あたしはじょおうさまだ。
「ユイは肩揉んで! るりちゃんと委員長はあたしの宿題やって!」
 誰も彼もがあたしに跪いて、賛美の声をあげる。
「フッキーは……えっと、あ! お菓子買ってきて! 甘いの!」
 崇拝の眼差しを向けてくるみんなを気分よく見下して、あたしはうっすらと微笑むの。
「夏菜はお料理作って。美味しくなかったらお仕置きだから!
リコはそこでじっとしててね。……何が起きても、じっとしてるの」
 この美しい微笑みを見ることこそが、彼らの生甲斐、じんせーの意味。
「小波君はこっちに来て! ……そ、そしたらぎゅってして! あ、あと頭も撫でて!」
 もちろんあたしを馬鹿になんてする人もいないし、何もかもあたしの思うがまま。
「えへへ…………ふぁ!? そ、そこは違うよぉ! そんなとこ撫でちゃ……あぅ」
 だってみんなは――あたしのドレイなんだから。

「エリ!」
 ぐるぐると、揺れてた。頭の中も耳に入る音も何もかもがぐるぐると。
気持ち悪くて泣きそうになりながら、誰かに呼ばれてあたしは顔をあげる。
 心臓の鼓動がうるさい。体に変な汗もまとわりついている。
「ふぁ……」
 ばさり。顔をあげるのと同時に、ほっぺたから音を立てて何かがはがれ落ちた。
寝ぼけ眼を擦りながら、あたしは大きく欠伸をする――だらしなく大きくあけた口からは、
気持ち悪さが逃げ出していってくれた。
「ふああぁぁぁぁぁ……」
 いつの間にか眠ってしまったらしい。
何よりもまず気になったのは、涎を垂れてなかったかどうかだった。
手で頬を軽く撫でる……うん、だいじょうぶ。
だんだんとぐるぐるがおさまっていって、
目の前にあるぼやけた顔――心配そうにこちらを見る、るりちゃんの顔がはっきりと見えてきた。
 思い返せばるりちゃんは、いつもいつも誰かのことを心配しているような気がする。
あたしのことはもちろんだけど……一番心配しているのは、彼のことなんだろうなぁ。
 ともあれそんな優しいるりちゃんのことが、あたしは大好きだ。
「大丈夫ですか? ずいぶんうなされてたみたいですが」
「るり……ちゃん……ふあぁぁぁ……」
 あたしは頭を軽く振って、もう一度欠伸をしながら机の上に手を伸ばした。
そのまま指の先に触れたしわくちゃになってしまっている
数学のノート――そのままついさっきほっぺたからはがれおちた――のしわをまっすぐに伸ばす。
 ……算数から数学になってから、 計算式を見るたびに眠くなるのはなんでなんでだろう?
三年生になってからは、それが特に顕著だ。
 口を閉じ、瞼を擦りながらそんなことを考えて、
「大きな欠伸ね、エリ」
「ふぇ、ふぇぇ?!」
 もう一度大きく欠伸をしたところで、淡々とした声が耳に突き刺さった。
慌てて横を向くと、委員長が少し怖い顔でこちらをにらんできていた。
 委員長――そのあだ名の通りクラスの委員長をやっている彼女は、いつも厳しい口調であたしを注意してくる。
けれどそれはあたしのために言ってくれてるのがわかってるから、あたしは委員長のことも大好きだ。
 二人とも大好き――そのはずなのだ。
「エリ、大丈夫ですか?」
「うん……だいじょうぶ……」
「まだ寝ぼけてるみたいね。……もう試験まで半年もないのに、大丈夫なの?」
「ふぇぇ……ご、ごめんね……」
 寝ぼけた頭では言葉の意味も理解できず。怒られた気配を感じてあたしはごめんなさいを言った。
『謝り癖は直したほうがいいわよ』そういってくれたのは、フッキーちゃんだったっけ。
それを直そうと思っても、あたしには無理なんじゃないかなって思う。
 けれど――――
「謝らなくても大丈夫ですよ、エリ。……疲れているなら、今日は早めに切り上げましょうか」
「うん…………え?」
 るりちゃんの優しい言葉は、いつも耳に心地よい。
一度なんとなく頷いた後に完璧に目が覚めて、あたしは慌てて教科書を開こうとした。
「だ、だめだよ。だって、勉強しないと!」
 パライソタウンの高校ではなく、本土の高校に進学することを選択したあたしたちは、
授業が終わった後、放課後の教室で毎日勉強会を開いている。
るりちゃんも委員長も、あたしよりものすごく頭がいいのに、
こうして勉強を一緒にしてくれている――それはとてもうれしくて、少し申し訳ないことだった。
「大丈夫よ、エリ。あたしも約束があってそろそろ切り上げるつもりだったから」
 がたがたと揺れる机の音の負けないぐらいはっきりした委員長の声に、あたしは驚いて彼女の方を見る。
少しだけ表情を柔らかくして、委員長は教科書とノートを重ね始めていた。
 怒っている様子はない――たぶん、本当に用事があるみたいだ。
「約束……ですか?」
「ええ。……少し、小野さんと話したいことがあって」
 るりちゃんの質問に、勉強道具を片付けながら委員長が答える。
小野さん――あの夏にあたしたちと深くかかわった彼女は、とてもすごい女性だった。
優しくて、料理が上手で、護身術もできて、微笑みがとても綺麗。
あんな女性みたいになれたら。そう思う人も多いみたい。
「小野さんと、ですか。……エリ。本当に大丈夫ですか?」
「う、うん。だいじょうぶ」
 るりちゃんは委員長が何故小野さんと会うのか少し疑問に思ったみたいだった。
けれどすぐにあたしの方に視線を戻して、いたわりの言葉をかけてくる。
 そんなにうなされていたのかな?
聞いてみようと思ったけど、すぐにその必要がないことに気づく。
うなされていたとしても不思議ではない夢を見ていたことを、あたしは覚えていたから。
「エリ」
「?」
「頑張るのはいいけれど、無理はしないようにね」
 ……委員長はやっぱり、優しいなぁ。
「うん。ありがとうしあピー」
「……」
「……しあピー?」
 どうやらまだ寝ぼけていたらしい。
数か月前に、ユイが委員長につけようとしていたあだ名が、あたしの口から飛び出していた。
「こ、こほん……」
 るりちゃんの不思議そうな眼差しを受けて、
顔を赤くした委員長が荷物を鞄にささっと詰める――そのままがたんと音を立てて立ち上がった。
 律儀に椅子を戻すところは、さすが委員長って感じだ。
「……と、とりあえず、先に帰らせてもらうわね。……また明日」
「あ、うん。またね」
「あの、しあピーというのは……」
「あら、急がないと待ち合わせに遅刻しちゃう! それじゃあ!」
 たたたたたたた。軽快な足音とともに委員長は図書室から出ていった。
 汗でぐっしょりと濡れた下着が、 体にまとわりつく気持ち悪さ――それをなんとかこらえながら、
あたしも帰る準備を始める。
 るりちゃんはしあピーという言葉が気になっていたみたいだけど、
適当なところで諦めたみたいだった。小さな可愛らしい溜息をつく。
「エリ」
「……どうしたの? るりちゃん」
 汗まみれだから、外に出たら寒いんだろうなぁ。
そんなことを思いながらシャーペンをケースにしまっていると、
るりちゃんが深刻そうに眉をひそめてあたしの名前を呼んだ。
顔をあげる。今まで何度も見てきた、心配そうな顔が見えた。
「本当に大丈夫なのですか? ……なんだか最近、元気が無いようですけれど」
「だ、だいじょうぶだよ」
「うそ、ですね」
 だいじょうぶ。あたしがそれを言い終わる前にるりちゃんの口から吐かれた言葉は、
微かな苛立ちを含んだものだった。
「エリはやましい所があると、眼を逸らすからわかりやすいです」
「そ、そうなの?」
「ええ……そうじゃなかったとしても、とぼけてしまえばいいのに。まあ、エリには無理でしょうけど」
「う、うん……そう、かもね」
「……どうしても、話せませんか?」
 少しだけ悲しそうに、るりちゃんが言う。
言ってしまえば楽になれる。言いたかった。言いたい、言いたい、言って泣いてしまいたい。
けれどるりちゃんには、この悩みを言えない理由がある。
 ――彼女はきっと、知らないはずだから。
「無理に聞こうとはしません。けれど――」
「あの、ね」
 だけど、るりちゃんの悲しそうな顔を見るのはやっぱり嫌で、あたしは嘘をつくことにした。
こんな時、女の子にだけ使える便利な嘘がある。
「え、えっとね…………あ、あれがちょっと重くて、調子が出ないの」
 嘘をつくのは、好きじゃないし得意でもない。けれども今回はどうやら成功したようだった。
「あれが重い? …………あ。そ、そうなんですか」
 悲しそうな顔から慌てた顔に変貌して、るりちゃんが立ち上がる。
「す、すいません。私ったら……それなら、仕方ないですね」
「う、うん。……仕方ない、よね」
 二人して苦笑する。
 なんだか微妙な空気は、校舎を出るまで続いた。


「少し小波の様子を見ていこうと思うのですけれど……エリもどうですか?」
「…………え?」
 校舎を出てすぐ、るりちゃんがあたしを誘ってきた。
その顔が少しだけ赤いのは、夕陽のせいだけじゃあないだろう。
るりちゃんは表情や態度で思っていることがとてもわかりやすい――あたしもそうみたいだけど。
「そ、その。私一人で行くと……ユイにからかわれてしまいますし」
「……」
 るりちゃんの口から彼の名前が出るたびに、あたしは悲しい気持ちになる。
るりちゃんが彼のことを好きなのは知っている。彼もるりちゃんのことは好きなのだろう。
 あたしは――
「エリ?」
「……え? あ、うん。……じゃ、じゃああたしも一緒に行こうかな」
「そ、そうですか。……ではグラウンドの方へ行きましょう」
 くるりと方向転換するるりちゃん。
一瞬だけ見えた、嬉しそうに綻ばせた顔はすごく可愛かった。
 それに嫉妬してしまう自分を少しだけ嫌に思いながら、あたしは彼女の後を追った。


 予想通りユイにからかわれるるりちゃん――あたしがいてもいなくても、
結果は同じだったのだ――の横で、 あたしはベンチに座って野球部のみんなが練習するのをボーっと見ていた。
 みんな、というのは正確じゃない。見ていたのは彼――小波君のことだ。
彼がボールを投げて、打って、掴むところを、ずっと見ていたのだ。
(……カッコいいなぁ)
 『俺がついてる』そういってくれた彼のことを、あたしはいつの間にか好きになっていた。
とはいっても、あの夏の前と彼との関係が劇的に変わったわけじゃない。
少しだけ仲良くはなったけれど、今でも彼とはあまり話をしないままだ。
 その理由の一つは、彼の周りにはいつも人がいて、あたしの入る隙がなかったことだ。
 男の子は勿論、女の子もみんな彼と話をしたがる――もともとあたしは男の子が少し苦手だし、
みんなを蹴散らして彼に近づく勇気はなかった。
 ……もしかしたら、ユイやるりちゃん、あるいは委員長と一緒に近づくことはできたかもしれない。
けれど、あたしはそれもしなかった。それは――
「エリ!」
「ふぇえええあああ!?」
 ばん、と背中を叩かれて、あたしは妙な声をあげた。
自分でも妙だと思うぐらいだから、きっとみんなにはすごく変だと思われてるのだろう。
強く叩かれたショックで飛び出す涙――それが柔らかい手で拭われる。
たぶん今まで生きてきた中で、二番目に多くあたしの涙を拭ってくれた手だ。
 横を見ると、ユイがすぐ近くに座っていた。……いつの間に近づいてきたんだろ。
「どうしたの? なんか元気ないよ?」
「ふぇぇぇぇぇ……」
「あー、泣いちゃメーっていつも言ってるのに」
 ぐずぐずと泣きだすあたしの頬に、ハンカチが押しあてられる。
自分のことを、あまり器用じゃないってユイは言うけど、
あたしの涙を拭うのはものすごくうまい。
「……ん……っく……ユイ、痛いよ〜」
「あははは、ごめんごめん……っと、こらそこー! さぼらない!」 
 朗らかに笑いながらあたしに謝った後、
グラウンドに向けてユイが叫ぶ――見ると、驚いた顔の彼がこっちを見ていた。
 気恥かしさに逃げ出したくなる。彼がすぐに目を逸らしてくれたおかげで、逃げださずに済んだけど。
「……あれ? るりちゃんは?」
 少しだけ残っていた涙をぬぐった後、
さっきまで隣にいたるりちゃんがいないことに気づいて、 あたしはユイに聞いてみた。
「あ、るりかなら用事を思い出したからって帰っちゃった。
エリにもさよならって言ってたよ? ボーっとしてたみたいだから気づかなかった?」
「えぇ?! そ、そうなんだぁ。……あしたごめんねって言わなきゃ」
「別に気にしてないと思うけどなぁ……それよりエリ。……ああ!」
 すたっ。勢いよくベンチから立ち上がって、ユイがメガホンを口にあてる。
慌ててあたしは耳を塞ぐ――一瞬だけ遅れて、手のひらを貫通するほど大きな声が頭に響いた。
「ほらほらほらー!! さ・ぼ・ら・な・い! 練習練習ー!!」
 大きな声で、耳がきーん、ってした。
ギュッと瞳を閉じてまぶたの裏を見ながらあたしは考える。ユイが何を言おうとしたのかを。
 ――ユイはたぶん、知ってるはずだ。あたしを助けたって言ってたから。
 彼女が座る気配を感じて、耳を塞いでいた両手を膝の上において、隣を見る。
 あたしが見てることに気づいたユイが、朗らかに笑った。
それはとても魅力的で、温かな笑顔だった。
「ところでエリ、最近元気ないね。どうしたの?」
 あたしがユイに見とれていると、彼女は口早にそんなことを言ってきた。
あたしは眼を逸らして、陰鬱な気持ちでつぶやく。
「……やっぱり」
「え?」
「あ、ううん。さっきるりちゃんにも同じこと聞かれたの」
「あー……るりかは心配性だもんねぇ」
 腕組みしながらうんうんと頷くユイ。
ユイにとっても、るりちゃんはいつも誰かのことを心配しているイメージなんだろうなぁ。
「で? 解決したの?」
「ううん……るりちゃんには、聞けなくて」
「聞けない?」
 不思議そうに聞き返すユイに向かって、あたしは顔をあげた。
 とてもとても怖いけれど、ユイになら聞ける――はずだ。
「ユイは……」
「うんうん」
 言葉が喉に詰まる。
 やっぱり怖い。怖くて、聞きたくないんだけど……聞かなきゃ、いけないんだよね。
 大きく深呼吸をして、あたしはあたりをきょろきょろと見回した。
今から言う言葉は、他の誰にも聞かれたくなかったのだ。
「……」
 ゆっくりと、視線を戻す。不思議そうな顔をするユイに向けて――
「……み、みんなを、ドレイにしたいっておもったこと……ある?」
「!?」
 あたしが言葉を投げると同時に、がたん。音を立ててユイがベンチから転げ落ちた。
あたしの言葉は、彼女をずいぶんと驚かせたようだった。
「だ、だいじょうぶ?」
 手を差し出して、ユイがベンチに座りなおすのを手伝う。
手伝うとは言っても、ほとんど意味はなかった――ユイはユイの力だけで、
大抵のことができるからだ。
「う、うん……それよりエリ。なんでハタになった時のこと知ってるの?
もしかして覚えてたとか? いや、それとも誰かに教えてもらったとか?」
「…………えっとね」
 ぱんぱんとスカートをはたいたユイは、あたしに質問を投げかけてきた。
ばくばくと鳴り始めた心臓は考えをまとめるのに邪魔だ。
それでもゆっくりと考えをまとめて、言葉を吟味する。
 ――遠くから、ボールがバットに当たる、かぁんという音が聞こえた。
そっちを見てみようとして、やめる。
今彼の姿を視界にとらえたら、泣いてしまいそうだった。
「あ、あんまり多くは覚えてないんだけど……ちょっとだけ、覚えてるの。
あの時、どんな気持ちになったのか。何をしたいって、思ったのか」
「……そうなん、だ」
 ユイが表情を暗くするのは、とっても珍しい。
あたしが見たの回数はたぶん、両手で数えられるぐらいしかなかった。
 ……あたしが言ったことを考えたら、たぶん無理もないことなんだろうけど。


 二か月前。中学三年生の夏休みに、あたしたちは再び宇宙人と戦った。
宇宙人やハタ人間やよくわかんない変なのがたくさんいる基地に、あたしたちは夏休み中潜り続けた。
 あたしは戦うのが得意じゃないから、るりちゃんと一緒にみんなのサポートをすることが多かった。
基地の周りで花を摘んで回復薬を作ったり。怪我した人の治療をしたり。
 けれど、彼が守ってくれる――それを期待して、
あたしは時々ダンジョンの中につれていってもらった。
あたしがいるとガラクタを見つけやすいとかで、彼も少しだけ喜んでくれた。
 そんなある日のこと。
「危ない!」
 そんな彼の声が聞こえたかと思うと、
ぴかっと何かが光って、あたしの体に激痛が走って、目の前が真っ暗になった。
 後になって聞いた話だけど、ちっちゃなUFOがいきなり現れて、
あたしと、一緒に後ろの方にいたフッキーちゃんを狙い撃ちしたらしい。
フッキーちゃんは攻撃を避けるのが上手だからなんとなかったんだけど……あたしは駄目だった。
 気絶して、すぐにハタ人間に連れ去られて、そのまま――
 頭にハタを、立てられちゃった。


 ――それでも、ユイは、やっぱりユイだった。
暗い表情を吹き飛ばし、笑顔を作ってあたしの肩にポンと手を置く。
「気にする必要はないんじゃない? あのみゆき先生だって、
ハタがたったらものすごく怖くなってたぐらいだし、エリが変なこと言っても驚かないよ」
 笑いかけてくるユイ。本当に、本当に嫉妬してしまうぐらい魅力的に笑うユイ。
それとは対照的に、あたしは泣きそうになりながら言葉を紡ぐ。
「……でも、先生は友達になりたいって言ってたよ」
「え?」
 ハタを立てられたみゆき先生とあたしには、決定的な差があった。
そのことに気付いてから、あたしは先生のことが大好きになって、自分のことが少し嫌いになった。
「……こ、怖かったけど。……友達になりたいって、先生は言ってたよ。
たぶん、それって……先生の、根っこにあった気持ち、だったんだね。
でもね、でもね、あたしはね。みんなを……ド、ドレイにしたいって、お、思った、の」
 それでもどうにか絞り出したあたしの声は、だんだんと泣き声が混じったものに変わっていった。
自分がどれだけ馬鹿なのかを理解して、ぐじぐじと涙が出てしまう。
 ――こんなんだから、みんながあたしを、
「馬鹿に、するから、みんながあたしを馬鹿にするから。
みんな、あたしに、従って。……ば、馬鹿にしなくなればいいって、思ったの」
「……」
 こういうときに、女の子は楽だ。
泣きたいだけ泣けるから。泣けばすむから。泣いてしまえば誰かが助けてくれるから。
 ――そんな最低な考えが浮かぶことが、とても悲しかった。
「それで、ね……ふぇ……ふえええぇぇぇ……」
 最後まで言葉を言うことができずに、あたしは泣きだした。
自己嫌悪の渦にのみこまれて、際限なく涙があふれ出していく。
手で顔を覆っても、ぽたぽたと涙が地面に吸い込まれていった。
「……エリ」
 ふっと、あたしの顔が柔らかくて温かいものに押し当てられた。
ユイに抱きしめられているとすぐに気付いて、あたしは涙を止めようとする。
 ……どうして、涙を止めようとするんだろう?
 ユイの胸でなら、きっと好きなだけ泣けるのに。
「それでも」
 いつも元気で明るいユイの、悲しそうな声。
こんなの声を聞きたかったわけじゃない。言わせたくもない。
なのにあたしがそれを言わせているのだ!
「それでも、気にする必要はないと思うよ?
……たぶん、それってそんなにおかしなことじゃないから」
「ふぇぇぇぇ……」
 泣きやもうとすることに集中していて、あたしはユイの言葉をよく聞いていなかった。
ただ、ユイもことさらあたしに何かを伝えたかったわけじゃないと思う。
 その声は、とても小さかったから。
「……もう、エリは真面目すぎるよ! ほらほら!」
「ふぇぇぇぇ!?! ふぇ、ひぁ、ひぇぇぇぇぇぇ?!!?!」
 突然ユイが抱きついて来て、あたしをくすぐり始める。
ユイはあたしのどこが弱いのかもよく知っている――すぐにあたしは笑い始めた。
 しばらくの間、あたしは泣きながら笑って、笑いながら泣いた。
練習を終えた野球部のみんなに見られてることに気づいて、逃げだしちゃうまで泣いて、笑い続けた。


 泣きやんだ後。あたしはユイのマネージャーのお仕事を少しだけ手伝った。
その時彼と少しだけ話ができたのが嬉しかった――にこにこと笑っている彼の顔を見ると、
悩んでいることも忘れてしまうぐらいだった。
 けれど学校を出てユイと二人で夜道を歩いていると、
すぐにあたしは元通り――暗い気持ちに包まれてしまう。
 そんなあたしに、ユイは次々に話しかけてくれた。
新しくできた喫茶店についてとか、あさっての給食にゼリーが付いてくることについてとか。
どれも明るい話題ばかりだ。あたしのことを気遣ってくれてるのが、すごくうれしかった。
 ――それでもあたしの表情が晴れないのに気づいたのだろう、ユイはこんなことを言ってきた。
「どうしても気になるなら、私じゃなくて他の人に相談した方がいいかもね」
「……え?」
 ぽかんと、間の抜けた顔をしてあたしはユイを見た。
彼女は小さく笑いながら、両の手を頭の後ろに組んで、空を見上げていた。
つられて見ると、雲ひとつない夜空に奇麗な満月が輝いている――明日はたぶん、晴れだろう。
「とは言ってもるりかは駄目だね。エリがそんなこと言ってたの知らないし、
たぶん、真面目に考えすぎて二人とも暗くなっちゃう」
「あはは……そう、かも」
 るりちゃんは、優しい上にすごく真面目だ。
話したところで、考えすぎてしまうのが目に見えている。
難しい高校を受けることを決めた彼女に、あまり心配もかけたくない。
「小波君に相談するのは……エリには難しい?」
「う、うん……ちょっと、難しいかも」
 彼の名前がユイの口から出て、ずきりとあたしの胸が痛んだ。
ユイも彼のことが好きなことを、あたしは知っている。
 ……ホント、罪づくりな男の子だなぁ。
「だったら、うーん……これは言うなって言われてたんだけど」
 ぐるんと鞄をまわして、片手で肩に背負い直す。
空いた右手の人差し指を唇にあてて、ユイは考え込むポーズを取った。
「ハタ立てられたエリを助けに行ったのって、
もちろん私と小波君だけってわけじゃないんだよね。……覚えてない?」
「う、うん……」
「残りの二人からは、一応口止めされてるだけど……」
「そ、そうなんだ? ……口止めされてるんなら、無理には聞かないけど」
「フッキーと委員長だよ」
「……」
 あたしの話を聞いていたのかな?
疑問に思いながらユイを見つめると、彼女は苦笑しながら言葉を紡ぎ始めた。
「まあ、委員長はどうしても言いたければ言ってもいいって言ってたしね。
フッキーは絶対に言うなって言ってたけど、まあ、フッキーだし」
「あはは……なんだか、フッキー可愛そう……ふふっ」
「あははは」
 てくてくと歩きながら、二人で笑う。
フッキーちゃんはいつも一人でいたがるけど、なんだかんだでみんなの大切な友達だ。
もちろん、あたしも彼女のことは大好きだ――時々お菓子もくれるし、
あたしが泣いてたらハンカチを投げつけてくれる。
「まあ、そういうことだから、二人のどっちかに聞いてみれば?
まあ、フッキーはこういう話は苦手かもしれないけど……頼りにはなりそうだし」
「う、うん……ありがとう、ユイ」
「あはは。いいっていいって。まあ、明日も頑張ろう!」
 ばんばんと背中をたたくユイ。やっぱりちょっと痛くて涙が出た。
 彼女と共に過ごす日々も、あと半年もない。
それまでに、楽しい思い出をたくさん作れたらいいな。そう思った。


〜閑話その1〜
「……そういえば、結局ユイって質問には答えてくれなかったなぁ」
 お風呂で小さくひとりごちる。
たっぷりのぬるめのお湯にじっくりとつかるのが、あたしは好きだ。
 意味もなくお湯の中に顔を沈めて、ぶくぶくと泡を出してみたり。
 大きくなってほしいと願いを込めて胸をマッサージしてみたり。
――その甲斐あってか、最近は結構胸が大きくなってきた気がする。
肩がこるまでとは大きくないし、
平均サイズなんてものもよくわかんないけど……たぶん、クラスで一番大きいんじゃないかと思う。
これ以上大きくなったら、なんだか困ったことになりそうだ。
 ――しばらく、マッサージはやめようかな。
「あんっ……」
 ちゃぽん。水滴が首筋に当たって、あたしは小さく呻いた。
そのままぶくぶくと湯船に沈んで、あたしは考える。
温かい湯船の中では、嫌なことを考えても、幸せが勝って暗い気持ちにならないものだ。
「……?」
 ユイが相談するのに進めた人物について考えていると、なんだか変な感じがした。
自分の机の上に落ちていた髪の毛が、枝毛だった時ぐらいの小さな悲しみ。
 なんなんだろう……

 確実に一緒にいたはずのメガネ君の名前が挙がらなかったことに気づいたのは、
三十分後にお風呂を出るときだった。
 ……まあ、メガネ君だから、仕方ないのかな。そんな薄情なことをあたしは思った。


 そして次の日。とりあえずあたしはフッキーと話すチャンスを探すことにした。
委員長は放課後にいくらでも話せるから、後回しにすることにしたのだ。
今日はるりちゃんのお母さんが健康診断に行くらしいから、二人きりで話せるはずだったし。
 けれどフッキーと二人で話すチャンスは、なかなか見つからなかった。
昔よりみんなと話しかけられる機会が増えたフッキーは、近頃は常に逃げ回っている。
 一人が気楽だというフッキー。確かに、本当にそうなんだろうと思う。
あたしにもわからないわけじゃない――一人でいるときは、確かに気楽な部分もある。
 まあ、あたしはみんなといる方が安心できるんだけど。
「……はぁ」
 フッキーを捕まえられないまま、三時間目の国語の授業が始まった。
勉強の中でも、国語は結構楽な方だ。物理や数学に比べたら、気を抜いていても困ることは少ない。
 小さく溜息をついて、あたしは教室を見回す。
みんなあまり授業に集中していない。男の子たちはほとんど舟を漕いでいるし、
女の子も委員長とるりちゃん以外は聞いているのかいないのか、微妙なところだった。
 みんなの様子を見ることができるのは、あたしの席が窓際の一番後ろ――教室の隅っこだからだ。
 一番後ろの席は案外先生の目が届きやすいんだよね。そうリコが言っていたのを思い出す。
確かに、先生がこっちを見る回数は結構多い気がする――もっとも、
あたしが駄目な子だから、気にかけてくれてるのかもしれないけれど。
 そんなうかつに眠ったりできない席だったけど、あたしはこの席をとても気に入っていた。
後ろの隅っこだと、ひとの視線を気にしなくていいし、
なにより彼を――中央の一番前の席にいる彼の横顔を――割と自然に見ることができるからだ。
 眠たそうに瞼を半分閉じて、舟を漕ぐ彼。
 先生に注意されて、慌てて教科書を開く彼。
 隣から回ってきた紙切れを開いて、驚いた表情を浮かべる彼。
 ――真剣な表情で、黒板を見つめる彼。
 何もかもがカッコよく――あるいは可愛らしく見える。
そんな感情は彼が関係する全てのものにさえ、影響しているような気もした。
 こんな感情のことを、委員長いわく『屋烏の愛』って言うらしい。
『きっとエリにはこの言葉が似合うわね』
 微笑みながら、彼女はそんなことを言っていた。
「……はぁ」
 あたしは頬を緩ませて、小さくため息をついた。
彼のことが好きだ。好きだけど――
 お別れのときは、確実に近づいて来ていた。


 お昼休み。いつもどこかに消えているフッキーだけど、
あたしは彼女がよく逃げ込んでいる場所を知っていた。
たぶん、幸運だったのだろう――窓からロープを伝って、屋上に上るフッキーを見たことがあったのは。
(うーん…………どうしようかなぁ)
 その場所。屋上に続く扉の前で、あたしは困っていた。
ヘアピンを何本か持ってきて鍵穴に差し込んだけど、冷たい扉は開く気配がない。
ドラマや漫画では、結構うまくいってることも多いから、大丈夫かなぁと思ってたんだけど。
(あ。夏菜に頼もうかなぁ。この前探偵になるって言ってたし)
 そんなことを思ったけど、すぐに首を振ってやめにした。
きっと夏菜は何故フッキーと話したいかを知りたがるだろう。
そうなったら、下手をしたらリコが絡んでくる――彼女はちょっとだけ、
ちょっとだけ強引すぎるのが珠に傷なのだ――詰め寄られて、話してしまわない自信がない。
 それからドアノブをしばらくひねってみたけど、開く気配は全くなかった。
「ふぇ……」
 どうしようもなくて泣きそうになるのをなんとかこらえて、ドアノブから手を話す。
とりあえず教室に戻ろう。そう思って振り返った。その途端。
 だん、だん、だん。
 大きな音が三回聞こえて、慌ててもう一度振り返る――ごつんと、何かが顔にぶつかった。
「……あれ?」
 バランスが崩れる――頭に思い浮かんだのは、中学校の思い出だった。
入学式に転んで泣いて、体育の授業中にボールがぶつかって泣いて、
マークシートのテストの終了三分前に、回答が一個ずつずれていることに泣いて、
自動販売機でなぜかおつりが出てこなくて泣いて、おみくじで大凶が出て泣いて。
「ひぇぇぇぇぇえええ?!!?」
 がたん、ごろんと階段を転げ落ちて、がん!
 頭を強く打って、あたしは気絶した。


「……ふぁぁぁ」
 大きく欠伸をしながら、あたしは眼を覚ました。
ぽかぽかの日差しがとても気持ちいい。
秋だけど、風が当たらなかったら日光浴って気持ちいいんだなぁ。
そんなことを考えながら目を擦る――はらりと、胸元にハンカチが転がった。
湿っているシンプルな白いハンカチ。名前が書いてないか探してみたけど、見つからない。
「あ、起きた?」
「ふぇあぁぁあぁ!?」
 後ろからいきなり声をかけられて、あたしは前に転がって声の主から離れた。
ぐるんごろんと転がって、体のいろんな所を地面にぶつける。
 ……痛い。
「いや、そんなに逃げなくても大丈夫だって。……頭、痛くない?」
「ふ、フッキー?」
 後ずさりしながら起き上ったあたしを、フッキーが呆れたような目で見ていた。
いつもと同じように、背筋をぴんと伸ばして立っているかっこいいフッキー。少し、見とれてしまう。
「だから…………はぁ」
 溜息をついて、フッキーが首筋に手を伸ばし、
風でひらひらと揺れているリボンを指絡ませて、もてあそび始めた。
そんなどうでもよさそうな動作でさえ、フッキーの手にかかると凄くかっこよく見えた。
「頭、痛くない?」
 こつこつと自分の頭をたたくフッキー。
言われた言葉を理解して、あたしも自分の頭に手を当てる。
そこには小さなこぶができていた。……痛い。痛くて涙が溢れ始める。
「い、痛いよぉ……」
「あー、泣かない泣かない。女の子でしょ?」
「お、女の子じゃないよぉ〜」
「……いや、落ち着きなさい」
「ふぇぇぇ…………んっ……ぐすっ……」
 手に掴んだままだったハンカチを使って、あたしは自分の涙を拭う。
一通りぬぐい終わるまで待って、フッキーは少し困ったように語りかけてきた。
「でさ、なんであんた屋上に入ろうとしたの?
えらくがたがた音がしてたから、てっきり不審者かと思ってドアノブ撃ち抜いちゃったじゃない」
「えっと、それは……って、ええ!? 撃ち抜いちゃったって……」
 慌てて振り向く、屋上のドアノブのところに小さな穴が開いていた。
先ほど聞いた音は銃声だったらしい。
 ……もしかしたら、あたしの体のどこかに穴が開いてるんじゃないかな。
実はもう死にかけてて、痛みすら感じなくなっちゃってるんじゃないかな。
 そんな考えが思い浮かぶ――怖い、怖くて、さらに涙が溢れだした。
「ふぇぇぇ……撃たれちゃったよ〜……」
「いや、本物の銃弾が当たってたらコブじゃ済まないから。
衝撃でドアノブが跳ねたのが頭にあたっただけみたいよ」
「ふぇぇ……ふぇ……ふえぇぇ?」
「いや、本当だって。……泣き声で質問するなんて、無駄に器用ね」
 小さくため息をつくフッキー。
嘘を言ってる様子はない。たぶん、あたしは大丈夫なのだろう。
急いであたしは涙をぬぐう――うん、たぶん、大丈夫。
「とりあえず、あたしに用があるんじゃないの? わざわざこんなところに来るってのは」
「……ん。う、うん。ちょっとフッキーに相談したいことがあったの」
「へ? あたしに? ……仕方ないわね。お姉さんになんでも聞きなさい」
「フッキーあたしと同い年……」
「だからフッキーって呼ぶな!」
「あははは……うん。じゃあ、フッキーちゃんは誰かを――
誰かを、ドレイにしたいって思ったこと、ある?」
 半眼で睨んでくるフッキーちゃんに、昨日ユイに言った言葉を繰り返すと、
彼女もとっても驚いたようだった――目を大きく開いて、あたしの方を見る。
そこにマイナスの感情が含まれていないことが、あたしには嬉しいことだった。
「へぇ……ハタになってる時のこと、
覚えてる人もいるってのは聞いてたけど、あんたもそうだったんだ」
「う、うん。そ、そうなの。……そうなの?」
「いや、日本語は正しく使いなさいよ。……ああ、他にも覚えてる人間がいるかってこと?
聞いた話だけど、何人かいるらしいわよ」
「そ、そうなんだ……」
 あたしだけが特別。そういったわけじゃないと知って、少しだけ楽になる。
根本的な問題は、全然解決してないんだけど。
「そうねぇ。ドレイに……うーん」
 フッキーが腕組みをして、考え始める。
ただ腕組みをして立っているだけなのに、やはり彼女はとてもかっこよく見えた。

 フッキーと話すようになった最初の理由は、出席番号が近いからだった。
 しらきえりと、しらせふきこ。
 最初の二文字が共通してるから、クラス替えをしてすぐの席が近かったのだ。
 ――それだけじゃない。出席番号順で並ぶことも結構多いから、
いろんなイベントであたしとフッキーは一緒になることが多かった。
「あたし? 白瀬芙喜子よ、よろしく」
 初めて出会った時の、あっさりとした挨拶。それをかっこいいなと思ったことを、今でも覚えている。
「し、白木恵理です。……よろしくね」
 その第一印象は、いまでも変わっていない。かっこよくて、頼りになる。
『白瀬さんって、怖いよね』そう言う友達もいたけど、あたしはあんまりそう思わなかった。
全く思わなかったわけじゃない。怖いと思う時もあった。
けれど、それ以上にかっこいいと思うことが、多かったのだ。


「悪いけど。あたしはそんなこと思ったことはないわね。
だってドレイなんてのがいたら、さらに一人の時間が減りそうだし」
「……そうなんだ」
 あての外れた答えに、あたしの口から失望の声が漏れる。
 ……あての外れた? 思い浮かんだ言葉に、あたしは自問自答する。
あたしは誰かに同意してもらいたかったのだろうか?
それとも叱責してもらいたかったのだろうか?
 ――よく、わかんない。
「でも」
 あたしが考え始めたところで、フッキーが言葉を紡いだ。
それは怒っているかのように強い力がこもっていて、けれど囁くように小さかった。
「他にもっといろんなことを考えてるわよ。……知ったらあんたが逃げ出しちゃうぐらいね」
「…………え?」
 はっきりと目を開いて、両の足で地面を踏みしめて。フッキーは囁く。
「誰にだってそういった後ろ暗いものはあるってことを言ってんの。
……まあ、大小の差とか自覚してるしてないの差はあるでしょうけど」
 少し、イライラいるのだろうか。
フッキーはこつこつとつま先を地面にぶつけ始めた。
ひらひらと彼女のスカートが風に揺れる――そんな意識できるはずもない動きでさえ、
なんだかかっこよく見える。それはきっと気のせいじゃないだろう。
「そういうのがない人間ってのは……たぶん、よほどの馬鹿なんでしょうね。
もしくは聖人君子って奴かしら。まあ、聖人君子ってのは、
馬鹿と同じ意味の言葉だから、結局馬鹿しかいないってことになるわよね」
「……」
「あんたが気に病むのは勝手だけど、『自分一人が〜』 なーんて思いこむのは、やっぱり馬鹿でしかないわよ」
「でも。あたしはみんなを、小波君も、フッキーも、ユイも、みんなを――」
 ――ドレイにしたい。そう思ったのだ。支配したいと、逆らわなくしたいと。
 そしてそれはきっと、あたしの本心なんだ。
涙がさらに、さらに溢れだす。自分のことがここまで嫌になったのは、これが初めてだった。
「悩みたいなら、悩めばいいじゃない」
「え?」
 柔らかい口調の声が届いて、あたしは少しびっくりした。
フッキーは微笑んでいた――まるで小さな子供を見るような、慈愛に満ちた笑顔。
「別に答えが出なくても死ぬわけじゃないんだしさ、悩み続けたって誰も文句は言わないわよ」
 それは子供だからと馬鹿にしているわけでもなく、ただ優しいだけの微笑みだった。
 ああ、やっぱりフッキーは……かっこよくて、優しいんだ。
「それにたぶん、あと五年もすればそんなことで悩んでたのが馬鹿らしくなるんじゃないかしら。
もしくは諦めがつくでしょうね。……大人になれば、適当に折り合いがつくもんなのよ、そういう悩みってのは」
「……」
 フッキーの言っていることは、あたしにはよくわからなかった。
これだけ悩んで、泣いて、苦しいこの気持ちが、どうでもよくなるなんて思えなかったから。
 けれど……何故か、少し気が楽になったのも確かだ。
「いいんじゃない? 泣いて悩んでぐじぐじして、泣きやんで悩んでまた泣いて。
あんたらしい、って言えばそうでしょ?」
「……バカにしてる?」
「まあ、そうかもね。……でも、泣きやむならそれでいいんじゃない?」
 あたしの少し嫌な言葉すら、フッキーは軽く受け流した。
そして急に顔を赤らめて、あたしから視線を逸らす。
身体がかゆいのか、全身をもじもじとするフッキー――心配になって、あたしは声をかけた。
「ど、どうしたの?」
「い、いや。な、なんだか恥ずかしくなってきて」
「?」 
「なんか、こう。真剣な若者のお悩み相談みたいなのって……キツイわね。
いや、バカにしてるわけじゃないけどさ……あたしこういうの苦手なのよ、うん」
「……?」
 今日のフッキーは、なんだか少し難しいことを言っている。
そういった役割を、あんまり彼女は好きじゃなかったようだ。
「あぁっ! もう!」
 けれどフッキーは両手を大きく上げて背を伸ばして、すぐにいつもの彼女に戻った。
……もじもじしていたのが可愛かったのは、たぶんあたしだけしか知らないことだ。
「……はぁ。まあいいわ。……少しは、元気が出た?」
「う、うん。……ありがとう、フッキー」
「だからフッキーって呼ぶなって……はぁ。
あたしのほうが誰かに相談したいぐらいね、ホント」
「あはははは……」
 茶化す言葉に二人で笑い合う。
と。フッキーが辺りを軽く見回した――少し、寂しげな表情で。
「しっかし、ここももう使えないわね。……いい場所だったんだけど」
 つぶやかれた言葉は、確実にあたしがここに来たことが嫌だったということを意味していた。
 慌ててあたしは口を開く――たぶん、二人にとって一番いい選択を言うために。
「ご、ごめんね。……でも、大丈夫だよ。あたしはもう、ここに来ないから」
「?」
 不思議そうに、フッキーはこちらを見た。
「だ、誰にも言わないから。フッキーの邪魔は、しないから」
「そう? ……ま、ならいいけどさ。……そろそろ昼休みも終わるから、教室に帰りましょ」
 納得したらしく、フッキーはそんなことを言ってあたしに背を向けた。
階段へ続くドア――壊れたドアに差し掛かったところで、振り返る。
ちょうどあたしが何か言おうとしてたときに振り返ったから、ちょっと驚いた。
「……そういえばさ、あんたに一つ聞きたかったんだけど」
「?」
 疑問符を浮かべた顔で、あたしはフッキーを見る。彼女は少し、困ったような顔をしていた。
――フッキーはあたしと本音を混ぜた会話をするのは、これが最初で最後だと思っているんだ。
 なんとなく、あたしはそんなことを思った。
「どうして、あたしなの?」
「……え?」
「あんたが頼ることのできる相手ならいくらでもいるじゃない。
そりゃあ、頼られたなら手は貸すけどさ。……あたしの必要はなかったんじゃない?」
「――」
 あたしは口を開いて何かを言おうとして――何も言えずに閉じた。
何を言えばいいのか、それを考えようとする。けれどすぐに、何も考える必要がないことに気づく。
 一度大きく深呼吸してから、あたしは再び口を開く。
 たぶん、フッキーがハタを立てられたあたしの言葉を知っていたからだけじゃあ、ない。
今フッキーに伝えたいのは……たぶん、あたしの素直な気持ちだ。
「仲良くしたかったから。かな」
 キョトンとした顔。
「フッキーと仲良くしたかったから。いつもかっこよくて、頭もよくて、
可愛くて、優しいフッキーと仲良くしたかったから……そんな理由じゃ、駄目?」
 恥ずかしい言葉を口に出して、あたしは気づいた。
 ――ああ、そうなんだ。ドレイにしたいとは思ったかもしれないけど、
みんなが好きなことには、変わりないんだ。
「……」
 たぶん、あたしが伝えたかったことは、ちゃんと伝わったんだと思う。
褒められて少し照れたのか、顔を赤くしてフッキーがあたしから眼を逸らす。
 そしてつぶやかれた言葉は、注意してないと聞こえないほど小さかった。
「駄目じゃないわよ。……そっか。そういうことね」
「?」
「誰でも勘違いすることがってあるってことか。あんたも、あたしも、誰もかもみんなが」
 遠い目であたしを見つめて、フッキーがつぶやく。
それはあたしに言いたかった言葉じゃなくて、自分のための言葉のようだった。
「ひゃ……」
 冷たい風が吹いて、あたしは目を閉じて身をちぢこまらせた。
風がないと気持ちいけど、風が吹くと秋の屋上は非常に寒い。
 足音が聞こえて、あたしはゆっくりと目を開いた。目の前に――
「ほら、もう後一分もないわよ」
 ――差し出される手のひら。それを掴んで、あたしは立ち上がった。


〜閑話その2〜
「堤、ちょっといいかしら?」
「……なんでしょうか?」
「悪いけどさ、かくかくしかじかなわけで屋上のドア壊しちゃって。
あんたならばれないうちに直せないかしら? あんまり面倒事にしたくなくってさぁ」
「……どちらかというと、壊す方が得意なのですが。まあ、できないこともないですよ」
「あら、じゃあよろ」
「ただし。ただ、というわけにもいきませんが」
「…………こっそりガメといた壊れた機械」
「交渉成立、ですね」
(……あいつら、何話してるんだろ?)

続く?]]

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