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タグ検索で太祖は6件見つかりました。
太祖略伝
年(1879)5月15日に出版された[[太祖]]・[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の略伝。詳しくは『總持開山太祖略伝〈完〉』。著者は、当時曹洞宗務局総監であった滝谷琢宗禅師(後に[[大本山]][[永平寺]]63世)であり、曹洞宗務局蔵版、明教社が販売を担当した。題は当時の大本山永平寺の[[貫首]]であられた久我環渓禅師、序は大本山[[總持寺]]の貫首であられた旃崖奕堂禅師、更に題は辻顕高老師、跋は後に大本山永平寺62世となる青蔭雪鴻禅師によって書かれた。 &color(blue){''【内容】''} 本書…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%c0%c1%c4%ce... - 2022年07月22日更新
両祖
合は、[[高祖]][[承陽大師]]と[[太祖]][[常済大師]]をもって両祖と定めているが、伝統的には様々な組み合わせがあり、達磨大師と百丈禅師、達磨大師とその寺の[[開山]]、達磨大師と道元禅師などもあった。 &color(blue){''【内容】''} 曹洞宗は、江戸時代まで両祖の概念が存在しなかった。しかし、[[両大本山]]の融和によって発足した[[曹洞宗務局]]を中心とする近代教団では、明治8年の「第一回末派総代議員会議(現在の曹洞宗宗議会)」において、「[[一仏両祖]]」の原型が提示された。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%ce%be%c1%c4... - 2006年10月06日更新
一仏両祖
]]永平[[道元]][[禅師]]と、[[太祖]][[常済大師]][[瑩山]]紹瑾[[禅師]]を[[両祖]]として尊崇しており、総じて一仏両祖と呼ぶ。または、[[三尊]]とも称する。 &color(blue){''【内容】''} 曹洞宗では、江戸時代初期の元和元年(1615)に徳川家康の法度に基づき、いわゆる両大本山が確定したけれども、各々の開山である道元禅師と瑩山禅師を併記する習慣は定められなかった。なお、瑩山禅師を太祖と呼ぶようになるのも、明治時代に入ってからである。 明治維新期、曹洞宗では永平寺…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%b0%ec%ca%a9%ce... - 2018年07月01日更新
伝光録
定義】''} [[日本曹洞宗]]の[[太祖]][[瑩山]]紹瑾[[禅師]]の提唱録であり、正安2年[1300]正月11日(または同月12日)から[[住持]]となっていた加賀[[大乗寺]]に於いて、修行僧達に対して行われた[[請益]]を[[侍者]]が編集したものである。 なお、江戸時代初期までの筆写本には、内題として「洞谷山永光寺語録」とあるが、これでは本来大乗寺で説かれた記録と整合しない。古い写本は永光寺語録とし、新しい写本では大乗寺の瑩山禅師の語録とするところに特徴がある。 古い写本は2冊本で、新…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c5%c1%b8%f7%cf... - 2009年01月28日更新
瑩祖
定義】''} [[日本曹洞宗]]の[[太祖]]である[[瑩山]]紹瑾[[禅師]]のこと。瑩山祖師を略して瑩祖という。道元禅師を「[[元祖]]」と呼称するのに対応する。…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%e0%f2%c1%c4... - 2008年06月26日更新
太祖
[總持寺]]開山の[[瑩山]]紹瑾禅師を太祖と呼んでいる。 &color(blue){''【内容】''} 「太」とは、はたはだ、非常に大きいなどの意味があり、ここで「太祖」はすぐれた祖師を意味している。「[[大祖]]」と混同されることも多い。 ''菩提達磨尊者、みづから震且国に降儀して、%%%正宗太祖普覚大師慧可尊者%%%に[[面授]]す。 『[[正法眼蔵]]』「[[面授]]」巻''…
https://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%c2%c0%c1%c4... - 2006年08月10日更新