2.2 改修準備中

マドリード
Madrid
マドリードの街並み
市章
スペイン共和国
マドリード州?
マドリード県
面積605.77km2
標高655m
人口3,165,235人
人口密度5,225.14人/km2
市長マヌエラ・カルメーナ・カストリージョ(スペイン社会党)
市議会与党スペイン社会党
守護聖人San Isidro Virgen de la Almudena
時間帯UTC+1 (夏時間: UTC+2)
地図
マドリードはスペイン共和国の首都。マドリード州の州都であり、マドリード州?の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。人口は約325万人、都市圏人口は679万人であり、ヨーロッパ屈指の世界都市である。スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊都市とともにマドリード首都圏を形成している。 紋章はイチゴノキとクマで、第二共和政開始までは王冠があったが外されている。

マドリード市庁舎

旧紋章

歴史

マドリードの地には先史時代から人間が住んでいた。古代ローマ時代にはコンプルトゥムと呼ばれた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝のムハンマド1世が現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。

旧王宮(現在は博物館と美術館になっている)
1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世に助言するための最初の議会がこの都市で開かれた。ユダヤ教徒やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。

カスティーリャ王国とアラゴン王国が連合したのち、16世紀にカルロス1世の元でスペイン王国としての融合が進んだ。1561年にフェリペ2世が宮廷及び首都をマドリードに移した。マドリードが首都とされたのは、国土のほぼ中央にある地理的条件や、水が豊富で気候が穏やかだったことによるとされる。スペインの黄金時代にマドリードは新大陸から流入する富によって栄え、文化の一大中心地となった。

スペイン帝国の最大版図

18世紀にフェリペ5世は、ヨーロッパの首都としてふさわしいようにマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行ったものの、マドリードが近代的な都市となったのは、カルロス3世の代であった。彼の時代に、当時の市街の東端にあった王室の土地がレティーロ公園として整備されて市民に開放され、また現在プラド美術館として使用されている建物が建設された。マドリードの歴史の中でもっとも人気のあるカルロス3世は「最良の市長であり王」と呼ばれた。

カルロス4世が即位すると、マドリードは反乱を起こした。1808年、息子のフェルナンド7世に率いられたアランフエスの蜂起のあと、カルロス4世は退位し、スペイン王家はフランスに追放されて、ナポレオンの兄であるジョゼフ・ボナパルトがホセ1世としてスペイン王位に就くこととなった。5月にナポレオン・ボナパルトの部隊がホセを王位につけるためにマドリードに入城した。5月2日、これに反発するマドリード市民はフランス軍に対して反乱を起こしたが、鎮圧された。この時の光景を画家フランシスコ・デ・ゴヤが描いたものが、『マドリード、1808年5月3日』である。しかしこの蜂起はスペイン全土に波及し、1814年まで6年間にわたって継続するスペイン独立戦争の口火を切る形となった。1814年に最終的にナポレオン軍は敗北し、フェルナンド7世が王位に復帰したが、復帰したフェルナンドは極端に復古的な政治を行ったため、19世紀の間は自由主義派と保守派の争いが続いた。

『マドリード1808年5月3日』

20世紀に入っても、マドリードは産業があまり興っておらず、経済的には非常に停滞していた。スペイン内戦(1936年 - 1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは内戦が勃発した1936年7月19日から20日にかけて反乱軍の蜂起が起きたものの瞬時に鎮圧され、共和国軍の手に残された。そして内戦期を通じて共和国側に保たれ、バルセロナやバレンシアと並ぶ政府の拠点だったが、1936年11月、マドリードを奪取しようとするフランコ軍が猛攻撃を開始し、政府機能はバレンシアへと移された。この猛攻はしかし共和国軍の猛抵抗によって食い止められた。その後、反乱軍、政府軍双方で仲間割れが起き、最終的には英仏などの支援を得ることができた共和国軍が勝利した。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった。

共和国軍の兵士達
共和国軍の勝利の後、マドリードの南は工業化され、人口が急増した。現在に至るまで、マドリードはイベリア半島の経済的な中心としての地位を固め、成長を続けている。

政治

マドリード市議会は57人で構成される(過半数29議席)。1991年以降国民党から市長が選出されてきたが、2015年の総選挙でスペイン社会党が20議席獲得し、9議席獲得したスペイン左翼党と連立することで同党のマヌエラ・カルメーナ・カストリージョが24年ぶりに左派市長が誕生した。国民党は21議席獲得したが、7議席獲得したスペインキリスト教民主党と連立しても過半数にわずかに届かず、社会党との連立交渉も挫折し下野することになった。

交通

航空

アドルフォ・スアレス・マドリード=バラハス空港?が市内の北東12kmの位置にあり、地下鉄で結ばれている。ヨーロッパや南北アメリカ各国からの便が就航している。ターミナルは4つあり、行先によって使い分けられている。地下鉄には第2ターミナルと第4ターミナルで乗ることができる。

鉄道


マドリード地下鉄5号線
スペイン国鉄の主な駅としては、南部にアトーチャ駅、北部にチャマルティン駅がある。全部で9路線あり、通勤通学のための近郊列車のほか、国内主要都市に向けて高速鉄道AVEが通じている。長距離路線が多く、駅のターミナルは、荷物検査もあり空港のようである。

マドリード地下鉄路線図
市内と郊外にはマドリード地下鉄?が縦横に走っている。マドリード地下鉄の開業は1919年であり、最初の路線は1号線の一部の3.5kmであった。マドリード地下鉄には13の路線と295の駅があり、総延長は280km以上に及ぶ。市内をほぼ網羅しており、市民、また観光客の足として活躍している。地下鉄当局によれば、一日に250万人、2009年には延べ約6.5億人が利用している。

地下鉄網の発展は目覚しく、2007年春には、南北の新市街地を中心に大規模な拡張工事が行われた。新設されたライトレールの3路線を含め、新しく敷設される約81kmに79個もの駅が開業した。またこの一環で、バラハス空港第4ターミナルへの地下鉄乗り入れが実現している。

教育

マドリード・コンプルテンセ大学はスペインでもっとも大きく、伝統のある国立大学である。1499年にアルカラ・デ・エナーレスで創立されたが、その起源は1293年にさかのぼる。1836年にマドリードに移設され、1927年に現在の位置に移された。スペイン内戦でこの大学の地区は戦場となり、大きな被害を被った。

観光地


マヨール広場

プエルタ・デル・ソル
マドリード市は、スペイン国内において人気の高い観光地の1つであり、幾つもの名所が存在する。

主な観光地

  • エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ
マヨール広場
  • 王宮
  • オリエンテ広場
  • プラド美術館
  • レティーロ公園
  • ティッセン・ボルネミッサ美術館
  • ソフィア王妃芸術センター - ピカソの『ゲルニカ』が展示
  • スペイン広場
  • ラス・ベンタス闘牛場
  • カサ・デ・カンポ - スペイン最大の都市公園。
繁華街・歓楽街
  • プエルタ・デル・ソル : 中心部
  • グラン・ビア : ショッピング街
  • セラーノ通り : 高級ブティック街
  • プラサ・デル・アンヘル : 飲み屋街
  • プ-ラサ・デ・サンタ・アナ : 飲み屋街

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