支那事変(シナじへん)とは、第二次日中戦争(英:2nd Sino-Japanese War)とも呼称される、主に大日本帝国中華民国?(重慶政府)の間において5年間にわたって戦われた戦争であり、両国が広大な中国大陸をめぐって争ったものである。当初、3ヶ月程度で決着がつくと見込まれていたこの戦争は、決戦的戦闘の生起せざるを以て長期化し、我が帝国の経験したいかなる戦争よりも泥沼化し、両軍合わせて戦死傷500万以上、民間人への被害はもはや計算不能なまでに増大した空前絶後の大戦争となった。しかし、双方ともに宣戦布告を行わなかったため、正式には戦争ではなく、戦時国際法は部分的にしか適用されなかった。

呼称に関して

 (この項目はメタを含みます)
 現在に至るまでこの戦争の名称に関しては議論が続いている。現在、多くの教科書において一般的に採用されている名称は「日中戦争」である。1937年の近衛内閣による閣議決定、そして1970年代以前は「支那事変」が一般的であった。「十五年戦争」を以て満洲事変から継続する日中両国における一連の戦争状態を指すこともあるが、一般に十五年戦争という呼称が採用されるときは日本国内における準戦時体制の継続という特異性を指すことの方が多いように感じるし、また一般に太平洋戦争をも含んで日本の侵略戦争と考えるのが妥当であるから、ここでは扱わないこととする。この呼称、特に「支那」という、現代においてはまったくタブーとして扱われている(が、世界史界隈ではよく使われてしまっている)呼称について、少し深く考えていきたい。
 まず「支那」という呼称は諸外国による中国の呼称であるChinaに相当するものであり、日本においても相当の歴史をもって使われてきたほか、特に1911年の辛亥革命以降は好んで使われることとなった。特に日清戦争以降において、我々は「支那」という呼称を帝国政府と市井の双方が好んで用いたことに関して、二つの動機と側面を見出すことができると考えられる。帝国政府によって「支那」という呼称、特に中華民国を指して「支那共和国」と呼称することがおこなわれたのは、これが英語の"Republic of China"に相当する呼称であると考えられたからであろう。明治維新以来、帝国政府はつねに欧米列強に伍することをその目標に据えたということは今更言うまでもないが、つまりこの呼称に関しても、列強諸国と足並みをそろえるという点に主眼を置いたものであるということができる。さらに言うならば、日本と中国はまったくの「外国」であるという認識——すなわち中国語と日本語の変換にあたって当然まったく異なる単語に置き換えることが生じる「翻訳」が行われるに足る程度の隔絶が存在するという認識が、ここには存在する。この外国認識としての「支那」呼称とは別に、市井において広まったのは、「支那人」という呼び方がある種の侮蔑のニュアンスを含んだものとして市井に浸透したからということができる。この浸透において、特に日清戦争に従軍した在郷軍人による清国兵への軽蔑という認識が大きな役割を果たしたというのは拙稿(2022)においても指摘する通りである。すなわち軍隊と地域が密接した帝国陸軍の軍事行政において、在郷軍人会という存在が戦争と銃後をつなげる役割を果たし、これによって帝国日本における一種の集合的記憶が形成されたとする見方である。ここにおいて、「支那」という呼称がなにかそれまでの偉大な王朝である「からくに」と異なったようなニュアンスを持つ言葉として定着し、また辛亥革命以降の中国における政治・軍事的混乱と、それに対して帝国政府が(意図は違うにせよ)「支那」という呼称を用いたことによって、この観念はますます定着したものと考えられる。
 これを考慮すると、特に1940年の日満華共同宣言・日華基本条約以降において、帝国政府が公文書、或いは公共放送等において「支那」を「中国」、「北支」を「華北」などと言い換えた理由は主に「外国認識」を改めたことにあると考えられるだろう。「外国認識」とはいわば、イギリス・フランス・ロシアといった清を経済的に、或いは軍事的に侵略した帝国主義列強と同じ立場に自らを定義することであり、孫文の批判した帝国の「覇道」的立場を自ら認めることである。いうまでもなくこの認識は正しいものであるが、しかしアジア主義を観念として認識した、特に1938年11月の近衛「東亜新秩序」声明以降においては、この立場を政府が取り続けることは自己矛盾に陥るものであった。それまでの「列強」的立場から自らを「アジアの覇者」として位置付けるにあたり、元来の「アジアの覇者」であった中華思想を認めないことには話が始まらないし、何より「列強」的立場を批判することは、自らがもはやそういった立場を取り得ないことを意味するからである。また「外国認識」には日中の文化的隔絶ということも含まれたが、これも「東亜」の表象たる漢字の役割を考慮すれば、「東亜新秩序」にとってはまったく適当でないといえる。したがって呼称を今後の政府が考慮する際、Republic of Chinaといういわば国際的スタンダードのような名称を強いて使用する必要はなく、「中華民国」をそのまま使用することが妥当とされたと考えられる。また「支那」が元来地理的名称であり、「中国」が「清国」や「韓国」と同列の国家的名称であることを考慮すると、帝国政府は中国が統一された国家であるかどうかを「治安」を基準として判断していたと考えることもできる。当然この「治安」は日本目線のもので誠に自分勝手な理屈ではあるが、つまりは抗日運動が盛んでないか、或いは弾圧されているかといった状態を指す。1911年から1937年にかけての中国の「治安」はまったく日本にとって快適とはいえないものであった。この状況と1940年との違いは、大陸に親日政権が樹立され、帝国陸軍が治安維持にあたっていることである。親日的な政権が存在し、日本企業が進出を行える状況をもって国家とみなすことができるというのは、こんにちの常識においてはまったく想像することのできないものであるかもしれないが、類例はアメリカがイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しして実際にイラクを攻撃し、親米政権を樹立したことなどに見出すことができる。或いは昨今、特に右翼が中国のことを「支那」と呼んではばからないのは、当人たちの主張はともかく根本的な理由としては「中国が反日的(だと彼らが思っている)から」であり、通底するものが見受けられる。(ついでながら申し上げると、支那というのが満洲、蒙疆、新疆、チベット等の元来漢民族の居住する場所でなかった場所を指す地域名称であるという解釈は、もともと間違ってはいないのであるが、近代日中関係史においてこのような使い方をされた例は、皆無といってさしつかえない。前述の通り政府は英語のChinaに当てはまる日本語訳として支那という名称をとらえていたようであるし、1911年以降発行された地図をみても中華民国(支那)と書かれていることが大半である。中華民国は五族共和をかかげた共和国であり、純粋に漢民族のみで構成されていないことはいうまでもないだろう。)
 以上のような理由によって公式には「中国」と呼称されるようになった一方で、「侮蔑的認識」という側面についてはまったく改まっていないと考えられる。そのため市井においては今まで通り「支那」「支那人」のことばが使用され、「暴支膺懲」が戦争のスローガンであった。これを考えると、「支那」と「中国」の呼称がこの時代において持つ意味というのは、やはり政府と国民とで二つあったと考えられる。一つには政府の立場で、これは友邦である南京政府を正統な「中国」(中華帝国の後継者)とし、対して敵対する重慶政府を地理的名称である「支那」で呼ぶことで、両者をはっきり区別するものである。一方で一般の国民にとって、辛亥革命以来の四半世紀にわたって支那はあくまで支那であり、その中でひとつの派閥がどうやら日本と和解した、ということがわかるのみである。中国が分裂し、内戦状態にあった25年という期間は、民衆意識を塗り替えるには十分な時間であった。一方で1940年から45年にかけての、この二つの呼称が併存した5年間というのはそれに比べると短すぎたのであった。戦後、「支那」という呼称が侮蔑的なものであったと国民に自覚されるにつれ、この呼称は戦争の責任という意識に影響されて急速に衰退し、かわって「日中戦争」という呼称が定着したが、これには政府が「中国」呼びを一貫したことも当然影響していると考えられる。
 さて、このページで扱う戦争の名前という話に戻ると、敗戦という重大なパラダイムシフトを経験していない以上、やはり「支那事変」という呼称が通されるように感じる。これは民衆意識はもとより、政府の立場としても、治安が安定し統一された「中国」が存在しなかった「支那」を「膺懲」し、新中国の建設がおこなわれたとする見方に合致しているからである。そして簡略化していえば南京政府を「中国」、重慶政府を「支那」と呼ぶという原則に立脚すれば、日中戦争という呼称は少なくともこの世界においてはまったく実相をとらえていないものになってしまう。もっともどう見ても戦争であるから、日支戦争くらいの呼び名は提案されてしかるべきであろう。そしてこの原則によれば、戦後に誕生する汪兆銘政権は「中国」と呼称されることになる。これは親日政権の安定が続くならば20年もすれば国民には浸透し、中華民国は一般に「中国」と呼称されることになるだろう。しかし一方で、先に挙げた侮蔑的認識は長い間変わることはないであろうと予測できるため、中華民国出身の中国人は「支那人」と呼称されることになるだろう。満洲国出身の中国人ならば「満人」である。この分断が固定化されるにつれ、漢民族のアイデンティティは史実における中国と台湾のように、分裂を引き起こすことがあるかもしれない。しかし、双方が日本の保護下にあることはドイツとオーストリアにとってのナチスのような一方のアイデンティティを分離させる外的圧力が存在することを容認しないため、結局のところアイデンティティの分裂は起こらないと考えることもできる。

前史

 以下の記述は主として「支那事変史」(<1>支那事変勃発経緯、<2>緒戦期の陸軍作戦、<3>持久期の陸軍作戦、<4>攻勢期の陸軍作戦、<5>陸軍軍戦備の全五巻、参謀本部戦史部(当時は支那事変史編纂部)編纂)及び「支那事変海空戦史」(海軍軍令部戦史部編纂)による。

大陸進出概史

 大日本帝国は建国以来その国力を増大せしめ、欧米列強に比肩する勢力になることを先ず国家存立の条件とし、かかる目的の下にあって朝鮮半島、満洲、そしてその先のシベリアと中国本土(支那本部)に対する進出を推進した。1875年の江華島事件にはじまる朝鮮半島への進出は1910年の韓国併合を以て完結をみたが、朝鮮半島の先には1905年のマンチェスター条約において獲得した旅順・大連と南満洲鉄道の利権が存在し、帝国はこの権益を守り抜くことを四半世紀にわたって大陸における第一目標とした。また、中国本土においては帝国は天津及び上海の共同租界に管理権をもち、また北京、青島、武漢、重慶、厦門に独自の領事館と租界をもって日本資本の導入を促進した。特に重大なる意義を持つのが在華紡とよばれる繊維工業の進出であり、南支において産せられる綿花と、支那の相対的に安い労働力を用いて1930年代まで帝国の工業生産の中核を占めた軽工業製品の生産をおこなった。この各種在支利権は1915年に発出された対華二十一ヶ条要求によって更に強化されたが、帝国に大きな富をもたらす一方、1911年の辛亥革命によって清朝の斃れたのちに成立した中華民国においては、漢民族のナショナリズムにとって敵視すべきものとなった。対華二十一ヶ条要求のうち十六ヶ条を呑んだ袁世凱政権は1916年に雲南の護国軍の活動によって崩壊し、以降支那においては袁世凱直轄の軍隊であった北洋軍の分派と、各省の権限において編成された地方軍閥が政権をめぐって、或いは地域の自治をめぐって争う軍閥時代の様相を呈したが、その裏においては以上のような事情により、孫文率いる中国国民党の反帝国主義的姿勢が支持を集めるに至った。
 漢民族のナショナリズムにとって最大の敵は長年にわたってイギリスとロシアであった。イギリスはアヘン戦争とその講和条約である南京条約によって大清帝国解体の先鞭をつけた帝国主義国家であり、中華王朝崩壊の最大の要因であるとみなされていた。またロシアは1858年の璦琿条約以来長年にわたって大清帝国の領土を直接侵略する試みをくりかえし、外満洲及び沿海州、西域の一部などが実際に割譲されていた。そのうえロシアは満洲に大軍を駐留させ、鉄道附属地という実質的な領土を満洲に建設し、満洲を事実上植民地とした。両国は大清帝国内においてグレート・ゲームとよばれるユーラシア大陸全土を巻き込んだ覇権争いの延長戦を行い、特にイギリスのチベットへの進出、ロシアのモンゴルへの進出は1911年の辛亥革命以降に起こったモンゴル・チベットの分離独立を招いた。1904年に日露開戦のやむなきに至った当時、我が帝国はいまだグレート・ゲームにおけるイギリス側のポーンに過ぎなかったが、日露戦争における我が陸海軍の獅子奮迅の活躍により、以降は一プレイヤーとして列強の末席に加わった。いまだ孫文自身は日本を敵視しているわけではなかったが、鉄道附属地という風習を引き継いで満洲を蚕食し、また日系資本が民族資本に対して優位に立つ状況は、大半の民族主義者にとって看過し得ざるところであった。特に二十一ヶ条要求以後、支那における反日運動はますます盛んなものとなり、その勢いは1919年5月4日にヴェルサイユ条約調印に抗議して行われた五・四運動において示された。反日運動は主に、芥川龍之介の「湖南の扇」に描写されるような日貨排斥運動(日本製品の不買)によって行われたが、支那人労働者のストライキや暴動などの形をとって行われることもあり、このことは我が帝国をして陸軍による度々の出兵、そして海軍による上海海軍特別陸戦隊の設置等の処置を取らせしめるに至った。しかし、かかる武力的処置は四億の支那民衆を畏怖せしめるどころか、ますます反日感情を昂揚する動機になったのみであり、1920年代における大陸政策のまったくの失敗であったといわざるを得ない。我が陸海軍中央は支那事変、ひいては日満華共同宣言に至るまで、終ぞこの認識を改め得なかった。
帝国と軍閥
 支那の情勢は当初、「北洋の狗」馮国璋率いる直隷派と、「北洋の虎」段祺瑞率いる安徽派の二大派閥による抗争が主であった。この両者は辛亥革命において北洋第一軍、第二軍をそれぞれ率いており、もともとの北洋軍における二大巨頭であった。帝国はこの時点においては反日運動の激化する大陸情勢を安定させることを目標としていたため、当時国務院の宰相の地位を得ていた段祺瑞を支援して一億を超す借款(西原借款)を送り、中華全土の統一と情勢安定による権益保全を画策した。しかし英米からの支援を受ける直隷派は1920年の安直戦争に勝利し、中原の支配権を得た。帝国は直隷派の報復を警戒して支那駐屯軍を出兵し、京奉線(北京と奉天を結ぶ鉄路)沿線を警備する一方で、満洲(東三省)に根拠地を置く地方軍閥で、張作霖の率いる奉天派との連携を画策した。張作霖はもと馬賊で、革命に乗じて東三省の支配権を掌握して満洲馬賊百万を統率する総攬把となった者である。奉天派は安直戦争において長城線を越えて出兵し、安徽派政権崩壊の一助をなしていたが、茲において帝国は中華全土における安定の確立を半ばあきらめて地方軍閥である奉天派を支援することで、南満洲における自らの権益保全を優先目標に置くこととなった。奉天派は直隷派と戦果の分配をめぐる抗争に突入し、1922年には第一次奉直戦争をおこすが、直隷の「常勝将軍」呉佩孚との前に敗走して東三省に撤退した。このとき帝国陸軍の満洲駐留軍である関東軍は山海関まで出兵して奉天軍の撤退収容援護を行い、直隷派を威嚇することで直隷派の満洲侵入を防いだ。この一件は帝国が中華全土における安定ではなく満洲の安定を先ず志向するようになったことのあらわれであるといえるだろう。
 張作霖は東三省に撤退したのち、軍の再編にとりかかり、ふたたび長城を越えて中原をめざすその野心をあらわにした。中華全土の安定をもはや目指さない帝国政府はこの張作霖の動きを快くは思わなかったが、当分は奉天派を消極的に支持して満洲権益の保全に努める方針であった。1924年6月に幣原喜重郎が外務大臣に就任すると所謂幣原外交がおこり、幣原は対中内政不干渉を表明して列強の歓心を得ることと、軍閥間の抗争から距離を置くことによって帝国の権益を守ることを試みた。幣原いわく「このさいわが国は動かざること山の如き態度をとることが最善の策である」という方針により、9月に第二次奉直戦争が勃発した際も帝国陸軍は出兵をおこなわず、帝国政府は状況を静観した。第二次奉直戦争は「クリスチャン・ゼネラル」と呼ばれた親英米の馮玉祥が国民軍を率いて河北にて呉佩孚に反旗をひるがえし、呉佩孚が長江流域まで逃亡することで幕を閉じ、奉天派の勝利に終わった。そのうえ馮玉祥は中国国民党の孫文を北京に招聘し、平和的統一をこころみた。しかし張作霖と馮玉祥に恒久的な協力のつもりはなく、馮玉祥は張作霖の部下である郭松齢と通じて郭松齢の乱を起こさせ、奉天派の崩壊をもくろんだ。郭松齢は奉天軍の大半を率いて天津から東進し、張作霖を窮地に立たせたが、関東軍司令官である白川義則大将から「満鉄線及び鉄道附属地より二十里以内における作戦は関東軍の看過し得ざるところ」という旨の警告が二度にわたって行われたことにより一転、張作霖は救われた。結果として郭松齢は義兄弟の契りを破ったとして銃殺刑に処せられ、東三省の奉天派は独立自治を維持したが、この警告と出兵準備が幣原の不干渉外交にそむくものであったことはいうまでもない。外務省の出先機関の一部及び軍部、特に関東軍と支那駐屯軍は幣原外交の消極方針に反発しており、結果としてそれは郭松齢の乱における独断専行という形であらわれることとなった。ここには15年にわたって続く関東軍の独断専行の悪習の萌芽をみることができるだろう。
国民党の台頭
 

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