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【定義】

日本曹洞宗開祖とされた永平寺開山道元禅師の語録で、詳しくは『永平元禅師語録』だが、『永平広録』に対して分量が約10分の1であることから『永平略録』と通称される。

【刊行について】

・本書は、道元禅師の語録『永平広録』を寒巌義尹禅師が中国へ持参し、道元禅師の同参(=共に修行した僧のこと)だった無外義遠に校正を依頼し、もとの全10巻から全1巻に抄出されたものである。そこで、義尹禅師は本書を永平寺に将来し、更に宝慶寺寂円禅師に伝わった(この原本自体は伝わらない)。後に、『学道用心集』と同じく宝慶寺3世兼永平寺6世曇希禅師の手によって延文3年(1358)に開版されたのが「延文本」である。現在伝わるのは延文年間より遅れて「延文本」の版木を用いて印刷されたもの(「古刊本」とでも呼ばれるべきか)である。

・「延文本」の開版から久しく開版は為されなかったようであるが、江戸時代に入ると続々開版された。「寛永本」(1624〜1643)、「正保本」(正保五年、1648)等、他多数である。

【編集時期】 

『永平広録』と同じく、正しくは撰述されたものではない。道元禅師の説法等の記録をまとめたものである。特に本書は、義尹禅師の手によって中国にもたらされた『永平広録』が、無外義遠によって略されたものであり、無外義遠の「序」「跋文」によれば、その日は景定5年(1264)11月1日から1ヶ月の間であろう。

【編集経緯】

無外義遠による跋文に詳細が書かれているので参照したい。以下は原文と訳文。

【原文】
大海汪洋、眇無涯涘。嘗一滴、則百川異流具此滴中。義尹禅人。不忘乃師之志、持其広録、需為較正。得百千之十一。其権実照用、敲唱激揚、具此録中、猶海之一滴耳。脱略枝葉、不立弧危、自成一家。趙州所謂諸方難見易識、我這裏易見難識、予於此老亦云。
    書雲日  義遠題

【訳文】
大海は広々としていて、見渡しても果てがない。一滴を嘗めれば、百川の異なった流れがこの一滴中に具わっている。義尹禅人は、師の志を忘れずに、その言葉を広く集めた語録を持ち、私に校正を求めた。百千の中の十一を抄録した。道元禅師の接化に当たっての、方便も真実も、観照も実用も、問答を鼓吹し、高く掲げられた宗旨が、この語録中に具わっていることは、あたかも大海の百千の異なった流れが具わる一滴のようなものである。枝葉の問題を省略し、険峻な宗風を避けて、独自の宗風を立てられた。その宗風とは趙州従諗の言うような「諸方の善知識は見えることは難しいが識ることは易しい、自分のところでは見えるのは易しいが、識るのは難しい」ということだが、私はこの道元禅師もまたその様だと言おう。
    書雲の日に義遠が題す。

この「書雲日」というのは、春分・秋分・夏至・冬至のことであり、先の「序」からすれば景定5年(1264)11月25日の冬至であろう。何故か無外義遠は「略録」を好んだ。例えば、道元禅師の師である如浄禅師語録も無外義遠が略録として編集した(理由は様々に類推されている。如浄禅師の問題発言を削ったという説もある)。そこで、義尹が入宋して義遠に校正を求めた結果、「百千の十一を得る」とある通り、略して収めたのである。

【その後の伝播・流布】

「延文本」の存在から、それなりの流布・伝播があったことと類推はできるが、実際の状況はあまり知られない。江戸時代には次々開版され、また、註釈書等もそろうため、大変もてはやされた。それは卍山本『永平広録』を開版した卍山道白の言葉からも知ることができる。「我が門の徒、其の機、一ならず。略を好む者あり。広を好む者あり。もし略を存して、広無き時んば、則ち摂化普からず。(我が曹洞宗門の信徒の能力とは一様ではない。略された語録を好む者もあれば、広く収められた語録を好む者もいる。ただ、もし略された語録のみあって、広く収められた語録が無い時には、衆生への接化が普く広がることはないだろう。)」というものである。

難を捨て易を取ることばかりが行われてはならない。卍山師はそれを諫める。『永平略録』には『略録』の、『永平広録』には『広録』の良さがある。運が良いことに、現代の我々はそれらを容易に見ることができる。少しでも先人の言葉に触れておきたいものである。越後五合庵の大愚良寛には、『永平録を見る』と題された詩偈が残されている。そこには、容易に見ることのできない法宝を得た喜びがある(一部を抜粋)。

【原文】       【訓読】
五百年来委塵埃 五百年来塵埃に委せしは
職由是無択法眼 職して是れ法を択ぶの眼無きに由る。
滔々皆是為誰挙 滔々皆是れ誰が為にか挙する
慕古感今労心曲 古を慕ひ今を感じて心曲を労す。
一夜灯前涙不留 一夜灯前涙留らず
湿尽永平古仏録 湿し尽す永平古仏録。
翌日隣翁来草庵 翌日隣翁草庵に来りて
問我此書胡為湿 我れに問ふ、此の書胡為れぞ湿ひたると。

【訳文】
五百年もの間、ゴミの中に放置されていたのは
もともとは、宗匠に仏法を正しく選ぶ目が無かったことによる。
よどみのない説法は皆、誰のために説かれたものだろうか
いにしえを慕い、いまを感じて心の隅々まで憂えた。
(そうすると)一晩、灯火の前で涙が留まらなかった
(その涙で)湿り尽くしてしまった永平古仏の語録。
翌日、隣に住む老人が、草庵に来て、
私に問うた、この書はどうして濡れているのかと。

【内容】

『永平広録』は全10巻であったが、抄録されて『永平略録』は全1巻になった。以下にはその構成と『広録』との若干の対照を示す。

・序 無外義遠
・元禅師初住本京宇治県興聖禅寺語録 侍者 詮慧編
『広録』本来の「興聖寺語録」の一部と「大仏寺語録」の一部が混淆して収録されている。本来の両者を併せれば上堂の回数は184回だが『略録』では22回になる。
・開闢次住越州吉祥山永平寺語録 侍者 懐弉編
『広録』本来の「大仏寺語録」の一部と「永平寺語録」の一部、それから『広録』「第八・小参」が上堂として混淆して収録されている。全て併せれば上堂・小参の回数は427回だが『略録』では53回になる。
・小参
『広録』本来の「小参」は20回であるが、『略録』では4回になる。
・法語
『広録』本来の「法語」は14篇であるが、『略録』では2篇になる。
普勧坐禅儀
『広録』同様に収められている。ただし「法語」から独立している。
坐禅箴
正法眼蔵』「坐禅箴」巻の巻末に付されているものが収録された。『広録』には見えない。
・自賛
『広録』では「自賛」の前に「第九・玄和尚頌古」と「第十・真賛」が収録されていたが、全て省略された。『広録』に「自賛」は20首収められていたが、『略録』では3首になる。
・偈頌
『広録』では125首だったものが『略録』では17首になる。なお、収録された偈頌は、ほとんどが本文にまで校正が及び、義遠が行ったとは考えにくく、道元禅師御自身が校正されたとの説もある。
・奥書(註・開版時のもの) 曇希・瑞雄・以一
・跋 無外義遠・退耕徳寧・虚堂智愚

【註釈書】

古い註釈に関して言えば、江戸時代以降のものしか現存しない。『広録』に比べて多くの師家による解釈が為されているため、むしろ当時の思想状況を知るのに良い。

・『永平元禅師語録抄』(三冊一巻)
万安英種(1591〜1657)の手によるとされている(実際は分からない)。刊行は明暦3年(1657)であるが、撰述年次は(1650)である。
・『永平録雋原』(一冊)
梅峰竺信(1633〜1707)著。天和3年(1673)に版が起こされている。
・『永平語録標指鈔』(四巻四冊)
安州玄貞(?〜1710)著。
・『永平語録撃節』(三巻三冊)
徳巌養存(?〜1703)著。
・『永祖略録蛇足』(別名『高祖古仏略録弁解』、一巻一冊
本書は天桂伝尊(1648〜1735)の撰述として伝えられたが、内容と、撰述年代が延享3年(1747)であることから、天桂から4世の法孫・父幼老卵(1724〜1805)の撰述と推測されている。

【解説書等】

・鏡島元隆訳注『道元禅師語録』講談社学術文庫・1990年
詳細な解題を始め、原文に対する現代語訳も充実し、『永平略録』に関する解説はここに極まったと言っても良い。文庫本であり入手も容易である。道元禅師の宗教の基本を知る上で役立つだろう。
・大久保道舟訳注『道元禅師語録』岩波文庫・1940年
『永平略録』のみならず、『普勧坐禅儀』『学道用心集』『傘松道詠』まで収録してある。現代語訳はなく、原文と訓読文であるが、コンパクトであるため使いやすい。現在ではほとんど入手は困難だが、岩波文庫でリクエスト復刊されることもあるため、それを入手されたい。

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