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【定義】

江戸時代の学僧。号は隠之、名は道顕。卍山道白禅師の門下として、各地で授戒会を開かれ、その宗乗の宣揚に尽力した。

生没年:寛文元年(1663)〜享保14年(1729)
俗 姓:藤岡氏
出身地:加賀国金沢(現在の石川県金沢市)

【内容】

加賀国金沢で、藤岡氏の父と、富樫氏の母の間に生まれた隠之道顕禅師は、幼少時から俊英として知られ、藩の儒学者からの推薦を受け、儒学を京都でも学んだほどであった。しかし、15歳の時に越中・立山を登山中に鐘の音を聞き、それを三宝の擁護であると感じた隠之禅師は、金沢帰宅後しきりに大乗寺月舟宗胡禅師を訪ねて仏縁を得て、19歳の時に大乗寺の卍山道白禅師を受業師として出家された。当初の法名は欄牛であったという。

出家してからは、卍山禅師の命で、宇治禅定寺の月舟禅師の下や、月舟禅師の命で下総・正泉寺の徳翁良高禅師に参じるなどして、25歳の時には江戸駒込・吉祥寺?掛錫した。その後は、天台宗の寛永寺で天台教学を学び、真言宗の霊雲寺にも上られ密教も学ばれた。他にも、臨済宗の盤珪永琢禅師や、黄檗宗の諸師に学ばれた。34歳の時、参学師であった月舟禅師が遷化されると、同年中に大乗寺は現在地に移転されるなどしたが、移転先の大乗寺で隠之禅師は只管打坐され、「身心一如し、物我共に忘れ、自在三昧を得る」とある通り、大悟徹底された。翌年には卍山禅師の下で「入室密付」された。更に翌元禄11年(1698年・師36歳)には永平寺で転衣されると、各地の寺院から住持として拝請されたが固辞し、元禄13年から卍山禅師は「宗統復古運動」のため江戸に上られたが、隠之禅師は本師に随侍して、運動の成就まで側に仕えた。運動の終了後、隠之禅師が首座を勤め法幢師であった東昌寺の大安和尚から請われたため、東昌寺にて首先住職された。

東昌寺では、『永平清規』『瑩山清規』を行じるなどして安居の制を厳とし、参じる学人は多数であった。東昌寺には17年いたが、妙喜庵に退隠?された。しかし、その後も美濃妙應寺に入り、また、武蔵瑞光寺・美濃阿弥陀寺などを開いた。最晩年となる享保14年6月に病を得てから、真俗2万人余りに帰戒法脈を付して、末後の転法輪とされた。7月1日卯刻に、「四大分明、虚空を離れて没蹤跡」と遺偈を書かれると、喝一喝して遷化された。瑞光寺であったとされる。世寿67歳、法臘49年であった。

法嗣は黙山?元轟禅師や乙堂?喚丑禅師など60人余り、得度の弟子や戒弟の数は記録できないほどであった。

瑞光隠之禅師語録?』(全11巻)が残る。

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