「も…もごぉっ!?」 

九波君が自分の陥った危機的状況を把握したらしいのは、試合開始から一分程経った頃だった。 
表情に異変が走る。異変というよりそれは激変。 

テントを燃やした時の様な、驚愕の表情。 
そしてそれを上回る程の―――恍惚の表情。 
元々何故か顔は緩んでいたけど、今はそれの比じゃない。…ぞくぞくする。 

「ひっ…ひぐぅっ…ぐっ…うっ!?」 

今頃気付いても遅いよ、九波君。 
本の受け売りだけど、歯磨きという行為は、マッサージなんかとは訳が違う。 
何せ、口の中をいじるんだから。 
体の外側ではなく、内側を。体の表面ではなく、内面をいじる。 

その行為は…人に、快感を生じさせる。 
要するに、気持ちいいのだ。 

歯を磨くという行為は、余りにも当たり前過ぎて、慣れてしまっているから気付かないけど、確かな事実。 
考えてみれば、体の中のデリケートな所を細い毛先で撫で回してるんだから、気持ち良く無いハズが無い。 
それを自分では無く、他人にされるんだからたまったものじゃない。 

九波君は風来坊。 
その職業(?)柄、苦痛や屈辱で心を折る事は難しい。体も鍛えてるし。 
でも、快感を与えて甘やかすのならば、どうだろう? 
一応、名目上は虫歯予防の歯磨きだから、甘くしちゃ駄目なんだけど。…二つの意味で。 
あ、私今上手いこと言った。 

「ぐっ…ひぐぐっ…ひぎぃっ……」 

奥歯の内側、歯と歯茎の境目あたりをしゃこしゃこと重点的に磨くと、九波君は敏感に反応する。 
びくびくと体が痙攣して、白目を剥きかけている。 

…まさか、ここまで上手くいくなんて。 
まるで本にあった描写を丸写ししているかの様に、シナリオ通りに事が運んでいる。 
…そうえば、この後はどうなるんだったっけ? 
ここまで読んだ時点で本を閉じたから、この後どうなるのかは私は知らない。 
…まぁ、もう少しだけ九波君を苛めてあげたら、終わればいいか。 
その内ギブアップすると思うし、それまでは思う存分、これまでの発散を続けよう。 



―しかし、私のその判断は間違っていたのかもしれない。 
少なくとも、当初の主従関係を思い知らせるという目的においては。 

見誤っていたのかもしれない、九波君の変態性を。 
九波君は歯を食い縛って―いや、歯を磨いているからそれも出来ないんだけど(それも体が弛緩する理由の一つ)―私からの攻撃、口撃、甘やかしに耐え続けた。 

いや、勝負と思ってるのは私だけだから、九波君に耐えているという自覚は無いと思うけど。 
でもそれなら尚更、「もう止めて」とギブアップをするハズ。 
なのに九波君は、何も言わずにずっと耐え続けている。 

それでも、これはくすぐり地獄の様なもので、ずっと耐え切れるものじゃない。 
いずれ限界が訪れるのは自明の理。 
それまで私は続ければいいだけ。さて九波君は後何秒耐えられる? 

そう思っていた。まだまだ優位性は私の方にあると。 
でも、後何秒も耐えられなかったのは、むしろ私の方だった。 


―――ドクン。 


「―――っ!?な、何?」 

この勝負にあった、大きな穴。 
それは、歯を磨かれる側では無く、歯を『磨く』側の心理を私が全く考慮していなかったこと。 
とんでもないミス。 
取り返しがつかない、取り戻しようがない。 

なぜなら― 

「あふっ…ふぁっ…へああっ…う…んんっ」 

やばい。 
九波君の喘ぎ声にも似た声をずっと聞いていると、とても心が掻き乱される。 
ドキドキする。 
九波君の反応を見ていると、とてもドキドキする。 

色々と逆だろという、誰かの心の叫びが聞こえる気もするけど 
それを圧倒的に上回る、何かよく分からない感情の叫びが私の中に轟いてくる。 

歯ブラシを動かすごとに、口の中を泡立たせるごとに九波君の歯じゃなくて 
私の感性を磨いているような気分になる。 
―私の方が、快感を得ている!? 
九波君の歯を磨く事で!? 
人の役に立つのが嬉しい!? 
これが准ちゃんの言っていた、メイドの心得、奉仕の心!? 

まずい、九波君の口の端に零れる涎さえ、愛おしさを感じる。 
同時に、説明出来ない衝動が、体中を駆け巡る。 
駄目、これは駄目!それを、必死に抑える。 

もう手を止めないと、ここで終わりにしないと大変な事になる。 
それが分かっているのに、手は止まってくれない。 
私の手は私の意識から離れて、自動機械のように動作を止めてくれない。 
むしろ動きはよりハードに。 
九波君の痙攣がより激しくなる、顔はもう戦隊ヒーローのリーダーの様に真っ赤になっている。 

「…可愛い」 

思わず、声が出る。 
心臓の鼓動は際限なくスピードを上げ、何だか意識が朦朧としてくる。 
自分が何をしているのかも分からなくなる。 

「…はぁ……はぁっ…うううっ」 

九波君と合唱する様に、私も喘ぎ声に似た声を出してしまう。 
謎の相乗効果が起きる。 
私の思考回路がショートする。 
私は今迄NOZAKIを継ぐ為に産まれて来たんだと思っていたけど、ひょっとしたら私は 

――九波君の歯を磨く為に産まれて来たのでは? 

敷かれたレールの上を歩くしか無いと思っていたけど、それは勘違いで 
私の人生の終着駅はここなのでは? 
ここから先の私の人生は、ただの消化試合なのでは? 

「九波君。九波君。九波君−」 

九波君の名前を連呼する。 
そうする度に、体が奥の芯から熱くなっていくようだった。 
九波君の体も熱い熱を帯びている。 

目の前の九波君を見る。 
うっとりしているかのような。 
とろけているような、そんな表情。目の焦点は定まっていない。 
これで当初の目的を達成したけど、そんな事はもうどうでも良かった。 

「い、いおりひゃん…」 

九波君が言葉を発する。 
その声に、私の心臓がまた跳ね上がる。 
口の中に歯ブラシが挿入されているので、呂律が回っていないけど 
いや、きっとそれが無くても回らなかったと思う。 

それでも、言った。 
それでも健気に、九波君は言った。 

「維織ひゃん……いいよ」 

何が!?なんて無粋な事は聞かない。 
もう私の理性はぐちゃぐちゃに融けていた。 

ぐちゃぐちゃで 
ぐちょぐちょで 
じゅわじゅわで 
ぞわぞわして 
うぞうぞして 
ぞくぞくしていた。 

私は、野崎維織は、九波君の体を、体重を少しかけてカーペットの上に押し倒し 
九波君の後頭部に添えて居た右腕を優しく外して 
そして、その手をそうっと、彼の××に伸ばして―― 


「な、何してるんですか………」 


と。無粋な。野暮な。艶消しな。 
いや―救済の言葉が割り込んできた。 

ドアの外、そうえば閉めなかったな―と思いながら見た先には 
メイド服姿の私の親友、夏目准が唖然とした顔で突っ立っていた。 
いつも飄々として、底を見せない彼女が珍しく、完全に放心状態の様に 
目を、口まで丸くして、呆然と。 

「お、お菓子作りを教えるという約束で、来たのですけど 
 呼び鈴を鳴らしても返事が無くて、そしたら鍵が開いていたから…」 

パクパクと大根役者の様に棒読みで言う准ちゃん。混乱しているんだと思う。 
そうえばそんな約束していた気も…完全に忘れていた。 
呼び鈴にも全く気付かなかったし…。 

「じゅ、准ちゃん。…ち、違うの!」 

私は叫ぶ。叫んだのなんていつ以来だろう。 
そして、叫んだところで一体何が違うのか。 
正直な所、見たままだ。 
この状況で誤解する方が難しい。 

「ス、スミマセン!お、お邪魔しちゃいましたよね?きょ、今日はもう帰るので 
 ま、また日をあらてめて、お伺いしまひゅ」バタバタ 

「ま、待って准ちゃん!違うの!いや違わないけど!」 

噛み噛みで言って、バタバタと慌てて去って行く准ちゃんを呼びとめるも 
止まってはくれず、そのまま帰ってしまった。 
…次会う時どんな顔すればいいの……。 

「い、維織さん……」 

頭を悩ませる私に、理性の戻ったらしい九波君が話かける。 

「だ、大丈夫だよ。准には後で俺からフォローしておくから…」 

「…九波君が言っても説得力無いと思う…地球上の誰よりも」 

困った。准ちゃんにこれから変態カップル扱いされてしまう。 
変態なのは九波君だけなのに。 
せめて攻守が逆なら、無理やりされたと言い訳出来たのに(その場合九波君が肉塊に変えられるけど) 
攻守と言えば… 

「結局、負けちゃったのかな…」 

「負け?何に?」 

「あ、声に出てた?うん、負け。九波君にじゃなくて、自分に、という気もするけど」 

というかもう何か途中から、全てがぐちゃぐちゃになってたからね。 
別に九波君が勝った訳でも無いと思うけど…社会的に見ればどちらも負け? 
またそうやって頭を悩ませ始める私に、九波君はすくっと起き上った後 
それじゃあさ、と前置きして 

「三本勝負にしてあげても良いよ。ほ、ほら途中で邪魔が入った訳だし 
 こういう時は普通再試合でしょ? 
 丁度お菓子作りも無くなって時間出来た事だし、気散事に付き合ってあげてもいいよ?」 

超さりげなさを装って。 
流し目でさらりと提案する九波君。 
頬は相変わらず赤く、目の色から魂胆は見え見えだ。 
けど。 

「えっと……じゃ、じゃあ…再戦を申し込んじゃっていい?」 

「う、うん。挑まれた以上は仕方ないね、背中は見せないよ。う、受けて立つ!」 

目を見るのが恥ずかしく、お互いに目を逸らしながらの会話。 
私は手にしたままだった歯ブラシをギュッと握りしめて 

「じゃ、じゃあ― 

「あ。で、でも。考えてみたら維織さんの方も磨き残しがあるかもしれないよね」 

「え?う、うん」 

普段なら否定するデリカシーの無い発言だけど、言葉の裏(というかもう表だ)を読んで 
肯定する私。 

「だ、だから今度は攻守交代してみない?」 

「…う、うん。野球も表の後はウラの攻撃があるし…ね」 

「その方がフェアだよね。じゃ、じゃあ…」 

多分、今私達は鏡で写し合った様に、同じ表情をしているんだろう。 
少しの不安と恐怖、そしてそれを塗りつぶす期待と―――情欲。 
九波君がコップから緑の歯ブラシを取り出す。 
べ、別にこの赤の方を使ってくれても良いんだけど…。 

「行くよ…維織さん、あーん」 

「あーん」 

そんなわけで、今日を境に。 
私と小波君は、新しい世界を開いたのだった。 
ひゃっ、ふああっ!ちょっ九波きゅんっいきなり、し、舌の裏を磨くにょは 
ひゃ、ひゃんそく…っ!! 

後日談(ナレーター:夏目准さん) 

その対決中に、お互いに親知らずがある事を発見し、結局二人揃って歯医者に行く事となって 
しかしどっちも、口内への刺激に慣れ過ぎてこんなもんかと拍子抜けしたそうです。 
………二人とも爆発すればいいのに。 

ちなみに、あれから維織さんはお菓子作りにハマって、二人は毎晩の様に甘い物を食べるようになったせいか 
更にキスが甘くなって、その後の歯磨きも日課になったそーですよー。 
知るかっ!それで一切体型変わらないどころか少し胸が大きくなったとか相談されても困るわ! 
………ぐすん。 

次回のシリーズは私も良い目を見れるといいなぁ…。 

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