八式装甲兵車
性能諸元
全長7.85m
全幅3.05m
全高2.8m
重量37.5t(軽荷)
40t(全備)
懸架方式シーソー式連動懸架
速度50km/h
行動距離200km
燃料搭載量450L(車内)
150L(砲塔後部予備)
主砲八式十五糎戦車砲×1
(12口径15cm砲、弾薬搭載量32発)
副武装四式車載重機関銃×2
(7.7mm、弾薬搭載量6,000発、主砲同軸×1、車体前部×1)
装甲砲塔
・前面160mm〜60mm(傾斜、テーパー)
・側面120mm(30°傾斜)
・後面80mm(30°傾斜)
車体
・前面80mm(60°傾斜)
・側面上部120mm
・側面下部80mm(30°傾斜)
・後面、天板25mm
発動機統制式V型12気筒ディーゼルエンジン
600HP/1500RPM
乗員・搭載4名+兵員6名または兵員5名と擲弾筒2門

 八式装甲兵車 ホユとは、大日本帝国陸軍が1948年に開発した戦車(歩兵戦車)と装甲兵員輸送車の役割を兼ねる歩兵戦闘車であり、世界初の歩兵戦闘車ともされる。本車は満洲において極東ソ連軍と対峙する関東軍向けの装備として開発され、開発後は関東軍の機械化師団に大量配備された。後継の一五式中戦車及び一八式装甲兵車が開発された後は帝国陸軍の一線をしりぞいたが、ソ連のT-54と並んで安価な装甲戦力の代名詞として主としてアジア・アフリカ各国に輸出され、独立ラッシュの夜明けを迎えていた各国陸軍戦力の機械化を推進した。秘匿名称のホユは、本車の前に装甲兵車の類別を持った一式装甲兵車(ホキ車)の名称からいろは順でひとつ先をとったものである。ホキ車の名称は歩兵のホと装軌のキを併せたものであっていろは順の意図は含まれていなかった(実際、一文字目のホは本来砲戦車の秘匿名称に充当されるべき文字である)が、事実上の後継であり砲戦車の役割も果たすことからこの秘匿名称とされた。

開発経緯

 本車が開発される6年前まで、帝国陸軍は大陸において泥沼の支那事変を戦っていた。その支那事変にけりをつけたのが、関東軍から抽出された虎の子の機械化戦力である第二軍と内地で新編された第一挺進集団による電撃的な重慶侵攻であった。これが大変な成功裏に終わったことによって、帝国陸軍は次世代の陸戦に対する認識として、4つの部隊が重要であるとの戦訓を得た。すなわち軍単位の優勢なる機械化戦力による電撃戦、それに対する上空支援を提供する軍飛行隊、機械化戦力の前進を支援する大規模なる工兵隊、そして神出鬼没の空中機動を以て敵後方及び増援部隊を翻弄する挺進部隊の4つである。帝国陸軍は支那事変終結に伴って進められつつあった大規模な復員の陰でこれらの戦訓に基づく軍備再編に着手し、新型の四式中戦車を関東軍師団戦車隊に配備するほか、東方正面の突撃路を切り開く第一工兵団の増勢、そして第二挺進集団の満洲配備といった関東軍改革を行いつつあった。
 そこに勃発したのが1945年8月、ドイツ降伏により余裕を得た極東ソ連軍との間で生起したエレンホト事件である。これは内蒙の察哈爾省エレンホトを警備していた騎兵第一旅団(戦車第三師団隷下)及び独立混成第二旅団に対し、極東ソ連軍の3個師団及び外蒙軍の騎兵1個旅団が侵攻し、同旅団を散々に打ち破った事件であった。本事件が帝国陸軍中央に与えた影響は控えめに言っても極めて甚大であった。戦略的には内蒙方面に対する防禦策を講ずることが求められ、外蒙工作がいっそう推進されたことはここでは詳しくは触れないが、戦術的にもまた敗北であった本事件からは多くの戦訓が得られた。その一つはソ連のIS重戦車に対抗するため五式砲戦車(ホリ車)の設計が見直されたことであるが、もう一つは我が方の歩兵への損害であった。8月11日夜半の夜襲において、自動車及び装甲兵車の配備が不十分であった独混二旅の歩兵は騎兵第一旅団の戦車に跨乗して攻撃を行ったが、我が方の歩兵は極東ソ連軍の重機関銃及びロケット砲による邀撃を受けて大きく損耗し、ほぼ全滅に近い損害を蒙った。歩兵跨乗(タンク・デサント)による戦車への随伴と攻撃は自動車の慢性的に不足する我が方においては大陸戦線において常用するものであったが、本事件における歩兵の大損害は、この跨乗攻撃が火力の不足する国府軍相手であればこそ有用であったという結論をもたらした。
 帝国陸軍中央は、この戦訓に対応するいちばんの上策は装甲兵車の増備であるという当然の判決を下した。しかし帝国陸軍は貧乏であった。世界初の全装軌式装甲兵員輸送車であったホキ車は確かに画期的であったものの、この頃には二個戦車師団の随伴歩兵のうち一個大隊に僅かに装備されていたのみであった。陸軍中央は機械化戦力の増勢努力はまず戦車戦力の強化に振り向けなければならないと考えており、これは至って正常な判断であった。独ソ戦を戦い抜く中でもはやバケモノの類に進化した重戦車群が欧州での勝利に伴って極東ソ連軍へ続々と送り込まれている中で、少なくともT-34には対抗可能と見込まれた四式中戦車(チト車)の増勢は急務であったからである。
 したがって帝国陸軍のとった策は戦車に装甲兵員輸送車を随伴させるのではなく、戦車を装甲兵員輸送車にしてしまうというものであった。1945年11月に策定された帝国陸軍兵備要領においては、次期戦車戦力の中核として赤軍重戦車に対抗可能な大口径砲を装備する砲戦車とともに、車体前部に発動機を装備して後部を装甲化された兵員区画とし、中部には歩兵支援砲を装備する新型装甲兵車の案が盛り込まれていた。当時、諜報とモスクワ駐在武官によってもたらされたソ連軍次世代戦車の装甲厚は傾斜込みで中戦車ならば150mm、重戦車ならば250mmというものであったが、チト車の装備する四式七糎半戦車砲では、徹甲弾によっても100mmを貫通するのがやっとであった。なおこの想定装甲厚はのちにT-54の存在が関東軍の諜報部によって探知された際、50mmほど見積もりを誤っていたことがわかり、機甲本部を大慌てさせて一二式軽戦車?(ケヘ車)及び一五式中戦車?(チヌ車)の開発につながることとなる。この事実は機甲科の将校らの多くを絶望させたが、次世代戦車の開発においては重砲戦車を除いては運動エネルギー弾の活用を断念し、対戦車戦闘は全てタ弾(穿孔榴弾)によるという一種の諦め的指針を示すものともなった。ゆえに本車の開発においては、大口径低初速砲の搭載が当初より想定されるものとなったのである。
 1946年2月より開始された設計では、内地や北海道での運用も想定して全幅を狭軌鉄道でも輸送可能な3.1m以下に抑えること、低初速でよいから10cm以上の大口径砲を搭載すること、発動機を前部に配置して後部に武装歩兵6名を搭乗させることのできる兵員室を設けること、なるべくT-34/44の射撃に正面から耐えうる装甲を装備することなどが求められた。重量については渡河器材の開発を並行して行うこととして特に制限されなかったが、新型貨車を開発しなくてもよい40t以下に抑えられれば望ましいとされた。1947年の暮れに最初の試作車が完成され、満洲及び北海道において輸送試験及び運動・射撃試験を実施した結果、成績良好と判決されたので、翌1948年5月に八式装甲兵車として制式採用された。

設計

武装

 本車に搭載する主砲には当初3案が検討された。うち2案は当時とにかく強力な砲を求めていた陸軍によって海軍に打診がされた結果、採用が検討されたものである。海軍短十二糎砲と短二十糎砲がそれであり、もう一つの案は一時期チハ車にも固定砲塔として搭載された三八式十五糎榴弾砲であった。結局先述の通り、少なくとも150mmの装甲を貫徹することが求められたので十二糎砲案は没となり、十五糎か二十糎の二択となった。このうち二十糎砲では過大すぎる上、弾数が著しく少なくなることが懸念されたが、三八式十五榴はあまりにも旧式で不適格とされたため、結局は新規に十五糎級の短砲身砲を開発するということになった。こうして開発されたのが八式十五糎戦車砲である。本砲は後座長を短くするために新設計のマズルブレーキを装備し、また腔圧を低くして初速は低く抑えられたが、大威力の榴弾及びタ弾を運用する目的をもって開発されたものである。本砲のタ弾は射距離にかかわらず180mmの装甲を貫徹するものであり、ソ連軍戦車に対して十分に対抗可能と見込まれた。
 副武装としては主砲同軸と車体前面に1挺ずつ四式車載重機関銃?を搭載する。また、砲塔上部には歩兵の装備する五式機関銃?が三脚を据え付けられるようになっており、戦場において歩兵分隊の軽機兵が砲塔から支援射撃を実施できるようになっている。これらと歩兵の装備する九九式短小銃は全て弾薬を共有できるようになっており、帝国陸軍が抱える補給・整備上の懸念を未然に解決した形となっている。
 本車の主砲は大口径低初速であり、いわゆるションベン弾であったため、大遠距離の交戦における命中率には期待ができなかった。そのため主砲についてはのちに、十五糎砲搭載車と連携して側面から敵戦車部隊を攻撃するため、T-54やIS-3の側面装甲を貫通可能な四式七糎半戦車砲を装備する型も生産された。この型は十五糎砲搭載型が甲型と呼称されたのに対し、乙型と呼称されて機械化歩兵小隊のうち半数をこれに置き換える計画であった。しかし最終的には組織的に戦車運用を行うソ連軍に対して小隊単位でこの迂回攻撃を行うことは極めて難しいとされ、更に上級単位における運用が検討されるようになった。結果としてこの構想はケヘ車に結実し、最終的には日本初の主力戦車であるチヌ車として結実することとなる。そのため乙型の生産は少数にとどまった。

車体

 装甲はソ連軍重戦車ISシリーズの装備する122mm榴弾砲に対して成しうる限りの抗堪をすることが目標とされた。ソ連軍122mm榴弾砲は概ね我が方の五式十糎半戦車砲程度の貫徹能力を有すると考えられたため、前面装甲は60°傾斜した80mm装甲とされ、ここに護られた前部区画に600馬力を発揮する統制型ディーゼルエンジンを搭載することとなった。その後ろが乗員区画であり、運転手と無線手兼前部機銃射手の2名が車体に、車長兼装填手と砲手の2名が砲塔内に搭乗した。砲塔は正面が30°から徐々に傾斜角の増していく鋳造装甲で、傾斜込みですべて160mmの装甲厚を確保することが目指され、側面と後部の30°傾斜した120mm〜80mmの装甲に溶接された。鋳造装甲の製造は日本の製鋼企業にとって難題であったが、チト車の製造において経験を積んだことで進歩し、ある程度対応できるようになっていた。車体側面の装甲は上部が垂直な120mm装甲、下部が30°傾斜した80mm装甲であり、車体角度によっては122mm砲に耐えうるとされた。のちにT-54中戦車の登場により装甲の不足が心配されたものの、T-54の装備した十糎加農には射距離1000m程度において一定の抗堪が可能であるとされた。しかし装甲は不十分であり、このことはチヌ車の開発を陸軍に早期に促す一つの材料となった。
 車体後部は兵員室となっており、機械化歩兵分隊をちょうど1個収容できた。すなわち一般的な軽機分隊ならば分隊長、小銃兵1個班4名、軽機関銃兵の計6名、擲弾筒分隊ならば分隊長、擲弾筒2個班4名の計5名と擲弾筒2門である。擲弾筒はこれまでのタンク・デサントの戦訓から兵員室の上によじ登り、砲塔を陰にしてそこから発射するか、そうでなくとも戦車の陰から発射するものとされた。それまで歩兵分隊の軽機分隊といえば1個小隊に3個分隊が編制され、分隊長以下副分隊長、軽機関銃兵、小銃兵2個班8名の計11名で構成されるものであったが、これらすべてを本車に搭載することは不可能であると考えられて機械化歩兵のみ小銃班を1個、或いは擲弾筒班1個を減らす編制改正が実施された。ちなみに副分隊長は車長が兼ねるとされた。これに伴い兵科分離がなされるか議論となり、騎兵科が「車輛に乗って移動する歩兵の兵科となればこれすなわち騎兵の復活にほかならない。車輛も馬も同じようなものではないか」とわけのわからない主張をすることになったのだが、それはまた別のお話。
 歩兵の車内への出入りを可能とするために車体後部には兵員室につながる観音開きの扉が、車体上部には顔を出して戦闘するためのハッチが設けられることとなった。これを設けるため車体後部の装甲は25mmとされ、戦車としては後部の防御力に不安を残す設計となった。これは車体天板の装甲と同じ厚さである。また兵員室内は中央部に主砲の予備弾薬を配置したこともあって窮屈な作りであり、向かい合わせに座席が作られていたが足元が非常に窮屈であった。座席はちょうど傾斜した車体下部を斜辺とする直角三角形のように作られていたが、いくら座面を柔らかくしても座る場所の奥行きはまったく狭いものであり、乗り心地は著しく悪かった。それでも九七式中戦車から続く水タンクと乗員用の蛇口は設計仕様にあり、乗車する歩兵も水筒に飲料水を補給することができた。また機械化率がもとから低く、歩兵といえば文字通り「歩くもの」であった日本軍歩兵にとって、たとえ乗り心地が悪くとも歩かなくてよいというだけで天と地ほどの差があったのである。

運用

 本車は当初の予定通り、主に関東軍と北部軍の戦車師団に配備されることとなった。1輌に1個分隊を収容できるため1個小隊に4輌、1個中隊に12輌が装備され、本車4個中隊とチト車1個中隊、ホリ車1個中隊より戦車1個聯隊が編成された。本車の導入により随伴歩兵が各戦車聯隊に配備されるため、機動歩兵聯隊は廃止となった。戦車師団への配備が終わると、関東軍の師団全機械化を目指す関東軍によって在満陸軍師団の歩兵聯隊のうち第1大隊が本車を装備する機械化歩兵大隊に改編されることとなった。1個大隊当たりの定数は3個中隊36輌であり、これとは別にホリ車1個中隊が附属した。後になると戦車聯隊のチト車はケヘ車に更新され、2個中隊となったほか、師団戦車隊もケヘ車に更新された。
 歩兵師団における本車の扱いは、1個聯隊当たり1個大隊に本車が充当されたことからもわかる通り、突撃路を切り開く先鋒や防衛線の火力担当としての意味合いが強かった。攻撃においては本車は戦闘工兵とともに先鋒となり、後続の2個大隊は徒歩あるいは一式装甲兵車などによって進撃した。防衛ならば本車は戦車壕を掘って砲塔のみを出し、目いっぱいの仰角(30度)をとって敵歩兵への間接射撃を行なう歩兵砲としての役割も果たしたほか、タ弾による対戦車攻撃も担った。また歩兵が砲塔を盾にして機関銃や擲弾筒などの射撃を行い、本車を即席トーチカとして活用しての防衛線構築も考慮された。
 しかし本車の最大の欠点は、十五糎砲という大口径砲を搭載したことによる搭載弾数の減少であった。ほぼ同じ砲塔容積を持つチト車が七糎半砲弾65発を搭載できたのに対し、本車は兵員室中央部のスペースを活用しても32発の搭載が限界であった。そのため長距離侵攻においても常に弾薬車の追及を必要とした。このことは陸軍に大口径砲搭載戦車の運用の限界を感じさせ、まともな対戦車能力を持つ戦車砲と砲弾を開発する必要性を痛感させることとなる。またこれに比べれば些細であるとはいえ、大口径砲弾を収容する弾薬庫と兵員室を確保する関係上、長い長いと言われたホリ車の全長を超えて8mに迫るまでに達した車体長は敵戦車に狙われやすいシルエットを提供していた。さらに、40tに達する大柄な車体の大量生産は当時の日本軍需産業にとって困難なものであり、限られた陸軍予算の中では十分な数を確保することが難しかった。しかし本車及びホリ車の製造経験はのちの主力戦車の開発において効果を見せたといわれる。

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