気候変動, Dust Bowl

ダストボウル: エグゾダス


[ Mass Exodus From the Plains ]

ダストボウルはアメリカ史上最大の移民を引き起こした。

[ダストボウル、テキサス州パンハンドル、1936年3月]

旱魃と砂嵐が収まる気配がなく、多くの人々が土地を放棄した。土地にとどまりたかったが、銀行の差し押さえで土地を失い、追い出された人々もいた。合計すると、人口の4分の1が家を出て、自分の所有物すべてを車やトラックに詰め込み、カリフォルニアを目指して西に向かった。全体としては農民の4人に3人が自分の土地に留ったが、大規模な移住により特定の地域では人口が大幅に減少した。オクラホマ州ボイジー市郊外の農村地域では、1642の小規模農家とその家族が土地を処分し、人口が40%減少した。

ダストボウルからのエグゾダスはアメリカ史上最大の移民であった。1940年までに250万人がグレートプレーンズから移住した。うち20万人がカリフォルニアに移住した。彼らが州境に到着したとき、この1935年のCollier誌の抜粋に記載されているように、あたたかく歓迎されることはなかった。
Very erect and primly severe, [a man] addressed the slumped driver of a rolling wreck that screamed from every hinge, bearing and coupling. 'California’s relief rolls are overcrowded now. No use to come farther,’ he cried. The half-collapsed driver ignored him — merely turned his head to be sure his numerous family was still with him. They were so tightly wedged in, that escape was impossible. 'There really is nothing for you here,’ the neat trooperish young man went on. 'Nothing, really nothing.’ And the forlorn man on the moaning car looked at him, dull, emotionless, incredibly weary, and said: 'So? Well, you ought to see what they got where I come from.

「ヒンジ、ベアリング、カップリングのすべてから悲鳴を上げながら、うなだれたオンボロ車の運転手に、直立不動で非常に厳しい態度で話しかけた『カリフォルニアの救援施設は現在過密状態だ。これ以上来ても無駄だ』と彼は叫んだ。半ば頽れた運転手は彼を無視し、ただ頭を向けただけで、大勢の家族がまだ一緒にいるのを確認した。あまりにもぎっしりと詰め込まれていたので、抜け出せそうになかった。厳格な兵士のような若者は続けて言った『ここには本当に何もない。「何もない、本当に何もない。』そして、うめき声を上げながら車に乗っていた心細そうな男は、鈍く、無感情で、信じられないほど疲れ果てた彼を見て、こう言った『それがどうした。我々が来たところを見てみろ』


ロサンゼルス警察署長は、州境に用心棒として警察官125人を派遣し、「望ましくない者」を追い払った。報道機関から「能無し旅団(the bum brigade)」と呼ばれ、アメリカ自由人権協会(American Civil Liberties Union)による訴訟の対象となったロサンゼルス市警の隊員は、この活動への市の資金の使用が疑問視されたときにのみ召還された。

カリフォルニアに到着した移民たちは、土地を離れたときと同じくらい困難な生活に直面した。カリフォルニアの農場の多くは企業所有だった。それらは南部の平原のものよりも大きく、より近代化されており、作物は見慣れないものだった。なだらかな小麦畑は、果物、ナッツ、野菜の作物に取って代わられた。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』に登場するジョード一家のように、出稼ぎ農民の約 40ーセントがサンホアキン・バレーにたどり着き、ブドウや綿花を摘みに従事した。彼らはメキシコ人出稼ぎ労働者の仕事を引き受け、出稼ぎ労働者の12万人が1930年代に本国に送還された。移民労働者の生活は大変だった。彼らは収穫した果物や綿花の量に応じて支払われ、1日あたり75セントから1.25ドルの収入があった。 その中から、床や配管のないタール紙の小屋を借りるのに、1日25セントを支払わなければならなかった。大規模な牧場では、食料品を高価な直営店から購入しなければならないことがよくあった。

膨大な数の移民が仕事を求めて野営し、ジョン・スタインベックが小説『怒りの葡萄』で描写したような光景が生まれた。「彼にはおおよそ200人の労働者が必要なので、彼は500人と話し、その話を聞いた人々が他の人々に話し、そしてあなたがその場所に着くと、1000人がいる。そして、この男は『時給は20セントだ』と言う。おおよそ半分の人々は立ち去る。それでも500人が残り、あまりにも飢えていたので、ビスケットのためだけにも働こうとする。ここの奴は桃を摘むか、綿を切るかの契約を結んでいる。こんなかんじでだ。より多くの労働者を確保できれば、支払う金額は減る。できれば子持ちの労働者を狙う。」

貧困に苦しむ移民たちの沿道キャンプが急増する中、生産者らは保安官にキャンプを解散するよう圧力をかけた。自警団は移民たちを共産主義者だと非難して殴り、小屋を焼き払った。移民を助けるために、ルーズベルト政権の農場保安局は13のキャンプを建設し、それぞれのキャンプに木製の台の上に建てられたテントに300家族を一時的に収容した。キャンプは自治コミュニティであり、家族は部屋と食事のために働かなければならなかった。

移民たちがカリフォルニアに到着すると、農地のほとんどが大規模な企業農場に所有されていることがわかり、多くの人が農業をやめた。彼らは、大都市近くの、リトル・オクラホマ(Little Oklahomas)やオキエビル(Okievilles)と呼ばれるバラックタウンに住居を構え、地元の地主が小さな区画に分割して、5ドルのダウンと月々の分割払いで3ドルで安く販売した。彼らはスクラップを集めて家を建て、水道や電気もなく暮らしていた。水の汚染、ゴミや廃棄物施設の不足により、腸チフス、マラリア、天然痘、結核が発生した。

長い時間をかけて、彼らは小屋を本物の家に置き換え、子供たちを地元の学校に通わせ、コミュニティの一員になった。しかし、彼らは職を探す際に差別にさらされ続け、出身地に関わらず地元住民からは「オーキー」「アーキー」と呼ばれていた。





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