「おかえりなさいです!」
 帰宅して靴を脱ぐ前に小さな人影が居間から走ってきて私に飛びついた。
 いつものように、私はよろけながらそれを受け止める。
  「ただいま、茜。ちゃんとご飯は食べたのか?」
  「はいです。アカネは5%増量セール中なのです。」

 私の名前は高坂章正。大神グループ第6課に勤めるサラリーマンだ。
 課長職とはいえ、出世街道からは離れてしまっている。
  「今日はこの前の定期テストの結果が返ってきたのですよ?」
  「あ…ああ、なるほどな。」
 見てみると数学100点、英語100点、…やれやれ。
 当然のこととはいえ、こうも満点が続くとげんなりする。
 答案用紙から目をはずすと、茜は得意そうになにかを期待してこちらを見ている。
  「ん、なんだ?」
  「えへへ、まだあるのです!今日は美術の授業でお父さんの絵を描いたのです。」
  「ま、お前のことだから完璧な絵なんだろうな。」
 軽い皮肉をこめて私はいなし、ネクタイをはずす。
 手渡された絵をなにげなく受け取って、私は凍りついた。

 幼児が描いたような書きなぐり。「おとうさん」とゆがんだ字。

 思わず私は茜を平手打ちしていた。
 あれに手を出したのはそれが初めてだった。
 怒ったのではない。私は途方もなく怖かったのだ。

 私が会長に呼び出されたのは、それが初めてのことだった。
 秘書にここで待つようにといわれた場所で私たちは不安そうな面持ちで顔を見合わせた。
 植草、田上、そして私。
 いずれも出世街道から離れた40超えの連中である。
 会長みずから引導を渡す気になったのだろうか?

 やがて、通された会長の部屋は薄暗くて天井の照明だけがやけにまぶしかった。
 …薄暗いのにまぶしい?
 会長の存在感に圧倒されているからそう感じるのだと、しばらくして気がついた。
  「6課の高坂君。7課の植草君。8課の田上君。」
 会長は一人ひとり名前を読み上げると椅子にすわったまま私たちを見下ろした。
 いや、私たちは立っていたから見下ろされるはずがない。だがそう感じたのだ。
  「今日から君たちにはわがグループの新商品の開発に協力していただく。」

 新商品。けげんそうな表情をうかべる私たちの目の前に、3人の女の子が連れられてきた。
 うつろな目つきをしているが、いずれも10代なかばだろう。
 ひとり幼く見えるのがいて、髪の毛がひとふさ真上にゆれていた。
  「今日から、この子達を娘として育てていただきます。」
 女の子たちを連れてきた、だらしなく白衣を来た男はそう宣言した。
 どうしてそんな勇気があったのかわからないが、私はようやく声を絞り出した。
  「あの…わたしは結婚すらしておりませんが。」
 白衣の男が私の目の前に戸籍を突きつけた。私は結婚して、死別したことになっている。
  「このくらいのことが大神にできないとでも思っていたのかね?」
 会長は愉快そうに、そう言った。

 この日から私の恐怖は始まったのだ。

  「絵ですか?おかしいですね。彼女たちなら、完璧なデッサンで描けるはずですがね。」
 白衣の男は首をかしげた。

 こんなに汚いデスクは見たことがない。どうも技術職の連中はだらしない。
  「とりあえず、参考のためにその絵をいただきましょうか。」
 捨てなくてよかった。私はしわをのばした絵を彼に手渡した。
  「ははあ、なるほど。記憶からのイメージ想起ですね。」
 うなづいて絵を返してくる。
  「記憶ブロックに阻害されて、正確な描写ができないのですよ。」
 のどがからからになった気分で手をのばした私は、ファイルの山をくずしてしまった。
 人物の写真つきのデータファイルが床にちらばる。
  (第3世代アンドロイド?)
  「あ、だめですよぉ。
   その資料、口外すると首が飛びます。ええ、リアルにね。」
 白衣の男はニヤニヤしながら首を切り落とすアクションをした。

 帰りに偶然、エレベータの中で植草に会った。
  「君のところはどうだい?」
 小声でたずねてみた。
  「ああ、最高さ。いいオモチャをもらったな。」
 え?…聞き違いではないのか?
 再度たずねると彼はゆがんだ笑いを浮かべた。
  「まさか、まだ使っていないのか、君は?
   さすが、社内で聖人とうわさされているだけのことはある。」
 再度たずねると彼は教えてくれた。
  「あれはセクスドールさ。そのために作られてるんだ。」
 ぎょっとして私は彼の顔を見つめた。
 彼は声を押し殺して笑っていた。ひゅうひゅうと口から息を吸い込む音がもれた。
 その表情、あきらかに彼は狂気に犯されつつあった。

  「お父さん、おかえりなさいです!」
 あいまいに答えた私に、茜は身体を押し付けてくる。
 植草の話を聞いていた私は、おもわず嫌悪に身をふるわせた。
  「?どうしたのです、パパさんは。」
 下から見上げる媚を売る表情。まるで商売女のように…
  「やめろ!」
 私が叫ぶと、茜はびくっと身をすくませた。
  「アカネ、なにかいけないことしましたですか?」
 口の中でもごもごと言い訳しながら居間に逃げる。
  「アカネが人間として大事なものが欠けているから、愛してくれないのですね?
   ショックです。100万ボルトぐらいショックです。
  こうなったら実力行使です!」
 茜がタックルしてきた。
 私は思わず、茜を突き飛ばしていた。
 ごん。
 いやな音がした。
 テーブルの角にあたった?あわてて私は茜の様子を見た。
  「痛いです。アカネの大事なところが痛いです!」
 頭から大量の血を流しながら、茜は無邪気に笑った。

 それはとても恐ろしい光景だった。

  「なんなんだ、あの回復力は。あれじゃ人間じゃないことが一発でばれるぞ。」
  「大丈夫ですよ、製品版は人間並みに傷の回復力を落とす予定です。」
 こともなげに白衣の男は答える。
 この男は自分が神だとでも思い込んでいるのか?

  「そんな技術があるのに、どうして精神面を完全にしないんだ。」
 え?と不思議そうに白衣の男はこちらを見る。
  「人間として大事なものが抜け落ちてるんだろ?彼女たちには。」
 ああ、と彼は笑みを浮かべた。
  「本人がそう言ってたんですね。
   あれ、ウソです。」
 こんどは私はきょとんとする番だった。
 くくくっ、と笑いながら彼は説明した。
  「そう思い込ませてあるんですよ。
   自分たちは不完全な存在だ、ってね。
   普通の人間に対してコンプレックスを持っていると、なにかと操作しやすいですから。」 
 わたしは唖然と目の前の男を見た。
  「じゃあ、涙はどうなんだ。あの子は泣けない。」
  「うっとおしいじゃないですか。乱暴して泣き出したら気分がなえるでしょ?」
  そばの水槽を指差す。
  「まあ、時々は涙の出るタイプも作ってるんですよ。
   たまにはそんなのもいいかと思って。
   でも失敗作だと思ったらそこの装置で溶かしちゃうんです。ジューッとね。」
 こいつは神かもしれないが、完全に狂っている。

 その夜、茜が私のベッドにもぐりこんで来た。
 純粋な笑顔で私の顔をのぞきこんでくる。
 やわらかい身体と体温を感じる。肌のなめらかな感触に陶然とする。
 「アカネを愛してくださいです。」
 愛らしい唇が言葉をそっとつむぎだす。
 それにくちづけできれば、なんと心地よいことだろう。

 (なんだ、立たないの?)
 大学生のとき、私は初めて女とベッドに入った。
 緊張していた私が、さんざん前戯しても立たないことにいらだった女は小馬鹿にしてそう言った。
 (男として大事ななにかが欠けているわね。)
 それ以来、私は女を近づけなかった。

 茜の顔が、あのときの女の顔と重なった。
 私は絶叫して茜をベッドから突き落とした。そのまま狂ったように殴りつける。
 家庭内暴力、という単語が頭の中をよぎったが、そうしないと発狂してしまいそうだった。
 私の中のトラウマが、隠していた傷があばかれた。純粋な天使によって。
 
 われに返った私は茜の手当てをし、茜が寝入るまでそばで謝り続けた。
 はれ上がった茜の寝顔を見ながら、私はつぶやいた。
  「お前、心のない人形だったらよかったのにな。」
 一瞬、茜がぴくりと反応したような気がした。
  「幸せしか見えない人形なら、よかったのにな…」

 あの夜から、私はささいなことで茜に暴力を振るうようになった。
 このままだとあの子を殺してしまうかもしれない。 
 私は茜と離れて暮らすことにした。
 「パパはお前と一緒に暮らせないんだ。誰か、一緒に暮らしてくれる家族を見つけるといい。」
 自分でも信じていない言いわけだ。しかし茜はすなおに聞き入れた。
 
 アルバイトとホテルは私が手配した。だが、初日からあの子はホテルを利用しなかった。
 ホテルからの連絡で心配した私は、探し回ってそばの公園でダンボールで作られた奇妙な巣を見つけた。
 なんと、名前が書いてある。
 (アカネハウス1号、ね。)
 どういうわけか笑みがもれ、私は携帯電話で撮影した。いつでも会社に報告できるように。

 それから数ヶ月がすぎた。会社はなんの報告も要求してこない。
 時々様子を見に行ってみたが、元気にやっているようだ。
 アカネハウスが作り直されるたびに私は写真をとった。だんだん立派になっていく。

 そんなある日、公園を出たところで突然私は胸倉をつかまれた。
 相手は若い女だった。黒いコートを着ている。美人の部類に属する女だ。
  「まったく、やってくれたわね。
   見事な経歴査証よ。クライアントにウソを報告しちゃったじゃない。」
 息ができずにわたしはあえいだ。
  「あなた、高坂章正さんでしょ?アカネの父親の。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
 私が拒絶すると、女は腹を蹴った。痛い。空腹だったので吐かなかったが、胃液が口からたれた。
 だが、私は笑い出しそうだった。
 この女の暴力は怖くない。痛くて死んでしまいそうだが、純粋で単純だ。
 大神のような狂気に満ちてはいないし、魂が腐ってしまいそうな恐怖もない。
  「あなた、本当は結婚してないわね。あの子はいったい何者なの?」
 動揺を抑えようとしたが、それだけで目の前の女には十分だった。
  「そう…やっぱり、まともじゃないのね、あの子は。」
  「違う!」
 私は怒声を放った。女は驚きに目を丸くする。

 白衣の男の笑い、植草の狂気、会長の見下した目、フラッシュバックする。
 『溶かしちゃうんです。ジューッとね』『ああ、最高さ』そして茜のはれ上がった顔。

  「まともじゃないのは我々なんだ…あの子は、犠牲者なんだよ!」
 私は地面にうずくまって泣き出した。

 ある日、仕事中に電話が鳴った。
 茜が公園で暮らしているからひきとれという内容だった。風邪で倒れたらしい。
 ずいぶん落ち着きをとりもどしていた私は、いい機会だと思った。
 こんどこそちゃんとした親子になろう。

 公園で私を待っていた男を見て、不意に既視感にとらわれた。どこで会った?
 「あの家です。」
 アカネハウスを指差した男がこちらを向いた瞬間に思い出した。床に散らばったファイルの中の写真。
  (だ、第3世代!)
 なぜだ。
 なぜ大神製のアンドロイドが私の娘の居場所を私に教える?
 陰謀。罠。忠誠心のテスト。
 さまざまな単語が私の頭の中をうずまいた。口の中がカラカラになる。
 茜が出てきたとき、私はいきなり娘の顔を張り飛ばした。強い口調でなじる。
 突然、腕をつかまれた。
  「なんだね君は。君が私に連絡してきたのではないのかね。」なんという強がり。
  「アカネは貴方と一緒に居てはいけない!」
 え?
 突然、すべてのピースがぴったりはまった。
 こいつは何も知らないのだ。自分が何者かさえ。
 そして、茜のことで本当に怒ってくれている。
  「フン!か、勝手な事をほざきおって。」
 あとは簡単だった。適当に相手をあおってから、私は逃げ出した。
 さようなら、茜。私の娘。本当の家族を見つけたのだな。

  「これでよかったの?」
 会社に帰ろうとすると、背後から黒いコートの女が私に声をかけてきた。
 この女は天涯孤独、自分の力だけで世の中を生きてきたのだろう。
 それがどうした。
 私だって社会の中で天涯孤独、必死になって生きてきたんだ。

  「当たり前のことを聞くな!
  娘の幸せを願わない親などいるものか。」

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