「…………ん……………」 
  意識がゆっくりと覚醒していく。体中が二日酔いの後のように重い。 
 考えてみればここのところ調子の良い目覚めなんてなかったような気がする。 
それは仕方のないことだ、不満はないから辛いとは思わないけど。 
ぼんやりとした頭をどうにか働かせ、眼を開く。薬特有の匂いが鼻を刺激した。 
 見えたのは白い天井、少し考えて学校の壁の色と同じだと気づいた。 
 「先生! 目、覚めました?」 
 「…………あら?」 
  上体を起こす、と、額に乗せられていたタオルが布団に落ちた。
なんとなく、横を見る。
そこには学生服姿の少年――小波君がいた。 
 「びっくりしましたよ、忘れ物を取りに帰ったら、先生が部室で倒れてたから 
保健室まで運んだんです」 
 「……そ、そうなの、ごめんなさい、心配かけたわね」 
 「いえ……」 
  心配そうな顔の小波君、彼にいらぬ不安をかけるわけにはいかない。 
 私は笑顔を作って元気に声をかける。 
 「先生、今日お昼ごはん抜いちゃって、それにちょっと貧血だったみたい。
もう、大丈夫よ」 
 「それは…………嘘、ですね」 
  予想外の言葉に、動揺が顔に出る。それを見逃してはくれなかったようだ。 
 「先生、去年のこと、覚えてます?」 
 「え? えぇっと……」 
  すぐに笑い飛ばして、否定するべきだったのに。それができなかった。 
 「先生がノックをするって言って怪我をして、俺と亀田君で保健室に運んだじゃないですか 
 その時、先生の体を担いだんです」 
 「そ、そういえばそんなこともあったわね」 
  彼が何を言いたいのか、不意に理解する。 
 駄目だ、彼から先に言わせてはいけない。 
 「せ、先生、最近ダイエットしてるのよ、ってやだ。女性の体重のことなんて 
気にしちゃだめよ?」 
 「……先生、今の自分の顔色、鏡で見てください 
 まるで説得力がないですよ。………無理、しているんですか?」 
  心配そうな顔になる、そこまで思われて教師冥利に尽きるというものだ。 
けれど、ここで肯定するわけにはいかない。 
 「そんなことないわよ、ほら、今までも問題なかったじゃない、それに」 
  冷たい口調になっているのを自覚して、言葉を吐く。 
 彼を傷つけることになるだろうが、構わない。 
 「もうすぐ甲子園出場が決まるのよ? 先生のことより、自分のことを気にしなさい」 
 「………………」 
  悲しそうな顔、できれば彼のそんな顔を見たくはない。 
けれど、必要なことなのだ。 
 「さて、もう遅いわ。……あら? 保険の先生はどうしたのかしら?」 
 「あ、さっきまでいらっしゃったんですけど、俺に鍵を渡して帰っちゃいました 
 鍵は先生に渡せばいいからって、…………って、そうじゃないですよ!」 
 彼は相変わらず、怒っていたけど。もう話に付き合うつもりはなかった。 
ベッドからでて、靴を履こうとする。 
 「…………とにかく、今日のことは秘密よ? みんなも今が大事なんだから」 
 「ようこ先生!」 
  立ち上がって一歩を踏み出そうとした、その時。 
 「あ、あれ?」 
 「危ない!」 
  景色が歪んだ、まだ体は回復していなかったらしい。 
 転倒する直前、たくましい腕に抱きかかえられた。 
 「……ふぅ、大丈夫ですか? 先生」 
 「え、……ええ」 
  わずかな汗の匂い、練習が終わってからシャワーを浴びただろうとはいえ 
 もうずいぶんと暖かくなってきたせいだろうか。 
そのままベッドに押し戻される。 
 「…………とりあえず、先生はここでもう少し休んでいてください 
何か飲み物でも買ってきますね、リクエストはありますか?」 
 「え…………じゃあ、コーヒーをお願い」 
 「わかりました、……帰らないでくださいね」 
  そのまま彼は保健室を出て行った。
これ以上話を続けたくはなかったけれど、帰るのも寝ざめが悪い。 
あきらめて私は天井をぼんやりと見つめた。 

 「ありがとう…………ぷはっ! ふぅ、落ち着いたわ」 
 「まだ寝ててくださいよ、後でタクシー呼びますから」 
 「大丈夫なのに…………」 
  少し心配し過ぎな気もするが、それだけ心配させたということだろう。 
………しばらく、穏やかな時間が流れる。 
 言葉はなくても、もう二人の間に気まずい雰囲気はなかった。 
 「早いものね、小波君が転校してきて、もう一年半たったのね」 
 「そうですね」 
 「最初に野球部員を集めるなんて言ってた時は、まさかここまで来るとは思っていなかったわ」 
 「ひどいなぁ、でも、ようこ先生が相談に乗ってくれたから、ずいぶん楽になりましたよ?」 
  穏やかに微笑みあう、と、彼の顔が少し意地が悪いものになった。 
 「そういえば、この前電話したとき、今度御馳走してくれるって言ってましたよね」 
 「そ、そうだったわね。ええっと、今度みんなで焼肉屋でも行きましょうか?」 
 「それはいいですね、でも……」 
  彼の顔が少し照れたようになる。 
 「どうせなら、先生と二人でどこかに行きたいな」 
 「……………………」 
  その言葉は、きっと聞いてはいけないものだった。 
 「それはちょっと、えこひいきみたいで駄目でしょう? 
ちゃんと野球部のみんなで行きましょう」 
 「先生……………俺…………」 
  悲しそうな顔、そんな顔は見たくない、見たくないのに。 
 「さあ、そろそろ大丈夫よ。小波君も気をつけて帰ってね」 
 「ようこ先生!」 
  突然、彼は私の手を握りしめた。火傷しそうなほど熱い手が私の手を強く握る。 
 「俺が甲子園で優勝して、プロ野球選手になって、一人前になったら 
 その時は、その時は! ……………俺と付き合ってくれますか!」 
  真剣な目、こんなに熱い告白をされたのは初めてだった。 
 決して悪い気はしない、とても嬉しい。けれど、けれど。 
 「……………………」 
 「ご、ごめんなさい。その、先生の気持ちも考えないで」 
とたんに意気消沈して、彼は申し訳なさそうに手を離した。 
  熱が逃げて、一気に手が冷たくなる。 
 「………………そうね、あなたが優勝して、プロ野球選手になって、一人前になった後 
それでも、もし、私のことを好きだったら、……………その時は」 
  言ってはいけないはずの言葉を、私は口にしていた。 
 「本当ですか! 絶対にですよ!」 
  嬉しそうな顔、でも、これでいいのだろうか。 
  いいの、だろうか。 

  その後、彼は甲子園で見事優勝して、ドラフト一位になった 
 けれど、私は彼との接触をできるだけ避けた。 
 考えてみれば、つりあうはずもないのだ。彼には輝かしい未来がある。 
わざわざ私でなくとも、いい人がいるはずだ。 
それに恋というものは時間がたてば冷めていくもの。
 若い時の一時的な感情なんて、すぐに消えさるはずだ。 
……彼も忙しかったのか、話をすることもなく、卒業を迎え。 
 私は新しい学校へと赴任していった。 
 新しい学校は苦境の連続だった。教頭ほどではないにしろ、嫌味な先輩もいた。 
 新しい環境の変化で体調を崩すこともあった。 
けれど、野球部を強くするために、頑張るのは辛いことではなかった。 
 時雄テレビで見る彼の活躍も、力の一つになった。 
そして、彼が新人王をとったというニュースを見た、次の日。 
 冬のとても寒い日だった、仕事を終えて、学校の校門を出ようとしたときに。 
 「ようこ先生!」 
 「え?!」 
  忘れもしない、彼の声。 
 何故、疑問に思うまでもなく、距離を縮められる。 
 「いいましたよね、俺が一人前になったら、付き合ってくれるって 
新人王を取ったのなら、十分に一人前でしょう?」 
  微笑みを浮かべて、照れくさそうに彼が言う。何も言えずに立ちつくす私に、彼は。 
 「改めて、ようこ先生! 俺と、付き合って下さい!」 
いつか聞いた熱い告白、それに自信に満ちた笑み。 
 「………………ええ!」 
  冬のとても寒い日、彼の体は、とても温かかった。 .
 


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