最終更新: gurugurian 2016年08月11日(木) 01:51:39履歴
(鄭雲模<チョン・ウンモ>さんは父親を亡くし、家長として母親の面倒を見ていたが、1942年、21歳の時、面事務所に呼び出され、そのまま足尾銅山に連行された)
…わたしは日本人を憎んでいましたが、わたしを助けてくれたのも日本人でした。組長の石川さんという人がわたしに近づいてきたんです。わたしは初め、これは朝鮮人の内部を探りにきたんじゃないかと思って警戒してたんです。
ところが石川さんは、
「おれを信用しろ。一度うちに遊びに来い」
と言うんです。それで行きましたよ。
すると、奥さんが美味しいものを作っておいてくれましてね。
「かわいそうに、何とかならないものでしょうかね」
って、奥さんは石川さんにしきりに言うんです。そのありがたさを考えると、今でも忘れられませんよ(突然、涙がにじむ)。
何回も行くうちに、石川さんは、
「おまえ、逃げればいいじゃないか」
と言うんですよ。
「逃げるといったって、ここでは山に上がると熊の餌になるし……地理はわからないし、どうにもなりませんよ」
と、わたしが言うと、
「おまえがその気なら、わたしがしよう」
と言うんですね。そして、地図を描いてくれて、
「おまえ一人で行くかい?」
と言うから、
「いや、どうせ逃げるなら友だちと一緒に、わたしもいれて六人ぐらいで行きたい」
と言ったんです。
「よし、わかった」
っていうことになって、それからしばらくして石川さんから合図があったんです。
どこでどうやって集めてきたのか、おそらく、奥さんの実家にも頼んだんだと思いますが、学生服を六人分集めてきてくれました。
それを着て、忘れもしない一九四四年四月三日ですよ、わたしたちは足尾銅山から逃げ出したんです。
足尾の駅まではほんの五、六分ですが、足尾の駅で切符を買うのに手間取ってね。桐生まで汽車で行ったんだ。それからがたいへんだったよ、線路沿いに太田へ出て、太田から浅草まで三日四晩歩いたんだから。
途中ずっと桑畑が続いていて、その間に大根が植えてあったんだ。その大根を生のままかじったよ。腹がへってるところに生の大根だったから、下痢をしてね。下痢をしながら歩いたんだ。
でも、無事浅草に着いてね、六人全員。そこで別れたんだ。だから、みんながその後どうなったか知らないよ。
(中略)
解放を迎えたのは群馬県の安中市でしたな。
解放後は担ぎ屋なんかやってお金がたまった。羽振りがよかったんですよ、少しの間はね。
それでね、石川さんのことを考えて、子どもが二、三人いましたから困っているだろうと、お金を持って足尾へ行ったんです。三回も行ったんですよ。でも、石川さんの住んでいた家は空っぽで、役場でも教えてくれなかった。今もって分からずじまいです。
石川さんのことはどこへ行っても話しています。日本人にいじめられ、日本人に助けられたと。
(『百萬人の身世打鈴』p425~426)
…わたしは日本人を憎んでいましたが、わたしを助けてくれたのも日本人でした。組長の石川さんという人がわたしに近づいてきたんです。わたしは初め、これは朝鮮人の内部を探りにきたんじゃないかと思って警戒してたんです。
ところが石川さんは、
「おれを信用しろ。一度うちに遊びに来い」
と言うんです。それで行きましたよ。
すると、奥さんが美味しいものを作っておいてくれましてね。
「かわいそうに、何とかならないものでしょうかね」
って、奥さんは石川さんにしきりに言うんです。そのありがたさを考えると、今でも忘れられませんよ(突然、涙がにじむ)。
何回も行くうちに、石川さんは、
「おまえ、逃げればいいじゃないか」
と言うんですよ。
「逃げるといったって、ここでは山に上がると熊の餌になるし……地理はわからないし、どうにもなりませんよ」
と、わたしが言うと、
「おまえがその気なら、わたしがしよう」
と言うんですね。そして、地図を描いてくれて、
「おまえ一人で行くかい?」
と言うから、
「いや、どうせ逃げるなら友だちと一緒に、わたしもいれて六人ぐらいで行きたい」
と言ったんです。
「よし、わかった」
っていうことになって、それからしばらくして石川さんから合図があったんです。
どこでどうやって集めてきたのか、おそらく、奥さんの実家にも頼んだんだと思いますが、学生服を六人分集めてきてくれました。
それを着て、忘れもしない一九四四年四月三日ですよ、わたしたちは足尾銅山から逃げ出したんです。
足尾の駅まではほんの五、六分ですが、足尾の駅で切符を買うのに手間取ってね。桐生まで汽車で行ったんだ。それからがたいへんだったよ、線路沿いに太田へ出て、太田から浅草まで三日四晩歩いたんだから。
途中ずっと桑畑が続いていて、その間に大根が植えてあったんだ。その大根を生のままかじったよ。腹がへってるところに生の大根だったから、下痢をしてね。下痢をしながら歩いたんだ。
でも、無事浅草に着いてね、六人全員。そこで別れたんだ。だから、みんながその後どうなったか知らないよ。
(中略)
解放を迎えたのは群馬県の安中市でしたな。
解放後は担ぎ屋なんかやってお金がたまった。羽振りがよかったんですよ、少しの間はね。
それでね、石川さんのことを考えて、子どもが二、三人いましたから困っているだろうと、お金を持って足尾へ行ったんです。三回も行ったんですよ。でも、石川さんの住んでいた家は空っぽで、役場でも教えてくれなかった。今もって分からずじまいです。
石川さんのことはどこへ行っても話しています。日本人にいじめられ、日本人に助けられたと。
(『百萬人の身世打鈴』p425~426)
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