作家・堀辰雄についての資料室

戦争時代の「大和路」
 

 『大和路・信濃路』を解説した文に次のようなものがある。

   『大和路・信濃路』は、堀が戦争中に書いたものであり、ある意味では戦争に対
  する抵抗を示すものとも言える。ただそれは、抵抗という感じからはあまりにも遠
  く、内面的かつ個人的な、真に日本的なものへの凝視である。(福永武彦『日本文学
  全集』)

 『大和路』もしくは『信濃路』のなかには、戦争に対する反抗がみえるという。しかし、ここにも書かれている通り、『大和路・信濃路』には直接的に当時の時代状況についてはふれていない。ただ、それらしいものを拾ってみると、「十月」にある。

   すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとして
  る事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。
  (「十月」)

という「いまどきの人間の工夫しようとしている事」は情けないと書いている。これがどこまで戦争のことを指しているかは疑問であるが、戦争があったこの時代の人間の情けなさを少しながら指しているともいえる。
 しかし、やはり直接的な抵抗はされていない。これは、その当時の、直接的に戦争への反抗はできないという状況が、当然ながらに存在する。「その時代に生きている人間にしたら、何も言えないんです。言えば連れて行かれますからね。」(堀多恵子『山ぼうしの咲く庭で』)と、あからさまな抵抗をしてしまってはいけない状況であった。騒がしさの遠いところで、ひっそりと静かにしていなければいけないような感じだろうか。
 堀辰雄は『大和路』によって戦争に抵抗しようと考えていたのだろうか。目にみえるような抵抗はしなかったが、「遠く、内面的かつ個人的な、真に日本的なものへの凝視」をすることによって、戦争時代の日本の愚かな姿を反面に映していたともいえる。
 どんな時代、人によって書かれた文学であれ、時代環境には少なからず影響を受ける。
『大和路』が書かれた昭和一八年頃は、戦争が文学においても大きく影響している頃である。この頃の堀辰雄周辺の状況は手紙などをみると、少しながらそれがわかる。

戦争中は月に一度信州東京間を往復し、終戦の大詔は軽井沢にて、そのあったこ
 とを聞きました。
  (鹽谷贊より堀辰雄宛 昭和二一年七月九日)
久し振りで神田をブラブラ歩いてみました。おほがたの本屋も荷物の様に店をし
 てたちのきをまっています。
  (遠藤周作より堀辰雄宛 昭二〇年四月七日)
こちらにいると、東京などの様子、殆ど分からず、ただもう「何者か」にすべて任せた気持ちで、糞おちつきに、本ばかり読んでいます。
(川端康成宛 昭和19年9月9日)
この頃において東京の空襲が猛烈のやうですが、そちらはいかがとお案じして居ります。こちらはまだ静かでただもの凄い寒さを相手にだけして暮らしてをります。
(丸山泰治宛 昭和20年2月21日)

 東京ほどではないにしろ、軽井沢にも戦争の影響はあっただろう。そんな騒がしい状況のなかで、静かに暮らしている堀辰雄の姿がみえてくる。
 戦争とは国を守るため、国を広げるため、国の名前を高めるため、などといった様々な解釈ができるが、国のためという精神がそこにはある。しかし、日本は昭和一二年、一四年には盧溝橋事件、ノモンハン事件と今からみれば暴走ともいえる行動を起こしている。日本が日本のためにおこなっているだろう行為が日本を苦しめ、東京などは人々の生活をストップさせる。こんな時代状況を、堀辰雄がどれくらい認識していたかはわからない。ただし、堀辰雄がどんな態度で接していたのかは、はっきりしている。無言の抵抗である。

   文学者もまた戦争に協力すべきかどうかということが話題になり文学者がなにか
  につけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされていることをよく知っている私は、
  保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかと
  いうことを口にした。すると堀君は言下に、もの静かではあるが断乎とした調子で、
  そんなことは、到底自分にはできないと云った。(略)堀君は終戦後、自分は戦争中
  は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが、当時私の知っていた
  どの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。(河盛好蔵『堀
  辰雄全集』「二つの思ひ出」)

 「保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く」ということを拒否した堀辰雄は、無言の抵抗をしたとみられるだろう。堀辰雄の態度は、静かながらも、強い抵抗があったといえる。

   主人は戦争のことについては何も言わなかった人です。最近ある大学の先生が教
  えて下さったんですけど、昭和一二年ですから、日中戦争がはじまったころころで
  すね「第1次世界大戦のときにリルケが戦争については何も言わないほうがいいと    
  言った」ということを主人が書いているそうです。そのくらいのことでもそんなこ
  とを書いたって文句言われてるらしくて。(堀多恵子『山ぼうしの咲く庭で』)

 ちょっとした発言が気にされるほどの時代であったが、「戦争については何も言わないほうがいい」が堀辰雄の戦争に対する姿勢であった。前文にも触れられているとおり、自身がそう書いている。

   リルケは大戦当時、終始沈黙を守っていたやうです。カロッサは「ルウマニア日
  記」など書いてゐますが、あれも大戦が終わり、それについてあらゆる騒がしい戦
  争文学が氾濫したあとで、静かに現はれました。本当の文学といふものは、さうい
  ふ風にしか生まれぬものだと確信いたして居ります。(「文藝」昭一二年一〇月号 
  巻頭)

 このリルケに習った戦争に対する態度は、堀辰雄の文学に対する姿勢を示している。
 また、『大和路』についてもそれを示しているといえる。

   時代の圧力は間接的な形で、堀辰雄の世界に反映し、その世界を質的に規制する
  ことをためてはいない。『かげろふの日記』から『姥捨』をへて、『曠野』へと、諦
  めと悲劇の影がだんだんと色濃くなってゆく経緯にそれははっきりあらわれている。
  そのような反映が作品のうちにみられるということは、堀辰雄が沈黙のうちに、ひ
  そかに、時代に抵抗していることを物語っている。(佐々木基一『堀辰雄』)

 騒がしさのあとで、静かになっていく。その騒がしい中に堀辰雄自身は入っていかずに、遠いところでそれをじっと待つ。「『鹿鳴集』の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活を蘇らせてみたりしていた。(「十月」)」と騒がしさのあとの静けさを描こうとしている。
 『大和路』が描いた「内面的かつ個人的な、真に日本的なものへの凝視」とは、愚かな工夫をする戦争人を裏返しにした、大和路の騒がしさのあとに残った本物の姿を描くことによって、時代に反抗しているかのようにみえた、ということである。
 騒がしさのあとに本物が浮き出ることを『匈奴の森など』という作品のなかでも書いている。

   欧州大戦当時、この森の中に閉じこもって数年の間、不安に暮らしていたドイツ
  人たちのことは、ちょっと小説に書けそうな気もします。(略)大戦当時のこの「匈
  奴の森」を背景にして、ドイツ人たちが絶えず、何かに怯やかせながら暮らしてい
  るところを ─ しかし最後まで何の出来事らしいものを起こらせずに、ただそう
  云った不安な雰囲気のやうなものだけで、そしてその間のおのづから一人一人の性
  格が浮かび出てくるやうな風に、一つの小説を書いて見たいとも思っています。
  (「匈奴の森など」)

 不安ななかで、静かに時間が過ぎていったあとには「一人一人の性格が浮かび出てくるやうな」人間の本質とでもいうべきものがあるとしている。これは「突然、松林の奥から古代の風景が君の前にひらけるような瞬間を待っているわけなのだね。(「死者の書」)」といった感覚だろう。
 近い視点から不安な人間を描くのではなく、遠い、時間の過ぎたときに堀辰雄の描きたい本質があるということだ。騒がしい出来事が遠くなるまで待つ。その騒がしさの跡が背景にて描かれるようになったとき、そこには本質が待っている。これは堀辰雄の戦争に対する姿勢、または『大和路』からもみてとれるだろうし、堀辰雄文学全体にひろがている考え方であろう。そして先の「ある意味では戦争に対する抵抗を示すものとも言える。ただそれは、抵抗という感じからはあまりにも遠く、内面的かつ個人的な、真に日本的なものへの凝視である。」という言葉につながっている。

   「大和路・信濃路」は昭和一〇年代の精神的、文学的な諸問題を、大和や信濃の
  風物などを通して表現するとともに、新たな地平を切り開こうとする試みと私は考
  えている。(中島昭「解釈と鑑賞」平八年九月号「『大和路信濃路』の世界」)

 この文を意識するならば、『大和路』は昭和一〇年代の戦争の時代的問題を、大和の風物を通して表現し、静かに反抗するとともに、堀辰雄の方向性をみせた作品である、といえる。

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