歴史・考古・民俗関連の用語解説集です。フリー百科事典Wikipedia(ウィキペディア)に負けないくらい、力入れて頑張ります。

フェリペ2世Felipe II、1527年−1598年、在位:1556年−1598年)は、ハプスブルク家?出身のカスティーリャ王国?アラゴン王国?(=スペイン)の国王。カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の子。1580年からはフィリペ1世Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。スペイン最盛期の国王で、絶対主義?の代表的君主の1人とされている。

治世と生涯

フェリペ2世は、1527年5月21日、神聖ローマ皇帝カール5世?(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世?の娘イザベル(イザベラ・フォン・ポルトゥガル)との間に生まれた。フェリペが、父カールとちがってスペインだけで教育を受けた。

1556年、父帝の退位により、スペインの王位とともにネーデルラント、フランシュ・コンテ、ミラノ、ナポリ、シチリアなどの(オーストリア大公国を除く)ヨーロッパ所領および新大陸とアジアの植民地を継承、さらに1580年にはポルトガルとその海外領土を併合し、ここに「太陽の没することのない」大帝国が出現した。しかし、領土と同時に膨大な借金も受け継ぎ、翌1557年に最初の破産宣告(国庫?支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった。彼の在位中にこれを含め計4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺える。

また、この領土の広大さとともに強力な軍がヨーロッパの勢力均衡を破壊したことから、フランス、イギリス、ローマ教皇庁の警戒心をよび、これら諸勢力を敵に回すはめとなった。その結果スペインはこれら領土とカトリックの護持のため、絶え間ない戦争に駆り立てられることになった。

彼の治世前半は、1559年に有利な条件でカトー・カンブレジ条約をフランスと締結することによって長年続いたイタリア戦争を終結させ、1571年にはレパントの海戦?ではオスマン帝国の艦隊を大破し、またネーデルラント(オランダ)の独立運動もいちおう制圧することができた。

しかし、治世末期は、しだいに強まるオランダ独立運動を抑えきれなくなるとともに、フランスの内乱(ユグノー戦争)にも深入りしすぎ、アルマダ(無敵艦隊)がイギリス海軍に大敗を喫するなど、外交・軍事面で後退を余儀なくされていった。外国への過剰な介入は、西インド諸島からの銀の流入にもかかわらず、対外債務を増大させ、再三にわたる国家財政の破綻を招いた。また、15世紀末からいちおうの発展をみた農業と手工業も、対外戦争遂行にともなう重税と国家の適切な保護の欠如から、治世最後の10年には衰退に向かった。同時に、対プロテスタント戦争という側面をもつこれらの対外戦争は、国内的にも大きい精神的緊張をよんだ。

彼の正統信仰護持の姿勢は、異端に対する厳重な取締りはいうに及ばず、祖先に異教徒の血をもつ者をも追及し、外国との知的交流をも断ってしまう結果となり、このこともスペインの没落を促す要因のひとつとなった。当時のスペインが「泥の足をもった巨人」と形容されたゆえんである。

ただし、彼は、死の直前まで国王としての使命感にあふれ、政務に精励したことで知られている。1598年9月13日、エル・エスコリアル宮?で死去。

「書類王」フェリペ2世

フェリペ2世はアラゴン王国にあった副王制を用いて帝国全体を統治した。各地に副王を置き、中央集権体制を整えたのである。1561年、国土の中央に位置するという理由でバリャドリッドからマドリード?に宮廷を遷し、スペインの「首都」が初めて確定する。のちにマドリード郊外にエル・エスコリアルを作り(1563年着工、1584年完成)、この宮殿の中から広大な領土への命令を発した。前王とは違ってほとんど宮殿に籠って政務に専念したため、「書類王」ともいわれる。彼は修道院と墓所を兼ね備えたエル・エスコリアル宮での平穏な生活をこよなく愛した。

彼が作り上げた書類決裁システムは、当時のヨーロッパでは先進的といって良いものであったが、彼の死後にスペイン王国でこのシステムを機能させられた為政者はオリバーレス伯爵?くらいであったとも言われる。

フェリペは強固な中央集権政治と緻密な官僚機構をつくりあげた。このためスパイ行為や密告が横行し、彼の理想とは裏腹に成功よりも失敗が多かったとも評される。

「カトリックの盟主」

「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペはカトリック?による国家統合を理想とした。本人も熱心なカトリック教徒であった。本家オーストリアのハプスブルク家の皇帝(フェリペからは叔父にあたる)が、プロテスタント?勢力と迎合し、その信仰を許可(アウグスブルクの宗教和議?)したことに対し不満を持ち、「カトリックの盟主」たらんことを自認したといわれている。

スペイン本国では、議会や都市や封臣の特権が取り消されたのみならず、宗教裁判によるプロテスタントの根絶が図られた。さらに宗教裁判はアンダルシア地方ではイスラム教徒にも向けられた。1559年には禁書目録?が公布され、指定された大学以外の大学でスペイン人が学ぶことも、一時的にではあるが禁止された。またフランスのユグノー戦争にも介入し、カトリック側を支援した。

このような異端不寛容的政策に対して、1568年にはネーデルラント?の反乱が、スペイン南部アルプハラース山地でモリスコ?(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こった。アルプハラースの暴動は約2年間つづいたが、フェリペは反徒を大量虐殺したのみならず、北部地方のイスラム教徒を追放した。

フェリペ2世にとって、イスラム教徒の迫害は反イスラム十字軍の再開を意味していた。スペインは北アフリカのイスラム教国からつねにその商業を脅かされていたので、こうした迫害はスペインの国益にもかかわることでもあった。北アフリカでは、フェリペはモロッコにあるセウタ、テトアン、メリリャの各要塞を占拠していた。しかし、地中海からオスマン帝国?の海軍を駆逐することには失敗した。1560年、ジェルバの戦いでは大きな打撃を受け、1571年にはレパントの海戦?で一矢を報いることができた。

レパント海戦では、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリア?をヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命してオスマン海軍に勝利した。また、1579年にはネーデルラント南部諸州(現在のベルギー)を八十年戦争(オランダ独立戦争)から離脱させ、1580年にはポルトガル王国を併合してスペイン最大の版図を獲得した。インディアス(新大陸)、フィリピン?ネーデルラント?ミラノ公国?、ブルゴーニュ家領(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国?(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えた。

しかし、1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする見方もある)。1588年、フェリペは北部諸州を支援しているイングランド?をたたくために無敵艦隊?を派遣したが、逆に敗退を喫した(アルマダの海戦?)。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ始め、貴族位や領主権などの売却や、1590年にはミリョネス新税を導入している。この頃にはスペイン領アメリカからの貴金属の着荷も最大になったが、軍事費増大による国庫の破綻は防げず、1596年に大規模なバンカロータを行わざるを得なかった。さらに同年から約3年にわたってペストが流行。スペイン帝国に盛期をもたらしたフェリペ2世が死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていた。

フェリペ2世の家庭

フェリペ2世は1543年、同年生まれのポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚した。16歳であった。マリア・マヌエラの父はジョアン3世?、母はカール5世?の妹カタリナ・デ・アウストリアであり、父方でも母方でもフェリペの従妹に当たる。1545年に長男ドン・カルロスをもうけたが、同年に彼女は18歳の若さで死去した。

1554年、11歳年上のイングランド女王メアリ(メアリ1世?)と結婚した。メアリは父カール5世の従妹に当たる。メアリとは性格が合わず、1556年に即位のためスペインに帰国し、1年半後に3ヶ月ほどロンドン?を再訪したのみで別居状態となった。既にこの当時における高齢出産の年齢であったメアリーは、婦人科系の病に冒されていた模様で、子をもうけないまま1558年にこの妻とも死別した。

1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワ?と結婚した。イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの2女をもうけるが、彼女も1568年に死去した。さらにこの年には一人息子であったドン・カルロスも死去している。

1568年、オーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(オーストリアではアンナ・フォン・エスターライヒ)と結婚した。アンナの父、皇帝マクシミリアン2世?はフェリペと同年生まれの従弟であり、母マリアはフェリペの妹であった。アナとは4人の息子と1女マリアをもうけるが、フェリペ以外のいずれの子供も夭折した。

残された子供はイサベル、カタリーナ、フェリペ(後のフェリペ3世?)だけであり、家庭的には恵まれない人物であった。
  • ドン・カルロス(1545年 - 1568年)
  • イサベル・クララ・エウヘニア(1566年 - 1633年) - オーストリア大公アルブレヒト妃
  • カタリーナ・ミカエラ(1567年 - 1597年) - サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世?
  • フェルナンド(1571年 - 1578年)
  • カルロス・ロレンソ(1573年 - 1575年)
  • ディエゴ・フェリックス(1575年 - 1582年)
  • フェリペ3世(1578年 - 1621年) - スペイン・ナポリ・シチリア・ポルトガル王
  • マリア(1580年 - 1583年)

フェリペ2世と極東

フィリピンの国名は、1542年に、当時スペイン皇太子だったフェリペ2世の名から、フィリピナス諸島と名づけられたことに由来している。また、1584年には日本からの天正遣欧使節?を謁見した。

履歴

著作権者

今紫、Yuki.M、KMT、Chuta、Suisui、Ciro、竹麦魚、でここ、Modeha、Juqipedia、Shinkansen、俊武、霧木諒二、三日月、Kazubon、Kanoe、Uraios、M-sho-gun、差の厄除け大使、ゲルマニウム、MDR-SK、Rusk、Dream100、Interwiki de、Flénu、松茸、58.0.98.220、58.98.174.25、58.232.190.240、59.134.157.11、60.238.145.117、60.238.150.106、61.215.50.206、61.45.52.37、61.45.40.184、83.23.196.187、116.82.232.148、121.112.181.172、122.134.240.195、124.44.45.70、124.96.241.202、124.96.245.175、125.192.126.227、125.192.174.138、125.192.168.163、125.192.175.84、125.196.229.25、125.196.252.177、125.196.254.208、133.43.180.7、133.205.218.137、210.146.57.45、210.159.183.20、213.3.118.74、219.116.61.246、220.220.122.203、222.227.243.28、222.11.37.91、SuisuiBot、Cprobot、SieBot、BOT-Superzerocool、TXiKiBoT、MystBot、JAnDbot、Amirobot、VolkovBot、AlleborgoBot、Nallimbot、Robbot、AlleborgoBot、LeonardoRob0t、TuvicBot、Eskimbot、Escarbot、Zwobot、YurikBot、OKBot、Gerakibot、Thijs!bot、Greenland4

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

メニューバーA



全部:
昨日:
今日:

フリーエリア

Wiki内検索

メニューバーB

■官公庁・政府機関
○首相官邸
http://www.kantei.go.jp/ ○内閣府
http://www.cao.go.jp/ ○外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/ ○国立情報学研究所
http://www.nii.ac.jp/
○アジア経済研究所
http://www.ide.go.jp/Japanese/
○日本銀行金融研究所
http://www.imes.boj.or.jp/ ○文部科学省
http://www.mext.go.jp/ ○文化庁
http://www.bunka.go.jp/ ○東洋文庫
http://www.toyo-bunko.or.jp/

■学術・研究機関
○東京大学史料編纂所
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
○法政大学大原社会問題研究所
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/

■博物館
○東京国立博物館
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=X00/proces...
○京都国立博物館
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
○奈良国立博物館
http://www.narahaku.go.jp/
○九州国立博物館
http://www.kyuhaku.com/pr/
○東北歴史博物館
http://www.thm.pref.miyagi.jp/
○秋田県立博物館
http://homepage3.nifty.com/akitamus/
○国立歴史民俗博物館(れきはく)
http://www.rekihaku.ac.jp/
○国立民族学博物館(みんぱく)
http://www.minpaku.ac.jp/

■個人ブログ
○歴史ブログランキング
http://blog.with2.net/rank1650-0.html
○縄文と古代文明を探究しよう。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/

■個人ブログ
○歴史ブログランキング
http://blog.with2.net/rank1650-0.html
○縄文と古代文明を探究しよう。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/
○膏肓記
http://dangodazo.blog83.fc2.com/
○ムラーノ城
http://ameblo.jp/mura-no

■個人HP
○世界史講義録
http://www.geocities.jp/timeway/
○海上交易の世界と歴史
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/index.html

■リンク集
○歴史大全
http://www.3haskc.com/

管理人/副管理人のみ編集できます