このページでは、スペイン共和国の歴史について記述する。
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スペインの国旗
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世界文化遺産のアルタミラ洞窟絵画
120万年前にはイベリア半島に人類が居住していた。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島へ進出し始めた。最もよく知られた遺跡としてはアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物であり、世界文化遺産に登録されている。
鉄器時代には地中海沿いにイベリア人が、大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。また幾つもの他の民族が半島に住んでいた。南部にはタルテッソス王国が存在していたと考えられている。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に進出して植民都市を築いた。第一次ポエニ戦争後はカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配し、内陸にも進出した。しかし第三次ポエニ戦争で、ローマに戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。
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ザマの戦い(B.C.202)
この戦いでカルタゴの敗北は決定的となった。
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スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の領土(赤が西領、青が葡領)
1489年、メジナデルカンポ条約(スペイン・イングランド間の婚姻等の取り決め)が、1494年トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル間の植民地に関する取り決め)が結ばれ、スペイン帝国は着実に国際社会での地位を固めていった。1504年の勅令で、鉱山を発見した国民が五分の一税を納めることで採掘を認められた。ただし別の勅令で大鉱山は王室が独占するところとなった。 1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、反宗教改革を唱えた。するとコムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)がおきた。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられた。洋銀がポトシやグアナフアトの銀山で鋳造された。金銀は1552年からスペイン帝国の外へ流出した。オスマン帝国やイギリスとの戦争によって流出は加速した。それをイギリスやオランダが蓄積した。ここで洋銀が金銀比価に影響を与えはじめた。
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捕虜となったインカ王国の王の処刑
最盛期のスペイン帝国は南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有した。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねた。
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スペインの国旗
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世界文化遺産のアルタミラ洞窟絵画
120万年前にはイベリア半島に人類が居住していた。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島へ進出し始めた。最もよく知られた遺跡としてはアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物であり、世界文化遺産に登録されている。
鉄器時代には地中海沿いにイベリア人が、大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。また幾つもの他の民族が半島に住んでいた。南部にはタルテッソス王国が存在していたと考えられている。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に進出して植民都市を築いた。第一次ポエニ戦争後はカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配し、内陸にも進出した。しかし第三次ポエニ戦争で、ローマに戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。
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ザマの戦い(B.C.202)
この戦いでカルタゴの敗北は決定的となった。
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国は滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラームの支配下に置かれ、イスラームに征服された。キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部に逃れてアストゥリアス王国を築いた。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、庇護民として一定の制限を受けた。 シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進んだ。785年コルドバにメスキータが、889年グラナダにアルハンブラ宮殿が建設された。
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世界遺産のアルハンブラ宮殿
10世紀頃のイベリア半島は地元出身のムスリムが住民の大半を占めていたと考えられている。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、頻繁に北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦った。イスラム世界は銀不足悩ませれており、元朝が銀を還流させるまで危機がつづいた。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラム勢力の分裂をきっかけに、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げた。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、庇護民として一定の制限を受けた。 シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進んだ。785年コルドバにメスキータが、889年グラナダにアルハンブラ宮殿が建設された。
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世界遺産のアルハンブラ宮殿
10世紀頃のイベリア半島は地元出身のムスリムが住民の大半を占めていたと考えられている。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、頻繁に北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦った。イスラム世界は銀不足悩ませれており、元朝が銀を還流させるまで危機がつづいた。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラム勢力の分裂をきっかけに、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げた。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。
722年西ゴート王国のペラーヨはコバドンガの戦いに勝利しアストゥリアス王国を建国した。これがスペイン・キリスト教諸国の拡大、すなわちレコンキスタの始まりとされている。数百年間のイスラム支配時期に重なってレコンキスタは進行したが、10世紀のイスラム銀飢饉までは膠着状態にあった。イスラム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、フランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ撤退した。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。778年、ロンスヴォーの戦いがおこった。フランク軍はピレネー山脈南方にスペイン辺境領を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。844年、ノルマン人がリスボンとカディスに侵入した。912年から1002年までの90年間、スペイン・キリスト教諸国と後ウマイヤ朝カリフが抗争に明け暮れた。955年アブド・アッラフマーン3世がレオン王国と講和した。961年レオン王国からカスティーリャ王国が事実上独立した。このカスティーリャが以降のレコンキスタを主導することになる。
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡しタイファ諸王国に分裂した。ここでキリスト教諸王国は勢力を南下させた。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラム勢力は一旦は再興したが、それを第3回十字軍が牽制した。この大遠征は東西教会の分裂を促したが、東ローマ帝国はイスラム世界の全盛期から奴隷出身の宦官に政治を左右されがちであった。1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラム国家を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。13世紀、ムーア人王国を除き南スペイン全体はカスティーリャ王国の手におちた。軍団と貴族に恩賞としてラティフンディオ(大規模農場)が与えられた。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年)とサラマンカ大学(1218年)が創立されている。1492年、スペインのキリスト教王国は半島全体を征服し、ユダヤ人とアラブ人を追放した。
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡しタイファ諸王国に分裂した。ここでキリスト教諸王国は勢力を南下させた。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラム勢力は一旦は再興したが、それを第3回十字軍が牽制した。この大遠征は東西教会の分裂を促したが、東ローマ帝国はイスラム世界の全盛期から奴隷出身の宦官に政治を左右されがちであった。1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラム国家を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。13世紀、ムーア人王国を除き南スペイン全体はカスティーリャ王国の手におちた。軍団と貴族に恩賞としてラティフンディオ(大規模農場)が与えられた。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年)とサラマンカ大学(1218年)が創立されている。1492年、スペインのキリスト教王国は半島全体を征服し、ユダヤ人とアラブ人を追放した。
1325年、アラゴン王国はジェノヴァ共和国からサルデーニャを奪った。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した。とくにアラゴンのバルセロナが甚大な被害を受けた。カタルーニャでは人口の3割以上が失われた。黒死病の蔓延により経済は疲弊し、1346年に造幣されたフローリン金貨は対外債務の増大により海外へ流出し、これを防ぐために悪鋳されていった。クロアット貨は品位が維持され、投機の対象となり、保有する者は退蔵しがちであった。王室財政が王領地の減少と莫大な債務にあえぐ一方で、バルセロナ財政も公債発行に追い込まれた。自転車操業の末、1380年代に公債が軒並み償却できなくなった。バルセロナの個人銀行は、公債を引受けていたところを中心に次々と倒産した。バルセロナ市は1401年に財政を管理下においてヨーロッパ初の公営銀行を設立した。バルセロナのような多くの地域とは対照的に、アラゴンのバレンシア王国だけは農産物と羊毛の輸出力を強みとして急速に人口を回復していた。1412年カスティーリャにトラスタマラ朝が成立した。アラゴンはカスティーリャ内政に干渉したが、しかし逆効果であった。カスティーリャとジェノヴァ共和国の同盟関係は強化される一方であった。1430年、カスティーリャのフアン2世と休戦条約をむすび、アラゴン勢力はカスティーリャ内政から追放された。1453年、カタルーニャ総督にガルセラン・ダ・レケセンスが任命された。彼は商人や手工業者を主体とする市政を実現した。ブスカは7年にわたり市政を掌握し、保護主義政策を打ち出した。すると輸入業者や地代生活者からなるビガの反乱がおこった。彼らはブスカだけでなく王権にも挑戦した。1462年からカタルーニャでは内戦がつづいた。ここへ1466年ごろからフランス軍が侵攻しカタルーニャ総督を任命したので、アラゴンはイングランド王国やブルゴーニュ公国と同盟した。
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黒死病の恐怖
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黒死病の恐怖
1388年、カスティーリャは遠征してきたイングランドとの講和に応じた。ドーヴァー海峡は開放された。1430年代のカスティーリャでは、ガリシア地方の下級貴族が市民・下級聖職者・農民を結集して王権への直属を求め、有力貴族による特権侵害および土地簒奪に対抗した。またアラゴンとの抗争も並行した。さらに1442年から1444年にかけて、フランシスコ会士アロンソ・デ・メリャが聖書の自由な解釈と財産の共有などを主張し、中世スペイン最大の異端運動に発展させた。そこで1445年、カスティーリャはオルメードの戦いでアラゴン派貴族を破り膠着状態から脱っした。以後トレドでコンベルソを弾圧しながら王権を強化していった。1468年、トロス・デ・ギサント協定により第二次イルマンディーニョス反乱を和解させた。
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フェルナンド2世とイサベル女王
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合された。それまでカスティーリャは地中海に疎かったが、統合により貿易へ参入した。50年前からの混乱はカスティーリャの経済構造を再編させた。メスタ(ギルド)が振興され、メディナ・デル・カンポの大市では大規模な羊毛取引と国際的な為替取引が行われた。鉄製品も輸出された。そしてワインやオリーブ油もジェノヴァ商人の手を経て輸出された。ア・コルーニャは漁港として繁栄した。スペインは現在も欧州最大の漁業国である。
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パエリアはスペイン料理の代表格。漁業国ならではのシーフード料理。
再征服は最終段階となった。セビリアでは戦利品としての黒人奴隷が増えていた。1475年に王国は、下級裁判権を与え奴隷間の紛争解決にあたらせた。1478年にカナリア諸島を、そして1492年にグラナダを陥落した。これによって、781年に及んだイスラム支配が終了した。グラナダ条約ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。彼らはジブラルタル海峡を渡って逃れた。
フェルナンド国王とイザベル女王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を押し進め、またローマ時代のヒスパニアを語源とするエスパーニャ(現在の国名の元となる)が王国名として用いられるようになる。
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フェルナンド2世とイサベル女王
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合された。それまでカスティーリャは地中海に疎かったが、統合により貿易へ参入した。50年前からの混乱はカスティーリャの経済構造を再編させた。メスタ(ギルド)が振興され、メディナ・デル・カンポの大市では大規模な羊毛取引と国際的な為替取引が行われた。鉄製品も輸出された。そしてワインやオリーブ油もジェノヴァ商人の手を経て輸出された。ア・コルーニャは漁港として繁栄した。スペインは現在も欧州最大の漁業国である。
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パエリアはスペイン料理の代表格。漁業国ならではのシーフード料理。
再征服は最終段階となった。セビリアでは戦利品としての黒人奴隷が増えていた。1475年に王国は、下級裁判権を与え奴隷間の紛争解決にあたらせた。1478年にカナリア諸島を、そして1492年にグラナダを陥落した。これによって、781年に及んだイスラム支配が終了した。グラナダ条約ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。彼らはジブラルタル海峡を渡って逃れた。
フェルナンド国王とイザベル女王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を押し進め、またローマ時代のヒスパニアを語源とするエスパーニャ(現在の国名の元となる)が王国名として用いられるようになる。
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スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の領土(赤が西領、青が葡領)
1489年、メジナデルカンポ条約(スペイン・イングランド間の婚姻等の取り決め)が、1494年トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル間の植民地に関する取り決め)が結ばれ、スペイン帝国は着実に国際社会での地位を固めていった。1504年の勅令で、鉱山を発見した国民が五分の一税を納めることで採掘を認められた。ただし別の勅令で大鉱山は王室が独占するところとなった。 1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、反宗教改革を唱えた。するとコムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)がおきた。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられた。洋銀がポトシやグアナフアトの銀山で鋳造された。金銀は1552年からスペイン帝国の外へ流出した。オスマン帝国やイギリスとの戦争によって流出は加速した。それをイギリスやオランダが蓄積した。ここで洋銀が金銀比価に影響を与えはじめた。
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捕虜となったインカ王国の王の処刑
最盛期のスペイン帝国は南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有した。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねた。
カルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世に、スペインは世界で初めて「陽の沈まない国」となった。大航海時代、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金時代と呼ばれる。16世紀を通じて本土の人口と農業生産量が増加が、アメリカ大陸に植民した開拓者はあまり積極的には耕作をしなかった。スペインは食料生産が追いつかず、輸入元へ支払った貨幣を国内で費消するよう規制していた。しかし破綻して、1552年カスティーリャ王国がついに貴金属の輸出を許した。1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移した。以後マドリードは今に至るまでスペインの首都となっている。
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マドリード
16世紀後半からは戦乱の連続であった。ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(1568年)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。戦費は成金を貴族化させることで調達したので、1591年カスティーリャ王国の貴族は60万人(総人口の10%)に達したが、17世紀スペイン全人口において約1割を占めた。
16世紀末から小氷期の17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった。1588年ガレオン船で編成された無敵艦隊が英国に敗れた(アルマダの海戦)。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。この他にも多くの戦争を起こした。莫大な財政援助も行い、スペインは神聖ローマ皇帝軍を支えた。スペインは神聖ローマ皇帝軍の支援を期待していたが、しかし八十年戦争やマントヴァ公国継承戦争で皇帝軍はスペインへ友軍を派遣しなかった。戦争の終盤にはサヴォワでフランスに敗北し大きな打撃を受けている。これらの相次ぐ戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
![](https://image02.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/479c94b0d612f067.jpeg)
アルマダの海戦
この戦いに敗れたスペインは威信を大きく失い、転落していくことになる。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはネーデルランド共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるピレネー条約を不利な条件で締結した。1680年のインディアス法令集成からは、王室が鉱山を独占する規定がなくなり、五分の一税を払うだけで採掘が許された。スペインの黄金時代は終わりを告げた。
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マドリード
16世紀後半からは戦乱の連続であった。ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(1568年)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。戦費は成金を貴族化させることで調達したので、1591年カスティーリャ王国の貴族は60万人(総人口の10%)に達したが、17世紀スペイン全人口において約1割を占めた。
16世紀末から小氷期の17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった。1588年ガレオン船で編成された無敵艦隊が英国に敗れた(アルマダの海戦)。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。この他にも多くの戦争を起こした。莫大な財政援助も行い、スペインは神聖ローマ皇帝軍を支えた。スペインは神聖ローマ皇帝軍の支援を期待していたが、しかし八十年戦争やマントヴァ公国継承戦争で皇帝軍はスペインへ友軍を派遣しなかった。戦争の終盤にはサヴォワでフランスに敗北し大きな打撃を受けている。これらの相次ぐ戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
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アルマダの海戦
この戦いに敗れたスペインは威信を大きく失い、転落していくことになる。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはネーデルランド共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるピレネー条約を不利な条件で締結した。1680年のインディアス法令集成からは、王室が鉱山を独占する規定がなくなり、五分の一税を払うだけで採掘が許された。スペインの黄金時代は終わりを告げた。
スペイン継承戦争(1701年 - 1713年)は広範囲の国際紛争かつ内戦でもあり、欧州でのスペイン帝国の力を大きく減衰させた。そこで新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世が連合王国の王位を統合し、スペイン・ブルボン朝が成立した。1735年、両シチリア王国を領土に加えた。
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スペイン継承戦争におけるビーゴ湾の海戦
1759年啓蒙専制君主カルロス3世が即位した。25年もナポリ王であった彼は、財務大臣にエスキラーチェ侯爵を起用した。1765年7月、侯爵は穀物の最高取引価格設定を廃して流通を自由化した。するとマドリードのパン価格は1761年と比べておよそ二倍となった。そして1766年エスキラーチェ暴動がおきた
。民衆は侯爵の罷免と食糧価格の引き下げにとどまらず、マドリード警備兵と服装取締令の廃止を要求した。王は自ら宮廷のバルコニーに立って群衆の要求を呑んだ。しかしそれでは収まらず、暴動は勢いづいて全国へ伝播していった。1767年2月の勅令が、暴動の首謀者として全土からイエズス会が財産没収のうえ追放された。そして英仏の啓蒙思想はホベジャーノスや、フェイホーによって輸入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築いた。18世紀後半、貴族と教会が農法の啓蒙活動を展開した。貿易も急速に成長し、貴族らはアメリカ独立戦争の際、アメリカ独立派に軍事援助を行った。
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エスキラーチェ暴動
18世紀スペインは都市部から農村部に人口が流出した。バレンシアは1718年から1794年の間に、その人口が25万強から93万強となった。住民数が十万を超えた都市はマドリードとバルセロナだけであった。バリャドリッドやブルゴスなど多くの都市が衰退した。しかしラティフンディオ(大規模農場)は、そこを羊の大群が往来し、小麦とオリーブ栽培は結果として粗放となって収量が極度に低いものとなった。18世紀末に近づくにつれて飢饉が長期化した。1756年から1773年で小麦輸入量は1730万ブッシェルにのぼった。1783年の鉱業条例で、大鉱山がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。1789年フランス革命がおきた。1793年スペインがフランス第一共和政と争った(フランス革命戦争)。1796年スペインはサン・イルデフォンソ条約を結んだ。共和政に破れたスペインはフランスの属国としてイギリス・ポルトガルに宣戦布告した。ナポレオン率いるフランス第一帝政とも関係を維持した。1805年スペイン海軍・フランス海軍はイギリス海軍に破れた(トラファルガーの海戦)。ナポレオン戦争はスペイン領フロリダをふくむアメリカ植民地との貿易を遮断した。主戦場の一つとなったカタロニアで綿工業がほぼ壊滅した。
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トラファルガーの海戦
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スペイン継承戦争におけるビーゴ湾の海戦
1759年啓蒙専制君主カルロス3世が即位した。25年もナポリ王であった彼は、財務大臣にエスキラーチェ侯爵を起用した。1765年7月、侯爵は穀物の最高取引価格設定を廃して流通を自由化した。するとマドリードのパン価格は1761年と比べておよそ二倍となった。そして1766年エスキラーチェ暴動がおきた
。民衆は侯爵の罷免と食糧価格の引き下げにとどまらず、マドリード警備兵と服装取締令の廃止を要求した。王は自ら宮廷のバルコニーに立って群衆の要求を呑んだ。しかしそれでは収まらず、暴動は勢いづいて全国へ伝播していった。1767年2月の勅令が、暴動の首謀者として全土からイエズス会が財産没収のうえ追放された。そして英仏の啓蒙思想はホベジャーノスや、フェイホーによって輸入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築いた。18世紀後半、貴族と教会が農法の啓蒙活動を展開した。貿易も急速に成長し、貴族らはアメリカ独立戦争の際、アメリカ独立派に軍事援助を行った。
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エスキラーチェ暴動
18世紀スペインは都市部から農村部に人口が流出した。バレンシアは1718年から1794年の間に、その人口が25万強から93万強となった。住民数が十万を超えた都市はマドリードとバルセロナだけであった。バリャドリッドやブルゴスなど多くの都市が衰退した。しかしラティフンディオ(大規模農場)は、そこを羊の大群が往来し、小麦とオリーブ栽培は結果として粗放となって収量が極度に低いものとなった。18世紀末に近づくにつれて飢饉が長期化した。1756年から1773年で小麦輸入量は1730万ブッシェルにのぼった。1783年の鉱業条例で、大鉱山がスペイン植民地全体で解放されることが定められた。1789年フランス革命がおきた。1793年スペインがフランス第一共和政と争った(フランス革命戦争)。1796年スペインはサン・イルデフォンソ条約を結んだ。共和政に破れたスペインはフランスの属国としてイギリス・ポルトガルに宣戦布告した。ナポレオン率いるフランス第一帝政とも関係を維持した。1805年スペイン海軍・フランス海軍はイギリス海軍に破れた(トラファルガーの海戦)。ナポレオン戦争はスペイン領フロリダをふくむアメリカ植民地との貿易を遮断した。主戦場の一つとなったカタロニアで綿工業がほぼ壊滅した。
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トラファルガーの海戦
1808年3月ブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この傀儡国王は国辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生、全土へ拡大した(スペイン独立戦争)。その際、フランス軍は多くの市民を虐殺した。
![](https://image01.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/eb12965d22aea542.jpeg)
ゴヤ作「マドリード、1808年5月3日」
ナポレオンは自ら兵を率いて介入したが、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン公爵率いる英葡軍に苦戦した。公爵にはネイサン・メイアー・ロスチャイルドが戦費を配達した。ホセ1世は1808年12月にフランスを見習い、封建制を廃止する政令を出していた。1811年8月の政令で貴族の特権的領分は各自治体のものとなった。国民議会は、ホセ1世率いるフランス傀儡勢力から避難した先のカディスで、スペイン1812年憲法が制定された。しかし1814年5月にカトリック派の強い反対を受け撤回された。そしてフランス勢力はスペインから追放され、ブルボン家のフェルナンド7世が復権し、絶対主義政策を推し進めることになる。
1820年ラファエル・デル・リエゴ将軍がスペイン立憲革命を達成した。このとき1812年憲法が復活した。貴族と教会がなお議会に干渉し革命同年の法律を制定した。十分の一税が廃され、しかし各種公課は金納となった。メスタ(ギルド)が不当な利益を得て、零細農民が土地を追われた。一連の法律は1923年まで有効に運用された。ウィーン体制の崩壊を恐れて神聖同盟がスペインに干渉し、リエゴ将軍は処刑されてしまう。1825年リベルタドーレスが南米最後の植民地ボリビアを独立させた。アメリカ大陸でスペインはキューバとプエルトリコ以外の植民地を失った。1825年スペイン鉱業法は1783年の鉱業条例に影響された。
![](https://image02.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/257b87bac0e4caa5.jpeg)
リエゴ将軍
1833年に第一次カルリスタ戦争(フェルナンド7世死後の王位継承問題及び共和派と保守派の対立による)がおき、自由主義勢力がマリア・クリスティーナ(イザベル2世(女王)の補佐に就任)に味方した。マリアの故郷両シチリア王国はカール・マイアー・フォン・ロートシルトが財政を支えていた。絶対主義者たちカルリスタは貴族とカトリック派であった。1835年6月に修道院は原則としてスペインの外債を償却する金を得るためにために国有化され、1845年までに競売にかけられ、教会財産の70%以上が処分された。バレアレス諸島の場合99%が人手に渡った。1851年3月、バチカンの教皇庁と協定した。教皇は過去における財産没収の合法性を認めた。スペインは教会が合法的手段で財産を回復する権利を認め、未だ払い下げていない資産を返還、さらに教区の司祭に対して年俸を支給することに同意した。
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ゴヤ作「マドリード、1808年5月3日」
ナポレオンは自ら兵を率いて介入したが、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン公爵率いる英葡軍に苦戦した。公爵にはネイサン・メイアー・ロスチャイルドが戦費を配達した。ホセ1世は1808年12月にフランスを見習い、封建制を廃止する政令を出していた。1811年8月の政令で貴族の特権的領分は各自治体のものとなった。国民議会は、ホセ1世率いるフランス傀儡勢力から避難した先のカディスで、スペイン1812年憲法が制定された。しかし1814年5月にカトリック派の強い反対を受け撤回された。そしてフランス勢力はスペインから追放され、ブルボン家のフェルナンド7世が復権し、絶対主義政策を推し進めることになる。
1820年ラファエル・デル・リエゴ将軍がスペイン立憲革命を達成した。このとき1812年憲法が復活した。貴族と教会がなお議会に干渉し革命同年の法律を制定した。十分の一税が廃され、しかし各種公課は金納となった。メスタ(ギルド)が不当な利益を得て、零細農民が土地を追われた。一連の法律は1923年まで有効に運用された。ウィーン体制の崩壊を恐れて神聖同盟がスペインに干渉し、リエゴ将軍は処刑されてしまう。1825年リベルタドーレスが南米最後の植民地ボリビアを独立させた。アメリカ大陸でスペインはキューバとプエルトリコ以外の植民地を失った。1825年スペイン鉱業法は1783年の鉱業条例に影響された。
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リエゴ将軍
1833年に第一次カルリスタ戦争(フェルナンド7世死後の王位継承問題及び共和派と保守派の対立による)がおき、自由主義勢力がマリア・クリスティーナ(イザベル2世(女王)の補佐に就任)に味方した。マリアの故郷両シチリア王国はカール・マイアー・フォン・ロートシルトが財政を支えていた。絶対主義者たちカルリスタは貴族とカトリック派であった。1835年6月に修道院は原則としてスペインの外債を償却する金を得るためにために国有化され、1845年までに競売にかけられ、教会財産の70%以上が処分された。バレアレス諸島の場合99%が人手に渡った。1851年3月、バチカンの教皇庁と協定した。教皇は過去における財産没収の合法性を認めた。スペインは教会が合法的手段で財産を回復する権利を認め、未だ払い下げていない資産を返還、さらに教区の司祭に対して年俸を支給することに同意した。
1856年の銀行諸法が公布され、複数発券銀行制を採用し、やがては都市ごとに発券銀行がおかれた。そして1856年の信用会社法は銀行の広範囲な業務活動を可能にした(公債引受・租税徴収・産業助成・商業銀行)。そしてスペインに鉄道熱がおこり、このときロスチャイルド家のサラゴサ・アリカンテ鉄道が誕生した。しかし1866年バルセロナ証券取引所の鉄道株が暴落し、鉄道建設は停滞した。1868年、飢饉とともに第三次カルリスタ戦争がおこった。この市民革命で臨時政府が成立した。1869年の鉱業法がスペインの鉱産資源が海外資本に奪われていくことになる。鉄鉱石がイギリスとベルギーのものとなった。鉛は英仏資本が進出し、亜鉛はベルギー資本が独占した。銅と黄鉄鉱は英国資本が手中におさめた。フランスが採掘するアストゥリアス州の石炭は需要の不足に苛まれた。この法律によりスペインはさらに衰退していくこととなる。
![](https://image02.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/80db5ce82d444f3e.jpeg)
メイン号
1873年スペイン史上初の共和制移行が行われ、サヴォワ家のアマデオ1世は退位した(第一共和政)。翌1874年スペインは経済界に歓迎されて王政復古された。1878年、第一次キューバ独立戦争が終結し、1880年にキューバに対する奴隷漸廃法が成立した。1884年スペイン領サハラ?を獲得した。1898年、スペインを大量の害虫(アブラムシ)が襲い、ブドウ産業を中心に大きなダメージを受けた。1893年、フランスとの交渉の結果、スペイン領モロッコ?を獲得した。1898年ハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈した。そこで米西戦争が勃発した。敗北したスペインはキューバとフィリピンの独立を許した。しかしプエルトリコ?の割譲は免れた。キューバから移民とその貯蓄が戻ってきたことにより、国内工業を強化できたら。米西戦争は「大惨事」として語り継がれた。敗戦の衝撃から98年世代と呼ばれる知識人の一群が生まれた。その一人ホアキン・コスタは水力政策を国家資本で主導しようと画策したが、売国的な財政政策に阻まれ挫折してしまった。1900年ごろ、スペイン領ギニア(赤道ギニア)を獲得した。
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米西戦争
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メイン号
1873年スペイン史上初の共和制移行が行われ、サヴォワ家のアマデオ1世は退位した(第一共和政)。翌1874年スペインは経済界に歓迎されて王政復古された。1878年、第一次キューバ独立戦争が終結し、1880年にキューバに対する奴隷漸廃法が成立した。1884年スペイン領サハラ?を獲得した。1898年、スペインを大量の害虫(アブラムシ)が襲い、ブドウ産業を中心に大きなダメージを受けた。1893年、フランスとの交渉の結果、スペイン領モロッコ?を獲得した。1898年ハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈した。そこで米西戦争が勃発した。敗北したスペインはキューバとフィリピンの独立を許した。しかしプエルトリコ?の割譲は免れた。キューバから移民とその貯蓄が戻ってきたことにより、国内工業を強化できたら。米西戦争は「大惨事」として語り継がれた。敗戦の衝撃から98年世代と呼ばれる知識人の一群が生まれた。その一人ホアキン・コスタは水力政策を国家資本で主導しようと画策したが、売国的な財政政策に阻まれ挫折してしまった。1900年ごろ、スペイン領ギニア(赤道ギニア)を獲得した。
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米西戦争
1904年アンダルシアでゼネストの嵐が吹き荒れた。1906年スペインは超保護関税を採用した。経済界の強い要望で、政府の近代化政策をことごとく頓挫させていた。しかし、1907年恐慌がスペインを刺激した。1908年11月、軍需産業(ヴィッカース等)に対して、スペイン政府は2億ペセタ?の契約を与えた。1910年からストライキの件数が倍増していったが、スペイン労働者の大多数は労組に加入していなかったため、大規模な暴動に発展することはなかった。スペインは第一次世界大戦を中立で乗り切り、軍需品輸出で利益を上げていたが、スペインかぜ(インフルエンザ)の流行により、スペイン経済は不況に陥った。輸出入両方が、ドイツ帝国の無制限潜水艦作戦で行えなかった。1919年5月、超反動政治家のシエルバは軍をコルドバに派遣して南部のストライキを弾圧した。1921年、第3次リーフ戦争(モロッコでの反乱)でスペインは軍事的大損害を出ながら、1926年にフランス軍の援軍を得てリーフ戦争を鎮圧した。 1922年マウラ政府が退陣した。1923年から1930年まで、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍が軍事独裁政権を樹立した。将軍はカタロニア等の自治を廃した一方で、ラティフンディオ(大農場)の所有者とは協調した。1930年秋にアンダルシアが異常乾燥にみまわれ、軍事政権に対する国民の不満が噴出した。軍事政権は世界恐慌の中にある世界経済からスペインの経済を切り離して被害を少なくしようとしたが、50万人の失業者が出てしまったことも第二共和政の推進に一役買った。翌1931年アルフォンソ13世が亡命して君主制が崩壊した。スペイン1931年憲法が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和政はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与えた。共和政下では女性参政権も認められた。1931年に失業保険国民金庫が設立された。1933年までに同金庫に割り当てられた予算額は、年間5000万ペセタにのぼり、国家予算の25%に及んだ。失業保険国民金庫は、よく機能することが出来た。しかし農地改革は富裕層等を恐れ中々着手をしなかった。
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ミゲル・プリモ・デ・リベラ
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ミゲル・プリモ・デ・リベラ
スペイン内戦も参照
第二共和政の開始以来、左派(共産主義・無政府主義・社会民主主義)と右派(ファシズム・王党派・カトリック派)の間の対立は日を重ねるごとに激化していった。抗争も度々おき、国民の間では議会制民主主義に対する不信感を持つものが数少なくなかった。また左派、右派内でも対立があり、スペインは極めて不安定になっていた。1936年2月の選挙でスペイン左翼共和党? (IR)、スペイン社会労働党? (PSOE)、スペイン社会民主党?(PSDE)、スペイン共産党? (PCE) ら左派連合のマヌエル・アサーニャ? スペイン人民戦線政府が成立した。これに対抗したフランシスコ・フランコ?将軍のモロッコでの軍部反乱が、人口を等分するスペイン内戦に発展し国民経済を分断した。
![](https://image02.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/57eb8a14bb21fe71.jpeg)
フランシスコ・フランコ
8月初め共和国軍はカタロニア、バスク、アストゥリアスといった主要工業地帯のすべてを手中におさめていた。農業地帯では新カスティーリャ、レバンテ、アンダルシア東部、アラゴンおよびエストレマドゥーラの一部がその勢力下にあった。共和国は、軽工業と重工業をほぼ独占していたが、食料は園芸作物・オリーブ・かんきつ類の生産に特化している地域へ依存した。ブルゴスを拠点とする反乱軍は、勢力圏内で全国小麦生産の2/3と、じゃがいも・野菜の半分以上と、砂糖の九割を生産した。反乱軍は工業生産の不足を解消するため、8月ビスカヤに猛攻を仕掛け12月に制圧した。ビスカヤはスペイン国民総生産36%の源泉であった。偏った二つの経済圏は外国の支援も需要した。共和国は当初、左派であった点からソビエト連邦より、反ファシズムの立場からフランス、メキシコ、および国際旅団の支援を受けた。反乱軍はナチス・ドイツ、イタリア王国、ポルトガルなどから支援を受けた。
![](https://image02.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/f67b20a66499954f.jpeg)
支援物資を荷下ろししているソ連船
1937年ごろから共和国内、反乱軍内で内部対立が起きるようになった。
共和国内では共産党(共産主義)と左翼共和党(無政府主義)、社会労働党(社会主義右派)、社会民主党(社会民主主義)の間で対立が激化した。1937年5月に共和国政府からソ連の息のかかった共産党が脱退した。共産党はソ連の支援の元で臨時革命政府を作り、反乱軍と共和国軍相手に戦闘を開始した。国際旅団は共産主義者と民主主義者で分裂した。共和国政府は反ファシズムだけではなく、反ソの立場が鮮明になったことで、イギリス・フランス・ポーランド・ルーマニア・フィンランド・ユーゴスラビアから手厚い支援を受けることができた。
反乱軍内ではフランコらのファヘランへ党?の軍が平気で教会を砲撃し略奪を繰り返したことで、カトリック派が猛反発した。1937年6月、キリスト教民主党は秘密裏に共和国政府と交渉し、教会の権利保障、民主主義の維持等を約束した上で共和国側に寝返った。そして植民地軍は共和国政府に協力する代わりに戦後自治権を与えることを約束され、共和国政府側に立場を変えた。また王党派とフランコ派との間での対立も激化し、最大の支援国、イタリア王国はどちらの敵にもなることは出来ないとして撤兵してしまった。
多くの国の手厚い援助により、共和国政府は有利に立ち回ることができた。1937年12月にはどこからも支援のなかった王党派が共和国政府に降伏する。1938年3月にはソ連は義勇兵撤兵を決め、翌4月には臨時革命政府が降伏する。
1938年5月にはドイツ軍、ポルトガル軍が撤退した。孤立無援のフランコ反乱軍は必死に抵抗したものの、同年8月3日に降伏し、スペイン内戦は終わりを迎えた。国土は荒廃し80万人が死亡した。
![](https://image01.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/69b89c51840f13f9.jpeg)
ソ連よりレンドリースされたT-26戦車
独伊軍相手に強力な攻撃力で圧倒した。レンドリースは共和国政府からの共産党脱退・蜂起まで続いた。
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フランシスコ・フランコ
8月初め共和国軍はカタロニア、バスク、アストゥリアスといった主要工業地帯のすべてを手中におさめていた。農業地帯では新カスティーリャ、レバンテ、アンダルシア東部、アラゴンおよびエストレマドゥーラの一部がその勢力下にあった。共和国は、軽工業と重工業をほぼ独占していたが、食料は園芸作物・オリーブ・かんきつ類の生産に特化している地域へ依存した。ブルゴスを拠点とする反乱軍は、勢力圏内で全国小麦生産の2/3と、じゃがいも・野菜の半分以上と、砂糖の九割を生産した。反乱軍は工業生産の不足を解消するため、8月ビスカヤに猛攻を仕掛け12月に制圧した。ビスカヤはスペイン国民総生産36%の源泉であった。偏った二つの経済圏は外国の支援も需要した。共和国は当初、左派であった点からソビエト連邦より、反ファシズムの立場からフランス、メキシコ、および国際旅団の支援を受けた。反乱軍はナチス・ドイツ、イタリア王国、ポルトガルなどから支援を受けた。
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支援物資を荷下ろししているソ連船
1937年ごろから共和国内、反乱軍内で内部対立が起きるようになった。
共和国内では共産党(共産主義)と左翼共和党(無政府主義)、社会労働党(社会主義右派)、社会民主党(社会民主主義)の間で対立が激化した。1937年5月に共和国政府からソ連の息のかかった共産党が脱退した。共産党はソ連の支援の元で臨時革命政府を作り、反乱軍と共和国軍相手に戦闘を開始した。国際旅団は共産主義者と民主主義者で分裂した。共和国政府は反ファシズムだけではなく、反ソの立場が鮮明になったことで、イギリス・フランス・ポーランド・ルーマニア・フィンランド・ユーゴスラビアから手厚い支援を受けることができた。
反乱軍内ではフランコらのファヘランへ党?の軍が平気で教会を砲撃し略奪を繰り返したことで、カトリック派が猛反発した。1937年6月、キリスト教民主党は秘密裏に共和国政府と交渉し、教会の権利保障、民主主義の維持等を約束した上で共和国側に寝返った。そして植民地軍は共和国政府に協力する代わりに戦後自治権を与えることを約束され、共和国政府側に立場を変えた。また王党派とフランコ派との間での対立も激化し、最大の支援国、イタリア王国はどちらの敵にもなることは出来ないとして撤兵してしまった。
多くの国の手厚い援助により、共和国政府は有利に立ち回ることができた。1937年12月にはどこからも支援のなかった王党派が共和国政府に降伏する。1938年3月にはソ連は義勇兵撤兵を決め、翌4月には臨時革命政府が降伏する。
1938年5月にはドイツ軍、ポルトガル軍が撤退した。孤立無援のフランコ反乱軍は必死に抵抗したものの、同年8月3日に降伏し、スペイン内戦は終わりを迎えた。国土は荒廃し80万人が死亡した。
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ソ連よりレンドリースされたT-26戦車
独伊軍相手に強力な攻撃力で圧倒した。レンドリースは共和国政府からの共産党脱退・蜂起まで続いた。
1938年10月1日に1938年憲法(現在のスペイン共和国憲法)が公布され、第三共和政が開始された。第二共和政に比べ民主主義的な憲法、政治システムとなった。地方自治が推進され、植民地は海外自治州となり、本土と平等に扱われることとなった。第1回下院選挙は1938年10月下旬に行われ、社会民主党と社会労働党の連立政権となった。
戦後処理は過酷を極めた。町中が家がない人々や戦災孤児たちで溢れていた。この事態が解決するには3年要することとなる。また戦争犯罪者への追及も始まった。フランコをはじめとしたファヘランへ党の幹部たちは死刑や終身刑など厳罰に処された。また共和国に反旗を翻した共産党・臨時革命政府のメンバーらも極刑となる。一方で王党派はあまり重い罪には問われなかった。何故なら国民の中でも王党派は沢山おり、なおかつ彼らの裏切りがフランコらを敗北へと追い込んだ要因の一つになるため、厳しい処罰を与えることができなかったためである。
![](https://image01.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/7ea1e5c10cd9db29.jpeg)
先頭により廃墟となった街
戦後は産業や経済の立て直しに邁進した。また軍の再編にも力を入れた。英仏などと友好関係を築く一方、独伊やソ連とは関係が悪化した。1939年に第二次世界大戦が始まると、スペインは中立宣言をした。枢軸国は、守りの固いピレネー山脈によるスペイン侵攻の泥沼化を危惧し戦略的価値も比較的高くないため、スペインには攻めてこなかった。スペインは枢軸国から度々脅迫を受けた。1942年には連合国へ海軍・空軍基地の設置を許可して大きく貢献することになる。ドイツの敗北も明白になった1944年8月3日に枢軸国に宣戦布告し、連合国へ加盟した。主にフランス南西部とイタリア北部への侵攻を行った。1945年5月にドイツは降伏した。
戦後処理は過酷を極めた。町中が家がない人々や戦災孤児たちで溢れていた。この事態が解決するには3年要することとなる。また戦争犯罪者への追及も始まった。フランコをはじめとしたファヘランへ党の幹部たちは死刑や終身刑など厳罰に処された。また共和国に反旗を翻した共産党・臨時革命政府のメンバーらも極刑となる。一方で王党派はあまり重い罪には問われなかった。何故なら国民の中でも王党派は沢山おり、なおかつ彼らの裏切りがフランコらを敗北へと追い込んだ要因の一つになるため、厳しい処罰を与えることができなかったためである。
![](https://image01.seesaawiki.jp/k/u/kakutetsu/7ea1e5c10cd9db29.jpeg)
先頭により廃墟となった街
戦後は産業や経済の立て直しに邁進した。また軍の再編にも力を入れた。英仏などと友好関係を築く一方、独伊やソ連とは関係が悪化した。1939年に第二次世界大戦が始まると、スペインは中立宣言をした。枢軸国は、守りの固いピレネー山脈によるスペイン侵攻の泥沼化を危惧し戦略的価値も比較的高くないため、スペインには攻めてこなかった。スペインは枢軸国から度々脅迫を受けた。1942年には連合国へ海軍・空軍基地の設置を許可して大きく貢献することになる。ドイツの敗北も明白になった1944年8月3日に枢軸国に宣戦布告し、連合国へ加盟した。主にフランス南西部とイタリア北部への侵攻を行った。1945年5月にドイツは降伏した。
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