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タグ検索で建撕記は14件見つかりました。
大仏寺
て詳述する。[[面山]]瑞方は『訂補[[建撕記]]』で、大仏寺の名の由来について、「大仏寺は[[如是]][[居士]]の号なり、(中略)如是の[[開基]]のゆへに、大仏寺と号せらる」とし、[[波多野義重]]の法号である「大仏寺殿如是源性大居士」に因んだものだと推定している。 『[[永平広録]]』巻2は、その詳しい題名が「開闢越州吉祥山大仏寺語録」となっており、大仏寺での説法の記録となっている。その冒頭の記述などから、寛元2年(1244)7月18日に[[道元]][[禅師]]やその会下の僧が[[吉峰寺]]など…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%e7%ca%a9%bb... - 2018年09月19日更新
傘松道詠
。なお、余談だが、この和歌は古写本『[[建撕記]]』では「冬雪きえで」であり、そちらが古い形態であろう。 昨今の道元禅師の全集本では『[[道元禅師和歌集]]』と呼ばれることが多いが、本来ついた名前ではない。『傘松道詠』は、[[永平寺]]が当初「傘松峰大仏寺」であったと主張する面山の発案だとされている。しかし、最近の研究では、「傘松峰」という呼称は確認されていない。 なお、この著作には様々な問題点がある。そもそも、和歌のほとんどが[[道元]]禅師に名を借りた偽作、或いは従来の作品のマネではないのではない…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b1%be%be%c6... - 2023年02月05日更新
示近衛殿法語
][[禅師]]が書写して伝え、後に『[[建撕記]]』に収録された。まず、近衛殿と謁見した事実については、道元禅師が元々松殿基房(藤原氏)の[[猶子]](養子)になった事実や、[[興聖寺]]を開く際に弘誓院殿(九条教実)から[[法座]]を寄進されていることなどからすれば、あり得ない話ではない。 また、内容には、「[[仏心宗]]」と自称していることを挙げて、『[[正法眼蔵]]』「[[仏道]]」巻との齟齬を指摘する者もいるが、どうしても自らが伝えた「宗派」を自称するには、何かを用いなくてはならず、ここでは分か…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bc%a8%b6%e1%b1... - 2010年07月23日更新
三祖行業記
』があり、また『[[伝光録]]』や『[[建撕記]]』との対応も考えなくてはならない。 &color(blue){''【内容】''} 道元禅師・懐弉禅師・義介禅師の3人についてまとめて伝記にされたものであり、成立時期は義介禅師が[[示寂]]された延慶2年(1309)から、応永年間の間であろう。内容としては、これら3人の祖師の修学から[[悟道]]までを詳細に論じている点に特徴があり、悟道後については比較的簡明な内容である。 特に、道元禅師についてはその御生涯の様子は著作や語録などから多くを知ることが可能…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bb%b0%c1%c4%b9... - 2007年02月23日更新
深草寺
]を受くるの弟子二千有余輩なり。 『[[建撕記]]』''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%bf%bc%c1%f0%bb... - 2011年11月04日更新
仏法禅師
のだが、天皇から下賜された事実はなく、『建撕記』にその名の経緯を示すものである。 ''[[開山]][[大和尚]]之御名、数多あり。一道元、二[[希玄]]、三[[義元]]、四仏法禅師と申す。由来は日本天台宗四教五時の名目を記したる文み、一本あり、其中に、天竺震旦日本仏法興起之次第ヲ記取したる中に云、大唐曹洞宗僅に存すと云々。其次に云、吾国中、越前[[永平寺]]開山大和尚仏法禅師、[[入宋]]伝之、稟承[[曹洞宗]]、帰朝之後、立永平寺安置之、等令門派相続云々。委細可尋者也。 『[[建撕記]]』'' …
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ca%a9%cb%a1%c1... - 2010年07月22日更新
招宝七郎大権修理菩薩
録に不分明。至後来、能々可尋之。 『[[建撕記]]』'' なお、[[曹洞宗]]では[[本堂]]の[[須弥檀]]裏に、守護神として祀り、朝課の[[仏殿諷経]]にて[[回向]]する。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%be%b7%ca%f5%bc... - 2009年01月10日更新
八部衆
に出て蟠居、天女下て香花散す也。 『[[建撕記]]』''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c8%ac%c9%f4%bd... - 2010年03月01日更新
吉祥山命名法語
[面山]]瑞方師は自らが書いた『訂補[[建撕記]]』にて「[[傘松峰]]」であったとしている。そして、宝治2年(1248)11月1日に[[吉祥山]]に改められたとしているのだが、その典拠として京都[[道正菴]]にあるという額字を挙げている。 ''南閻浮題大日本国越前国吉田郡志比荘傘松峰、今日より吉祥山と名づく。諸仏如来の大功徳、諸吉祥中最も無上なり、諸仏倶に此の処に来入す、是の故に此の地最も吉祥なり。'' しかしながら、大仏寺を傘松峰と号した事実は他の資料に確認できず、例えば祖山本『[[永平広録]…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b5%c8%be%cd%bb... - 2007年02月20日更新
回心向大
[願文]]也トテ[[聴許]]之。 『[[建撕記]]』''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b2%f3%bf%b4%b8... - 2008年11月15日更新
一葉観音賛
て詠じた[[偈頌]]のこと。瑞長本『[[建撕記]]』に所収されている。 &color(blue){''【内容】''} 道元禅師が入宋する際に、船中で病気をしていたようなのだが、波が高くなって船が揺れてくるとそれが心配になって、いつの間にか病気が治まっていたことを示す一文がある。 ''病は心に随ツて転ずるかと覚ユ。世間にしやくりする人、虚言をもし、わびつべき事をも云ひつけつれば、其れをわびしき事に思ひ、心に入れて、陳ぜんとするほどに、忘レてその病止るなり。我レも当時入宋の時、船中にして痢病をせしに…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b0%ec%cd%d5%b4... - 2007年02月09日更新
玄明
したことがあるようである。そこで、『[[建撕記]]』に依拠して考えてみたい。[[道元]]禅師は鎌倉の北条時頼の下に行き説法した後で[[永平寺]]に帰るのだが、その後になって北条時頼は寄進を申し出てきたとされている。 ''師、帰越の後、西明寺殿願心を留めし、為に越前国六條歩を供養すと雖も、師これを受けず。'' しかし、[[道元]]禅師は寄進を申し出た最明寺殿(=時頼)に対して、にべもなく断っている。そして、この時の寄進状のやり取りに関わった僧が、今回採り上げている玄明首座であり、「寄進を断る」という…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b8%bc%cc%c0... - 2006年09月29日更新