朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

否定派の主張

「強制連行」というと低賃金や過酷な労働のことぱかり言われるが、鄭忠海「朝鮮人徴用工の手記」の記述は、そうしたイメージからかけ離れている。また鄭忠海は「月収は140円だった」と書いている。これは当時としては高給で、とても差別があったとは思えない。

反論

鄭忠海氏のケースは朝鮮人戦時動員の典型例とは言えない


1990年に出版された「朝鮮人徴用工の手記」(井上春子訳・河合出版)の著者、鄭忠海氏(1919年生まれ)は1944年に徴用によって広島の東洋工業(現マツダ)に動員された人物。彼は翌年の広島への原爆投下で被爆し、終戦直後に帰国しています。この本は在韓被爆者の支援活動に携わっていた井上春子氏がたまたま鄭氏の手記を見せてもらったことがきっかけで、日本での出版に至ったものです。


この本を読むと、寮は新築で食事も比較的恵まれており、日本人による差別や虐待の描写もほとんどなく、日本人女性との恋愛など、牧歌的とも思えるような逸話もあります。また、帰国に関する記述の中で自らの月給について触れている部分(資料23)があります。しかしこの鄭氏の例をもって朝鮮人戦時動員の典型と見なすことは出来ないでしょう。


朝鮮人戦時動員の中で最も比重の大きかった炭鉱が戦時動員以前から多くの朝鮮人を雇用しており、過酷な「労務管理」方式が確立されていたのに対し、東洋工業は鄭氏が徴用された1944年に初めて朝鮮人を雇用した企業でした(寮が新築だったのはそのためです)。また鄭氏が教育訓練を受けた西部勤労訓練所の寮長だった木下という人物は講話の時間に時局批判をするような、当時としては珍しい人だったということです。鄭氏の待遇が比較的悪くなかったのは、このような人物との幸運な出会いがあったからということも考えられます。


また、鄭氏の月給が高かったことについてですが、これは彼が中隊長に任命されていたためと思われます。1942年の官斡旋以降、朝鮮人労働者を管理する手段として、日本語の出来る者が隊長・班長・組長などの役職に任命されていました。こうした役職についた者は一般労働者よりも給与が多く支給されていました(資料22)。すなわち鄭氏は、東洋工業という比較的恵まれた職場に動員された上、その中でも給与の面で恵まれていたことになります。また「朝鮮人徴用工の手記」に「四○○円という船賃がなくて帰れない人も少なくない」という記述(資料23)からも、鄭氏が東洋工業の徴用工の中では金銭的に恵まれていたであろうことが推測できます。


一口に朝鮮人戦時動員といっても、その様態は時期や動員先によって様々です。中には鄭氏のケースのように比較的恵まれていた例(ただしこれは、あくまで「比較的」ということであって、鄭氏は何の苦労もなく日本での生活を満喫していたわけではありません。「朝鮮人徴用工の手記」には、自分たち朝鮮人が本来無関係であるはずの戦争に巻き込まれ、強制的に徴用されたことに対して怒り、嘆いていたことも書かれています)もありましたし、そういう例があったことを知ることは朝鮮人戦時動員についてより深く理解するためにも重要です。しかし、鄭氏の例をあたかも朝鮮人戦時動員の典型例であるかのように見なしてしまっては、その全貌を見誤ることになります。


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