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第1師団 1st Infantry Division | |
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創設 | 1888(明治21)年5月14日 |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 機械化歩兵 |
所在地 | 東京 - 満洲(斉斉哈爾)- 中支 - 満洲(斉斉哈爾) |
編成地 | 東京 |
通称号/兵団文字符 | 「玉」(ぎょく)兵団 |
補充担任 | 東京師管 |
上級単位 | 第2軍 |
第1師団とは、大日本帝国陸軍の師団のひとつ。満洲東正面の北部防衛を担当する第2方面軍の第2軍隷下、満洲国龍江省斉斉哈爾に駐屯する機械化歩兵師団である。
1888年に鎮台を改編して設置された日本最古の師団のひとつである。最も小さい師団番号を関する第1師団は「頭号師団」と呼ばれ、近衛師団ともども50年の長きにわたって東京を衛戍地とした。東京に本拠地を置いていた期間には日清戦争・日露戦争に出動し、ともに旅順要塞攻略戦に参加した。特に第三軍(乃木希典将軍)麾下で参加した日露戦争における旅順要塞攻略戦は世界初の近代要塞との戦闘であり、第一師団も多く死傷者を出した。欧州大戦においては出動の機会はなかったが、支那事変勃発までに何度か満洲駐箚師団に指定されて関東軍麾下に入り、満洲警備に任じている。戦間期には野戦重砲兵旅団の配属を受ける4個師団のうちの一つとなり、麾下の野戦重砲兵第7聯隊は日本初の自動車化された砲兵部隊となった。
第1師団の歴史が大きく変わるのは1936年のことである。このころ、日本においては慢性的な不況と富を独占する財閥に対して不満が蓄積しており、これを受けて陸軍内においても皇道派と統制派の対立が深刻になっていた。それが特に顕著であったのは、東京一円を師管とし、将校の多くが「進歩的」であった第1師団であった。1930年代前半から第1師団は革命家である北一輝の思想に影響を受け、皇道派の牙城と化していく。統制派が多数を占める陸軍省が帝都における不穏思想の台頭を看過するはずもなく、内地から追い出す意味も込めて1936年2月22日付で第1師団は満洲永久駐箚師団のひとつに指定された。しかし時すでに遅く、雪降りしきる2月26日、第1師団の一部は皇道派の青年将校に率いられて蹶起した。二・二六事件である。この事件は最終的に帝都に戒厳が宣告されて鎮圧され、反乱軍の汚名を着せられた第1師団は満洲国龍江省斉斉哈爾に移駐となった。
その後第1師団本体はしばらくの間、満洲で警備をおこなう日々を過ごす。1937年6月、遜克の乾岔子島においてロシア軍と交戦(乾岔子島事件)。1938年からは第2方面軍を対露反撃兵力とする関東軍構想に従って、当時の第一戦車団との連携を意図した自動車化が行われた。その間に第二次上海事変が勃発すると第1師団の補充を担当する東京の留守第1師団を母体に第101師団が編成され、上海派遣軍として多数の死傷者を出すこととなった。第101師団は南京攻略戦、徐州会戦、武漢攻略戦などを戦ったのち、1940年に復員する。それと入れ替わるように、結局大本営陸軍部の命令により第1師団は貴重な自動車化歩兵戦力として第2軍もろとも中支那方面軍に組み込まれ、宜昌作戦や重慶攻略作戦を戦うことになる。
1942年、支那事変が一応の終結を迎えると、特設師団が次々と動員解除されていく中で第1師団は常設師団として治安回復のため四川省に残留したが、中華民国との協定期間を待たずに斉斉哈爾に撤退した。同じころ、樺太・千島紛争が生起してロシア軍が同方面に侵攻していたため関東軍は戦時動員を発令し、大陸に展開していた満洲駐箚師団は全部呼び戻されたのであった。結局のところロシアが局地紛争を意図していたこと、ロシア極東戦線の戦力が関東軍の侵攻判断基準である15万を下回らなかったことなどから満洲において戦端が開かれることはなかったが、厳戒態勢は続いた。その中でも翌年には戦時動員が解除され、支那事変から戦い続けてきた現役兵が復員して新兵の第1師団への入営が再開した。1950年、戦車第2師団設立にともなって第1師団は機械化師団とされ、新型の装甲兵員輸送車が配備された。その後は陸軍本部の聯隊区制見直しに伴って補充担任が東京市中部一帯となり、1960年代にはNBC防護を施した歩兵戦闘車が配備されて作戦の幅が広がるなどありつつも、戦車第2師団とともに常に対露反撃の最前線として戦力を維持し続けた。1960年代から21世紀にかけてで歩兵2個中隊、戦車2個中隊、砲兵1個大隊が削減されたが、反撃能力は十分に保持している。
第1師団の歴史が大きく変わるのは1936年のことである。このころ、日本においては慢性的な不況と富を独占する財閥に対して不満が蓄積しており、これを受けて陸軍内においても皇道派と統制派の対立が深刻になっていた。それが特に顕著であったのは、東京一円を師管とし、将校の多くが「進歩的」であった第1師団であった。1930年代前半から第1師団は革命家である北一輝の思想に影響を受け、皇道派の牙城と化していく。統制派が多数を占める陸軍省が帝都における不穏思想の台頭を看過するはずもなく、内地から追い出す意味も込めて1936年2月22日付で第1師団は満洲永久駐箚師団のひとつに指定された。しかし時すでに遅く、雪降りしきる2月26日、第1師団の一部は皇道派の青年将校に率いられて蹶起した。二・二六事件である。この事件は最終的に帝都に戒厳が宣告されて鎮圧され、反乱軍の汚名を着せられた第1師団は満洲国龍江省斉斉哈爾に移駐となった。
その後第1師団本体はしばらくの間、満洲で警備をおこなう日々を過ごす。1937年6月、遜克の乾岔子島においてロシア軍と交戦(乾岔子島事件)。1938年からは第2方面軍を対露反撃兵力とする関東軍構想に従って、当時の第一戦車団との連携を意図した自動車化が行われた。その間に第二次上海事変が勃発すると第1師団の補充を担当する東京の留守第1師団を母体に第101師団が編成され、上海派遣軍として多数の死傷者を出すこととなった。第101師団は南京攻略戦、徐州会戦、武漢攻略戦などを戦ったのち、1940年に復員する。それと入れ替わるように、結局大本営陸軍部の命令により第1師団は貴重な自動車化歩兵戦力として第2軍もろとも中支那方面軍に組み込まれ、宜昌作戦や重慶攻略作戦を戦うことになる。
1942年、支那事変が一応の終結を迎えると、特設師団が次々と動員解除されていく中で第1師団は常設師団として治安回復のため四川省に残留したが、中華民国との協定期間を待たずに斉斉哈爾に撤退した。同じころ、樺太・千島紛争が生起してロシア軍が同方面に侵攻していたため関東軍は戦時動員を発令し、大陸に展開していた満洲駐箚師団は全部呼び戻されたのであった。結局のところロシアが局地紛争を意図していたこと、ロシア極東戦線の戦力が関東軍の侵攻判断基準である15万を下回らなかったことなどから満洲において戦端が開かれることはなかったが、厳戒態勢は続いた。その中でも翌年には戦時動員が解除され、支那事変から戦い続けてきた現役兵が復員して新兵の第1師団への入営が再開した。1950年、戦車第2師団設立にともなって第1師団は機械化師団とされ、新型の装甲兵員輸送車が配備された。その後は陸軍本部の聯隊区制見直しに伴って補充担任が東京市中部一帯となり、1960年代にはNBC防護を施した歩兵戦闘車が配備されて作戦の幅が広がるなどありつつも、戦車第2師団とともに常に対露反撃の最前線として戦力を維持し続けた。1960年代から21世紀にかけてで歩兵2個中隊、戦車2個中隊、砲兵1個大隊が削減されたが、反撃能力は十分に保持している。
- 歩兵第1聯隊(補充担任:麻布聯隊区)
- 歩兵第3聯隊(補充担任:本郷聯隊区)
- 歩兵第74聯隊(補充担任:板橋聯隊区)
- 捜索第1聯隊
- 野戦砲兵第1聯隊
- 工兵第1聯隊
- 輜重兵第1聯隊
- 第1師団戦車隊
- 第1師団飛行隊
- 第1師団通信隊
- 第1師団制毒隊
- 第1師団兵器勤務部
- 第1師団防疫給水部
- 第1師団病院部
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