経済新聞と業界のニュースを確認して、最新事情を、上役の誰に聞かれても答えられるようにしなければ。 |
| これも、秘書の仕事。家に帰っても、頭は相変わらず仕事のことばかりを考えている。 |
留美 | 「苦労もなさそう」、「人生楽そう」ね……。たしかに、成功してはいるのかもしれないけど…… |
| でも、そういわれてしまうと、私の人生が途端に薄っぺらいものになった気がする。 |
留美 | 私にだって、それなりに苦労とか……あったはずなのにね。 |
| 目の前の猫は、頭を撫でられても、何も答えない。 |
専務 | 手土産の手配は終わった?次は、会議で使った資料のファイリングと、お歳暮の御礼状もよろしく。 |
専務 | それから、もうすぐ海外企業のクライアントが来日するでしょ?だから…… |
留美 | はい。外国の方が楽しめるよう味も雰囲気も重視した料亭を手配しておきます。 |
専務 | そう、できれば今日中にお願いするよ。 |
同僚A | 和久井さん、よくやるよね。もう昼休みだっていうのにさ。あーあ、またお前らも和久井さんを見習えって言われるよ。 |
同僚B | また短時間でやりきって、さらに気に入られて出世……上手くやる人のお決まりのパターンよね。 |
同僚A | それにほら、和久井さんも見てみなよ。涼し気な顔しちゃって。自信満々で全部こなすでしょ。 |
留美 | (自信があるように見せているのは、そうしないと上からの信頼を得られないからよ……) |
同僚B | 誰にも頼らず、ひとりで何でもこなすんだろうね。やっぱり、生まれながらできる人は違うわ。 |
| ――週明け。朝一のスケジュール確認を終える。先週は風邪で休んでいた別の上司の秘書が出勤していた。 |
| 彼女がセッティングしていた会食を私が引き継いでいたこともあり、さっそく話しかける。 |
留美 | あのね、共有事項があるんだけど。 |
後輩 | 和久井さん、私が予約した会食のお店、キャンセルしたんですか……? |
後輩 | 先方から、秘書室あてに、お礼のメールが来てました。美味しい店を教えてくれてありがとうって。 |
後輩 | でも、私が選んだお店とは違ってて……。 |
留美 | ええ、その変更について、今話そうと思っていたところ。 |
後輩 | 私……初めての会食のセッティングで、お店だって頑張って選んだのに……どうして変えたんですか……。 |
留美 | 先方の社長のお子さんに、蕎麦アレルギーがあったからよ。 |
留美 | あの社長さんは、会食の時、必ず家族にお土産を買って帰るの。貴方が予約していた料亭は蕎麦が売りでしょう? |
留美 | お土産も蕎麦が薦められることが考えられたわ。先方の断る手間と気持ちを考えて、その必要がない所に変えたの。 |
留美 | 先にお礼のメールを読んで混乱したでしょう?共有が遅くなってしまってごめんなさい。 |
後輩 | ア、アレルギーのことなんて……何も聞いてません……。 |
留美 | 専務と貴方のボスが雑談していたのを聞いたことがあったの。私はそれをメモしていただけ。 |
後輩 | そんな……雑談までメモすることまで……私、思いつきもしなくて……。 |
留美 | まだ入社したばかりだもの。私だって、最初は失敗したけれど、これから学んでいけばいいわ。 |
後輩 | …………い。 |
留美 | えっ? |
後輩 | みんな、和久井さんみたいに何でもできるなんて、思わないでくださいっ! |
| 彼女の言葉を聞き、同僚たちの視線が私に突き刺さる。ああ、とうとう言ったよ。目は口ほどに物を言っていた。 |
留美 | ……ただいま。 |
| 家に帰り、私は棚に目を向けた。入っているのは、定期購入している経済情報誌。 |
| それと、入社時からずっとつけているメモが書かれた手帳が何冊も。 |
| そこには、ビジネスマナーは当然のこと、専務とあらゆる人の他愛のない雑談まで、全てメモしてある。 |
| それを何回も繰り返し読んで、頭に叩き込んだ。 |
| 新社会人の私が、専務や先方と話すには、あまりにも経験が足りなかったから。 |
| 人はこれを、努力とは呼ばないのだろうか。 |
| ピロン♪ |
留美 | あら、友だちから連絡……珍しいわね。学生時代以来かしら。結婚します、か……。 |
| 26歳。私たちはもう、次の人生のステージに来ている。どう生きていくのかを決めるステージに。 |
上司 | 今日呼び出したのは、チーム内から意見が上がっていたからなんだ。 |
上司 | 和久井くん、もう少し協調性を持って……他の子のように、笑顔で仕事をする努力をしてくれないか。 |
| 秘書の仕事とは、与えられた業務をミスなく、気遣いを持ってこなすこと。 |
| 笑顔は私に求められていない。そう思い込んで、私は努力を怠っていたのだろうか。 |
留美 | …………笑顔って、どう作るのかしら。 |
上司 | 和久井くん、聞いているのか? |
| 大丈夫、また努力していけばいいだけだ。 |
| …………なんで?誰も、私の努力を、努力と認めてくれないのに? |
上司 | おい、和久井くん、どうしたんだ? |
留美 | ………辞めます。辞めさせてください。 |
上司 | なっ、どうしたんだ!?そんな急に……ちょっと落ち着いて……! |
| 仕事のことばかり考えてきた。朝起きて、仕事をして寝る。そんな生活が、自分はずっと続くのだと思っていた。 |
| 淡々と、努力をし続ける。それが立派な大人だからと。 |
留美 | ……わからなくなったんです。今まで、自分がしてきた努力は何だったのか。自分は何に人生をかけてきたのか。 |
留美 | 私は、何がしたいのか。 |
| 秘書は黒子のようなものだ。サポートに徹し、役職者が心地よく仕事をできるように努力して当然。 |
| それでも……私は、認められたいと思ってしまった。 |
留美 | 退職願は、後ほど提出させていただきます。 |
| 泣かない。ここは職場なのだから。そう唇を噛み締めて、初めて気づいた。 |
| 泣くなと言い聞かせる以前に、笑顔を作る努力をする以前に、私は、泣き方も忘れてしまっていたのだと。 |
バーテンダー | いらっしゃいませ。 |
留美 | マティーニを。 |
バーテンダー | お客様は、もう既に飲んできてますよね。その上でマティーニは……。 |
留美 | 知ってるわ。辛口で度数が高いの。カクテルの王様よね。シンプルだからこそ、作り手の腕もわかる。 |
留美 | ちなみに、カクテル言葉は知的な愛。あるいは、棘のある美しさ……だったかしら? |
バーテンダー | おや、お詳しい方でしたか。これは失礼しました。 |
留美 | ふふ……全部、仕事のために覚えたのよ。誰にも失礼がないように、誰とでも話ができるように……。 |
留美 | 気を遣って、努力して。でも、もういいの。明日も明後日も仕事なんてないから。うんと強いのを飲むわ。 |
??? | 隣、いいですか? |
留美 | 何よ。もしかして、ナンパかしら?だったら、やめておいたほうがいいわ。今の私、最高にたちが悪いから。 |
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